星空と大掃除

 暗い夜道を帰る。師走の二十九日ともなると、靴底の裏からゾクリと寒さが伝わってくる。マフラーを口元まで巻いているというのに、顔が凍りそう。
 だが、暗い、というには語弊がある。街灯や看板、照明。様々な人工的な灯りによって、現代の街の中、本当の闇など存在し得ない。
 空には星。冷たく冴えわたる夜空だというのに、一握り程度の輝きしかない。その理由は空気が汚れているから、とか、街に光があふれているから、だけではない。
「ただいま」
 玄関をあけ、声をかける。奥からパタパタとスリッパ音を立てながら、エプロン姿の姉が現れる。
「お帰り。ポン酢は?」
「はい」
 コンビニの袋を手渡す。寒い中、僕が外出する羽目になったのは、姉がポン酢を買い忘れていたからだ。肝心なものを買い忘れるのは、この人の癖。三十路を越えたから、などと言う理由では絶対ないと本人は言う。
「ありがと」
 目当てのものを受け取ると、姉はそそくさと暖かなリビングへ逃げ帰る。僕は靴を脱ぎ、家中の戸締りを確認し、リビングに向かう。師走のこの時期の寒さは、例年ながら尋常じゃない。
 リビングのドアを開けると、
「おまたせ〜」
 調度、食卓テーブルに鍋が運ばれてきた。年が近いので姉と呼んではいるが、実際は僕達の叔母。母の年の離れた妹に当たる人だ。食卓には僕の弟と、その友人。歓声を上げるほどの料理でもないだろうに、姉への気遣いなのか、まだ十代だからなのか、いつもながらに騒がしい。
「いただきます」
 全員が揃ったところで、夕食はスタート。姉はにこやかに鍋奉行を務め、まだ十代後半で成長期ただ中な弟たちの胃袋へ野菜とタンパク質、脂質を送り込んでゆく。
 僕は早々と戦線離脱し、冷蔵庫から生ビールを取り出し、テレビを眺めながら喉の奥に流し込む。たまの愉しみ、ちょっとした贅沢。
 やがて、食後のデザートとして市販のプリンパフェが登場する。甘いものは別腹とは言うが、まだ食べるのか。にこやかな顔の三人を尻目に、僕は鍋や食器を洗ってしまう。片付け終わった頃、姉はにこやかに、
「じゃ、掃除と片付けを始めましょうか」
 立ち上がる。
 もうしばらく休ませて。腹を手でさすりながら言う弟たちの言葉を無視し、姉は手早く毛ばたきや雑巾、バケツなどの掃除用具を用意し、そそくさと二階へあがっていく。強引というかマイペースというか。僕は重い腰を上げ、あとに続く。不平を垂れ流しながらも、弟たちも後ろについてくる。
 古い鍵をエプロンのポケットから取り出し、姉は開かずの扉をあける。そこにあるのは半畳ほどの小さな小部屋。そして向かいの壁近くに木製の梯子。天井には、押し開ける扉がつけられ、そこにも鍵穴。
 姉ははしごに携帯をくくりつけ、翌年三日の午前七時に鳴るようセットする。
「持ってて」
 と、姉から掃除用具一式を手渡された僕は、その扉があくのを待つ。カチリと鍵が回され、姉はよいしょと扉を上へ押し上げ、屋根裏へ身を持ち上げる。僕は掃除用具を手に、梯子を上る。
「……はぁ」
 思わず、ため息が漏れる。あまりの美しさに。
 ここに広がっているのは宇宙。箱庭のような星空。何度見ても圧倒されてしまう光景。窓もない、屋内であるはずの屋根裏部屋に広がっているのは、この街の夜空だ。

 母方の家は代々、この街の夜空を管理してきた。昔は一族の男だけの手により、そのうち血族のものとなり、親族のものとなり、現状に至る。つまり、街の夜空を見上げれば一目瞭然。まともに管理などできていない。
 夜空と同じ配置で、星々代わりの宝玉が部屋中に置かれている。小さな台座に乗った、ビー玉サイズの石は自ら輝き、それが部屋をうすぼんやり明るくしている。積もった埃と塵。部屋の壁はなく、どこまでも続いている。本物の宇宙と同じように。
 この部屋は不思議と暑くも寒くもない。現実と、現在と切り離された場所だ。ぽかりと四角く開いた出入り口から離れれば離れるほどウラシマ効果が現れ、部屋の中での数時間が、現実には数年間経ってしまう。社会生活を抱えた現代人である我が家の者に、星の管理は難しい。他の街の夜空管理人たちがどうやっているのか知りたいところだが、似たような状況だろうことはうかがえる。
「むっちゃ綺麗! な、言った通りだろ?」
「すっげー! あれって天の川? すっげー!」
 弟とその友人のテンションは高い。
「あまり奥まで行かないでね」
 姉は掃除用具を配ると、毛ばたきを手に、適当に星の埃を払っていく。姉の雑な仕事っぷりが、星の輝きが鈍い原因でもあるんだけれど、それを指摘して、やぶへびをつつくほど僕も真面目じゃない。姉が絶対に手をつけない、銀の砂をばら撒いたような天の川に手をつけるか。
 もくもくと、はたきをかけていく。もっと丁寧に細かな部分も掃除した方が良いとは思いながらも、この部屋にある、すべての星の埃を払おうと思えば、細かな部分など気にしていられない。
 掃除を始めてずいぶんたった頃、疲れを出した弟たちが座り込んでおしゃべりを始めた。
「これって何でできてんですか?」
「いわゆる宝石よ。ルビー、サファイヤ、エメラルド」
 弟の友人の質問に、さらりと姉が答える。見やれば、姉も一緒に休憩中の様子。僕一人で働くのも面倒くさいが、掃除時間が長引くのは嫌だ。そのまま僕ははたきがけを続ける。
「あれは?」
 彼が指差した先にあるのは白い輝きの昴。プレアデス星団。
「ダイヤモンド」
「……ダイヤ……」
 彼は手を止め、まじまじと星々を見つめている。
 というか、これは姉なりの冗談だ。この星々が何で出来ているのかなんて、実際のところ誰にも分からない。たぶんきっと、宝石だろうという話。でも、ただの宝石が光り輝いたりなんてするわけがない。
 そういえば、金に困った先祖が星とビー玉を入れ替えたから、星が暗くなったなんて、いつぞや姉さんが言っていたっけ。けれど、この部屋の中に光らない星はない。姉さんの冗談は微妙なものが多い。

