ラムダ

 イプシロンの研究室に足を踏み入れるのは、数年ぶりだった。
 入ってすぐ、カイがいた。
「博士は?」
 尋ねると、初めて会ったときと同じ、温和な笑みで、
「奥ですよ」
「そう」
 急いで奥へ向かおうとして、話し掛けられる。
「お久しぶりです、ラムダ」
「悪いけれど、あなたにラムダとは呼ばれたくないの」
「どうしてですか?」
 ラムダは振り返り、
「私のほうが年上だからよ」
「じゃあ、ラムダさんって呼んだら良いですか?」
 優等生のような答え方。ラムダは勝手にすればと答え、奥の部屋へ足を踏み入れた。
「イプシロン博士――」
 尋ねかけて言葉を失う。
 部屋の中央に二つの大きな水槽。その中にさまざまなコードをつけた、二人の少女が横たわっている。
「何をされているんですか?」
「あら、ラムダ」
 初めて気づいた、といった様子でイプシロンが顔を上げる。
「どうしたの?」
「まだ、生命体の研究をされていたんですか!?」
「そんな大きな声出さなくても良いじゃないの」
 答えつつもデータ採取に暇が無い。
「この子たちはどういう子供達なんです?」
「アリシアのクローンよ」
「アリシア……って、この世界で名高い軍事国家の王女のことですか?」
「えぇ」
 こともなげにイプシロンは頷く。
 悪名高い軍事国家、グランド帝国。その国の影の支配者と称されるのが現国王の娘、アリシア。この森の南に位置している国だ。
「この研究所の様々なものを援助してくれているのよ」
「援助?」
 言われれば、確かにこの研究所、人々が出入りしている形跡がある。イプシロンにかかわらないようにしていたために、ラムダは研究所の奥にある自室と食堂くらいしか使用していない。
「グランド帝国がどんな国かご存知なんですか?」
「そんなこと知らないわ。アリシアがどうかしたの?」
 イプシロンは何ら変わらない表情で尋ね返す。彼女は研究以外頭にない。その事実にラムダは眩暈がした。
「……何でもないの」
 再びラムダはにっこりと微笑む。
「長々とお邪魔してすいませんでした、それじゃ」
 部屋を出る。

「ラムダさん、どうしたの? そんな顔して」
 普段、無表情なラムダが微笑を浮かべているのを不信に思い、カイが尋ねる。
「何か嫌なことでもありました?」
「――そんなデータまであったの?」
 笑みを浮かべていれば良いことがあったと思うのが普通。笑みを浮かべているのにそんな風に尋ねるのは彼女の性格を知っている者だけ。
「あなたのデータもすべて見ましたから」
 何のためにと問い掛けて、ラムダは声をあげて笑いはじめた。
「イプシロンもおせっかいね。私のデータを見たところで、あなた、私に好意をもつことができた?」
 二人の間に重い沈黙が下りる。
「悲惨な経歴だったでしょ?」
 刺々しい口調でラムダが尋ねる。瞳に浮かんでいるのは、怒りと絶望。
 カイは穏やかな顔で、静かに首を振る。
「そんなことは――」
「もういいわ、その話は。それにしても、その笑み、不気味よ」
 言われたとたん、カイの笑みが消え、無表情になる。
「イプシロン博士がくれたデータをもとに完璧にカイを演じているんですが……おかしいですか?」
「その丁寧語も変よ」
 ラムダに言われて、カイは不敵に笑う。
「やはり、カイは人前ではずいぶん作ってたのか」
 年齢に合う態度。
「……そんな感じ、私が知ってるカイは。でも、カイの本心は良くわからない。もしかしたら私の前でも作ってたのかもしれないし――」
 顔を曇らせる。
「僕はこの方が楽で良いけど?」
「でしょうね。変だったもの」
 言いつつ、部屋を後にしようとしたラムダを、カイはとめた。
「で、奥で博士と何があったの?」
「あなたに話さなきゃいけない?」
 言い方は挑発的だが、精神的な余裕は無い。瞳は不自然に揺れ、下唇をきつくかみ締めている。
「僕は知りたい」
 真剣な瞳で見つめられ、ラムダは苦しげに首を振る。
「何も……」
 そう言い、ラムダはうつむいてしまう。
 その態度に稲妻に打たれたかように、カイは悟った。
 イプシロンは完璧なカイにならなければならない、と言った。だが、『カイ』になろうとすればするほど、ラムダはきっと自分を遠ざける。
 カイは一瞬悲しそうな表情を瞳に浮かべ、再び柔和な笑みを浮かべる。
「ごめんなさい、ラムダさん」
 その言葉にラムダは戸惑いの表情を浮かべる。
「『カイ』と僕は似てないほうが、ラムダさんにはいいみたいだから」
「……」
「じゃあね、ラムダさん」
 ラムダを送り出し、カイは奥の研究室へと向かった。


