窓の外

 ふと、窓の外を見る。
 そこに何かあるわけでもなく、ちょっと失望しながら美樹子はノートに目を戻す。
 優等生は授業中によそ見などしない。
 そう自分に言い聞かせるが、しばらくするとまた外を見ている自分に気づく。
 今までこんなことはなかった。
 どうしてこんなことになってしまったのか、原因はわかっている。全ては彼、矢沢悠一郎と逢うようになってからだ。
 窓から目をそらし、美樹子は黒板に描かれてゆく、白とピンクと黄色の模様を、忠実にノートに書き写してゆく。
 広瀬美樹子は『優秀な人間』でなければいけない。育ての両親含め、周囲が徹底的に彼女に対し要求したのがそれだった。
 成績優秀は当たり前、スポーツ万能、何でも器用にこなし、性格も良い。それが『広瀬美樹子』という人間だった。できなければ、『やはりあの女の子だ』と罵られた。
 『あの女』というのが誰を指しているのか、高校に入るようになってやっと美樹子は知った。由緒ある家の長男であった父と駆け落ちし、結婚した母のことだった。
 二人が駆け落ちして一年ほど経過したある日、生まれたばかりの美樹子を連れて、車で父の家へと向かっていた。和解のための話し合いのためだったらしい。
 その途中、事故は起こった。母が庇うように抱いていた美樹子は奇跡的に助かったが、二人は即死だったという。
「広瀬! 広瀬美樹子はいないのか!」
 名前を呼ばれ、はっと我に返る。
 黒板前に立つ、中年の国語教師・橋島が鋭い眼差しを自分に向けているのを知る。
「最近ぼやっとしすぎだぞ! 前に出て問題解け!」
 ちらりと黒板を見て美樹子は席を立ち、前に出てさらさらと問題を解いてみせる。学校でやるレベルは塾や予備校で既にやってしまっている。
 問題を解き終わり、先生を見る。
「ふん、授業を聞いなくてもできるって言いたいのか?」
 憎憎しげな、低い呟き声。
 美樹子は何も言い返さず、静かに席に戻る。
 この学校は美樹子の祖父が理事長をしている。ワンマンな祖父を嫌っている先生は美樹子に冷たい。けれど、『優秀な人間』でなければならない美樹子は、口答えすることは出来ない。些細なことでもすぐに祖父の耳に問題行動として報告される。つねに美樹子の一挙手一投足は監視されている。
 忠実に、完璧に、美樹子は大人達が望むような『広瀬美樹子』をしている。そういうふうに振舞うようずっと強要されてきた。自分、なんてモノは頭から否定されて。

■承■

 委員会とか、雑用とか、些細な用事で遅くなってしまい、美樹子は本数の少ないバスに乗り過ごし、教室に舞い戻ってきていた。
 三十分ほど前には一杯だった教室には、すでに一人の影もなかった。
 美樹子一人きりだった。
 暇つぶしにと鞄から取り出した問題集とノートを開くことなく、美樹子はぼぅっと『外』を見ていた。
 特に『どこか』というのではなく……遠く。そう表現するのが一番良い。この世界ではないどこか。
「あれ、広瀬さんどうしたの?」
 振り向くとぼさぼさ頭の男子の顔。確か、矢沢悠一郎とかいう名前の男子だった。
 美樹子は慌てて問題集を開く。
「何見てたの? 外に何かある?」
 美樹子は首を振り、問題を解き始める。
 サラサラと美樹子の走らせるシャーペンの音だけが教室にしばらく響いていた。
「矢沢……君よね? 私に何か用なの?」
 美樹子の目に入る席に陣取り、じっと美樹子を見つめていた悠一郎に声をかける。
「本当に、人形みたいだよね」
「?」
「あ、ごめん。みんながさ、広瀬さんって人形みたいだって言ってたから」
「……どういうこと?」
 何となく、嫌な言葉だった。たぶん、美樹子の容姿を言い表している言葉なのだろうが、美樹子の存在自体を言い当てているようで。
「空、青いね」
 悠一郎の目は美樹子から離れ、美樹子の側にある窓の外へと向けられる。
 そういわれて、美樹子はたじろぐ。今日は小雨交じりの曇天……ちらりと外を見やるとやはりそこにあるのは、低く立ち込めた灰色の雲。
 けれど、美樹子の口から漏れたのは肯定の言葉だった。
「本当に、広瀬さんって『人形』だよね」
 試されたことを理解し、美樹子はきっと奥歯を噛み締め、悠一郎を睨みつける。
 ふっと息を吐き、厳しい顔を崩すと悠一郎は優しい笑みを浮かべた。
「まだ大丈夫みたいだね、広瀬さん」
 何を言われているのか理解できず、美樹子は困惑した表情を浮かべる。
「まだ、感情あるから。人間に戻れるよ……大丈夫」
 それだけ言って、悠一郎は教室から出て行った。
 それから毎日、二人は約束したわけでもないのに誰もいない教室で逢うようになった。
 けれど逢って互いに何かするというわけではなく、ただ一緒に時間をすごす、ただ、それだけ。
 そして、一本遅いバスの時間がきて、美樹子が席を立つと、悠一郎は「またね」と別れ際に微笑む。

