そんなこと、どうだっていいくらいに

「これには――」彼女は不敵に笑いながら、手に持ったグラスを揺らす。カランと氷がガラスに触れ、涼やかな音色。「毒が入っているの。一口飲めば、象でもコロリと死んでしまうほどの猛毒が」
 河西の目の前に、そのガラスコップは置かれる。カラリと氷が崩れ、誘うように水面が揺れる。
「でも、あなたはこれが欲しいんでしょう?」
 河西は躊躇なくそれを手に取り、のどを鳴らして嚥下する。コップが空になる。まさに極楽。もう一杯、とグラスを杏菜に向ける。
「うふふ。甘露だったかしら?」
 杏菜は水差しを傾ける。コップは元通り、水が満たされる。
 外は今、地獄の時間帯。灼熱の大気が路上を揺らめいている。この店までの、数百メートルという距離が絶望的な遠さに感じたんだから、キンキンの水は何より至福。それに――
「君からもらえるんだったら、何だって有難いさ」
 河西は腰をかけなおす。背の高いカウンターチェアは、何度か腰を掛けなおさないと、上手く座れている気がしない。
 ここは杏菜の家族が経営している飲食店。時間帯によっては、喫茶店、定食屋、飲み屋と異なる顔を持つ。基本形態は昼間、彼女の父親がやっている定食屋なのだが、杏菜が店番をしているときは喫茶店と化し、彼女の母親が店番をしている夜は飲み屋と化している。三者三様ながらも、店としてやっていけるのは家族の絆ゆえだろうか。
「じゃあ今度は本当に毒を入れておくわね。それで、ご注文は?」
 爽やかな営業スマイルに入れ替わる。
 壁に張られたメニューを河西はざっと見やる。注文するものはいつも決まっているとはいえ、習慣みたいなものだ。
 すると、嫌な事に気づいた。店内には他に誰も客はいない。いないということは、
「親父さんは?」
「指定席」
 どうやら今日は来るのが遅くなってしまったらしい。親父さんは三軒先のパチンコ屋で休憩中のようだ。数年前から客がいない隙を見ては、休憩と称し、娘に店番を任せて出かけるのは良いが、店番の人選には大いに問題があった。
 お袋さんが店番の場合は、酒のあてのような料理が多いものの、まだ、注文できそうなものは多くある。だが、問題は杏菜だった。彼女は誰に似たのか、料理が下手だ。味付けが非常に独特で、微妙。彼女への愛があってもなかなか……言葉を濁してしまうレベル。
「何か……食べられるもの、ある?」
 タイミングよく鳴ったお腹と、杏菜の視線に、帰るタイミングを見失い、河西は言葉を吐き出す。
「トーストセットか、サンドイッチセットか……そうだ、ラーメン食べる?」
 杏菜も弱った顔をしている。ドリンクとケーキ以外、客に飲食物を提供する機会なんてほとんどないからだろう。常連客で彼女しか店にいない時間帯に、料理を注文するような酔狂な人間はまずいない。
「ラーメンってインスタント?」
 カップラーメンが出てきてはたまらないと尋ねれば、
「近ごろ流行のまるで生麺みたいなタイプのだから……美味しさはメーカーの保障付き」
 ニヤついているところを見ると、冗談なのだろう。彼女の口からトーストセットとサンドイッチセット以外の食事メニューが出てきたこと事態、驚きだ。けれど、飲食店で金を払ってまで、インスタントラーメンはない。
「どうする? トーストでいい?」
「いや、サンドイッチ」
 互いににっこり笑顔で応酬。より調理が簡単な方を押してくるあたり、さすが杏菜だが、サンドイッチが手のかかる料理だとは思えない。塩コショウとマヨネーズという、オーソドックスでシンプルな味付けの王道のサンドイッチを作ってくれれば、間違いなどないだろう。
「少々お待ちくださいませ」
 彼女が消えて、五分とたたない内にトレーが目の前に置かれた。
「お、手際が良いねぇ」
「味は保証しないけどね」
 互いににっこり。河西は見た目は普通のサンドイッチを手に取り、一口パクり。口を動かすうち、次第に顔が怪訝なものに代わる。
「これ……何、いれたの?」
「えっと………………………………………………毒?」
 杏菜は長い沈黙ののち、小首を傾げ、可愛らしく答えた。
「保健所言うよ?」
「うん、冗談」