「イプシロン博士、失礼します」
「あら、どうしたのカイ?」
 イプシロンはラムダと違い、いつもどおりだった。
「娘の様子を見ようと思って」
 こう言えばイプシロンが何の疑問を抱かないことはわかっていた。
「さっき、ラムダと何を話していたんですか?」
 水槽を覗き込みながら、自然に尋ねる。
「ラムダがね、ありがとうって喜んでたわ」
「喜んでいた?」
 やはり、ラムダにとって重要な何かがあったのだ。
「他に何か言ってました?」
「そうね……この子のこと気にしてたわ」
 と、ウェーブ髪の少女を指差す。
「この子、アリシア様のクローンでしたよね」
 アリシアがグランド帝国の王女だということは知っている。けれど、それ以上のことは何も知らない。アリシアに何かあるのだろうか。
 イプシロンの研究室で本を読んだり、来客の対応をしているだけでは得られない情報があるのだ。
 では、ラムダは何を知っているんだ?
「……もうしばらくすれば、彼女達を誕生させることができるわ。本来ならばもうちょっと成長させたいんだけれど……シータが力が使えないっていうの」
 考え事をしていたカイだが、その言葉に顔をあげる。
「シータが?」
 成長を早めているのはシータの魔力のおかげ。シータはイプシロンを非常に慕っている。だから嫌な顔をしつつも今まで協力してきたのだ。しかも、シータはこの森でも屈指の魔女。そんな彼女の力が使えなくなるとは思えない。
「何でもね、魔力にも波があるんですって。それで、今はあまり魔力をつかえない時期らしいの。他の魔女に頼もうかとも思ったんだけど……それも無理なのよね」
 この研究所が時空のはざ間に存在していた百年間、この森に何らかの力が働き、異世界への穴というか、ひずみがずいぶんたくさんできたらしい。それをふさぐために、魔女達はこの森に集い、巨大な結界を張った。だから、この森の魔女達にとってこの研究所内部の人間は、災厄以外の何者でもない。
「ルカは元気に育ってますね、じゃあ僕はこれで」
 必要なことを聞き出し、部屋を出る。研究の邪魔さえしなければどんな不自然な会話だろうが、態度だろうが、イプシロンは気にもとめない。
 
 部屋を出て、カイは一つため息をついた。
 イプシロンは何も知らない。研究のことしか考えていない。ラムダは何も話してくれない。シータは……自分を嫌っている。カッパも幼すぎて、何も理解していない。誰にも聞くことはできない。
 もう時期、彼女達が――アリシアが誕生すれば、すべてが動き出すのだろう。それまで、自分は何をすれば――。
 そこまで考えて、カイは愕然とする。
 自分がしてきたことは『カイ』になりきることだった。もとの世界の情報はたくさん知っている。ラムダと話をあわせるために。けれど、この世界についてはほとんど知らない。