■転■

 梅雨も明けた頃のある日。いつもの、二人だけの放課後。問題集も開かず、ぼぅっと外を見ていた美樹子に、悠一郎は声をかけた。
「広瀬さん、もしかして『死にたい』って思ってる?」
 突然の問いかけに、美樹子は悠一郎の顔をじっと見た。
『死にたい』と思ったことはない。ただ、どうしてあの時、両親と共に自分は『死ななかったのか』そう繰り返し思うだけ。
「そうやって、いつも窓から見てるのはどこ?」
「どういうこと?」
 悠一郎の真意をつかみきれず尋ねる。
「ものすごく綺麗な青空を見るために生きるって言うのはダメかな?」
「だから、何の話?」
「大きな満月を見るために生きるとか、見わたす限りの真白な花園を見るために生きるとか、何でもいいんだ。一生懸命に生きるってことがさ、人間として重要なんだと思うんだ。小さなことでもいいんだよ。例えば、明日も僕とここで逢うために生きるとか……」
 言って、悠一郎は顔を赤くする。
「……もしかして、告白?」
「ごめん、今のは無し!」
 美樹子の言葉に、悠一郎はますます顔を赤くし、教室から出て行った。
 とり残された美樹子は、悠一郎の言葉を胸の中で何度も繰り返す。
 気づけばいつもよりも二本も遅いバスで帰宅するはめになった。

 夕闇が立ちこみ始めた。時計を見ると、六時半。
 水城晴香《みずきはるか》の家の真向かい、晴香の部屋の真向かいにある部屋の明りはまだつかない。このところその部屋の主の帰りは遅い。
「何見てんの、晴香」
 梶原未来《かじわらみく》が明るく、窓辺に座る晴香の背中を叩く。
(無神経女)
「たそがれてんのよねぇ?」
 杉崎香織《すぎさきかおり》が、清涼飲料水の缶を傾けながら、からかうような声をあげる。
(馬鹿女)
 晴香は向かいの窓から目をそらし、明るい部屋の中に目を戻す。
 未来と香織は、学校に近い晴香の家に寄ってから帰宅するするのがこのところの習慣になっている。
 しばらく二人に付き合って、たわいもない話をする。馬鹿馬鹿しいけれど、『友達』している以上しかたない。
 ふと目を上げると、向かいの部屋に明りがともっていた。
(やっと帰ってきたんだ、悠ちゃん)
 部屋の主は矢沢悠一郎。晴香の幼馴染だ。
 悠一郎は小さい頃から、晴香がいないと何も出来ないような、不器用で、人見知りな人間だった。
 なのに、高校に入った頃から、晴香のことを迷惑そうな顔をして見るようになった。だから、晴香はこの馬鹿な二人と行動している。一人じゃ何にも出来ないってことをわからせるために。

