冷たい……
私の顔に雫が降りかかり、私は意識の底から浮き上がる。
あたりは妙に薄暗い。
側に背広姿の男が手に杭を持ち、振上げている姿がある。杭から雫が垂れ、私の顔に掛かる。
「この世に害を成す忌まわしき化け物め……」
すると、この雫は聖水か……
私は、いまだ混沌とした意識の中で、そんなことを思う。
――ごすっ
鈍い音とともに男はうめき声をあげ、倒れこむ。
しばらくして、ため息まじりの声が聞こえた。
「この学校にまともな奴はいないの?」
薄暗い空間のため、その声の持ち主の顔は見えない。ただ、女だということはわかる。
彼女は私の顔に耳を近づける。私の呼吸を聞いているようだった。
「よかった」
彼女は安心したようにつぶやくと、私の顔をじっと見る。そして、私の肩口に頭を近づけた。
私の意識は再び混沌とした世界へと――
***
「起きてください、先生! 大丈夫ですか、先生!」
激しく肩をゆすぶられ私は目を覚ました。
そばに用務員のおじさんの顔がある。
「こんなところで寝ていたら、風邪を引きますよ」
寝ぼけ眼で辺りを見回す。そこは、見慣れた体育用具室。
私は腕に目を落としたが、そこに目当てのものはなく、戸口から外へ出かけているおじさんを慌てて呼び止める。
「あの、今何時ですか?」
おじさんは袖をまくり、目を細めて腕時計の文字盤を見、
「……六時十二分。さっさと家に帰って支度してきたほうがいいんじゃないですか?」
戸口に立てかけてあった箒を手に取り、出て行った。
私はのそのそと起き上がり、伸びをする――体が重い。もう一眠りしたいが、そんなわけにもいかない。今日も授業があるのだ。
気合を込めて、立ち上がる。頭がふらふらするのをぎゅっと目を閉じて耐える。私は大きく息を吐いて、その部屋を後にした。
空は私のことなど気にかけてくれるようすもなく、久々の上天気だった。ああ……太陽が眩しい。
なぜ私は昨日、体育用具室なんかで寝ていたのだろう。疲れが溜まっていると言うことだろうか。用務員のおじさんに起こされなかったら、きっと朝食も食べる暇なく、着の身着のままで授業をしなければならなかっただろう。
そんなことを思いながら歩いていると、
「おはようございます」
私が担任をしているクラスの秋葉原陽子が元気に声をかけてくる。彼女が元気そうにしているのは珍しい。普段は病弱を絵に描いたような娘だから。
「おはよう、今日は気分がいいようね」
「……はい」
答えるまでに妙な間。
「あの、私急ぎますから」
そう言って彼女は駆けるように去っていった。それを見計らったかのように、
「おはようございます」
朝から会いたくない人間ナンバーワンに声をかけられる。
「おはようございます。あれ、どうされたんですか? その頭――」
声を掛けてきた生物担当の大神正義の頭には白い包帯が巻かれている。
「ああ、これですか。いや、ちょっと……」
大神先生は気弱な笑いを漏らすと、お先にと去っていった。一瞬、鋭い目つきを私に投げかけて。
二人とも何か変だが、そんなことをかまっていられるほど私の身体状況は良好ではなかった。
***
夕方。
重い足取りで家路につく。
今日一日よく倒れることなく授業が出来たものだと我ながら感心する。
「あの、先生」
後ろから声をかけてきたのは大神先生だった。
「ちょっといいですか?」
ちょっとどころか、全然よくないのだが、疲れきったときにでる柔和な笑みを漏らしたため、彼は続けて話し始める。
「最近は物騒ですね」
私の頭の中で警報が鳴る。いつもの正義感を剥き出しの論説だったら、こんな疲れきったときに聞きたくない話ベストスリーに楽々入る。とりあえず、私はただただいつものように相槌を打った。
「そうですね」
「ところで、この辺でコウモリをご覧になったことはありませんか?」
いったい何が言いたいのだろう……。
「この辺にコウモリなんているんですか?」
「……では、日光に弱い人をご存知ないですか?」
「さあ、」
私は首を振る。彼と会話するのにはかなりエネルギーを使う。
「銀にアレルギーの人は?」
「そういう人も……」
私は再び首を振る。
「それなら、ニンニクの嫌いな人は ?」
「さあ」
「十字架の嫌いな人は?」
「さあ、まったく。十字架自体、最近アクセサリーとして誰でも身に付けていますし……あの、もういいですか?」