 ラムダが部屋へ戻ってみると、シータはだいぶ落ち着いた様子だったが、まだ顔色は悪かった。
「――隠していたの?」
 入ってすぐにシータに問いかける。
「あなたの娘だなんて知らなかったのよ」
 言いながら泣き出す。
「イプシロン様が『娘』だと何度も言っているのは聞いたわ。でも、あなたの娘だとは思わなかったの」
「もういいわ。それより、アリシアなのね? あなたが『悪意』だと言っていたのは」
 シータは顔をそむけたまま頷く。
「あの子、私の魔力だけじゃなくて、アリシアも魔力を注いでいるみたいなの。でも、ルカと成長率が変わらないでしょ? 変よ……」
 再び震え始める。
「彼女が災厄なのかも知れないわ」
「災厄?」
 尋ねると、シータは顔を上げた。
「あなたには言っていなかったけれど……私はあなた達を見張るためにここにいるの」
 静かに語り始める。
「魔王が予見したの。あなた達が現れたときに、災厄が起こるって。それまでにもこの研究所が時空のはざまにあった間にいろんな事が起きたわ。けれど、それ以上のことが起こる……そう予見された。だから、私はそれを防ぐためにここにいる……それなのに……」
 再び泣き始める。
「何も出来なかった。私は……」
「仕方ないわ、あなたはイプシロンのしている研究をほとんど理解できていないんだもの……。アリシアのクローンだって気づいたのはいつ?」
「今日」
「……今日?」
 ラムダが見たとき、ルカは十歳くらいだったが、アリシアのクローンは十七歳くらいだった。
「昨日まであんなに大きくなかったのよ! いくら魔力を注いでみても大きくならなくて……だからルカとは比べられないくらい魔力を注ぎ込んだの――」
 シータは混乱しかけていた。自分のしたことで、この世界に災厄を招いたのではないか。それを非常に気にかけているようだった。
「もういいわ。シータ、今日はゆっくり休んで」
 ラムダはシータを寝かせ、部屋を出る。
「イプシロンを止めなければ……」
 小さくつぶやく。
 このように時間が無い場合の戦略は一つ。事件の当事者の死。それ以前よりひどい混乱状態に陥ることもあるが――今はこれ以外の手を思いつかない。


 再びイプシロンの部屋へ向かおうと廊下を歩いていると、カイに出会った。
「ラムダさん」
 声をかけられると無視することもできない。
「あなたは研究室から出られないのだと思っていたわ」
 彼を見るのはこれで三回目だ。一回目は食堂の前で、二回目は今日、イプシロンの研究室で、三回目が今。だから、彼は研究室から出られないのだと思っていた。
「シータが嫌がるので、外には出ないようにしていただけですから。別に問題はないんです」
 微笑みながら肩をすくめて見せる。
「今日はシータの様子も変でしたし……あなたの様子も変です。一体何があるんですか?」
 尋ねられてもすぐには答えられない。
 カイは所詮イプシロンに作られた存在なのだ。
「僕には話せませんか?」
 問われて思わず首を振る。『カイ』とカイは違う、そう思っていても同じ顔、同じ声、同じ名前。どうしても非情になりきることができない。
「……何を話せばいいのかわからないの」
「では、シータは何を怯えているんですか? アリシアのクローン、きっと彼女が関係しているんだと思うんですが――」
と、考え込む仕草。
「カイ、そんな仕草してるデータあった?」
 カイは慌てた様子で顔を上げ、
「すいません、『カイ』の仕草をしてましたか?」
 申し訳なさそうに誤る。カイに似た仕草はしないと、ラムダに約束したばかりだから。
『カイ』になるよう努力してきた人間に、すぐに自分らしく振舞えというほうが難しいか、とラムダは苦笑し、
「いいえ、カイがしない仕草をしてたから……」
「そうですか」
 ほっとした表情を見せる。
「それで、アリシアに何かあるんですか?」
 再び問い掛ける。
「ここじゃなんだから、食堂に行きましょう」



