想いを秘めて生きていく。上條拓人がそう決めたのはたぶん、半年前のあの日。駅前のクリスマスツリーの前で、彼女が涙をこらえ、唇を噛み締めている姿を見かけてからだ。
井上紗里奈は一回り年下の、近所の女子高生。幼馴染と言いたいところだが、子供のころに接点はない。ただの顔なじみ、近所の子供といった認識しかなかったのに、ツリーの前にたたずんでいた彼女は、ただの少女ではなかった。恋を知り、失う辛さに耐える女性の顔をしていた。
絶望と哀愁を漂わせながらも、周囲に気づかれないよう、笑みを浮かべようと努力している彼女の横顔。幼さが残る顔立ち、垢抜けない格好。可愛らしいお嬢さんという形容がしっくりくる。なのに、拓人はその時、彼女がとても綺麗だと思った。彼女が立ち去る気配を見せるまで、魅入られたように、拓人は彼女を見つめていた。
その横顔をいつまでたっても忘れられない事に気づいたのは、春めいてきた頃だった。あの日の彼女の横顔を何度も繰り返し思い出す。気づけば彼女のことばかり考えている自分自身を訝ってはいたが、まさか、自分が恋に落ちているのだとは思いもしなかった。
フォール・イン・ラブ。恋に落ちるとはよく言ったものだ。言葉としての意味はわかっていても、まさか自分の身に降りかかるとは思わない。まして、近所の子供に対して。
そう、子供。問題はそこなのだ、と拓人は頭を抱える。
三十歳過ぎの男が純粋な恋をしているなどと、一体誰に説明したらわかってもらえるだろう。まして、自分のいい加減な恋愛経験を振り返れば、それが冗談以外に受け取ってもらえないことは確実だ。
誰に相談するでもなく、まして彼女に気持ちを伝えるでもなく、拓人はただ、彼女の顔が見たいと、早朝のジョギングを始めた。彼女のうちで犬を飼っていることは以前から知っていたし、朝夕にたいてい彼女が散歩させている事も知っていた。ついこの前まで彼にとって、彼女はただの近所の子供だったのだ。
毎朝顔を合わせる以上の関係は今のところないし、それ以上の関係になろうとも考えていない。
ただひと目、毎朝、彼女の顔さえ見られれば幸せなのだ。何てことだろう。自分の精神状態を思えば、呆れかえってしまう。今時、こんなばかげた恋愛をしている人間がいるだろうか。
彼女の顔が見られた日は嬉しいが、そこで感じるのはあふれる喜びだけではない。じわり、染み出すように後ろめたさが湧き上がる。彼女の姿を思い浮かべるたび何度も自分に問いただす。よく見ろ、これは子供だと。自分が恋をするべき大人の女性ではないし、好みのタイプでもない。ただの子供。成長途中というだけではなく、明るい日差しの下で見る彼女は完全に少女でしかない。ストーカー。ロリコン。嫌な言葉が頭をちらついて仕方ない。友人がもし、同じような状況に陥れば、必ず説得するだろう。
「お前、頭おかしくなってるって。絶対」
自分の言葉に自分で落ち込む。本当にそうだ。本気で自分はどうかしている。
彼女への想いを振り切ろうと、仕事に趣味にと熱中する。まだ恋を知らないガキじゃあるまいに、どうして今さら、あんな子供への想いで人生を振り回されなければならないのだ。がむしゃらなその態度は、周囲に誤解を与えているのだと気づいたのはしばらくして。
「今度はどんな女なの?」
いきなりの言葉に、飲みかけていた水を思わず噴出した。
「うわっ汚い」
言いつつ、ティッシュで吹いてくれるのは面倒見の良い高科梨帆子ならでは。いや、元カノだったからだろうか。
「何だよ、藪から棒に」
「あら。私、変なこと言った?」
拓人は言い返そうと言葉を探して視線を泳がせ、答えを見つけられず、仕方なく舌打ちを返す。
「あぁら、態度悪ぅい」
「おかしなこと言うからだろ」
「そう? みんな噂してるわよ。あの上條の生活態度をここまで改めさせる女性って、どんな素晴らしい女性なのかお目にかかってみたいって」
「まるで俺が悪の道から更正したかのような言い草……。俺はただ――ちょっと、健康とか気遣ってもよい年齢かな、と思って……」
