ラムダ

彼女の思惑

■プロローグ

 長い黒髪をきっちりと一つにまとめ、濃紺の制服を着込んだラムダは、日程表に目をやる。
『一七三五 定時見回り』
 時刻を確認し事務室を出る。
 鋭い目線と、硬く結ばれた口元。軍人気質はまだ抜けきっていない。

 コツコツと足音が響く。
 いつもならば機械音や人の喋り声が聞こえてくるはずの長い廊下はしんと静まり返り、妙に寂しい。
 なぜだろうとラムダは考えて、今日が式典だったことを思い出す。この研究所に配置転換されて半年。定時の見回りくらいしか、仕事はない。第一線にいた身としては、左遷されたも同じこと。
 あまりに閑散とした雰囲気に、見回りが馬鹿らしくなってくる。非常事態も、事件と言えるような事件も自分が赴任して以来、いや、それより前から一度も起こったことはない。そんな風に思ってはみても、いつも通りの手順で体は動く。
 見回りを開始して十分ほど立った頃だった。明かりが漏れる部屋が一つだけあった。不信に思い、声をかける。
「失礼します……イプシロン博士、いらっしゃたんですか?」
 研究室のひとつに、人影があった。この研究所随一の天才であり、変わり者のイプシロン・ピサロ。
 銀髪を無造作に束ね、よろよろの白衣、フレームの曲がったメガネをかけて、熱心に研究データを見つめている。
「……どうしたの?」
「今日は式典ですよ? ご出席なされなくてもよろしいんですか?」
「式典……? あぁ、そういえばそんなものがあるって聞いたわね」
 まるで他人事。
「全世界の科学者達が一同に会し――」
 説明しかけたところで、ラムダは気づく。イプシロンは出席できないことに。
 イプシロンは手元から目を上げ、鼻で笑いながら、
「私が一時間外出するのに、手続きに最低三ヶ月かかるのよ? 一日外出しようとしたら何年かかるかわかったものじゃないわ」
 言葉につまったラムダは室内を見回し、
「……何も異常はないようですね、それでは失礼します」
軽く会釈して、見回りに戻った。


 事件まで、数分前の出来事――



 頬にあたる小さな手の感触で、ラムダはうっすらと瞳を開け、瞬きを繰り返す。
 見慣れた壁、薄汚れた廊下。研究所内の一角だと気づいたものの、自分の置かれた状況がわからない。確か、見回りをしていた途中――だった。
 ふわふわと赤い布が目の前を横切り、再び頬に小さな手の感触。子供よりも小さな……赤ちゃんのような手。軟らかくて、小さな手の――
「誰?」
 詰問したはずの言葉は、唇には達することはなく、起き上がろうとして、動かそうとした手足もほとんど動かない。
 非常事態。
 言葉が頭の中で点滅を繰り返すものの、なぜだか不思議に心は安らかで――。
 そのままの状態で、まず、大きく深呼吸。そして、ゆっくりと手足をいたわるように体を起こす。長い間使われていなかったかのように、筋肉や関節はそれだけで悲鳴をあげるが、容赦はしない。訓練校の地獄に比べればましだ。
 ラムダが起き上がるのをじぃっと見守っている大きな瞳。人の瞳よりも数倍大きい目をした生物が、ラムダが壁に寄りかかって座ると、歓声を上げた。
「うわぁースゴイ! スゴイ! おねぇちゃん起きた」
 甲高い声をあげるのは、赤いワンピースを来た、乳児のようなもの。茶色の髪は大雑把に結ばれ、背丈よりも長く垂れ下がっている。そして、奇妙なことに彼女は宙に浮いていた。
 ラムダが眠る前には、確かにここにはいなかった。けれど、それよりもまずこの状況だ。
「一体何があったの?」
 唇から久しぶりにしゃべる人のような、妙にしゃがれた声が漏れた。
「おねぇちゃんのお名前は?」
 他人の質問に答えないのは、幼い子供と同じ反応。それならば、子供に対するように接するしかない、とラムダは考え、優しく言葉を掛ける。
「私の名はラムダ、あなたは?」
「あたしの名前はねぇカッパっていうんだよ。イプシロンにつけてもらったんだ」
 無邪気に微笑む。
 ――イプシロン。
 その名を聞いて、ラムダは大きくため息をついた。
 イプシロンは変わり者。そう研究者達の口に上っているのは何度も聞いていた。
 ただでさえ厳しい監視下にあるこの研究所内で、イプシロンは禁止されているはずの生命体の研究をしていたのだろうか?
 となるとは、自分のこの状態も、イプシロンが何かの実験の最中に発生したガスの類のせいなのかもしれない。
 ラムダはもう一度大きくため息をつく。
「ねぇ? どうしたの?」
「お水を一杯、くんできてくれないかな?」
 ラムダが頼むとカッパは宙をふらふら飛びながら、廊下の先へと消えた。


