第三話 理沙と釣り
「始まった」
不意に前の席に座っていた彼女の呟きが聞こえた。驚きと興奮を混ぜ合わせた囁き。受験会場では皆、最後のあがきとばかり、教科書やノート、暗記カードを捲っている。どうやら、その声を聞いたのは私だけだったようだ。腕時計を見やるがまだ休憩中。試験管の姿も見えない。何のことだろうと考えかけ、頭から振り払う。今は目の前のことに集中しなくてはいけない。
けれど、どうしても気になる。先ほどまでこの部屋の中にいる人間は同様、彼女にも張り詰めた緊張感と焦りにも似た不安しかなかった。なのに、今ではすっかり楽しそうな、興奮した様子をしている。私の目の前に座っている人間のその違和感、異質感はあまりにも印象的で。だから、入学式で彼女を見かけた時、思わず声をかけてしまったのだと思う。
「受かったのね、おめでとう」
「ありがとう。あなたもおめでとう。ところで、あなた……?」
申し訳なさそうな顔。彼女は知らなくて当然だ。
「私、受験の時、あなたの後ろに座っていたの。古山麻衣です、始めまして」
一人暮らしな私と、自宅通学な小島理沙に共通点はなかった。高校も違う、趣味も違う、学部は同じでもゼミは違う。見た目も理沙が日焼けて色黒いのに対し、私は太陽とは縁のない色白。理沙は黒のポニーテール、私は茶髪のセミロング。鮮やかな原色Tシャツに短パン、もしくはミニスカート姿を好む活発な印象の理沙と、モノクロワンピース、おしとやかというより、暗い印象を与えているだろう私。見事に対照的。正反対の二人。
なのに、五月にはすでに周囲が親友と認める仲になったのは、不思議と馬が合ったというより、私が理沙の奇妙な癖に興味があったからに他ならない。
「カウントダウンだ!」
目を見開き、理沙が期待と不安の表情で周囲をうかがう。道端を歩いていて。構内で。食事中。時間も場所もかまわず、不意に立ち止まってそわそわ、きょろきょろするものだから、怪しいことこの上ない。不審な目でみられることもしばしばだが、私は慣れた。理沙が小さくため息をつくまで、そばで彼女を観察しているのが最近の私の癖。
当初は理沙の言うカウントダウンが何のことなのか知らなかったし、話をはぐらかされるばかりで教えてもらえなかったのだが、感覚が頻繁になってきた最近、カウントダウン直後の理沙に問うとあっさり打ち明けてくれた。
理沙の一族の一部の人間にだけあるという、運命の相手に出会うまでのカウントダウンという形の恋の予感。それは不意に心に興奮を起こすもので、感じている本人が周囲の状況、興奮の強弱などから、カウントダウンだと判断するものらしい。そして、あの受験の日が、一番最初。始まりの日であったらしい。
後日、冷静な理沙に「あの話は忘れて。冗談なの」なんて否定されたが、むしろ、カウントダウン直後の興奮で口が滑ったとみるべきだろう。事実、いまだにカウントダウンが続いているところをみると、嘘や妄想とは思えない。
最近、理沙はぐったり疲れ気味だ。カウントダウンの周期が短くなり、興奮と不安と緊張とで夜も眠れないとため息をつく。隠すことさえ億劫なのか、二人でいると普通にカウントダウンの話題、運命の人の話題になる。
「それだけ周期が短くなってきたんだし、はっきりした日にちとか時間とかわからないものなの?」
理沙は気だるげにひじを付き、飲むゼリーをようよう口に含んでいる。興奮が冷めれば、その分どっと疲弊してしまうようだ。
「判ればこんな思いはしてないわよ……今この瞬間、白馬に乗ってなくてもいいから目の前に現れてくれないかな。そしたら私、開放されるのに」
怒ったような口調だが切実な響き。話題も続かず、私は学食のかき揚うどんを口に運ぶ。食べ終わり食器を片付けるついでに、
「コーヒー飲む?」
「……ありがと。砂糖とミルクたっぷりお願い」
ゼリーをすすり終わった理沙が言う。あら、と急に嬉しそうな顔になり、
「晴れてきたわね」
私は、理沙の言葉に彼女の後ろにある窓を見た。外は相変わらず雨。雨。雨。どんより重い雨雲は朝から相変わらずで、梅雨はまだ明けそうにない。理沙はぼんやり、壁にかかった絵を見ている。こちらに窓はない。
「晴れてないけど?」
「でも、急に明るくなっ――」
言葉を詰まらせ、理沙は私に切羽詰まった顔を向けた。
「後ろ、誰がいる? もしくは誰が入ってきた?」
昼食時の込み合った学食内。芋の子を洗うような状態。入り口付近はまだまだ行列。
「わかんない」
「あー音楽が、荘厳な音楽が流れ出した。近い、近づいてくる」
半狂乱で立ち上がり、誰にも顔を合わせないようにするためか頭を下げ、逃げるように入り口に向かう。
「何よ、どうしたの?」
食器を片付け、後を追う。食後のコーヒー、習慣になってるから飲めないのは辛いのだけれど。
「光が――」
「はい?」
うつむいたまま小走りの理沙はいろんな人とぶつかりかける。謝りつつも理沙はずんずん進む。
「ヤバイ。羽が舞い落ちてくる。リボンとか花とかも。天井付近で天使が楽器かき鳴らしながら、祝福してる感じ」
「何言ってるの?」
「少女マンガ、読んだことないの?」
「そりゃあるけど……」
少女マンガの古典的表現、恋に落ちた場面ってそんな感じだけれど、それがどうかしたのだろうか?