気づけば私のアパート近くだ。
「最後に一つ。色白で、力が強くて、暗いところのほうが目が利いて、嗅覚の鋭い人をご存知ないですか?」
「……それって、ご自身のことじゃないですか?」
この生物教師、見た目は何処にでもいるサラリーマンなのだが、中身はそうとう変わっている。本人もそのことに思い当たったのか、
「あ、いや……じゃあ、これで」
きびすを返すと去っていった。
私は大きく安堵の息をつく。
「先生、デートだったんですか?」
その声に振り向くと、秋葉原陽子が立っている。
私はもう一度大きくため息をつき、
「違うわよ。それより、あなた何でここにいるの? 家の方向は違うわよね?」
「越してきたんです。そこに」
と、指差したのは私と同じアパートだ。
「一人、暮らし?」
このアパートは狭い。
「はい、両親が十五歳にもなったんだから一人で暮らせって」
言って、微笑む。
「いいわね……」
思わず、本音が漏れる。
めちゃくちゃ羨ましい。私はこの学校に通うには実家から車で三時間以上かかるからと、親に頼み込んでやっと一人暮らしを許されたのだから。
「引越し祝いを後でもっていきますね」
そういって、階段を上ってすぐの部屋の中へと姿を消した。
……あれっ? そういえば前ここに住んでいた人、いつ引っ越していったんだろう……。
+
――トントントン
私が部屋に入ってしばらくするとノックの音がした。
秋葉原洋子だろう。さっき引越し祝いを持ってくると言っていたから。
――カチャリ
私はなんの用心もせず、ドアを開けた。
白いハンカチのようなものが顔に押し付けられ、すっと意識が遠くなる。昨日学校から帰ろうとしたときに見たのと同じ、背広姿の黒いマスクをかぶった男……
真ん丸の月が頭上にある。
あれっ? 今日は十五夜ではなかったはずだ。
その月に、大きな鳥――蛾がたかっている。
……なんだ、電灯か。
ここはどこだろうと、左右を見渡す。
その電灯の光はあたりには届いていないのか、暗い。
起きあがろうとして、気づいた。
私は十字に置かれた机の上に、張り付けにされている。
「な……」
声が漏れる。
「気づいたようだね」
聞き覚えのある声だ。
声の聞こえてきた方向に目を向けるが、姿は見えない。男は続けて言う。
「まったく、私が推理ものが苦手なことは知っているでしょう」
「なんのこと?」
「私が尾行していることに気づいて、ここ何日かは事件を起こさなかったようですが、」
言いながら、ごそごそと物音を立てている。
「これですよ」
壁面にスライドが投影される。
どの映像にも首筋に、均等に二つの傷が映っている。
「あの、これは……?」
「もちろん、ヴァンパイアの仕業です」
「はあ……」
私は間抜けな声を出す。
男――大神先生が何を言っているのかまったく理解できない。
そういえば、一週間ほど前から、職員室で『吸血鬼を滅ぼす方法』とか、『ヴァンパイア消滅計画』なんて本を読んでいる姿を見かけてはいたが……。
「ヴァンパイアは、夜行性で、コウモリ・オオカミをしもべとし、日の光を嫌がり、ニンニクを嫌う。不老不死で、力が強く、嗅覚が鋭い。夜行性だから、夜も目が利く。十字架も嫌いだ。そして、黒ずくめの格好をしている。奴等を滅ぼすには、銀の銃弾、聖水に浸した杭、そして朝日だ。なぜなら――」
私は大神先生の話を自嘲気味に聞く。
なるほど、大神先生の説からすると私はヴァンパイアである可能性が極めて高い人間だ。金属アレルギーがあり、強い匂いにもアレルギー症状が出る。目は強い光り(日光)に弱く、サングラスをよくかけている。趣味はオオカミのグッズコレクション。不老不死とまではいかないが、実年齢よりは若く見られがち。体育教師をやっているだけあって意外に力もある(でも、見た目よりもという意味だ)。黒が好きなので、黒のトレーニングウエアを着ていることが多い。十字架に対しては、全然興味がないだけなんだが……。
大神先生は、銀の聖性がどうとか、朝日の清浄性どうとか詳しく説明してくれ、
「貴方は、理想的ヴァンパイアだ」
最後にそう締めくくった。
何が理想的なのか、わからないが。
「そして私は、ヴァンパイアを滅ぼした偉大な人間として後世に名が残るでしょう」
ホロボシタニンゲンとしてコウセイにナがノコル……?