 水を飲み干し、やっと体中の血が巡り始める。久々に目覚めた……そんな感じだ。
「私、どのくらい眠っていたのかしら?」
 独り言のようなつぶやきに思わぬほうから答えがかえる。
「百年くらいみたいですよ」
 少女の声がした方を見る。そこにはいつの間にか、緑色のゆるいウェーブの髪の少女がたたずんでいた。
 職業柄、ラムダは人の顔の覚えは良い方だが、まったく覚えのない顔だった。
 この研究所には神経質過ぎる検査許可を受けた者しか入ることができない。ラムダが倒れていようとも、外の守衛とコンピュータ制御のゲートを突破できるわけがない。
「あなたは誰?」
 詰問調の言葉にも、少女は妙な落ち着きようで、わずかに微笑みながら名乗った。
「私はシータ――」
 この少女もイプシロンの研究体なのか? 思わずそう思ってしまうほどの見事な緑色の髪。
「この森に住んでいる、魔女よ」
「……森? 魔女?」
 意味がわからず、思わず尋ね返す。
 この研究所は街外れとはいえ、木々が林立しているような場所からは遠く離れている。そして、魔女とはどういう意味だろう、とラムダは考え込む。
 物語やゲームの世界じゃあるまいし……。それよりも――
「百年も眠っていたってどういうこと?」
「さぁ、私もただの魔女ですから」
 困ったような笑み。
 とりあえず、イプシロンに聞いてみればわかることだろうと判断し、ラムダはよろよろと立ち上がる。
「大丈夫? 起きたばかりなのに」
「そうだよぉ、まだ起きちゃダメだよ」
 その声を無視し、歩きかけたがすぐにしゃがみこむ。力が入らない。厳しい訓練で鍛えあげたはずの筋肉たちが、夢幻だったかのようだ。
「ほら、無理でしょ? 腕を貸して――」
「自分で歩けるわ」
 シータが肩を貸そうとするのをラムダは断り、また立ち上がろうとする。
 仕方ないわね、とシータはつぶやき呪文を唱える。
「さ、これで大丈夫」
 確かに、いつも通りとまではいかないまでも、ラムダは普通に歩けるようになる。
「何をしたの?」
「簡単にいえば、筋肉増強の魔法をかけたの。でもこれ、後が大変だから覚悟をしておいてね」
 魔法、といわれてもぴんとこない。
「そう」
 短く答え、何度も歩いた通路を通り、よく知った研究室へ向かう。


 この研究所には窓がない。研究内容を外部に漏らさないためらしいが、多くの研究者たちは研究に没頭すると昼も夜もないので、必要ないためなのかもしれない。
 薄汚れて灰色になった壁と、重い金属製の扉、窓代わりにすえつけられた書棚からはごちゃごちゃと、額入りの賞状、トロフィー、書籍類、誰かの私有物などがあふれている。


 西棟一階・第三研究室。ここが、イプシロンの研究室だ。
「失礼します、ラムダ、入ります」
 名乗って入る。
 まず目に付くのは乱雑としたデータ書類や関連書籍の山。そしてそれに埋没したコンピュータや電子機器類。その中にただ一人、銀髪、白衣の人物がいる。イプシロンだ。
「失礼します」
 もう一度断りを入れる。そこでようやくイプシロンは顔をあげる。研究者たちの中には研究に熱中すると何度声をかけても気づかないものも多いから、その反応にはラムダも慣れている。
「あら、ラムダ……目覚めたの?」
「イプシロン、何があったんです? 説明してください」
「……説明?」
 イプシロンは小首を傾げ、ラムダの後ろにいる二人に目を移す。
「その二人のこと?」
「それもありますが、私のこの状態を含めです。『魔女』や『森』、それに百年も眠っていたってどういうことですか?」
 イプシロンは書類に目を落としたまま、
「どうもこうも、実験が成功したの」
「あなたが転送だか、時空間移動だかの研究をされていたことは知っています。ですが、」
 言葉を続けようとしてラムダは大きく目を見開いた。
「成功?」
「そうよ、成功したの……たぶんね」
「たぶんって?」
「まだデータが全部そろったわけじゃないから、不確かなことしか言えないわ。でも、今、ここにこうしている世界はあなたが目覚める前の世界とはまったく異なっている。魔法っていう未知数の力が存在しているし、複数の権力を誇示した集団――国家がある――わかっているのはこれだけだけど」
「これだけって……」
「理論的には成功することはわかっていたけれど、この実験が成功した事由がわからないの」
 成功した事由がわからないということは――
「もとの世界には戻れますよね?」
 嫌な予感を抱きつつ尋ねる。
「わからない、としか現時点では言えないわね。でも、気にするほどのことじゃないわ、研究に支障はないから」
 その言葉にラムダは絶句すると同時に、これ以上イプシロンに聞いても無駄なことを悟り、こみ上げる怒りをこらえつつ、研究室を後にした。


 カッパとシータは何も言わず、ラムダのあとについてきた。
「へぇ、こんなところもあったんだ」
「うわぁースゴイ!」
 食堂に入り二人は驚きの声をあげる。
「……さっき飲ませてくれた水はここから持ってきたんじゃないの?」
「あれは外から、汲んできたんだよ」
 当然と言った様子でカッパは答える。ラムダはその言葉に頭が痛くなってきたが、追求はせず、気を取り直し、
「あなたたちも食べる? 私が百年も眠ってたってことは、ここの食品たちも大丈夫だと思うけれど……」
 冷蔵庫を開けてみると、思った通り。野菜が百年前のものとは思えないほどの新鮮さで保存されている。食堂のおばちゃんなどいないので、自分で調理するしかない。
「何ですか、それ? それもイプシロン様が開発されたものなんですか?」
 シータがまじまじと驚いているものを改めて見直し、
「いや、これ冷蔵庫よ。食料を冷蔵保存することができるの。ずっと昔からあるものなんだけど……」
「すごいものなんですね」
 非常に感心している。
「とりあえず……インスタントか、冷凍ものでもいい? 私、お腹すいちゃって……」
 問いかけに、不信そうな顔でシータとカッパは頷いた。


「はい、どうぞ」
 テーブルに大盛りの冷凍チャーハン、うどん、インスタント味噌汁などがごちゃごちゃと並ぶ。
「あら、インスタントを飲まれるんじゃなかったんですか?」
「いや、だからインスタントよ」
と、味噌汁などを指差す。
 なおもシータは不信な顔で、
「……確か、コーヒーとも言ったかと思うんですが」
 シータの言葉でカッパとシータが勘違いしている理由がわかった。『インスタント』を『インスタントコーヒー』のことだと思っていたのだ。
「……イプシロン博士って、こっちで何を食べてるの?」
「私が村から運んで来てるんですよ」
 今度はシータが当然とばかりに答える。
「ってことは、この料理、見たことないものばかり?」
 テーブルの上に並び広げられた料理をさす。といっても、話しながらだいぶラムダが平らげてしまったのだが。
「そりゃ……まぁ……」
 ラムダの食欲に呆れ顔のシータ。
「デザートは……プリンがいいかしら。あなたたちも食べる?」
 答えを聞きもせず、二人の前にカッププリンとスプーンを指し出す。
「さて、あなたたちが知っていること、何でもいいわ、話してくれる?」