 キャハハハハハ……

 耳障りな笑い声に振り向くと、香織が馬鹿笑いしてた。
「き、聞いてよぉ」
 目に涙を浮かべながら香織は晴香に話し掛ける。
「あのね、未来が、なんとあの広瀬美樹子が男といるとこ見たっていうのよ!」
「えぇ? どういうこと」
 大げさにリアクションして、晴香は話に興味がある振りをする。
 広瀬美樹子というのは理事長の孫娘であり、完璧な優等生、容姿も端麗で、誰にでもわけ隔てなく優しくて、何でも出来る。住んでる世界が全く違う、あまりに完璧でこれっぽっちも人間的な面を持ち合わせない女だ。
 未来はにんまりと顔中に笑みを浮かべ、
「今日ね、私、忘れ物して教室に取りに戻ったのよ。そうしたら、教室から話し声するからさ、なんだろうって思って忍び寄ったのよ」
 そこで興味を誘うように、にんまりと笑う。
「そこにね、広瀬美樹子と矢沢がいたの」
「――え?」
「おかしな取り合わせでしょ」
(悠一郎は最近、部活で遅くなってるって言ってたのに……どういうこと?)
「あの、変人の矢沢よ! 言い訳すんのにUFO探してて授業聞いてなかったとかいいだす、変なヤツ。あいつがさ、」
 未来は低い声色になり、
「『明日もここで逢おう』」
 香織をじっと見つめる。香織はちょっと甲高い声をして、
「『告白なのね、嬉しいわ』」
 芝居がかった様子で二人は抱きつく。
 そして馬鹿笑い。
(どういうことだろう……なんで……? 悠ちゃんは……悠ちゃんは、私がいないと何も出来ないのに?)

**********

 家の中は暗い。悠一郎は胸ポケットからカギを取り出し、家の中に入る。
 両親は共働き。小さな頃は向かいの、水城香織の家で夕食を食べたりもしていたが、いつ頃からか自分で食事を作って食べるようになった。
 自室にに入り、大きく溜息をつく。部屋に一つしかない窓は、向かいの部屋と完全に向かい合うような形で存在している。
 向かいにあるのは水城晴香の家。幼馴染であり、クラスメイトでもある晴香の部屋。
 悠一郎は常にブラインドを降ろし、こちらの部屋の中は相手から完全に見えないようにしているが、なぜだか晴香から見張られているような気がしてならない。
 着替えて、夕食を食べ、自室に戻る。
 夜空を見ようとブラインドを上げると、二メートルほど離れた窓に晴香の顔があった。
「……何やってんだ?」
 悠一郎の声が少し震える。
 怒りと恐怖が混じった、ざわざわした感情が湧き上がってくる。
 幼い頃、人見知りがはげしく、不器用だった悠一郎は何かと幼馴染の晴香の影にいることが多かった。晴香の方も悠一郎は自分が居なければ何も出来ないからと、常に悠一郎と共にいた。
 それは小学校に入っても変わらなかった。それどころか、悠一郎が晴香以外の同級生と一緒に居たり、しゃべったりすると晴香は不機嫌になり、悠一郎に言ったものだ。
「悠ちゃんは私がいなきゃ何にも出来ないくせに」
 何となく、悠一郎は晴香を遠ざけるようになった。けれど、晴香は悠一郎の側に常にい続けようとした。
「……悠ちゃん」
 悠一郎の顔をみて、晴香は生気のない顔で、薄く笑う。
「何やってんだよ」
 怒ったような悠一郎の声に晴香は我に返る。
 いつの間にか未来と香織の姿はない。時計を見ると、八時半……。
 窓を閉めかけた悠一郎を呼び止める。
「待って、悠ちゃん! あのさ……あのね……広瀬さんと付き合ってるの?」
 窓を閉めかけた手を止め、悠一郎は晴香を睨む。晴香の顔が蒼白なのに目だけがギラギラ輝いている。
「……だったらいいんだけどな」
 迫力に負け、ぼそりと、不機嫌そうな声で呟き、ピシャリと窓を閉ざしてしまう。
「……」
(あれが……悠ちゃん?)
 ゆっくりと晴香は首を振る。
(違う……あんな声、聞いたことない)
 晴香は優しい声色で尋ねる。
「それって、片思い? 広瀬さんみたいな人に片思いしてんの?」
 窓を閉ざしても聞こえてないはずはないのに、悠一郎は何も答えず、ブラインドを降ろしてしまう。
(なんで? 何でよ! 私、幼馴染じゃない。悠ちゃんのこと、小さい頃から知ってるじゃない)