「ベルが、祝福のベルが鳴りだした」
泣きそうな声。
だが。私の目にはいつもの見慣れた食堂といつもの昼食時間帯の混雑ぶりしか見えず、耳には設置されたテレビから響くお昼の有名長寿番組の笑い声と、それをかき消すような学生の喧騒しか聞こえない。
「近いっ」
胸に飛び込むような格好で理沙は男子学生にぶつかる。最後はどうやら、目をつぶって走ったらしい。思い切り良すぎて、男子がたたらを踏み、その後ろの男子が支える。
「あっぶねぇ」
一番最初に声を出したのは男子を支えた派手な髪の男子。
「痛い」
遅れて、理沙がぶつかった男子――私と同じ高校出身の原大河が告げる。
「ごっごめんなさい」
理沙が半泣きな顔を上げ、固まる。古典的表現技法を多大に使用した完璧な少女マンガ――。私にも、理沙の周囲に見えないはずの舞う羽やら花を感じた。彼女の周囲の空気が不思議と輝いて見える。理沙の顔は一瞬で真っ赤になり、それでも目をそらせないらしくぶつかったままの格好で原を見つめる。周囲もあまりにあまりな展開に息をつめ、興味深そうな目で見守っている。唯一、無表情男、原は何も理解していない顔で、理沙を押しのけ、
「危ないだろ。何やってんだよ」
「あの、ごめんなさい。その、あなたのお名前は……?」
「なんで名前を名乗らなきゃならないんだ」
やっぱり、すごいな原は。この空気をまったく読めないとは。半径二メートル以内の人間が皆、固唾を飲んで見守っているというのに、そんな反応を返すとは。
「ごめんなさい。あの、私、小島理沙といいます」
理沙は積極的に攻める。
「だから?」
原に効果はない。
「お名前は?」
おびえた口調だが、理沙は怯まない。恋する乙女は強い。
「だから、なぜ、名乗らなきゃならないんだ」
感情のない口調だからこそ、怖い。原って人間を知っている私でさえ、怒っているように見えてしまうのだが、そうではない。そうではないことを高校時代に理解している。他人を観察する癖のある私だからわかったことかもしれない。冷静沈着だと誰もが認識しているだろう原は、ただの天然なのだ。かなりレベルの高いボケキャラ、もしくは超マイペース男。自分に降りかかっている今現在の状況をまったく理解していないだけ。
理沙は大粒の涙をほろほろ流し、
「ごめんなさい」
敗走。どこへ向うのか、雨の中走っていく。私は後を追いかける前に、
「原君、あいっかわらず空気読めないんだから。周囲見て。気づいてないの、あなただけよ」
不思議そうに首を傾げ、説明が欲しそうな原を尻目に雨の中、傘も差さずに飛び出した理沙の後を追う。運動苦手な私が差した傘片手に追いつけるわけもなく、距離を開けられつつ、立ち込める灰色の中、原色の点を追いかける。
ようやく追いついたとき、学校裏手にある小さな湖の淵に理沙は立っていた。厄介なことにならなきゃ良いがと、私は音を殺して近づく。
「――理沙……」
掛ける言葉も見つからず、どう声を掛けていいものかもわからず、とりあえず名前を呼んでみた。
「……だった。そうだったわ」
つぶやくような声。雨音にかき消され、聞き取りにくい。
「理沙?」
「ぬしを手土産に告白すればいいのよ!」
ガッツポーズとともに振り向いた理沙は満面の笑顔。明るい希望が見えたような表情。古典的少女マンガ手法で例えれば、大きな瞳に星を散らした乙女の背景に、点描と花が撒き散らされている感じ。
けれど私には理沙の言葉がわからなかった。まったく理解できなかった。
「ぬし?」
「知らない? 結構有名な噂なのよ。この湖のぬしを釣り上げたものは、どんな願いでもかなうっていう」
「聞いたことないわ」
理沙は妙にテンション高い。まるでカウントダウンが起こっているかのような興奮状態。
「それをもって彼にアタックすれば――」
理沙のヲトメゴコロが私にはちっとも理解できない。
「やられたっ」
理沙は思い切り顔をしかめ、悔しそうにリールを巻きとる。あの出来事から三日。やっと晴れた今日、朝から理沙はルアーフィッシングに精を出している。
「この子じゃダメなのかしら? 次はこっちの子にしてみようかな」