「こんな世界、滅びてしまえばいいのよ!」
 世界的に注目されている著名な科学者達による討論会の場だった。
 論争の席上で熱くなってしまったからとはいえ、そう叫んでしまったことがそれまで天才科学者の名を欲しいままにしていたイプシロンの運命を狂わせた。
 その言葉に関してイプシロンは何の後悔もしていない。事実、仲間内の非公開会議ではこんな発言をすることがしばしばあった。
 彼女が後悔しているのは、その場が公開生中継されていたこと。
 世の中には過激な言葉を吐く者を忌み嫌う傾向がある。
 イプシロンがただの人であれば何も問題なかったのだろうが、天才の名をほしいままにし、言葉を実行できるだけの能力を持った彼女は、恐怖の存在へ変わった。
 その日のうちに住処を追い出され、研究所に飛ばされた。最新鋭の機器を備え、人であれ、アリ一匹であれ、小さなネジ一つであれ、簡単にそこに入ることも出ることもできない。すべてが完全に管理された究極の場所。研究所、とは言ってみても、軍にすべてを管理・監視された待遇の良い監獄。
 入所してから一ヶ月、ラムダが派遣されてきた――。


「ラムダ・ミュートリアです。新しくこの研究所で警備の任につくことになりました。よろしくお願いします」
 二十代半ばの東洋系、モデルでも通りそうな美女だった。
 任務についている軍人はかなりの年配者か、新人が多い。彼女のようなタイプは珍しい。
「軍に入って何年目?」
「訓練校を出てすぐですから……三年目になります」
 訓練校、名は聞いたことがあるが、出身者を見るのは初めてだった。厳しいことで有名で、卒業生は第一線や、特別部隊などで活躍していると聞く。ここに配属されたということは、彼女にとっては左遷以外の何物でもない。
「どうしてここに?」
「上の決めたことですから」
 単調な答え。
 訓練所ではどんな状況下であってもすべての動作を完璧に、無意識的に行えるよう叩き込まれるという。そんな場所だから、精神的に参ってしまい退所するものも多いと聞く。
 ラムダはそこで感情を無くしてしまったのではないか、そう思えるほど彼女の動きや表情には無駄も隙も、余分なもの一切がなかった。


「あれがラムダさんかぁ……」
 ラムダが部屋を出て行くと、助手の一人が声をあげた。
「噂にたがわぬ美人ね」
「知っているの?」
「有名ですよぉ」
 もう一人の助手も声をあげる。
「玉の輿って」
 思わぬ言葉を聞いて、イプシロンは首をかしげた。
「博士、ご存知ないですか? カイっていう有名な職業軍人一族の嫡男」
「おじいさんだかが手柄の報奨金で城を築いたって言う噂の一族ですが」
 言葉を補うように、もう一人の助手が声をあげる。
「……何かのパーティーであったことがあるような……」
 イプシロンはしばらく考え込みようやく、
「確か特別部隊の部隊長――」
「違いますよ! 今は出世して、特別部隊の統括をしているらしいですよ」
「そうそう、もっと出世できるのに特別部隊から離れないって」
「ラムダがいるからだって有名よね?」
 助手達の噂話はきりが無い。二人に圧倒され、イプシロンは手に持っていたデータ書類に再び目を落とした。



 イプシロンは瞳を開ける。久々に昔のことを思い出してしまった。
 研究所は監獄だった。国にとっても、世界にとっても自分が非常に危険人物視されている事は良くわかっていた。けれど、どこにも行くことができず、自由に物を見ることもできず、研究内容にも干渉される……そんな日々にいいかげん腹も立ってきていた。
 そのころ、以前にもまして異世界の存在を考えるようになっていた。異端視されていた研究者によって、しばらく前に異世界の存在が理論的に証明されていた事もあって。
 転送装置の開発と称して、異世界へ行くための研究をはじめた。異世界の存在を信じていない人々はその嘘を疑いもしなかった。
 式典のあったあの日の夜、異世界へ旅立つ事に決めていた。軟禁状態の自分を残し、研究所の人々はみな、式典のため誰も研究所内には残っていないはずだった。
 万全の準備を整え、装置を発動させる。
「これで、この世界ともお別れ。さようなら――」
 心にあったのは、安堵。やっと自由になれるという喜び。


 気が付くと、この世界だった。急ごしらえで作った装置にしてはうまくいったと思っていたら、装置に欠陥があったらしく、百年もの間、時空のはざまに閉じ込められていたらしいことは後で知ったのだが。
 だが、一応は成功だ。誰にもとがめられることなく、やりたい研究をやれる。まずは倫理的理由から研究が禁止されていた生命体の研究をすることにした。
 当初、研究はまったく順調に進まなかったが、シータの魔力を借りるようになってからは順調に進んだ。
 一番最初に生まれた生命にはカッパと名づけた。彼女は一週間もしないうちに言葉を使い、宙を舞い、移動するすべを身に付けた。魔法には無限の可能性があった。
 あるときカッパが、変なことを言った。
「廊下で寝ているおねぇさんがいるよ」
 誰のことかわからなかった。
 誘導されてその場所に行ってみると、廊下に倒れこんで眠っているラムダの姿があった。
 死んでいるわけではなく、本当にただ寝っていた。
 彼女が研究所内に居ることに、その時まで気づきもしなかった。誰も居ない、そう思ってこれを決行したはずだったのに。
 自分が起きて、約二年。その間もラムダは眠りつづけていたのは、時空のはざ間に閉じ込められたショックなのかもしれない。
 彼女が起きたのはそれから一ヶ月も経ってからだった。


「……ラムダは、向こうの世界に帰りたいのね。もう、百年以上も歳月が経ってしまったのに」
 装置を直せば帰ることはできる。ただし、この装置、この研究所全体が必要なのだ。ラムダを帰すことになれば、この研究所もなくなってしまう。今後の研究のためには、設備の整ったこの施設は絶対に必要だ。
「カイか――」
 イプシロンは小さく呟き、資料保存室へと向かった。



