会いたいよぉ。
会いたい、会いたい、会いたい。
あなたに会いたいよぉ。
月子の声が世界に響く。涙を堪えて、堪え切れなくてあふれ出す流す涙と一緒に、搾り出すような声。ただ、会いたいと繰り返す。
『会いたい、会いたい、会いたい――』
私はうんざりしながら聞いている。月子の「会いたい」は発作みたいなもので、突然始まる。
月子のそんな悲鳴に近い泣き声を聞いていると、私も同じ気持ちになって、泣いてしまいそうになる。でも、私は思うだけで泣いたりしないし、「会いたい」と声に出すこともない。
興味ないテレビ番組をつけっぱなしにしているように、月子の声を聞き流す。感動が薄いと月子に言われたけれど、そうなるよう人生を歩んできた。どうしようもない。仕方がない、と逃げる。
そもそも、月子がこれほど焦がれ、会いたがっている相手がわからない。死んだとかじゃなくて、きっと最初からいない。存在しないのだろう。誰に会いたいのか、月子自身もわかっていない。だから「あなたに会いたい」と繰り返す。
月子にばかり、かまってはいられないから、私は昼食を済ませると、食器を積み重ねて流しへ運ぶ。一人暮らしは単調で、億劫だと思えば、とことん面倒臭くなるもので。食器は一番暖かいこの時間帯、昨日の夜、今朝、昼の分をまとめて洗う。だから、一人暮らしにしては食器が多い。
スポンジを泡立てて、汚れの軽いものから洗い始める。洗い桶の水は冷たくて、手が凍りそう。思ったとおりに指が動かない。水から手を上げると、熱い血が流れ出す感覚。楽しい。
もう一度洗剤を足して、油のついたフライパンをこする。泡のついた食器を最初は水ですすぎ始めたものの、指が動かなくなったので、途中でお湯に切り替える。もう若くない。洗い桶の汚れた水を捨てて、流しをすすいで終わり。
その頃には、頭の中が空っぽになっている。月子の声もやんで、のんびり、食後のコーヒーならぬ、洗物終わりのコーヒーを飲むため、コーヒーメーカーで一人分のコーヒーを作る。
洗い終わったばかりのカップを布巾で丁寧に拭いて、それに注ぎ、縁側へ。亡き父が遺したこの家は、築三十年をはるかに超えていて。この家に訪れるのは、リフォームだとか建替えだとかなんて言葉を口にする、笑顔を貼り付けたスーツ姿の人間だけ。
母がこの前まで座っていた縁側は暖かくて。日差しだけじゃない、母の温もりが残っている気がして。母の指定席に腰掛けて、運んできたコーヒーに口つける。
「寂しい、のかな」
月子は口元だけ笑みの形にして、違うよと首を振る。一人でいるの、嫌いじゃない。むしろ、好き。誰もいなくなったこの家で、一人っきりだと広すぎるこの家で、過ごすのは苦痛じゃない。暖かな日差しを浴びながら、静まり返った家の音を聞く。
両親は幼い頃から共働きで、物心つくまでは祖母と私と月子の三人だけだった。祖母が死んでからは月子と私だけになった。
「お母さん」
縁側に近い部屋。四十九日も終わって、父と母の遺影と位牌がそこにある。遺影に使った写真はずいぶん昔のものだから、二人とも楽しそうに笑ってる。
父は、歩きなれた山道で事故だか自殺だかわからない死に方をして。喧嘩相手のいなくなった母はすっかり気落ちしてしまい、後を追うように死んだ。私は、置いていかれたのだろうか。すっかり冷めたコーヒーを飲み干して、立ち上がる。いい加減、今日は買い物に行かなきゃ行けない。冷蔵庫にはもう、何も入ってない。
赤いエナメル素材の財布を茶色い合皮のバッグに入れる。緑色のフェルトのコートに、ざっくりした灰色の毛糸のマフラー巻いて、黒いブーツに足を入れる。どれも、ずいぶん前に買った物だ。
「行って来ます」
玄関から出て、扉を閉める直前、小さな声を掛ける。答える人はいないけれど、私は帰ってくるっていう宣言――なんて大げさなものじゃないけれど。おまじない、みたいなもので。