 本を読んでいた悠一郎は階下の物音に時計を見た。九時前。まだ両親が帰ってくる時刻じゃない。
 誰のものかわからない足音は静かに階段を上がり、悠一郎の部屋の前に来ると止まった。
「悠ちゃん」
 妙に優しい女の声―――晴香の声。
 ドアを開けると、確かに晴香だった。
 青白い顔をして、穏やかそうに微笑んでいる。
「どっから入って来たんだよ」
 悠一郎の声に、晴香は右手に持ったキーを揺らす。
「それ、僕が前に失くしたカギ……やっぱりお前が持ってたのか。勝手に他人んちに入ってくるなよ! お前おかしいぞ!」
 晴香の手を引っ張って階段へ向かう。
「ねぇ、悠ちゃん?」
 悠一郎は振り向かない。
 階段の上にさしかかったとき、
「あんたは悠ちゃんじゃない」
 穏やかだが妙に迫力のある声に、悠一郎は晴香の方を振り返る。
「何言って――」
 晴香のほうを、ちょっと驚いた顔をして見返す。

 晴香はゆっくりと階段を降りる。
 真っ赤な液体の中に身を沈ませ、奇妙に体を折り曲げて、悠一郎は倒れていた。
「そうだよ、悠ちゃん。そうやって悠ちゃんは、私のことだけ見てればいいのよ」
 虚ろな目をした悠一郎はじっと晴香を見つめ返していた。

■結■

 『それ』を発見したのは夜半過ぎに帰宅した両親だった。悠一郎はすでに息もなく、不自然なところもなかった為、階段から足を滑らせたためのただの事故死だとみられた。
 事故から三日後に執り行われた葬式にはクラス全員が出席した。独りでいることが多く、クラスの中で親しいものも特になく、変わり者として通っていた悠一郎だったが、雰囲気に飲まれてか、クラスメイトの幾人かは瞳に涙を浮かべていた。
 広瀬美樹子の瞳には涙はなかった。誰にも涙を流すようには言われていなかったから。
 水城晴香の瞳にも涙はなかった。死んだのは『悠ちゃん』ではなかったから。

**********

 ふと、窓の外を見る。空の澄みきった水色に溶けるように、悠ちゃんの笑顔。
(悠ちゃん、私だけの悠ちゃん……)
 悠ちゃんは優しく晴香に微笑みかける。晴香も微笑み返す。
「……か、晴香」
 後ろの席の橘綾香に背中を叩かれて、我に返る。
「水城! 水城晴香はいないのか!」
 猛禽類を思わせる、鋭い目。
 晴香はおずおずと立ち上がる。
「俺の授業なんか聞きたくないってのか? 外見てニヤニヤしやがって……。授業聞かなくてもできるんなら、前に書いた漢文、全部訳せ」
 机に両手を叩き付け、むっとした顔で橘綾香は立ち上がる。
「先生! 横暴です。水城さん一人に――」
「じゃぁ、お前も手伝ってやれ」
「……」
 綾香は席に座り込む。
「ごめん、私漢文苦手で……」
 晴香は綾香から目をそらし、遠くの空を見つめる。
 微笑む悠一郎の顔。
(悠ちゃん、国語得意なんだよね)
「大丈夫」
 晴香はノートを持ち、黒板に向かった。

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『窓の外』をご覧いただきありがとうございました。

■01/11/1 『ゲーム』の中で、いつもは大人しいのにいざとなると強くなる。それが水城晴香という少女でした。裏があるっぽいよな……なんて思ってしまったために、こんな小説のネタ(死んだ(←殺したではなく)幼馴染と、優等生の交流)を思いつき、書き終わったときには思いっきり性格が歪んでしまいました……。終り、妙に明るい雰囲気です。ハッピーエンドって感じです……狂ってますけど。何でここまで性格おかしくなっちゃったのかなぁ。
最初の段階では矢沢悠一郎と広瀬美樹子はおまけのような感じで登場してたんですが、出来上がってみればみんな、主役って感じですね。そのうえ、予定ではこの半分の文字数で終るはずだったのに、長くなってしまいました。でも、読み返してみたら、もう少し長いくらいでも良さげですね。……文章力が欲しいところです。

■2004/04/24 改稿
2012/01/18 訂正

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