 窓の外を静かに見つめていた黒ずくめの女性――魔王は、決意の表情で振り返り、
「災いが起こります……」
大きく息を吐きながら、苦しそうに呟いた。
 それまでどよめいていた室内に深い沈黙が降りる。
「これ以上の何が――」
 誰かの声。不安と、怒りと絶望に満ちた声。
「わかりません」
 魔王は静かに答える。
「何が起こるかわからない、けれど、今度は私達、魔女だけの力ではどうにもならない」
 低い唸り声とも、叫びともつかない声が再び室内に満ちる。
 それまで黙り込んでいた長老が顔を上げ、
「今まで以上に悪い事態に陥ると言うことかね?」
魔王に尋ねかける。魔王は父でもある長老を一瞬、優しく見つめ、
「わかりません」
再び無表情に首を振る。
「けれど、鍵があそこにあることは確かです」
 窓の外の蜃気楼を見つめる。百年程前に現れた、次元の狭間、空間の歪み。
「あれのために、魔女達はこの森から出ることも出来んようになってしもうたと言うに、それ以上の災いが起きると言うのか」
 長老もまた同じものを見つめながら、言葉を紡ぐ。言葉には諦めにも似た、響きがある。
「――じゃが、放っておくことも出来ん」
 重い息を吐きつつ、立ち上がる。
「そろそろ時間ですかな?」
 長老の声に魔王は寂しげに頷く。
「魔王様、くれぐれもお体にはご自愛をくだされ」
「長老殿、あなたも……」
 互いに言い交わし、魔王の姿は空間に掻き消える。
 魔王は神殿と呼ばれる建物から出ることはできない。幻像を使って、わずかな間、人々と言葉を交わすだけしか。
「シータ」
 長老はそばに控えていた緑色の髪の少女の名を呼ぶ。
「はい」
「わかっているとは思うが……いままで以上にあの蜃気楼の監視を厳重に――」
 言葉を言い終わらぬうちに、人々は妙な気配に窓の外を振り向く。
 一瞬の静寂。
 大気が、不意に緊張し、蜃気楼はゆっくりと大きく息を吸い込むように気配を強めた。
 窓の外に見えるそれが実体化したのだと、誰もの目にも明らかなのに、誰もそれを信じることが出来なかった。ここ百年、あれは目には見えるが触れないものだったのだから。

 沈黙を破ったのは長老だった。
「――眠りから覚めたのか……?」
 その声がきっかけとなり、人々の間でざわめきが起こる。
「長老、」
 シータは少し大きな声を出し、祖父の顔をまっすぐ見た。
「行ってまいります」
 魔王候補者は森で起こるすべての出来事を監視し、どんな手段を使ってもそれ解決する役割を担っている。けれど、それも百年ほど前までのこと。
 蜃気楼が現れて、空間が不安定になり魔女たちはこの森を出ることが出来なくなった。それによって魔女たちが増えたことに原因があるのか、この森は安定し、異界への道が開くことはなくなった。
 誰もが魔王候補者たちに課せられた役割の存在を忘れていた。
「……そうか……そうだったな。お前は役割を負うていたな」
 長老は不安げにシータを見つめる。
 魔女は遺伝する。強い魔女が子をなせば、その子もまた強い魔女になる可能性が高い。魔王ほどの強い魔力を持つものが子をなせば、その子もまた――それはシータが生まれるときに散々考えたはずだった。
 長老は癖になっている大きなため息をつき、シータを送り出した。
「気をつけよ、シータ。お前ほど戦闘魔術に長けたものは多くない」



 数時間前まで蜃気楼だった建物を仰ぎ見、シータはその大きさに圧倒された。
 それは生まれてからこのかた見慣れていたものではあったが、実体化したその建物は別のもののように瞳に映る。
 この建物の入り口は知っていた。南方向にある大きなガラス扉。他には窓とも呼べないような小さな穴がいくつかしかない。