月子は私の隣を歩く。同じ歩幅、同じ速度。私は人によってゆっくりとも、早いとも言われる速度で足を運ぶ。家には車や自転車もあるけれど、私は歩くのが好きだ。右、左と足を出していれば、どうせ目的地につく。その上、私は時間に追われていない。早く用事を済ませても、ゆっくり用事を済ませても変わらない。
「大根に白菜、キャベツ、にんじん、しいたけ。お肉に牛乳。後は何がいるかな」
どうやって持って帰るのよと月子が笑う。自転車じゃ買い込んだ荷物が多すぎて運べない。車で来るにはちょっと近い。近いのならばちょくちょく買い物に来ればいいのだけれど、寒いし、人の多い場所に来たくない。仕方ない。この間みたいに、帰りはまたタクシーを使おう。
買うものを口に出して言いつつ、指を折る。まるで篭城ねと月子が笑い、私もつられて笑う。だって食べられるもの、もう家にないもの。
そうこうしてるうち、店に着く。カートに買い物カゴをおいて、野菜や魚、肉を入れていく。一人じゃ食べきれない量だけど、量の少ないものを買うより、多い方がお得なものもある。家に帰ったら小分けして冷凍すればいい。大きなパック詰めのものをカゴに放り込む。
「あ、吉田」
男に名前を呼ばれ、驚いて商品棚から声の主を見やる。買い物カゴを持った百八十センチ近い男。どこかで見た事のある顔。誰だったか……名前は思い出せないけれど、同級生。中学校だか、高校だかの。彼が疑問系じゃなく、決め付けるように言われた言葉からも、彼が私を知っているのは間違いない。
「久しぶり」
わかりもしないが、わかった風に答える。しばらくすれば思い出すかもしれない。どうしても思い出せなければ、その程度の付き合いしかしていない相手だろうし。
「俺のこと、わかる?」
だが、そんな思いも外れ直球で聞かれる。答えようがないので素直に首を振る。わからないのにわかった振りができるほど、芝居は上手くない。
男はやっぱりって顔で、おかしそうに笑う。げらげら、声を上げて。
「だと思う。俺、背、めっちゃ伸びたから」
そういわれてよくよく見れば、見知った顔だった。見下ろされるからわからなかった。この顔、幼い頃から良く知っている。
「康太だ」
「その通り」
「でっかくなったね。百八十センチ近い?」
「百七十七センチ。吉田はすぐにわかったよ。百七十一センチの女は珍しいから」
「……良く覚えてたね」
高校最後に計った身体測定での身長がその数字だった。周囲が大騒ぎしてた光景を思い出し、苦笑いする。康太は自分が笑われたと思ったのか、照れたように言う。
「だって、羨ましすぎるだろ。俺はその頃、百六十センチなかったんだから。ここまで伸びたのは、高校卒業してからなんだ。同窓会で驚かそうと思ってたんだけど、吉田、来てなかったよな」
「同窓会、昨日だっけ?」
「そう。昨日の昼間。何してたんだ?」
ワイドショー見ながらお昼を食べてた。いつも通り。同窓会があると聞いたとき、なんと理由をつけて断ったのか覚えてない。
「――ちょっと用があって。ごめんね」
「用があったんなら仕方ないさ」
そう答えてくれたものの、康太には全部お見通しかもしれない。昔から、康太にだけは私の嘘が通用しなかったから。
「……その、大変だったな」
急に態度を改め、声を落としたのは両親のこと。こんな風に可哀相がられるのが嫌だから、家から出たくなかった。知り合いに会いたくなかった。
「大丈夫よ、ありがとう。時間ないから、またね」
背を向けて、レジへ並ぶ。買い足りないものもあるけれど、康太とこれ以上顔を会わせていたくないし、しゃべりたくもない。