ケースの中に整然と並べられたルアーの中から理沙は派手な蛍光イエローを取り出す。
「ねぇ、まだやるの?」
飽きてきた私は尋ねる。釣りが趣味だとは聞いていた。いつか学校近くの湖で釣りたいって話も聞いた覚えがある。でも、なんでぬしを釣り上げなきゃならないのかわからないし、ぬしを釣り上げたら願いがかなうなんて話も聞いたこともない。眉唾すぎる。
「今の当たりは絶対ぬしだったわ。惜しいっ」
キャッチアンドリリースがルアーフィッシングの基本らしい。ぬし狙いの理沙は掛かった雑魚を全て放流しているから、釣れた魚は一匹もない。
「逃げた魚は大きいって言うからねぇ」
「絶対ぬしだって」
「はいはい」
適当な返事を返す私など知らぬとばかり、理沙はポイントに上手く投げ入れる。
「今度は新兵器、ルパートさんの出番よ」
「さっきのヤツも秘密兵器だって言ってなかった?」
「秘密兵器と新兵器は別物よ。天地の差よ」
「そうですか」
私は理沙の近くに座り、日傘を広げ、持ってきた雑誌に目を落とす。例えぬしが釣れたって、原の彼女になんてなれるわけがない。高校時代の、原を観察するきっかけになった出来事が頭をよぎる――。
顔が良い原は高校時代、かなりモテていた。ダメだろうと思いつつ告白したら、すぐにOKをもらった。嬉しくて、原という人間を間近で観察することを怠っていたのが第一の間違いだった。
「でも、付き合うって具体的に何するの?」
まじめな顔――当時はそう思ったけれど、後々思えばあれは原のボケ顔なのだ――で尋ねられ、私は返答に窮した。付き合ってくれるとは思ってもいなかったから。
「たぶん、デートとか?」
「どこに?」
「えっと――考えてくるね」
一生懸命、綿密に予定を組み立て、デートプランを原に伝えた。全部一人で計画してしまったのが第二の間違い。
当日。喜び勇んで出かけた待ち合わせ場所で一時間も前から原を待った。原は予定通りの集合時刻に現れた。私服なんて始めて見たのだけれど、ちょっとがっかりしてしまうな、デートに相応しくない――極々普通の服装だった。そこで気づけば良かったのに、浮かれていた私は流した。それも間違い。
「おはよ、原君」
「……爪」
冷たい響きを含んだ声。私は何を言われたのか判らず、嬉しさのあまり浮かれてもいたので、その声の響きに注意しなかった。
「うん、ネイルアートしてみたんだ。可愛いでしょ?」
見せ付けるように手を広げる。デートのため、昨日の夜から念入りに可愛らしくしあげた。
「それじゃ、米、研げないでしょ」
何を言われたのか理解できず、私は目をしばたかせた。原は百八十度反転すると歩き出す。今から向うデートスポットには電車で向う。なのに、駅とは反対方向に。
「待ってよ原くん。どうしたの? 何なの? ねぇ」
歩みの速い原をようやく捕まえた私は、訳を聞かせて欲しいと懇願した。原は重いため息をつき、それから熱く語り始めた。
太陽の下、路上の上。どれほどの時間、原の銀シャリへの想いを聞いたのだろう。いつも無表情な原が熱くなると、こんな顔をするんだと思ったことだけ覚えている。
「――だから付き合えない」
話がそう締め括られたとき、私はほっとした。ついていけない、相手にしてはいけない人間が世の中にはいるのだと実感した。失恋の痛手はまるでなかった。
あの時の疲れがどっと蘇ってきた。何であんな見た目が良いだけの超天然ボケ男がモテるのか、わからない。卒業までに何度、駅前の路上で原の呪文を聞いている女の子を見かけただろう。
私は新たなルアーをつけている理沙の姿にため息をもらす。
「今度こそ大丈夫よ。次は三十五個目のルアーですもの。絶対、掛かるわよ」
笑顔の理沙を横目に、私は永遠にぬしが釣れなければいいと願う。
使用お題…ぬしは逃げた/ルパートさん出番です/ヲトメゴコロ/罠の数は35
2008/08/03 書いたのは…5月末? 突発性競作企画20弾:四季・春に出そうと思って書き始めたけれど、春っぽくならなかったので未提出。
©2001-2014空色惑星