 セットのワカメスープで、何とか飲み下す。こっちはインスタントのようだ。実に美味い。
「まあ、食べられないことはないからいいよ。ただ、味が想像だにしなかった、ユニークでコメントしづらい、何とも言えない独特の味わいで驚いただけ」
 見た目通りの、普通のサンドイッチの味を思い浮かべながら口に入れると違和感があるが、杏菜の作った料理にしては食べられる。
「で。今度の相手、どうなの?」
 河西は何気なさを装って尋ねる。店のテレビを眺めていた杏菜は額に手をやり、
「一体どこから漏れるのかしらね、私のお見合い話って」
「そんなの決まってるだろ」
「決まってるわよね」
 脳裏に浮かんでいるのはママこと、彼女の母親。酒を飲みながらの世間話で、つい口が滑ってしまうのだ、というのがいつもながらの言い訳。
「写真見せてよ」
「河西さんに見せたら、ろくな評価しないじゃない」
「とか言いつつ、取り出してるのはお見合い写真?」
「ふふふ」
 表紙をめくれば、緊張した面持ちの男の顔。
「いやあ、実に真面目そうな顔して写ってるね。今時、お見合い写真でもなきゃ、この年でこんな顔して写真撮るヤツいないよ」
「河西さんは写真、撮ったことないの?」
「あらら。永遠の恋の狩人に対して酷い言いぐさだね」
「まだ言ってるの、それ」
 呆れ顔の杏菜に、ウインク一つ。ついでに、
「あ、そうだ。ママに聞いた?」
 首をかしげるので、
「ルイちゃん、俺にベタ惚れだって」
 夜、飲み屋となるここの店でバイトしているお嬢さんだ。昼間は会社員、夜は飲み屋のお姉さん。夢のためにお金を貯めている、健気な子だ。
「次から次へと、若い子騙くらかすのうまいわね」
「恋に生きてこそ人生だって」
「仕事がベストパートナーじゃなかったの?」
「そうだよ、残念ながらここ数年はね」
 食べ終り、食後のコーヒーを要求する。用意されるのは二人分。親父さんがいれば、三人で飲むところだが、今日は二人きりなので、カップが二つ。
「今度映画でも見に行かない?」
「あぁ、あれでしょ? 今話題のやつ。ルイちゃんがすっごく面白かったって言ってた」
「へえ。ルイちゃん誰と見たの?」
「魚屋の跡継ぎじゃない? それか雑貨店の新人君か」
 名前を言われるより、立場を言われた方が顔は思い浮かべやすい。
「ルイちゃん、俺一筋じゃないのか」
 肩を落とし、芝居がかったしぐさで言えば、
「うん。お客さん皆、大好きだって」
「うわー、見かけによらず悪女だねえ」
「河西さんが言ってたって言っとく」
「告げ口しなくて良いよ。それで、君はつき合ってくれるの?」
「パス。興味ない」
 冷たく振られる。仕方ないのでコーヒーをお代わりし、シュガーとミルクを多めに入れて味わう。ダメージを受けた精神には労りの糖分が必要だ。
 杏菜に振られるのは何度目だろう。河西のどんな誘いにも、杏菜は応えてくれたことはない。予定があったり、興味がなかったり、理由は様々。もしかしなくても、杏菜自身、河西に興味がないのかもしれない。何にしても彼女との関係がこれ以上、進展することはありえない。
「ごちそうさま」
 と、席を立つ。
「また来てね」
 杏菜が営業スマイルで言うから、
「また来るよ」
 いつもながらの返し文句を言い、店を出る。外は嫌になるくらい良い天気だ。まだ仕事は残っている。ここで意気消沈していては、仕事に差し支える。
 この恋はきっと叶う事はないだろう。ただの片想いで終わってしまうだろう事は、河西にも予測できている。でも、そんなことどうだっていいくらいに彼女と会える毎日は楽しい。だからきっと明日もまた、自分は杏菜に振られているだろう。それでも河西は、そんな毎日が幸せだと感じている。

(たぶん君を愛してしまった)

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ご覧いただきありがとうございました。〔2013/11/07〕

ligamentさまの「煽り文」使用

2015/7/14 訂正

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