たぶん、壊れたらそれまででよかった。

 まずは自己紹介。僕の名前は森原礼史、二七歳。趣味は家族と過ごす事。休みの日は一日、家から出かけなくてもわりと平気。独りでいるのが苦にならないタイプだと思われているけれど、それは違う。家族が側にいてくれさえすれば、あとのことなんてどうでもいいだけだ。
 僕の最愛の家族、松浦澪。性別メス。年齢、二歳半。すらりとした、ごく普通の白い毛並みの猫。僕の恋人だった澪さん――松浦澪(人間の女性)が交通事故死した数日後に、僕の前に現れた。茫然自失していた僕を付きっ切りで慰めてくれたのが松浦澪だった。だから、それ以来、僕にとってたった一人の大切な家族。

「澪さん、おはよう」
 僕が目覚めて最初にするのは、澪さんへのご焼香。僕の手元には彼女の位牌も遺骨もないけれど、彼女と僕が一緒に写った写真、彼女から貰ったプレゼントに僕は手をあわせる。
 次に、猫缶を明ける。
「松浦澪、おはよう。ご飯だよ」
 皿にあければ、滑らかな動作でどこからともなく現れ、慎重な様子で食べ始める。この時間を邪魔しては、松浦澪の機嫌は悪くなる。
 最後に僕の朝食だ。今日は何を食べよう。食品庫を開ける。めぼしいものはない。冷蔵庫もそれは同じ。あれほど大量に購入した保存食は、一ヶ月で食べつくしてしまったようだ。買物に行かなければ食べるものが何もない。昨日からわかっていたことだけれど面倒くさい。
「松浦澪、僕はどうしたらいい?」
 ただ一人、この家の中で腹を膨らませてゆく松浦澪を見つめながら、問いかける。松浦澪はカリカリと音を立てて餌を咀嚼しながら、アルトで言う。
「死んだらいいんじゃない」
 いつもながらに松浦澪はクールだ。一人食べ終えると、僕のことなどどうでもいいって顔で毛づくろいをはじめる。手の甲から順に、全身くまなく毛を舐めてゆく。
「松浦澪ぉ」
 恨みがましく名を呼ぶ。首輪につけた鈴を鳴らし、松浦澪は僕の顔を見る。
「買物に行ってきなさいよ」
「君を一人にしてはいけないよ」
「私なら大丈夫。遊びに行ってくるわ」
 優雅に立ち上がる。
「君は帰ってくるよね」
 僕の問いかけを無視して、松浦澪は裏口に設けた猫用の出入り口をくぐる。追いかけるように僕は裏口の戸を開け、松浦澪の後姿を見つめる。尻尾をゆらゆら揺らしながら角を曲がり、視界から見えなくなった。
 松浦澪の消えた先をずっと見つめていたら、大きく腹がなった。空腹には勝てず、いそいそと服を着替え、家を出る。近くにコンビニはあるけれど、毎日毎日食料調達に通うのが面倒くさくて、車で一時間近くかかる大型ショッピングセンターに向かう。買い物で重要なのは保存できるものであること、そして、知り合いに会わないことだ。
 帰ったらまた、心ゆくまで家に籠ろう。松浦澪と澪さんのことを語りながら、時間を過ごそう。それだけを考えて、僕はカートに食料を積み上げていく。保存がきくものが大半。そして、重要な松浦澪の食料。
 知り合いに会わず、誰とも話さないまま僕は車で家に戻る。澪さんが旅立ってから、僕は必要最低限の人間と、必要最小限の会話しかしていない。これはとても重要なことだ。人の記憶というものは時間が経てば薄れてしまう。これは毎日、新たな体験を積み重ねることによって、記憶が上書きされてしまうためだ。だが僕は澪さんを僕の中から薄れさせようとも、まして忘れようとも思っていない。澪さんの記憶を留める続けるためには、僕自身が死んだように生き、澪さんのことを繰り返し思い出さなければならないのだ。
 そんな生活を不健康だと言う人もいるだろうが、澪さんがいなくなってしまった現状、僕が健康でいる必要なんてどこにもない。僕がどんな荒んだ生活をしていようとも、生きてさえいれば良しとする人しか、もうこの世にはいないのだ。
 大量の買い物袋を車に積み込む。運転席に座り、さっそく買ったパンを食べる。腹の虫の機嫌がよくなったところで、家路につく。