「それって、私は殺されると言うことですか?」
「殺すのではなく、滅ぼすのです。悪しきものを滅ぼすのは正しきものの宿命!」
「ちょ、ちょっと待って下さい、私はヴァンパイアじゃありません!」
「悪者はいつもそう言うんです」
言って、光の中に現れる
手には見覚えのある杭が、滴をしたたらせている。
「……あの、昨日は……」
声が震える。それまではなかった恐怖感が私の中に広がり始める。
「昨日は邪魔が入りましたが、今日は大丈夫。悪は必ず滅びるものです。正義は私の方にあるのですから……」
大神先生は低い笑い声を上げる。
どっちが悪だかわかっているのだろうか。
頭の中では意外に冷静な自分が、大神先生の言葉につっこみを入れる。
「あの、ちょっと……」
言っても無駄だろうという気はするが、話しかけずにはいられない。冤罪で命を落とすなど、考えたくもない。
――ガン
びくっと、大神先生は振り向く。
扉が開いたらしく、冷たい風が部屋に忍び込む。
「誰だ!」
大神先生が外へ向かって尋ねるが、応答はない。
大神先生は気を落ち着かせると、暗がりへと消える。扉を閉めに行ったのだろう。
――ゴン、……ドサッ
何が起こったのか私には見えない。
暗がりから、一つの人影が近づいてきた。大神先生、ではない。
「先生、昨日あんな目に遭いながら、今日も襲われるなんて無用心なんじゃないですか?」
……この声は、
姿を現したのは秋葉原洋子だった。
「あなた、どうしてここに?」
「先生を見張ってたんです。大神先生、授業中に吸血鬼を滅ぼすなんて言ったり、誰が吸血鬼だと思うかなんてアンケートとったりしてたから」
声が出ない。やっと、
「それで、私が……」
彼女は頷き、
「でも、先生をヴァンパイアだなんて……」
くすくすと笑い始める。
「そうね……」
言って私も笑う。
ヴァンパイアなんているわけ無いじゃないか。
「これ、解いてくれる?」
私が彼女に話し掛けると、彼女は笑うのを止め、じっと私の顔を見る。
「どうか、したの?」
何だか嫌な予感。
彼女はにやりと笑いつつ、私の肩口に顔を近づけた。
「だって、私がヴァンパイアなのに――」
私の意識は混沌へと……
終
『ヴァンパイア』をご覧いただきありがとうございました。
01/4/12 「ヴァンパイア」はヴァンパイアネタを書きたくて書いた作品です。一人称で書いてみたところ、後でよんだら意味がわかりにくかったので、「美味しい食べ物」を書きました。誤字・脱字を訂正、一部書き直してアップしてます。大神正義なんて、正義の味方っぽい名前した悪役、面白いかも…と自分では気にいってます。
2004-04-20 改稿
2012/01/18 訂正