車を走らせること数時間。浜辺の町は夜の闇に覆われている。明かりは数えるほど。ここでは人間らしい生活が営まれているのだと、昨日までの自分を振り返り、壮太は苦笑いした。
ワーカーホリック気味に会社に身を捧げていた日々は、ある日突然、会社の倒産で幕を閉じた。しかも、社長の持逃げで支払いの滞っていた給料さえ貰い受けることが出来なかった。世間で言えばよくある話。ただし、それが自分の身に降りかかってくると誰も予想していない。
残務整理に駆り出され、会社がなくなったのだと実感したのはようよう一息つけた先日。真っ暗な家に帰ってみれば、妻も息子もいなかった。置手紙一つ無く、妻の欄の記入された無粋な離婚届がリビングテーブルで待っていた。
いつ出て行ったのかさえ定かではない。二人の顔を最後に見たのはいつだったろうと頭をめぐらし、すぐ諦めた。ずいぶん前だという以上、思い出せなかったからだ。
自分の元には何も残っていないのだと思うと、無性に海が見たくなった。街の近くの海ではなく、人の手で汚されていない自然のままの海が。
あの星が流れたら
ここへ帰ってくると言った
あなたの言葉を信じて
私はここで待ちつづけます
どこで聞いた歌だったか。口ずさみながら、曲がりくねった海辺の道を走る。対向車も無く、自分の車しかいない寂しい道。時折民家が見えるものの、他には何も無い。あるのはただ、宝石をばら撒いたかのような星空。手を伸ばせた届きそうなほど、一つ一つの星が大きい。瞬く音さえ聞こえてきそうな、そんな錯覚。
ここでは、未だ夜は人の不可侵領域なのだと嬉しくも、恐ろしくもなる。道の脇に車を停め、砂浜へ降りる。
波の音が耳に気持ちよく、吹き付ける風の冷たさに身震いしつつ、波打ち際まで歩く。見上げる空は一面の星。
「こんなに星って綺麗だったんだな」
ドラマの、作り物めいた星空は真実なのだと知る。あんな星空、日本では拝めないと思っていたのに、何の事は無い。街を抜ければ良かったのだ。
オリオン座、北斗七星、大熊座――知っている星座は少ないけれど、それをはっきり確認できる。言い表せぬ幸福感に胸がいっぱいになる。ありふれた言葉が胸に溢れ、自分の存在の小ささを思い知る。つい昨日まで、なんて稚拙な表現力だと笑っていたTVレポーターに謝りたい。
人は本当に感動すると単純で陳腐な言葉しか沸いてこない。詩人でなければ、この感動を言葉に現せそうにない。
「……いつまでも眺めていたいな」
出来ないことだとわかっていて口にする。体温もずいぶん下がり、指先まで冷たい。車に戻ろうと振り返り、壮太は驚いた。
影のように女が立っていた。髪を一つに束ねた、着物姿の女。
「すいません」
反射的に謝り、横を通り抜けようとしたところで女が口を開いた。
「ここに、残られないのですか?」
表情の無い顔。表情の無い声。けれど、瞳は強く訴えている。壮太はそれを読み取れず、読み取る気も無く視線をそらす。
「聞いてらしたんですか」
風の音が大きいためか、女が近づいてきた気配さえ気づかなかった。
「寒くなってきたので車に戻ろうと――」
視線の先に車は無い。確かにそこに停めていたはずなのに。キーはズボンの右ポケットにある。動くわけが無い。
「あれ――?」
「冷えたのならば、こちらへどうぞ。火を焚いておりますから」
女は誘うように歩き出す。車まで無くなったかと、自分の不運さに笑みさえ浮かべ、壮太は後に続く。人気の無い辺鄙な場所に、零時も過ぎたこんな時間、一人きりでいる女。化け物かも知れない。思った直後、壮太は自分の馬鹿げた妄想に笑った。
女が壮太を案内したのは古びた小屋だった。漁師小屋なのだろう、網や浮きが無造作に置かれている。ずいぶん魚臭い。隙間風が入り込りこんでくるものの、小屋中央のドラム缶で燃え盛る火が空気を暖めている。
暖かな火のもとで見やれば、女は浜の女らしい日に焼けた肌をしていた。黒髪は潮にやられたのだろう、艶がない。鮮やかながらも古風な着物に、紅を差した唇が浮き立つ。歳は二十歳を越えたところだろうか。
「君はここで何を?」
暖を取りつつ尋ねた言葉に、娘は部屋の脇に積み上げられていた枝を運び、火にくべる。浜辺に打ちあがった流木なのだろう。枝には表皮がない。
壮太はパイプ椅子を引っ張り出し、腰掛ける。娘は火の加減を見つつ、ポツリとつぶやく。