 重い扉を押し開け、内部に入ると辺りは妙な明るさに満ちていた。窓が無いとは思えない明るさ。上を見れば、天井部に設置された細長い筒状の物体が白く発光している。
「魔法……?」
 呟いた声は、誰もいない空間にさびしく響く。けれど、魔法であれば魔力を感じるはずなのにそれがない。
「異世界の力ってことね」
 自分に言い聞かせるように呟き、歩き始める。
 長い長い一本道のような廊下を不安を押し殺しながら歩く。響くのは自分の足音のみ。とりあえずまっすく歩いて、突き当りを右手に進む。窓も無く、片側は一定間隔にドア。もう片側はごちゃごちゃと書籍やら物やらが積み上げられている。いくつか右や左に折れて突き進んでいるうちに、変化の乏しい廊下なので、だんだん自分がどの辺にいるのかわからなくなってくる。
 ずいぶん歩いて、シータは立ち止まった。
「何もでてきやしない……何のために百年もの眠りから覚めたのよ!」
 大声で怒鳴ってみても、なんら動く気配すらない。この巨大な異世界からの侵入者は次元を捻じ曲げ、この世界に多大な被害を与えておいて、中身は空っぽなのだろうか。
 あまりの虚無感にシータは絶句する。
 雑魚敵がわさわさ出てきて、奥に進むためにはいくつもの障害があって、最後に親玉を成敗する。それがたぶん、魔女たちが望んでいた一番の筋書きだったはず。なのに、この建物に侵入して一時間は早経とうとしているのに、未だに何も無い。それが作戦なのか、それとも本当に何もいないというのか。
 確認しようと、自分に防御の高等呪文をかけ、手近なドアを開ける。
 シュゥゥゥっと凍っていた時を取り戻すように、部屋の空気は動き始める。
「――ら、この世界。いい加減、私も疲れたわ!」
 銀髪の女性はそう言い、どさりと椅子に座り込む。
 シータは戸惑った。戦闘するには彼女はあまりにも無防備、それにこちらに気づいている様子も無い。
「あの、」
 思い切って声をかける。
「……あら、どなた?」
 銀髪に白い服を身にまとった彼女は、振り向き声をあげた。三十過ぎくらいの綺麗な人ではあるが、どこにでもいそうな普通の女性。
「ごめんなさいね、巻き込んでしまって。もう、あなたがこの世界に残るのは無理ね」
 話の内容からすると彼女が親玉なのだ。
「どうして?」
 自然、疑問が漏れる。あまりにも普通の人間。彼女に次元に干渉するほどの力があるとも思えない。
「え?」
 彼女は少し驚いた顔をしたが、すぐに、
「私はもう、この世界には居たくないの――」
瞳に浮かんでいるのは憎悪と哀しみの色。
「誰も巻き込まないように、計画してたんだけど……完全にってわけにはいかなかったわね」
 自嘲するように微笑む。
「それにしても……数値は限りなくゼロをさしているけれど、もう異界についたって事なのかしら? 試運転もできないから、成功しているのかどうかもわからないのよ」
 銀髪の女性は目の前の機械や、手にもった書類を交互に見やる。
 何度も何度もその動作を繰り返しているのを見て、シータは口を開く。
「外に出てみたらどうです?」
「外?」
 言われ、初めて気づいたかのように、
「そうよね! 成功していれば私、もう外に出ることができるんだわ!」
感嘆の声をあげる。
「まるで投獄されていたような言い方ですね」
 その言葉に、彼女は眉間をしかめた。
「あなた、私のこと知らないの?」
 覚悟を決め、シータは頷く。
「では……まさか、異界の人?」
 戦闘する意思のない人物に攻撃的な接し方をしなくても良いだろうと考え、儀礼的にスカートの端を持ち、シータはふわりと頭を下げる。
「こんにちは、私はこの森に住む魔女のシータです」
 一瞬、彼女は驚いた表情を見せたが、すぐに
「魔女に森ね。その力に引き寄せられたってことなのかしら?」
独り言のようにつぶやく。
「……この建物が出現したせいで、次元に歪みができ、この森に異世界への穴がたくさん空いたんです。そのために魔女がこの森を封印するために集っているのよ?」
 思わず声が大きくなる。
「――次元の歪み、ねぇ……ということは時空間にも影響があったの?」
「えぇ、この建物が現れて百年は経っています」
「百年! ずいぶん記録とずれがあるわね――」
 と、もう一度機械を見始める。
「この建物、今日まで蜃気楼のように見えはするけれど、触れることのできない物体だったんです」
「……なるほど。歪みって表現は適切ね。面白そうな研究テーマだけど他に決めてるテーマもあることだし……」
 ごそごそと机の引き出しや、書棚から書籍や書類を出し始め、あっというまに部屋は足の踏み場も無い状態に陥る。
「――あの、」
 黙って彼女の行動を見守っていたシータは、思い切って声をかけた。
「何?」
 書類に目を落としたまま彼女は声をあげる。
「あなたは誰ですか?」
「――あぁ、自己紹介してなかったわね。私はイプシロン・ピサロ。世界屈指の天才科学者よ」

 イプシロンが目覚めて一週間しないうちに、南のグランド帝国から使者がやってきた。
 使者たちは皆、白いゆったりとした伝統服を身にまとっている。その下に動きやすい防護服を着込み、数種の武器を隠し持っていることをシータは知っている。
「いったい何なの?」
 深々とイプシロンの前で頭をたれ、使者たちは仰々しく皇帝からの手紙なるものを広げ、読み始める。
 最初は時節の挨拶。次に、自分の国がいかに偉大で、素晴らしいか。そして、異界の王――イプシロンの力を借りたい、と。
 長いその朗読を聞き終わり、もう一度イプシロンはたずねた。
「いったい何なの?」
 その声に使者達の中から隊長と思わしき人間が進み出る。
「我々はあなた様のお力をお借りしたい」
 シンプルな言葉にイプシロンはやっと合点がいったという表情を見せ、
「力って、私があなた達に協力できるようなことって何も無いわよ? 私はただの科学者なんだから」
 その言葉にどよめく使者達。シータも最初そうだった。異界から来たのだから何らかの力を持っていると思っていたが、イプシロンには何の力もない。ここ一週間観察していたがイプシロンがしていたことといえば、本を読み、紙を見比べ、機械類を睨み付けているだけ。
 それらが何らかの兵器の開発につながるのかとも思い、尋ねてみても「ただの趣味」「子供を作ろうと思って」などと要領を得ない言葉が返ってくるだけ。
 思いつく限りの質問を浴びせてみても、彼女の研究は一切『力』とは無関係だった。
「では、異界の王では無いと?」
「そうよ」
「何のためにこの国へ――?」
「別に選んだわけじゃないの、偶然よ」
 イプシロンの答えに使者達の顔には焦りが見え始める。報告すべき内容が無いからだろう。
「では、どのようなご研究をされていらっしゃいますの?」
 声は使者達の一番後ろからした。シータも何度か聞いたことのある、思い出したくも無い人間の声だった。
「いろいろ幅広くしているけれど……」
 イプシロンは質問した人間に目をやる。深深とフードをかぶっていた女は、その視線に気づき、悠然と微笑みながら伝統服を脱ぐ。
 長く、豊かな黒髪、豪奢な南の国風のドレス。胸のあたりはぴったりしたデザインなのだが、腕や足はゆったりと薄い布地を幾重にもまとっている。
 明らかに他の使者達とは雰囲気が違う。
「私は王女、アリシア・フィリス・キア・グラント」
 言いつつ、優雅に一礼する。
 この女がじきじきに森にやってくるとは思わなかった。王女の仮面を被り、親切そうな振りをして魔女から聞き出せるだけの魔法を聞き出すと、今度はその力を試すために、何度も魔法部隊を仕掛けてきた。森を魔法を試すための試練場だか鍛錬場だかと履き違えている。
「あなた、シータ・トラベルタだったかしら? 森の民がこのような場所で何を?」
 邪険な視線を真っ向から見据え、アリシアは尋ねる。
 使者達は一ダースはいるだろうか。きっとアリシア直属の精鋭部隊だろう。アリシア含めて十三人、何の準備もしていない今のシータに勝機は万に一つも無い。
「イプシロン様のお相手をしております」
 引きつった笑みを浮かべ、シータは答える。
「イプシロン――?」
 小首をかしげるアリシア。その仕草に微笑みながらイプシロンは答える。
「イプシロン・ピサロ、私のことよ」
「ごめんなさい、あなたのお名前でしたのね」
 アリシアは優しく微笑む。
 それがアリシアのいつもの手だということをシータはよくわかっている。計算ずくで可愛らしい王女を演じていることを。
「私の研究に興味があるの?」
「はい、私科学には大変興味を持っております」
「それならば研究室にどうぞ」
 イプシロンは嬉しそうに研究所内へと歩き出す。後に続くアリシアと使者達。シータは難しい顔でため息をつくと、研究所内へ足を踏み入れた。
 魔女は中立。自分達に危害を加える相手への攻撃はするが、誰の敵にも味方にもならない。



