その言葉だけを信じてる

「あー……ったく。やってらんねーな」
 身についた習慣はなかなか抜けない。まして、ここは平和な国。平和ボケと揶揄されるほど、穏やか過ぎる土地。この特別休暇が終りを告げて、あそこへ戻った時――初めてあそこに迷い込んでしまった時以上の地獄を味わうんじゃないだろうか。それは些細な思いつきでしかなかったが、西崎智明はどっと疲れに襲われた。
 自動販売機で買った暖かい缶コーヒー。口の中に広がる独特の苦味と甘み。懐かしいそのチープな液体をゆっくり噛み締めながら喉の奥に流し込む。手持ちの金はすでに残り少ない。
「ババアんとこから、金目のものパクってくるんだったな」
 こちらの世界の質屋に入れても結構な金額になりそうな、用途不明の道具、もしくは置物を頭に思い浮かべる。部屋中、無造作に置かれていたのだから、数点なくなっても、気づきはしないだろう。ただし、その中には小さな国だったら買えるほどの一品もあるが、こちらの人間にそれが判断できるかどうかは不明だ。
「時間まで何するかな――」
 休暇は一週間。こちらの世界から連れ去られる前、西崎が現金を持ち歩かない主義だったのが災いし、すでに手持ちの金はほとんどない。こちらの世界では行方不明者扱いになっている現在、銀行口座は仕えなくなっていたし、カード類も有効期限が切れてしまっている。まして知り合いを見つけて金を借りれば、ややこしい事態になりそうだ。休暇が終われば、笠野令子――西崎がババアと影で呼んでいる主人の手によって、この世界からあちらの世界に連れ戻されてしまうのだから。
 西崎がこちらの世界に戻ってきて一日半。あれほど切望していたというのに、心から嬉しかったのは半日ほどだけ。残りの時間、浦島太郎状態の西崎は、現状を把握することに時間を浪費しただけ。楽しくなどなかったはずのあの世界に戻りたいと、笠野令子に会いたいと思っている自分を振り切るように、西崎は歩き出した。

 若作り、厚化粧、嫌味ったらしいと三拍子揃えば、笠野令子を好きだと言う人間は限られてくるだろう。命の恩人、もしくは憎らしい敵である彼女から、
「特別休暇をあげましょうか?」
 西崎がそう言われたのは、出立の半日前のこと。
「特別休暇?」
 尋ね返してしまったのも無理はない。何の因果か迷い込んでしまったこの異世界で、同郷の人間に出会えたと喜んだのもつかの間、令子は西崎にとってただの魔女、もしくは悪魔であることを知った。自分自身の運のなさもここまでくればいっそすがすがしい。
 この異世界について西崎が何もわかっていないのを良いことに、笠野令子は西崎と各種の魔術やら契約書やらを使って徹底的に主従契約を取りまとめた。笠野令子の許可がなければ、西崎はこの世界で何もできないように。
 彼女の命ずるまま、西崎は魔女の弟子こと、程の良い使いっ走り、もしくは重労働に酷使させられている。まともな休みなどもらえないままに。
「特別……休暇?」
 だから、その言葉は西崎の妄想の生み出した聞き間違いだろうと尋ね返した。
「いらないの? 欲しがってたでしょ?」
「いる。休暇は欲しい。けど、なんでまた」
 何か裏があるに違いない。絶対に。西崎の本能が危険信号を点滅させている。
「あっちの世界に帰りたくない?」
 笠野令子は口元だけ笑みの形を作りながら言った。何か確実に裏がある。それは分かっていたが、帰る事が出来るチャンスをみすみす不意にする馬鹿もいない。
「帰れるのか?」
「ただし、期限付きだけどね」
 笠野令子は静かに笑う。なんだ、そういうことかと、西崎は安心する。想定内。そのくらいの罠はあるだろうと予測できていた。休暇というのはいつかは終わりを告げるものだ。
「で、期限は?」
「一週間。短いかもしれないけれど、心ゆくまで懐かしい世界を満喫なさい」
 笠野令子はなぜか優しい。
 特別、と休暇の頭に修飾語をつけるからには、何かあるんだろうに、とりあえずそこには触れない。相手の真意を探ろうと、じっと見つめあう。けれど、笠野令子が何を考えているかなんて誰にもわかるわけがない。何より、西崎は取り越し苦労を背負い込むよりも、後悔する方がましだと考える。
「わかった」
 簡単に頷き、仕事に戻る。笠野令子は苦しげな表情で西崎を眼で追うが、西崎は気付かない。
「で、出発っていつだよ」
「今日の夜中が良い? それとも明日の早朝?」
 二択とは。しかも、それまでに仕事を終わらせろ、という無言の圧力つき。ありがたい労働環境だ。
「今日は満月か?」
「正解」
「そんな難しい魔法なのかよ」
「正解」
 西崎が顔を上げれば、笠野令子は微笑んでいた。笠野令子は時折、懐かしそうな表情で西崎を見ている。彼女自身は気付いていないだろうし、西崎がそれに気づいているなんて思ってもいないだろう。
 笠野令子が西崎の知らない男の影を自分に重ね合わせて見ているのだと知ったのはいつのことだっただろう。彼女が西崎を見つめ、幸福そうに笑っている時、それは西崎が知らない男を想っている時だ。その男と自分にどの程度の共通点があるのかはわからない。西崎はなぜかそんな時、不機嫌になってしまう自分の心情がうっとうしくてたまらない。特別休暇のことに頭を切り替える。
 一週間とはっきり言い切られた休暇期間が実に怪しい。たぶん、それは机上の空論。計算値とやらだろう。元の世界に戻ったところで、一週間どうやって過ごせばいいというのか。
 迷い込んだ当初は、こここそが異世界だったのに、今ではこっちの方が順応し慣れ親しんでいる状態だ。だからこそ、今さらあっちの世界に戻ったところでどうしたらいいのか、悩んでしまう。
 笠野令子はこちらの世界に来て、魔女として順応している。しかも、こちらの世界では、かなり名の知れた魔女だ。彼女が難しい、なんて言う魔法はよっぽどのこと――。