急いで会計を済ませ、大きな買い物袋を両手に外へ出る。買いそびれたもの、どうしよう。とりあえず、タクシーを呼ばなきゃと公衆電話の前に立つ。テレホンカードは財布の中。荷物を降ろして、バッグの中から財布を出して――
「吉田!」
康太の声。古い型のセダンが近くに止まる。寒いのに、運転席の窓は全開。康太はシートベルトを締めて、窮屈そうに運転席に座っている。
「もしかして歩き? 送ってやろうか?」
「いいよ。悪いから」
「何言ってんだよ。お前の家、途中だし。乗れよ」
断る理由、何かないかな。月子は諦め顔で首を振る。迷惑だってはっきり言うのは、後々なにかと問題になりそう。ご近所さんだし、面倒ごとにはしたくない。どうしよう。
「妹も乗ってる」
「ども」
見えなかったけれど、助手席に乗ってた千代ちゃんが身を乗り出して顔を見せる。本物であると主張するように。
化粧した彼女の顔に、幼い頃の面影は少ない。少し戸惑いながら、彼女に話しかける。ほんの十年前まで良く遊んでいた。
「変わったね」
「化粧、濃すぎるよな」
「じゃなくて――」
康太の言葉に私は慌てる。そんなつもりで言ったんじゃない。
「その、大人になったっていうか。小さい頃しか知らないから」
無造作な茶色の髪に、濃い黒のアイライン。ツヤツヤした唇。カラフルな布を幾重にも巻きつけたような服に、重そうなアクセサリー。そこにいるのは、どこにでもいそうな今時の若い女の子であって、私の知ってる、いつも康太の後ろをついて回っていた泣き虫の、小さな女の子じゃない。年齢差ではない、距離を感じる。彼女は私とはずいぶん遠く離れてしまった。でも、きっと千代ちゃんは女の子として正しい道を歩いてる。
「乗れよ」
「どうぞ」
二人にせかされ、私は断る理由を思いつけなくて。仕方ないから、後部座席に乗る。康太の後ろ。荷物は足元に。康太たちの荷物はトランクだろうか。見えるところにはない。
家までたった五分のことなのに、その五分間に会話ってずいぶんできるもので。下手に生返事を返していたら、やたらと話に食いつかれて。面倒だから話さなくて良いやと思っていたことも話してしまって。
「ありがとう。悪いわね」
「悪くないって。通り道だし」
車が来ていないことを確認してドアを開ける。急いで両手に荷物抱えて、敷地内へ、門の中へと入る。
「本当にありがと」
「また、いつでもどうぞ」
「じゃあな」
二人が手を振るから、私は片手の荷物を置いて手を振りかえす。どっと疲れたけど、顔には出せない。月子は人事だと思って笑ってる。
車が角を曲がるまで手を振って、大きく息をつく。
「よいしょ」
荷物を手に、玄関へ――数歩でたどりつくのだけれど――また、荷物を置いて、かばんから鍵を取り出して、玄関を開けて、荷物を持って家の中へと入る。一人だからこんなに面倒なのか、それとも私の要領が悪いのか。
コードだけ脱いで、冷蔵庫に買ってきたものを詰め込んでいく。肉や魚は出しておいて、着替えたら小分け作業だ。
あらかた片づけが終わり、コーヒーでも飲もうかと思っているところに来訪を告げるチャイム音。宅配かしらと顔を出すと、さっき別れた康太と千代ちゃん。
「どうしたの?」
「これ、座席の下にあったから」
「わざわざありがとう」
ラップに包まれたブロッコリを受け取る。
「ありがとう」
もう一度繰り返す。二人が帰ろうとする様子はない。嫌な間。お茶いかが、なんて言ったほうが良いのかしら。でも、家にあげたくない。笑顔のまま凍り付いていると、康太が先に言う。
「お線香、あげさせてもらって良い?」
「……えぇ、はい、どうぞ」
その言葉は断れない。しぶしぶ、二人を仏壇のある奥の部屋へ案内する。線香を上げ終わっても、二人は帰るそぶりがないので。私は仕方ないからお茶を入れ、お茶請け用にリンゴを剥く。お菓子、買う前に帰ってきてしまったから。