「コーヒーでいい?」
 聞きつつも、カイの前にコーヒーを差し出す。
「ありがとうございます……あの、ミルクとシュガーを多めにもらえますか?」
「……」
 カイと同じ味覚なのかとため息をつく。
 カイは慌てた様子で、言い訳のように、
「すいません、甘党なんです」
言われてラムダは苦笑する。
「味覚まで変えろっていうのは酷よね」
 粉末ミルクとスティックシュガーをいくつかまとめて差し出す。
「それで、何を話せばいいのかしら?」
 ブラックコーヒーを一口すすって尋ねる。カイは向き直り、はっきりと尋ねる。
「シータが怯えている理由です」
「あなたの推理通りよ」
 それだけいい、ラムダはまたコーヒーをすする。カイは仕方ないという風に、言葉を続ける。
「では、アリシアのクローンに何かあるんですね?」
「アリシアもだけど、彼女の国が問題なの。博士から何も聞いてない?」
「聞いてません」
 ラムダはため息をつき、
「……イプシロンは研究以外何も興味が無いのね――アリシアは、この森の南にあるグランド帝国の王女なの」
「それは知ってます」
「その国がどんな国かは知ってる?」
「王女の話によると、緑と平和の国だと言うことでしたが――」
 アリシアの話を思い出すようにカイは語る。
「整えられた王政が全てを管理し、国民は秩序と忠義心に厚いと」
「それって、専制国家の典型じゃないの」
 ラムダはもう一度ため息をつく。
「あなた、私とカイのデータしか勉強してないの?」
「ラムダさんとの会話に必要だと思われる、テレビ、ラジオ、音楽・書物・文化などのデータも見ましたよ」
「私と会話するためだけに? 百年も昔の、異世界のデータしか知らないのね? 残念だけど、私は戦闘・戦術に関すること以外には、ほとんど興味もなかったから、それら知識は無用よ」
「わかってますよ。でも、何らかの形であなたが耳にしたかもしれない音楽、ほんの少しでも聞いたことがあるかも知れない詩の断片、映像、文化、全てを知らなければ、僕はイプシロン博士の考える『カイ』にはなれませんから」
 その言葉に、ラムダは何度目かのため息をつき、
「ストーカーって言葉、知ってる?」
「……同じ言葉をカイにも言ってましたね」
 その言葉にラムダはしみじみとため息をついた。



 その頃研究室では定時にルカとアリシアのデータを採取していたイプシロンが首をかしげていた。
「どうなっているの?」
 明らかにおかしい。二・三日前とはまったく異なった数値。
 あいかわらずルカは順調に育っていたが、アリシアの成長は妙に停滞していた。それなのに今日になって急に成長率は数倍に達し、予定していた段階――誕生に近づきつつある。誕生は早くてもあと一ヶ月先、そう予測していたのに。
「これでは精神と肉体とのバランスに影響が――」
 突如、妙な気持ち悪さに襲われ、片ひざをつく。
「何……?」
 