 ラムダが目覚めて、一年半ほど経った。
 午前中は筋力強化、午後からはこの世界の話をシータやさまざまな書物から得て、夕方からは研究所内の掃除や夕食などを作る。そんな生活にも慣れてきた。
 最初はリハビリがてらだった筋力強化も、最近は前以上に力を増しつつある。
 もとの世界に戻る見通しはまだつかない。イプシロンによれば、時空のはざ間に落ちこま無いようにするための研究が進まない、とのことだった。

 今日は午後からの勉強会を兼ねた、ティータイム。
 魔女は何でもできる、とシータが以前言っていたが、そのために地図や書き物をほとんどしない。だから、ラムダがこの世界の地図を見るのはこれが初めてだった。
「へぇ、こういう風にこの森には三つの村があるのね?」
 シータの出してくれた地図の端のほうに三角形の形をした森。その森の頂点あたりに三つの村を示す点と文字が書き込まれている。
「ええ。でもあまり交流が無いの」
「どうして?」
「魔女ばかりだからよ」
 当然といわんばかりにシータは答える。
「魔女は別にどこにいようと、お互いに通信できるし、移動も簡単に行えるもの」
 その言葉に、ラムダはあることに気づいた。
「ちょっと待って……この世界に魔法を使えない人がいるの?」
「あたりまえでしょ? 使えない人のほうが多いわよ」
「じゃあ、魔女は少ないの?」
「この森にはたくさんいるけどね」
「どうして?」
「……なんていうか……聖地だから」
 言いながらも、目をそむける。
 シータが何か隠し事をしている。
 それに気づきはしたが、ラムダは気づいたそぶりを見せず、話題を変える。
「私にも魔法って使える?」
「才能……っていうのかな、魔女ってね、魔法を使おうとして使ってるんじゃないの。息をするのと一緒、ごく自然にやり方がわかるの」
「私、かなり感がいいほうだけど……ダメかしら?」
「さぁ……ある日突然できるようになる人もいるって話だし――」
 シータは紅茶を一口すする。
「ラムダ、向うの世界に還りたい?」
 そう言われ、ラムダは何となしに壁にかけられた絵画を見つめる。絵のことなどわからないが、『春の若葉』と名づけられた、微妙な緑色と空色を掛け合わせたその抽象画が気に入っていた。
「……わからない」
 それがラムダの素直な気持ちだった。
「還りたくないの?」
「わからないわ。私は天涯孤独の身だし、向うに帰ったところで知り合いのようなものもほとんどいない。考えてみれば、還らなければならない理由もないの」
 シータはただ微かに頷く。
「でも、私達はこの世界にとっては異物でしょ? だからこの世界に存在していてもいいのかどうか、問題はそこだと思うの」
「ラムダ、あなたは―――」
 シータは何か言いかけて、言葉をとぎらせ、入り口を見て驚愕していた。
「何かあるの?」
 言いつつ振り向いたラムダは、そこに彼の姿を見た。
「カイ!?」
「どうしてここに……」
 シータが困惑の表情を浮かべる。
「まだ調整が終わってないのよ」
 カイの後ろから声が聞こえた。イプシロンの声だ。
「大丈夫ですよ。それより二人についていなくても大丈夫なんですか?」
「カッパに任せているわ、あなたも早く戻ってきなさい。まだ完全ではないのよ」
 食堂の前に来たイプシロンは、ラムダの姿を認め、すぐに目をそらした。
「カイ……?」
 ラムダは立ち上がり、もう一度声をかける。
 カイと呼ばれた十七歳くらいの少年は、穏やかな笑みを浮かべたまま、頷く。
「どうして……?」
 ラムダは首を振る。カイがここにいるわけがない。
「イプシロン博士に作られました」
 張り付いたような穏やかな笑みと柔らかな物腰。
「作られた? 博士、どうして……!?」
「あなたが寂しいだろうと思って」
 イプシロンは諦め顔で答える。
「もうちょっと学習させてからあなたに会わせようと思っていたんだけど……」
「そんなことじゃありません! どうしてカイを……」
 そうつぶやいて、ラムダはある考えに思いあたり、恐る恐るそれを尋ねる。
「博士、もとの世界に戻る気はないんですね?」
 そう問われて、イプシロンは大きく息を吐く。
「そうよ。ここは天国だもの」
「なぜです? 向こうにはあなたのご家族もいらっしゃるでしょう?」
「いないわ!」
 イプシロンは声を大きくする。
「ここが私の故郷、もとの世界なの!」
 妙な静寂。
 それを破るかのようにシータは立ち上がり、ラムダを椅子に座らせる。
「やはり、イプシロン様はこちらの世界の方だったんですね」
「あら、気がついていたの?」
「初めてお会いしたときも、イプシロン様は魔法にたいしてそれほど驚かれなかった。けれど、ラムダは違いました」
「それで?」
「私にはイプシロン様の研究や、難しいことはまるでわかりません。イプシロン様が、ラムダが喜ぶと言われたから、これにも協力したんです」
と、カイを指差す。
「でも、彼を作るべきではありませんでした。今、ラムダがどれほど傷ついているのかイプシロン様には思いもよらないのでしょうね」
「どうして?」
 そう言ったのはイプシロンではなく、カイだった。
「僕の存在がラムダを傷つけるってどういうことですか?」
 それには誰も答えない。
「……イプシロン、その彼の性格ってどういう風に作り上げたんです?」
 ラムダは青い顔でそれだけ尋ねた。
「この研究施設に来た人はすべて、反応パターンとか、思考パターンとか、それまでの経歴、家族や親戚の情報など詳細なデータをとっているでしょ? あれを利用しているのよ。細胞も彼のものだし……完璧でしょ?」
「そうですか」
 ラムダはほっと息を吐く。
「じゃあ、彼はカイとそっくりな顔をし、同じ名を持っているに過ぎないんですね」
「いいえ。言ったでしょ? データを――」
「データじゃない――!」
 ラムダはイプシロンを睨み付ける。
「人はデータじゃない!」
「でも、データが――」
 イプシロンが理解できないという顔で言葉を続ける。
「データがすべてを物語っているのよ。彼の出生から成長期、すべてがデータとして残っているの。それに、この施設に入る前に行われるテストにかかわった人々の証言、精神分析官のレポート、カメラ等に収められた仕草、すべてを統合すると彼になるの」
 カイの両肩に手を乗せる。
「彼は完璧よ。カイという人間だわ」
「違います!」
 ラムダは苦しげに首を振る。
「彼はカイじゃない」
「ラムダ、眠ったほうがいいわ」
 興奮したラムダに睡眠の魔法をかけ、
「イプシロン様、今回のことに関しては私もラムダに賛成です。彼を生み出すべきじゃありませんでした。それに、生み出しても『カイ』という人間にすべきじゃなかった」
「どうして?」
 ラムダやシータの言うことが理解できず、イプシロンは問い掛ける。
「イプシロン様は人の情というものを理解されていらっしゃらない。それではいくら説明したところで無駄話にしかなりません」
 もう一度呪文を唱え、シータはラムダを抱き上げる。
「それでは、これで」
 シータは軽々とラムダを抱き上げ、食堂を後にした。