「どうぞ」
「お構いなく」
言ったものの、康太も千代ちゃんもすぐにリンゴに手をのばす。そういえば、二人とも昔からリンゴ好きだったっけ。
「あのさ、月子」
時間が止まる。永遠のような一瞬。私は迷い、戸惑う。死んでしまった一卵性双生児の私の片割れ。月子は哀しそうな顔で、私を見つめてる。
そうよ。わかってる、知ってるよ。死んだのは私じゃなくて、あなた。月子じゃなくて、あなたよ。朝子。
「何?」
返した声は小さく、震えていた。どうか二人がそれに気づきませんようにと、願う。
「お前、月子だよな?」
康太に念押しされるように聞かれて、涙がこぼれる。認めたくない。たった一人、生き残っているのが私だなんて。月子だなんて。
切なくて、悲しくてやりきれない。みんな死んだのだ。祖母も、朝子も、父も、母も。みんな、私を残して、私だけを残して死んでしまったのだ。
「なんか、ごめん」
康太が謝る。そんな必要、ないのに。黙り込んだ部屋の中、シャリシャリと、千代ちゃんが噛み砕くりんごの音が響く。
「あのさ」
康太は言葉を搾り出すように続ける。外国語で会話しなければならないかのように、何度も、同じ言葉を繰り返す。伝えたい事はわかっているのに、その単語が出てこなくって、必死で記憶の糸を手繰り寄せてる感じで。
私はあふれてくる涙を拭って、目をしばたいて、遺影を見つめる。私は、泣かないって決めたから、今更泣いたりしない。泣いても、どうにもならないから。
月子は――朝子は、そんな様子などお構いなく、どこからか毛糸を持ち出して、編み出す。幅から考えて、編んでいるのはマフラーだろうか。鮮やかな赤の毛糸。そんな朝子を見ていたら、私の涙はいつの間にか枯れていた。
朝子がいたら、私は大丈夫だよ。朝子さえいたら、私、一人じゃないから。朝子、朝子。一緒にいて、くれるよね? ずっと私達、一緒だよね。
でも、私の視線に気づきもせず、朝子は編み物に熱中してる。さくさく、音が聞こえそうなほど機械的に、一定感覚で編み針が突き刺さり、引き抜かれる。
康太は結局言葉が出ずに、しどろもどろして。千代ちゃんは食べ終わった空っぽのフルーツ皿を見つめてる。ガラスでできたそれは、ずいぶん年季の入った、かわいらしい果物のデザイン。
「月子さん」
不意に声を掛けられて、私は驚いて千代ちゃんを見た。朝子の編んでるマフラーはすでに五センチくらい編みあがってる。
「何?」
「朝子さんって、どんな人でした?」
よく一緒に遊んでいたのに、千代ちゃんは幼かったから憶えてないらしい。小柄な康太の後ろをどこまでも追いかけて来ていた千代ちゃんの姿を思い出す。
「朝子は」
康太が助け舟を待っていたとばかり語りだす。小学校の頃、十歳になる前に死んでしまった朝子のこと。
「違うわ、それは朝子じゃない」
「朝子はそんなことしない」
「朝子は――」
私の朝子と、康太の中の朝子はまるで別人で。私は驚いて、途中、たびたび言葉を挟む。鮮明な記憶、不確かな記憶。つい昨日のことのように思い出せること、霞がかっていて、なかなか思い出せないこと。朝子は確かにいたのに、私の隣にいたのに、今では遠い。思い知らされる。
長い間、誰にも名前を呼んでもらえなかった朝子。私が月子と呼んでも、笑っていた朝子。今日は久々に、何度彼女の名前を呼んだだろう。
編み物をする朝子の顔を見やれば、嬉しそうな顔で。ごめん、朝子。長い間、ごめんね。
でも、私はあなたがいなくなって、とても苦しかったんだよ。泣き叫んでもどうしようもないって、祖母を亡くした私は知っていて。だから、泣かなかった。そんなこと知らなきゃ、私は声も涙も枯れるまで、朝子が死んだあの時泣き叫んだはずよ。朝子、私は泣いても、あなたが戻ってこないことを知っていた。知っていたから、泣かなかったの。ごめん、朝子。