 ――シュウウウウウ……

 音をたて、硬く閉ざされていたアリシアの水槽の窓が開く。
「誕生? まさか、まだ早いわ!」
 緊急停止ボタンを押すが、機械はそれを受け付けようとせず、大量の水に似た液体が水槽から流れ出る。
「どうして? 止まりなさい!」
 コントロールパネルを叩くが、扉はゆっくりと開き、アリシアが浸かっていた溶液が溢れ出す。
「だめ、でてきちゃ……まだ」
 イプシロンは手を伸ばし、水と共に出てこようとするアリシアの体を水槽の中へ押し返そうとするが、その手がアリシアの体に触れることは無く、逆に突き倒される。
「――あなたがお母さん?」
 はっきりとした若い女性の声。
「……誰?」
 イプシロンはわけもわからず辺りを見渡す。目の前のアリシアがしゃべったとは考えられなかったからだ。
 アリシアの精神と肉体が成長しているとはいえ、生まれたばかり。肉体を自由に動かし、会話するなどできるはずが無い。カイだってそれに数ヶ月かかったのだから。
「あなたの娘よ」
 目の前にいるアリシアがしゃべっているのだと、イプシロンはやっと気づく。
「なぜ……?」
「タオルはないのかしら?」
 アリシアはプールからあがった人のように、ごく普通に歩き、タオルを体に巻きつける。
「まったく酷い格好してるわ」
 アリシアは鏡を見つけ、自分を映し出し、手櫛で髪を梳き始める。
「あなた、なぜ……」
 イプシロンは突き飛ばされたまま動けない。思ってもいなかった事態に状況がまるで把握できない。
「お母様、服ないの? ――ってそんな服着てるくらいだから、まともな服なんて持ってないわね」
 ため息をつき、呪文を唱え始める。
「……魔法が使えるの?」
「完璧でしょ? お母様の好きな完璧な存在、それが私よ」
 勝ち誇ったような笑みでアリシアは答え、魔法で出現させた白いワンピースを着込む。
「ところでお母様、今日は何日?」
「今日は――」
 手元に視線を落とし、書きかけのデータ帳に書かれた日付を見る。
「七月六日よ」
 その言葉にアリシアは嬉しげに微笑む。
「明日ね」
「明日? 明日に何かあるの?」
「グランド帝国から迎えが来るのよ」
「なぜ?」
 イプシロンはまるでわけがわからず尋ね返す。
「そういう風にできているのよ」
 アリシアは馬鹿にしたように言い、研究室から出て行く。イプシロンは放心していたが、しばらくして、
「ルカは……?」
 もう一つの水槽を覗き込む。十歳くらいの少女。まだ、目覚めるには一ヶ月はかかる。
「なぜアリシアは……」
 イプシロンは不思議そうにつぶやいた。



「足音がする」
 この世界についてカイに教授していたラムダはふと、顔を上げた。
「誰かしら? イプシロン博士でも、シータのものでもない」
「この森の住人ってことですか?」
 カイが尋ねる。
「……それは無いはずよ。シータ以外の魔女がこの研究所に入ってきたことはないもの」
「じゃぁ、」
 言いかけたカイは戸口をみて表情を硬くする。
「アリシア王女……」
 ラムダが振り向くと、水槽の中で見た女性の姿。
「カイ、ここにいたの? ……あなた、ラムダだったかしら?」
 ぞんざいな口調で、じろじろとラムダを見る。
「まだ、誕生するには早すぎるはずだ……」
 独り言のようにカイがつぶやく。
「そうだわ、カイ。あなたには私の従者として来てもらうわ」
 ラムダから目を移し、飛び切りの笑顔でカイに微笑みかける。微笑みかけられたものも思わず笑みになるような笑顔で。
「何のことだ?」
 カイは眉も動かさない。アリシアはあきらかに気分を害した声色で、
「あら、あなたほどの能力のある人間がこんな寂れたところで、ラムダの相手だけをしていていいと思っているの?」
 その言葉にカイが一瞬表情を硬くする。
「明日には帝国から迎えのものが来るわ。私とあなたはそれで帝国に向かうの」
「断る」
「それは許されないわ」
 アリシアは言い切る。
「僕はラムダさんのそばにいるようイプシロン博士に言われている」
「まぁ」
 彼女は低く笑う。
「『ラムダさん』に嫌われている人が何を言っているのかしら?」
 カイは言葉をなくす。
「どうしてそんなに事情に詳しいの?」
 黙り込んだカイの変わりに、ラムダが語りかける。
「あなたはまだ生まれたばかりのはず。なのになぜそんなに諸事情を知っているの?」
「愚かな女に答えるやるほど、私は暇じゃないの」
 そういい残し、ふらりと姿を消す。追いかけようと戸口に近寄ったラムダだったが、アリシアの姿はすでにそこには無く、足音さえない。
「消えた……」
 そんなはずはないとラムダはつぶやく。
 長年の訓練で聴覚は研ぎ澄まされている。今まで一度たりとも、見失うなどというヘマをしたことはない。
「博士の研究室へ行く」
 怒りの混じったカイの声色に、ラムダは振り向いた。カイは今まで見せたことの無い無表情な顔、暗い瞳でそこに立っていた。
 ラムダがよく知るカイの姿がそこにあった。