 西崎を送り出し、魔力を消費しきった笠野令子は肩で息をしながら床に沈み込んだ。西崎のいる間はと、押し隠していた涙が、後から後から溢れ出して止まらない。声をあげて泣きじゃくる。西崎を送り返したくなどなかった。けれど、彼がまた死ぬのも見たくはなかった。
 彼が忘れている――というより、彼の記憶にはない出来事が昔、笠野令子と西崎の間にあった。今の彼には思い出せない――笠野令子が愛を誓った西崎智明はもうこの世にいないのだから。彼女の目の前で死んだのだからそれは否定することのできない事実。
 笠野令子が魔女になったのは西崎に会いたくてだ。死んだ人を甦らせる魔法などないが、異世界への移動により、肉体を死ぬ前の時間に戻す事は可能だ。この世界と、あちらの世界では時間の流れが異なるが、彼の魂は、ある一定の時間が経つと、存在することが出来ない。一番最初に西崎智明が死んでしまった時間になると、彼は思い出したように死んでしまう。何度あちらの世界から彼を連れてきても同じだった。今の彼ももうすぐ死ぬ。死にそうな気配なんて全くないのに。
 彼の死を再び見たくはなかった。最後に、彼が見たいと熱望している世界を見せてあげたいと思った。それは全くの自己満足かもしれない。でも、それが西崎にしてあげられる全てだった。

 あちらの世界から昔の西崎を呼び出す。この世界で初めて会った時と同じ西崎が笠野令子の前にいる。
 笠野令子は微笑み顔を作り、彼の前に立つ。また、一から彼との関係を築いてゆく。十八ヶ月後には失われるのがわかっていても――。
「はじめまして」
 何度目になるか分からない自己紹介。
 彼は驚いた表情で笠野令子を見ている。しだいに満面の笑顔。こちらの世界に縁のない――笠野令子と縁の築けていない西崎は、この世界のどこに呼び出されるかわからない。何か所かポイントは絞れるものの、それらすべてを巡り、西崎を見つけ出すのは笠野令子にとっても容易なことではない。
「何か質問はある? あなたが知りたいことだったら何だって教えてあげるわ。私のスリーサイズでもなんでも」
 笠野令子は自嘲する。
 彼との年齢差がまた広がってしまった。一番最初、彼に初めて会った時は自分の方が若かったのに、今ではもう、彼はずいぶん年下になってしまった。
 死んでしまった彼を取り戻そうと始めた魔法だったけれど、彼と一から始める毎日は、失われた日々の再現ではなく、別の時間。新たな彼との関係。あの頃のように、西崎が自分に振り向いてくれる事などないだろう。それでも、と思う。笠野令子は自分が愚かだと認識している。けれど、男が最後に笠野令子に残した言葉は、まだ熱を持って心の中にあるのだ。
 僕は永遠に君のものだ。
 彼女は未だ、その呪縛から逃れる事が出来ない。

(他には何も要らないの)

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ご覧いただきありがとうございました。〔2013/11/11〕

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