ぼろぼろ、とめどなく落ちる涙を二人に見られたくなくて、立ち上がる。
「お茶、もう一杯いかが?」
何とかそれだけ言って、台所に引っ込む。
「ありがとうございます」
大きな声で答えたのは千代ちゃんで。もう一個、時間稼ぎをするために、りんごを剥くことにする。お茶も、さっきより丁寧に、時間を掛けて入れる。だんだん、気持ちが落ち着いてくる。大丈夫、私は大丈夫だと言い聞かせる。
「はい、どうぞ」
二人の前に、お茶とりんごを出す。さっきのお皿と茶碗は重ねてお盆の上に片付ける。
「大丈夫か?」
心配そうな康太に、私は笑顔を返す。康太は足を崩し、猫背なものだから、昔のように私が見下ろす格好になる。私がひざ立ちして、食器を片付けてたから余計に。
「大丈夫よ」
「――嘘つき」
世界を破壊するように、投げつけられた言葉。
「昔から嘘つく時、癖があるんだよ」
睨み付けるように、康太は私の顔を見る。
「大丈夫じゃないんだな」
「いいえ」
「こうやって見上げたらわかる」
否定の言葉を康太は無視して、私を下から見上げるように睨み付ける。私は目を合わせていられなくなって、朝子を見る。朝子はあいかわらずマフラーを編んでいて。私の視線ににっこり、笑みを返す。私のことなど関係ないというように、曇りのない微笑み。
「月子」
康太が怒ったような声色で、私の名を呼ぶ。カーキ色のジャケット、その中にちらりと赤い色が見えて、ぎょっとする。さっきまで康太のことなんて気にしていなかったし、上から見下ろさなければ気づかなかった。
「赤い毛糸」
「このセーターがどうかした?」
思わず出してしまった声に、康太はファスナーを下げて、中に着たセーターを見せる。綺麗な色。朝子が今、編んでいるマフラーによく似た色。
「後ろがほつれてる」
千代ちゃんが言って、赤い毛糸を引っ張る。ずずずと音がするように、千代ちゃんの持つ毛糸が長くなる。
「やめろよ。着れなくなるだろ」
「編みなおせば?」
「俺にできるわけないだろ。どうすんだよ、これ」
「これ?」
「引っ張るなって」
「びよーん」
「お前、聞けよ。誰が直すんだよ」
「直したげようか」
言ってしまって、しまったと思う。なんてお節介な。朝子がマフラー編んでるのを見て、編み物をしたいなぁと、ほんのわずかに思ったのが運の尽きだったのかもしれない。
「良かった」
「すごいのね、月子さんて」
二人の言葉に気圧される。
「でもそれ、市販品? だったら、傷によっては直すの難しいかも……」
「大丈夫。これ、手編み。もらい物」
「そう」
「あ、おばさんだから」
康太は慌てて付け加える。
「聞いてないし」
「聞いてない、聞いてない」
私と千代ちゃんは声を合わせて言ってしまい、笑う。なんだか、楽しい。昔みたい。
「月子。晩飯食いに来いって……母さんが」
「絶対、来てくださいね」
帰ってくるよう二人に電話があって。立ち上がった二人だけれど、玄関先でしばらく話が終わらなくて。二度目の電話でしぶしぶといった様子で康太と千代ちゃんは帰っていった。
それまで以上に、家の中がひっそり静まり返る。生まれ育った家なのに、家の中の物、全てが余所余所しい。
朝子。心の中で呼びかけたら、いつでも、すぐ隣にいてくれたのに、いない。どこにも気配を感じない。家中探し回って、人が隠れそうな場所は全部覗いて。もう、朝子はどこにもいないのだと知る。
「朝子」
声に出したら、涙がこぼれた。
「会いたいよ」
終
| 目次 |
『月子と赤いマフラー』をご覧いただきありがとうございました。〔2009/03/11〕
2012/01/18 訂正
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