「博士、」
 ラムダが声をかけると、イプシロンは呆然とした顔で振り向いた。
「博士?」
「……なぜアリシアは……なぜアリシアは……」
 その言葉を何度も繰り返すだけ。
「アリシアのことは、イプシロン博士にも予想外だったってことみたいね」
 ラムダの声に、カイは無言で奥の研究室へと向かう。
「ルカはまだ誕生してない。これは……」
 カイについて部屋に入ってきたラムダはルカの姿を確認し、カイの声に導かれるようにコントロールパネルを見る。
 見事なまでにそれは破壊されていた。
「これじゃルカを誕生させることができない」
「え?」
 カイの重い声にラムダが目を見開く。カイは近くにあった、機材を手に取り、
「ラムダ、下がって」
 確認もせず、ルカの水槽にたたきつける。
「何をしてるの!?」
「このままだとどのみち酸素、栄養分なんかが不足する。まだ時期は早いが水槽から出すしかない」
 何度目かでようやく水槽にヒビが入り、中の水の圧力で水槽は割れた。ルカを傷つけないようにカイはすばやく手を伸ばし、彼女の体を受け止める。
「ラムダ、タオルみたいなものは?」
 言われ、あたりを探すが見あたら無い。ラムダは上着を脱ぎ、それでルカを包み込む。
「……ルカ」
 呼びかけるが、彼女は瞳を開けない。
「まだ誕生させるには時期的に早いんだ。……ラムダの部屋へ連れて行ってもいいか?」
「えぇ」
 そう答えて、部屋にはシータがいることを思い出す。
「シータが――」
 声を上げかけたとき、研究所は巨大な爆発音と共に揺らいだ。

 駆けつけたラムダとカイはその光景に愕然とした。そこはラムダには見慣れた戦場、そのものの風景。
 シータは肩で息をしつつ、数メートル前のアリシアを睨みつけている。
「シータ!」
 ラムダの声に、シータは近づくなと手で制す。
「私は災いを止めなければならない」
「加勢を――」
 言うラムダを再び制し、
「いらない、私が止めるわ。私が招いた災いなんだから」
 決意は固いらしい。
「おしゃべりは終わったのかしら?」
 アリシアのおどけた声と共に、繰り出される魔法弾。
 素早く呪文で障壁を作り出し、自分に向けて撃たれたそれらをそらす。と、息つく暇も無くまた別の呪文を唱え始める。
 ラムダもカイも魔女たちの戦闘を見るのは初めてだった。ラムダは自分が訓練してきた戦闘技術と少し違いがある。
 魔女達にとって、戦闘に必要なのは集中力、口の早さ、正確さ、魔法の知識の多さ、魔力の高さ、そんなもののようだ。
 だから、戦闘が長引くとスタミナが持たない。軽口を叩いているアリシアもシータも端から見ていて、すでに疲れきっていることは明らかだ。
「さよなら、ラムダ」
 不意にそういうと、今までとはまったく違う節の呪文を唱えはじめる。
「……最後の呪文だ」
 カイがつぶやく。
「ラムダ、早くここを出たほうがいい」
「それより、シータの加勢を――」
「彼女が今、唱えている呪文は危ない」
 そういうとルカを抱えて歩き出す。
「ちょっと、危ないって――」
 ラムダは慌ててカイの後を追いかける。
「以前シータから聞いたことがある。彼女がなぜここに居ることになったのか……」
 村人達はこの研究所に近づこうともしない。けれど、シータは帰ろうともせず、ずっとこの研究所にいた。シータは監視していると語っていたが――。
 カイは歩きながら話を続ける。
「彼女はこの森でも屈指の魔女だ。しかも攻撃系の魔法に長けている」
「でも加勢を――」
「彼女は監視役だ。俺達がおかしな行動をとれば消し去るためにここにいた」
「でも――」
「彼女が得意なのは攻撃系の魔法だ。特に、こういう屋内の戦闘では力を発揮するような魔法に秀でている。普通、戦闘向きの魔女と言ってみても誰かのサポートをするような補助的な魔法を使う魔女が多いらしい。だが、シータは攻撃的な魔法を得意とし、失われた魔法をいろいろと習得しているらしい」
 でも、とラムダは繰り返す。
 シータはラムダが出会ってからずっと優しかった。無愛想なラムダの心情をほんのちょっとした仕草で察してくれたし、ラムダがこの世界について知りたい、魔法について知りたいと言えば、どこからかそれに関する書物などを集めてくれた。いつだってシータは戦闘なんて血なまぐさいこととは縁遠いところで、穏やかに微笑んでいた。
「それでも私は、シータに加勢するわ」
 ラムダは立ち止まり、踵を返す。
 カイはちらりと振り向いたが、ルカを抱きなおすと再び研究所の出口に向かって歩き出した。
 