 出入り口から、ベルの音がかすかに聞こえてきた。この部屋の中にいると、時がいつの間にやら経ってしまう。新年の挨拶を交わし、
「お雑煮をいただかなきゃね」
 姉は真っ先に、降りていく。こんなだから、この街の星空が綺麗に見えないのだ。だからといって、僕が一人で真面目に掃除する気もない。用具を片付け、梯子に足をかける。街から見える星は大体綺麗になったし、良いだろう。
「おい、雑煮食わないのか?」
 弟とその友人は熱心に掃除している。律儀な奴らだ。
「さっさと降りてこないと、もちが固くなるぞ」
 言いおいて、梯子を降りる。

 リビングに入ると、テーブルには雑煮が用意されていた。
「あの子達は?」
 待ちかねたのか、姉は既に食べ終わり、昆布茶を飲んでいた。ほんの少し、姉より部屋から出るのが遅れただけなのに、この時間差。あの部屋の外では姉が餅を焼いて、雑煮を食べるだけの時間が流れたのだ。あの部屋の不思議の一つである、ウラシマ効果の恐ろしさだ。
「熱心に掃除してた」
 雑煮に箸をつける。少しぬるくなっているが、まだ食べられる。
「正月休み中には降りてくるかしら」
 二階の方を見上げながら姉はほくそえむ。普段は優しく良い人な顔をしているけれど、実は恐い人だ。僕以外の人間で、それを理解していたの死んだ母だけだったけれど。
 雑煮を食べ終わった僕はビールをあける。僕の感覚からすれば二本目、実際には今年初めてのビールだ。
「そういえば姉さん。彼らにウラシマ効果の事、きちんと説明してなかったよね」
「そうだったかしら」
「しかもプレアデス星団がダイヤモンドで出来てるなんて……」
「そんなこと言ったかしら」
「あの部屋の広さについても言ってない。果てまでなんてたどり着けないほど、遠いのに」
「あらあら」
「あれを宝石だと信じた馬鹿なら、どこまででも行ってしまうよ。宇宙には美しい星がいくらでもきらめいているんだから」
「でも、今回は浦島さんと違って、道連れがいるんだから良いんじゃない? 知り合いが皆、年老いてしまっても、気心知れた人間がいれば心強いでしょ」
 黒い。今まで見たことないくらい黒すぎる姉。世の中には絶対に怒らせてはいけない人というのが存在する。怒っているように見えなくとも、憤りを蓄積させるタイプの人だ。
「あの子達、自由すぎて誰の話も聞かないじゃない。聞く耳もなけりゃ、理解力もない。ああいうタイプは実践させるのが一番だわ」
 姉はテレビをきり、コートを持って立ち上がる。氏神様への初詣に出かけるのだろう。僕も腰を上げる。
「それより、私があなたの叔母だって……まだ信じてる?」
 何の冗談。母とは十四歳も年が離れているけれど、
「……まさか、あなたは宇宙を見たの?」
 僕の質問に答えず、姉は廊下を歩いていく。僕は後姿を追いかける。
「星の世界はすごく綺麗よ。いつまでだって見ていたいと思ってしまう。あまりの美しさに、自然と涙があふれてしまうほど」
 そう言って喉の奥で笑う。
 なんだ冗談か。
「縮尺がおかしいのよね、あの部屋」
 ブーツを履きながら、姉は言う。
 本物の星の大きさを考えれば、あの部屋の宝玉の大きさは確かにおかしい。けれど、空に輝いている星を見比べてみても、大きさの違いなどわかりはしない。もし、あの部屋の星がちゃんとした縮尺どおりできていれば……僕たちに掃除なんて出来るわけない。
「僕は箱庭がリアルである必要なんて、ないと思うよ」
「君は魚眼レンズでのぞいたような、あの世界が正しいと思うわけね」
「別に正しいだなんて――」
 玄関ドアを開ければ、ちょうどご近所さんが通りかかった。
 議論はここで終りと目配せしあい、その代わり、新年の挨拶を交わす。

 愚弟達が帰ってきたのはそれから一週間ばかり経った頃。
 腹が減ったとリビングに顔を出し、ポケットに入れたはずの星が消えたと騒いだ。

『星空と大掃除』をご覧いただきありがとうございました。〔2012/12/17〕
「スクーターに乗って北極星を目指す少年たち」って、感じの物語を書こうとしていた結果がこれ。何が間違ってしまったんだか。

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