 ラムダはそれから三日間眠りつづけた。目覚めてからも、カイのことを口に出そうとはせず、それまでと変わらないメニューを毎日消化していった。



 頭の中で繰り返し再生され、消えてゆく夢。
 彼女の声を聞いたことも、彼女を見たことも無いのに、僕は彼女の夢を見る。どこか懐かしくて、胸が締め付けられるほど愛しい人。
 廊下を歩いていたり、誰かとしゃべっていたり……そんな仕事中の顔しか僕の夢の中にはあらわれない。彼女は美しく、綺麗な黒髪を誰にも触らせないようにきっちりと結い上げ、濃紺の制服――警備服を着ている。けれど、何者をも寄せ付けないそのストイックな雰囲気と、時折見せる鋭い、血を知る戦士の眼差しがそれを修道服にも、戦闘服にも見せた。
 夢の中の彼女は決して笑わない。微笑むことも無い。感情を押し殺した瞳で、無表情の仮面を深々とかぶっている。彼女が一時でも微笑めば、きっと周りの男たちを虜にしてしまうだろう……でも、そうなればそれで僕は悔しいのだけれど。
 
 彼女の日課は変わらない。
 九時に事務室に現れ、デスクワークを片付ける。機械化が進んでいるから、たいした量があるわけでもなく、書類整理が苦手な彼女でも昼までにはそれも終わってしまう。
 昼過ぎからはあちこちのかたずけ、点検整備、見回りに追われる。建物は結構広いから、こちらの仕事はいくらでもある。
 ある日の昼、いつものように食堂に行こうと席を立ちかけた彼女は部屋に入ってきた人物を見て小さく片眉を上げた。感情を見せない彼女だから、非常に驚いているのがわかる。
「久しぶり」
 男の声が聞こえた。
「カイ――どうして?」
 女性の声。彼女のものだとすぐにわかる。想像していた通り柔らかで、女性にしてはちょっと低い声。
「君がどうしているかなぁと思って」
 男の声は妙に穏やかで、人当たりがいい。けれど、どこか虚ろな感じを受ける。
「……前々から思ってたんだけど、あなた、私を監視するためにここに赴任させたでしょ?」
「あ、気づいた?」
 会話の中身は物騒なのに、二人は何気ない会話のように話を進める。
「最初は何故私をここに送り込んだのか、まったくわからなかったのよ。あなたは私の姿を見てないと一日が始まらないなんて言ってたのに、どうしてだろうって考えたの。それで思い当たったのがあれよ」
 指差すのは僕――監視カメラ。
「悪趣味ね」
 言葉に少し棘がある。
 男はそれに気づかなかったのか、おどけた様子で、
「君の全ての行動が見たくなってね……戦闘中、敵をぼこぼこにしてる君の姿も野生の肉食動物のような美しさがあって好きだけど、僕の知らないところで君がどんな顔をしているのかが知りたかったんだ」
 彼女はげんなりとした表情で、
「――ストーカーって言葉、知ってる?」
「知ってるよ。でも、相思相愛の仲じゃ使わない言葉だろ?」
「……詐欺だわ」
 彼女はため息とともに吐き出す。
「文通相手があなただなんて知りたくなかったわ」
「手紙みたいにもっと素直になってくれれば僕は嬉しいんだけど」
「……あなたじゃないから書いたのよ」
 彼女はもう一度、見せつけるようにため息を吐く。
「でも、僕と君は相思相愛ってことで通ってるんだだから、もうちょっと親しげにしてくれてもいいと思うけど?」
「そのことなんだけど、どうして私がモーションかけて、まるであなたを誘惑したように言われているの?」
「そのほうが面白いだろ? シンデレラストーリーなんていまどき流行らないからね」
「……絶対にあなたの思い通りになんかしないし、させないから」
「他人の噂も七十五日だよ。それに、いい加減折れてくれてもいいと思うんだけど」
「初対面の人間に求婚してきた馬鹿男に、変な噂流されて、そのうえ左遷させられて……それで、なんで私があなたに惚れなきゃいけないのよ?」
「だけど僕って、家柄もよく、地位も名誉も財産もあるし、知性も教養もあって運動も出来る。これ以上完璧な人間っていないと思うけど?」
 カイの言葉に彼女はあからさまにため息をつき、
「思いやりってものが掛けてれば、人間として最低なのよ?」
 冷たい笑顔。
「さ、もういいからそこどいて」
 今まで見た事も無いくらい凶悪な瞳で睨み付ける。
「交換条件、」
 カイは最初の笑みを崩しもせず、
「ここに来るって約束してくれたら、ここをどける」
 ひらひらと手にもったチケットを振る。
「式典の特別招待状」
 彼女は再びため息をつき、
「私、その日は夜勤なの」
「大丈夫だよ。その日はここももぬけの殻になるだろうから。君がいなくても誰も気づかないよ。ほら、昼食食べないの?」
 彼女は奪い取るようにチケットを受け取ると、
「はい、サヨウナラ」
食堂に向かって歩き出した。
 その背中に向かって、カイは少しばかり寂しそうに小さな声で何かを呟いた。