 再び戦場に戻ったラムダは目を見開いた。シータは青白い光に包まれ、体中に無数のひび割れとも呼べるような傷跡を負っていた。
「シータ!」
 呼ぶ声も聞こえないのか、ちらりとも振り向かない。
「……聞いてないわよ、こんな話――」
 誰にとも無くアリシアは呟く。
「なぜ、賢者にも匹敵する魔法力と、伝説の魔王でも使えないような高レベル魔法を知っている魔女がこんな森に存在するの?」
 辺りがまぶしくなるほどの魔法弾を繰り出しているが、どれもシータの発している青白い光に包み込まれるように吸い込まれ、消えてゆく。
 シータはうつろな瞳を漂わせ、目じりからは赤い涙を流し始める。肉体は何かに喰われてでもいるかのように、奇妙に歪み、膨張と凝縮を繰り返す。
 そこにはラムダのよく知るシータの姿は無い。ただ、その見事な緑色の髪が彼女であることを残すのみ。
 不意に低い、獣のような唸り声が辺りに木霊する。 
「魔獣を飼いならしたというの? そんな馬鹿なこと――」
 嘲笑いかけたアリシアは、そのまま地へ倒れこんだ。腹には深深と突き刺さる、銀色のトライデント。
 シータだったものは足の変わりに、青く光る鱗を持った魚のような尻尾、耳はひれのように大きく、皮膚は死人のような色、真っ赤な瞳と、涙のような筋が頬に刻まれている。
「……シータ――?」
 ラムダは信じられない思いで言葉を掛ける。
 シータだったその魔獣はゆっくり振り向き、耳まで避けたような口元に笑みを浮かべる。
 何度も名前を呼びながら、ゆっくりとラムダは魔獣に近づいてゆく。
 空気を切るような音と共に、ラムダは崩れ、倒れこむ。右の太ももには、アリシアの腹に刺さっているのと同じ、トライデント。
「シータ、どうして……」
 問い掛けるが、シータであったそれの顔にあるのは先ほどと同じ笑みだけ。
「ラムダ!」
 駆けつけたカイはラムダの姿に顔色を変えた。
「それが君の言っていた最悪の事態のための最後の呪文か」
 睨みつけたまま、魔獣に話しかける。ゆっくりと回り込むように、魔獣の周りを回り、
「なるほど、失敗したわけだ」
ラムダの隣に立ち、短い呪文を唱えた。
 途端、魔獣は耳をつんざくような咆哮をあげながら、その場で自らを傷つけていく。大きく後ろにのけぞったかと思うと、頭を打ち付けるように壁へぶつかる。やがて、大きく肩で息を吐きつつ静かに顔を上げた。
「……ラムダ――」
 低い、獣のような声。
 けれど赤い瞳はそこに無く、やわらかい金色の瞳が哀しげにラムダを見つめていた。
「ごめんなさい……」
 言いつつ、ゆるゆるとラムダとカイに近づく。
「俺に呪文を覚えさせて正解だったみたいだな」
「そうみたいね。でも、まさかあなたが覚えてるなんて思って無かったけど」
 シータがカイにその呪文を教えたのは数ヶ月前。それも謎掛けのように、最後の最後の呪文と言っただけのはずなのに。
「記憶力と勘は良いほうなんでね」
 カイはフンと鼻で笑う。
 シータはやっとラムダの傍まで這いつくと、呪文を唱えた。
「もとのようにとまでは行かないけれど、回復力を強めたから歩くぐらいなら出来るはずよ」
「ありがとう――シータ?」
 ラムダはシータの様子がおかしいのに気づく。シータは浅く息を繰り返し、眠そうにまぶたを閉じ始める。
「……ラムダ、ごめんなさい」
「シータ?」
「触れないほうが良い」
 伸ばした腕をカイが横からつかむ。
「足元を見ろ、石化してる」