「待っているのです」
「待つって……誰を?」
娘はそれに答えない。
「そういえば名を申しておりませんでしたね。私は凛と申します。あなたは?」
「俺は――壮太」
凛が苗字を名乗らなかったので壮太もそれに倣う。落ちる沈黙。木のはぜる音、風の音、波の音が溶け合い心地よさを生み出す。
「眠いのですか?」
「え? いや……」
強く頭を振り、壮太は座りなおす。しかし、まぶたは重い。火の暖かさが気持ちいい。
「では一つ、寝物語でもいたしましょう」
穏やかな声で凛は語り始めた。
昔、この辺りに一人の娘がおりました。代々続く漁師の娘でした。
ある酷い嵐が通り過ぎた翌朝のこと。娘は浜辺に打ち上げられた男を見つけました。どこから流れ着いたものか、男は酷いありさまで、脈も弱く、死にかけていました。娘は慌てて男を連れ帰り、自分は眠りもせず看病しました。娘の必死の看病のかいあり、男は数日後には目を覚ましました。
男と娘が恋に落ちるのに時間はかかりませんでした。いつまでもここにいてくれと頼む娘に、武人である男はきっぱりと首を振り、回復すると都へ帰っていきました。
別れを嘆き悲しむ娘に、
「あの星が流れたら、私は再び戻ってこよう」
北の天に輝く星を指差し、男は背を向けました。
「北の天に輝く星って――北極星?」
壮太の問いかけに、凛は寂しげに微笑し、
「読み書きが出来無い娘を男は無学だと思ったのでしょう。ですが、娘が漁師の娘であることをわかっていなかったのです。陸と異なり、海に出れば目標となるものは限られています。漁師の子供たちは誰も、星の見方を教わって育つのです。
男はそれを慰めの言葉として言ったのでしょうが、娘は知っていました。その星が決して流れないことを」
小枝を折り、火に投げ入れる。壮太は眠さに勝てそうにない。
「娘は男の帰りを待っています。あの星が流れたら帰ってくると言った男の帰りを――」
不意に景色がぶれる。目の前にいる娘が老けた。いや、顔が変わった。それはよく知った顔。無性に懐かしい顔。
「……彩」
呼びかけたが彼女は顔を上げない。じっと燃える炎を見つめている。
「あなた、いつ帰ってくるの?」
電話口で何度も聞いた言葉。マニュアルを読み上げているような、感情の無い声。くたびれきった顔。昔はそうじゃなかった。
「いつ帰っていらっしゃるの? あなた、お仕事大変なのはわかりますけど、少し働き過ぎじゃありません?」
彩は顔を上げる。心配そうな表情をした顔は先ほどと変わって若く、声に怒りの色も見える。わずらわしいと思っていた声が懐かしい。
じっと、伺うように壮太の目を覗き込んでくる。
「あ、あぁ……」
居たたまれなくなり、目をそらす。
「あなた、」
彩の声色が一段と若くなる。弾むような、楽しげな声。瞳を輝かせ、幸せそうな顔。結婚してすぐはこんな顔をしていた。
「お仕事がんばってくださいね。でも、がんばり過ぎて倒れられても困るけれど」
溢れる笑顔。苦労も不安も不満もまだない顔。結婚しても働きたいという彩に、専業主婦になって欲しいと頼んだのは自分だった。苦労させないから、という口約束はいつの間にか自分の枷になっていた。
「大丈夫?」
じっと壮太の目を覗き込み、にこりと微笑む彩のしぐさが好きだった。壮太はぐいと頭を下げる。
「すまん、彩」
「――あなたが謝ることじゃないわ。こんな景気だもの、仕方ないわよ」
壮太は顔を上げる。目の前には見慣れた風景。家のリビングテーブルに向かい合って座っている。老けた彩の顔は、不思議と晴れ晴れしている。
「私もパートを見つけるし、あなたも新しい就職先を探して。今度はきちんとした労働時間の会社を選んでね。過労死した男の妻、なんて言われたくないわ」
「……あ、あぁ」
何を寝ぼけていたのだろう。壮太はリビングの椅子に掛けなおす。息子は二階で寝ている。今は妻に仕事がなくなったこと、給料が出ないこと、家を売るしかないと話したところだった。
白昼夢を見たのだろうか。そう思った壮太の脳裏に、凛の声が流れて消えた。起きる直前に見た夢のように、娘との出来事は薄れ、やがて思い出せなくなった。
終
『あの星が流れたら』をご覧いただきありがとうございました。
07/01/08 「覆面作家企画2」参加作品です。
あとがき〔2007〕