「帰りました」
 挨拶はまず、澪さんに。大好物だった果物、お菓子を供える。湯をわかして、紅茶を入れ、澪さんと一緒に味わう。
「今日はアッサムにしてみたよ。どう?」
 澪さんは写真の中で微笑んだまま。いつの間にか帰ってきていた松浦澪がニャアと猫らしい声をだす。小腹がすいたいのか、おやつが欲しいのか。
「君はいつもタイミングよく、帰ってくるね」
 大量の買い物袋の中から、松浦澪の口に合いそうなものを見つけだす。竹輪を松浦澪の鼻先へ突き出す。彼女は不審な様子で見やり、匂いを嗅ぎ、興味を失った顔でそっぽを向く。小刻みに揺らしてやれば途端、僕から奪い取り、口をつける。
「今日は何をしようか」
 言いながら、僕は澪さんが書いていた日記帳を開く。去年の今日、僕と澪さんは何をしていたのだろう。彼女がなくなってから、僕は澪さんが日記を書いていたことを知ったのだ。
「今日は……借りてきたDVDをを見たって。見終わって、面白くなかったって言いながら、ご飯を食べたって」
 僕は日記を閉じる。明日の日付の記録は明日読むことにしている。
「要するに、去年の今日はどうでもいい一日を過ごしたってことね」
 松浦澪は僕の膝に顔を摺り寄せている。僕は日記を持っていない手で彼女の毛並みを堪能し、
「どんな一日でも、澪さんがいれば素敵な一日だったよ」
「見た映画、覚えてる?」
「思い出せないな」
 どんな内容の作品だったのだろう。あの頃は澪さんがB級映画にはまっていて、面白くもない作品ばかり見ていた覚えがある。面白くなさそうと言いながら借りて、見終わると、やっぱり面白くなかったと言いながら語り合った。何が楽しかったのかわからない。
 たぶん、澪さんが一緒にいさえすれば僕は幸せだったのだ。澪さんがいない今、どうして僕はここにいるのだろう。ここで生きているのだろう。
「松浦澪、どうしてだろうね」
「私に聞かれても知らないわ」
「君がいるから、僕はここにいるのかな」
「私があなたの存在意義と言いたいわけ?」
「君がいなければ、僕はここにいないのかもしれないよ」
「私があなたの観測者だというわけ? この家があなたの棺桶じゃないことを証明しているのは、私という存在だとあなたは言いたいわけね」
「君はずいぶん難しいことを言うね」
「偏屈な同居人と一緒にいると、誰でもこうなるのよ」
 彼女の喉をなでてやると、嬉しそうに喉を鳴らす。でも、堪能し終われば、松浦澪はやっぱりガラスのような眼で僕をじっと見つめ、猫のような声でニャアと鳴くのだ。

 毎月十七日になると、僕は松浦澪を猫用キャリーバッグに押し込む。彼女は必至で抵抗するが、この時ばかりは僕は容赦なく彼女を押し込む。
 電車に乗り、タクシーに乗り、集合墓地へ。今日は澪さんの命日だ。
 ゲージから松浦澪を出し、リードをつけ、しっかり抱きしめる。澪さんがいなくなり、その上、松浦澪までいなくなったら、僕はどうやって生きていけばよいのかわからない。
「澪さん」
 僕は石の下で眠っている澪さんに話しかける。この一ヶ月、僕がどれほど澪さんに会いたくてたまらなかったかを。去年の一ヶ月、僕はどんなに澪さんといて幸福だったかを。松浦澪はおとなしく僕の話を聞いている。僕を慰めるように、時折、僕の顔を舐める。
「澪さん」
 悲しいのに、淋しいのに、僕は泣けない。涙が出てこない。涙は溢れ出すものだと言うけれど、きっと、僕の場合、心にぽっかりと穴が開いてしまい、そこから漏れてしまっているから、涙が溢れる事もないのだろう。
「澪さん」
 僕は墓の前で立ち尽くす。知っていると、理解しているとの間にはどれほど距離があるのだろう。彼女がいない現実は、僕には夢の世界のことのようで。彼女の墓を前にしても、いまだに実感できないでいる。彼女がいない。帰ってこない。彼女と触れ合うことも、会話することもできないという事実は、わかっていても、僕はそれを受け入れることができないでいる。頭でいくらわかっても、心がそれを拒否するのだ。
 僕は中途半端に壊れたまま、生きている。生きていくしかない。
「澪さん」
 僕は墓石に呼びかける。そこに澪さんがいるとは思っていない。ただ、ここには彼女の名が書かれてあるから。彼女を思うには、ここが一番、適切だと思われるから。僕は家の外で彼女の名を呼びに、ここにこうして来るのだ。
 彼女の名が記された墓石を目の前にしても、僕には彼女がここにいるなんて思えない。不意に背後から僕の肩を叩いて「何してんの? 行こうよ」なんて、彼女が顔を出しそうな気がする。
 何度も、僕はかくれんぼしている澪さんを探すように、名を呼ぶ。彼女は現れない。彼女は今日も、僕の肩を叩かない。
「お腹がすいたわ。帰りましょう」
 松浦澪が退屈した様子で言う。
 彼女の声が聞こえるのは僕だけだ。僕以外の人には、彼女の声はただの猫の鳴き声にしか聞こえていないらしい。右に出るものはいないくらい、澪さんの声によく似ているというのに残念だ。

(それほどにキミが好きだった)

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ご覧いただきありがとうございました。〔2013/11/09〕

ligamentさまの「煽り文」使用

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