 言われ、シータを見ると胸あたりまでもがすでに石と化している。
「さ、すぐにここから出よう。立って――」
 ラムダを引っ張るように歩き出す。シータの魔法が効いたのか、深い傷を負ったはずのラムダの足は、歩く分には支障が無かった。
「カイ、どういうこと?」
「わからない。また魔獣に戻る、のかもしれない。だが一つだけ言える事がある――」
「何?」
「すぐにこの研究所から出たほうがいい」
「なぜ?」
「明日には帝国から人が来る。そうなれば、だ――」
 アリシアの死体を思い出し、ラムダは言葉を飲み込んだ。独裁主義の軍事帝国、わかっていたはずなのに目の前のシータのことでそれを忘れていた。
「イプシロン博士は協力者として問題にはならないだろうが、俺達がどうなるか最悪の事態を考えた方が良い」
 ラムダは小さく息を吐く。
 幸せな時間にどっぷりつかりすぎていたらしい。訓練校、軍人時代に培った知識や感が抜けきってしまっている。
「私は確実に殺されるわね」
 ラムダの言葉に、カイは唇をかむ。
 クローンも本人も根本的な部分ではあまり変わりがない様子。ということは、カイをここに残しておくのは危険だ。そして兵器としてつくられたルカも。
 イプシロンは……と考えてある答えに気づく。
 イプシロンは嫌っていたはずのこの研究所から出ようとしない。それはつまり、彼女は好きな研究を続けるためにはこの研究所から出られない。出たところで、彼女が研究できるような設備も無いということ。
 先ほどの戦闘で電気の配線系統に相当のダメージがあったはず。またアリシアが設備をそうとう破壊してしまっている。イプシロンは研究しようにも続けられない。
「――ラムダ?」
 カイは戸惑った声をあげる。話しかけていた言葉をラムダが聞いている様子が無かったからだ。
「……あなたとルカを連れて行かなきゃ、この世界の災厄になる可能性があるわね」
「……災厄?」
「行きましょう」
「どこへ?」
 たずねた言葉にラムダは答えることなく、歩を進める。

 途中、廊下に横たわらせていたルカを抱き上げ玄関へと向かう。
 ガラス扉の向こうからは、眩しい太陽光。
 ゆっくりと押し開けると雨上がりの重く濃い、湿った空気が流れ込み、反対に冷ややかに乾いた空気が流れ出してゆく。
 三人は鬱蒼とした森へ足を踏み出した。

【幕】

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『彼女の思惑』をご覧いただきありがとうございました。

■03/04/27 中途半端に終わっているようにみえますが、これ、最初は400字詰め原稿用紙30〜50枚程度の作品になるはずでした。が、気づけばこの枚数です。しかも、本編のプロローグ的なものとして書いていたはずだったのに…本編といっても良いような内容に……。約6年近くも頭の中にあったためでしょう、気に入っているキャラクター皆にストーリーが出来てしまいこの結果です。なんだかよくわからない部分が多々あるような気もしないでもないですが、自己完結してしまっている話のため、書いてる最中は書いても書いても終わらない……気がしてました。こんなに長く、中途半端な物語を読んでいただいて、有難う御座いました。

■2004/04/27 改稿 

彼の思惑

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