 その日も同じように始まった。
 九時に事務室に現れ、デスクワークを片付ける。夜勤らしく、昼から夕方までは読書や鍛錬をして過ごし、夕方からは再びいつもの仕事に戻る。見回り、片付け、雑務……。
 事務室で一息つき、チラリと彼女は予定表を見上げる。
 すぐ隣に掛けられた壁掛け時計で時刻を確認し、彼女は事務室を出る。

――眩しい

 目の前は真っ白な光。べっとりとまとわりつく嫌な感覚。空気が動き、頭に誰かの手が添えられる。
「おはよう、カイ」
 聞きなれた声。けれど、いつも聞くよりずっと鮮明だが、遠い感じ。
「ゆっくり息を吸って――」
 言われたのだけれど、思い切り息を吸い込んでしまいむせ返る。
「まだなれていないんだから、ゆっくり息をしなきゃだめよ」
「……はい」
 声。低い、男の声。
「僕の――」
 僕の声だ。
 そう知覚したとたん、全てがはっきりと見え始める。薄汚れた研究室、泡立つ液体カプセルの中に入れられた人間。
 目の前にいる白衣を着た人間はイプシロン。自分を作り出した博士。
「カイ?」
 不安げにイプシロンは尋ねる。
「基本的な部分はほとんど完成していると思うんだけれど、具合の悪い所はある?」
「いいえ」
「そう――じゃ簡単な検査をしたら、学習の続きをしましょうか」
「学習……?」
 思い当たる節がなくカイは尋ね返す。
「ここの監視システムの保存データにアクセスして、あなたの脳で直接ラムダの映像が見れるようにしていたはずなんだけれど……」
 映像? ラムダというのは何のことだ?
 意味がわからず尋ね返す。
「ラムダ……?」
「映像に出てこなかった? 黒い髪の無表情な女性」
 聞いたとたん、イプシロンの声が頭の中で何度も繰り返された。その言葉が事実なのだと実感できるまで。
 実在しているのだ、彼女は。
 映像の中で何度も見た彼女の顔が、彼女の声が頭の中で一気に再生される。
「ほら、ぼぉーっとしていないでこっちに来て。検査しましょ」
「ラムダには、いつ会えますか?」
 カイの問いかけに、イプシロンはしょうがないといった風にため息をつく。
「もうちょっと学習してからじゃないと、ラムダには会わせられないわ。あなたは完全な『カイ』にならなきゃならないんだから――」
 映像に出てきた男の名。
 ラムダが唯一、表情を変えた人間の名。
 自分と同じ者の名。
 嫉妬とも、憧れとも似た感情が湧きあがる。
「僕はラムダに会いたい――」
「まだダメよ」
「会いたいんです」
 カイは研究室から飛び出した。
 映像の中で見た廊下。ラムダが何度も歩いていた廊下、彼女がいつもいるのは事務所。そちらに足をのばして見るが彼女の姿はそこに無い。
 事務所以外の場所でラムダがよく行っていた場所といえば、食堂だ。そちらに足を向ける。
 近づくにつれ、女性の楽しそうな話し声。その一つ、ちょっとハスキーな声は間違いない。彼女――ラムダの声。
 心臓は破裂しそうなほど高らかに脈打っている。
 一歩食堂に近づくたび、僅かながらもラムダの静かだが優しげな声が聞こえるたびに、天国にでもいるかのような喜びが湧き上がる。
 食堂の入り口にたどり着く。ガラス張りのドアからは、現実の彼女の斜め後ろ姿が見える。映像と違い、髪は簡素に束ねられているだけ。服も簡素な木綿のワンピースに、深緑色のベスト。
 白いティーカップを両手で包み込むように持ち、目の前に座った――緑色の髪の髪の女性――シータと楽しげに話しをしている。映像の中の鋭い雰囲気は影をひそめ、彼女が本来持っていたのだろう優しさに溢れている。
 頭の中は真っ白で、どう声を掛けていいものかわからず、静かにドアを開け、食堂に入った。



「ラムダ、」
 青い顔をしたシータがラムダの部屋を訪れたのはカイがラムダの前に現れて、半年もしないうちだった。
「もう、私にはどうしようもないわ。お願い……イプシロン様を止めて!」
 シータはヒステリックに叫ぶ。
「何があったの?」
「子供がいるの」
 シータは途切れ途切れに話し始める。
「カイを作ったときと一緒よ。水槽の中に、女の子が二人いるの。二人はすごい速さで成長してるんだけど…そのうちの一人が、悪意を持っているの」
「悪意?」
 話の全体像をつかみきれず、ラムダは尋ね返す。イプシロンが生命体の研究をしていることはラムダもわかってはいたが、カイに似た人間がいるのだとおもうと、研究室に近づきたいとも思わなかった。
 あれから半年しか経っていないのに、イプシロンは生命体の研究を再開していると言うのだろうか。わけもわからず、
「一体どういうことなの?」
「イプシロン様の研究室に行って見ればすぐにわかると思うわ」
 そういって部屋の片隅で震えている。
「わかった、見てくる」
 早足で研究室へ向かう。何だか嫌な予感がした。

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