それ以上、良い言い訳が思い浮かばない。彼女の顔が見たくて、仕事は出来るだけ早めに切り上げ、彼女のバイト先――スーパーでよく買物をするようになった。商品補充を担当している彼女は、店内をあちこち動き回る。とてもじゃないけれど半径二メートル以内には、緊張しすぎて近づくことが出来ず、遠くから見つめているだけ。
寄り道もせずまっすぐ家に帰り、規則正しい生活。食べ歩き、飲み歩きはせず、もっぱら自炊。休日だからと遠方に遊びに出かけることもなく、家の近所で用を済ませる。やるとしてもウォーキングぐらいなものだ。それもこれもすべて、彼女の顔が見たいが故。
ただただ彼女の姿が見たくて、彼女に会いたくて。まして、彼女に話しかけられでもしたら、嬉しさのあまり緊張しすぎて一日何も手につかない自信がある。だから、あくまで付かず離れず。彼女の近くで彼女を見守っていたいだけ。彼女に接触するつもりも、彼女と親しくなるつもりも、まして、彼女と交際するつもりもないのだ。清く正しく美しい関係。これを恋といわずしてなんと言うだろう。
恋に落ちるとはまさにこういうことなのだと、恋の持つ不可思議な力への認識を日々、新たにしている。その力のなせる業により、自ら進んで自分自身が変わっていくことを止めようとは思わない。恋する前の自分とは別人のように変貌していくことに歯止めがきかない。
彼女ができたというデタラメな噂は、上条拓人の周囲で日に日に広がっていくようだった。あまり言葉を交わしたことのない人間にまで呼び止められ、
「ご結婚されるそうですね」
なんて、尾ひれの付いた噂を聞かされる。
「そもそもお前が意味不明な噂の発信源だろ。俺は今、独身を満喫してるって言わなかったっけ?」
「あらあら。そうだったかしら」
見事にしらばっくれる。でも、嘘がつけない女だから、自分は嘘をついてますってちゃんと顔に書いてある。
「勝手に恋人が出来たの、結婚が間近だの、わけの分からない話を振りまかないでくれよ」
「どう見たって恋人できたって顔でしょう、あなた。それとも、まさかただの片想いだってわけ?」
一瞬の表情でどこまで察したのか、梨帆子は「あらあら」と繰り返し、
「まさか、清く正しく美しくなんて、あなたのキャラに似合わない恋愛してんじゃないでしょうね?」
梨帆子と別れた時、他に何人つき合っていたっけ。思い出せないが、梨帆子が冷めた目で「あんたはハーメルンの笛吹か」と言ったのが恋人関係を清算する言葉だったのは記憶している。
顔を会せれば嫌味を言い合う仲である梨帆子が相手なのだから、いつも通り、ふざけた答えを返せばいいのだとわかっているのに、拓人は言うべきセリフが思い浮かばない。
その沈黙を答えと受け取り、梨帆子は複雑な顔をする。
「いまどき、お子様でもそんな純粋な恋愛なんてしてないわよ――まさか、片思いだなんて、言わないわよね……?」
梨帆子が世界の秘密を知ってしまったとでもいうような暗い顔をするから、拓人は空笑いを返すしかない。
それまでのからかい気味な雰囲気が消え去る。梨帆子は固い表情で額に手をやり、詰問口調で、
「相手はどこの誰?」
「答える必要はないだろ」
「知りたい、と思ってはいけないわけ?」
言って、言い訳がましく言葉を続ける。
「私はただ、困っている友人を助けたいだけ」
「友人? いつから?」
しばし睨み合う。梨帆子は重い声で言う。
「誰なの?」
どうしてそこまで梨帆子が気にするのか、拓人にはわからない。うるさいとばかり背を向ける。
梨帆子を避けるように仕事をし、会社を出る。幸い週末。話題は週明けに持ち越しだ。月曜が憂鬱だが、朝一で梨帆子に遭遇する事もないだろうと、猛獣警戒を肝に銘じ、家路に着く。とはいっても、やはり、彼女の顔を見に、まずはスーパーだ。
スーパーで長時間滞在しようと思えば、食材を手にとり吟味するふりをするしかない。彼女を横目で見つつ、あまり見ている気配は感じさせず、近からず遠からずな適度な距離感。これが非常に難しい。探偵や刑事に尾行の奥義を習いたいくらいだ。
スーパーでうろつくこと三十分。これ以上の滞在は不自然だと判断し、帰途に着く。ストーカーだと認識されれば、彼女の顔を見ることもままならなくなる。
ああ、今日も彼女は可愛かった。
ただしどう贔屓目に見ても、十代女子高生。ただの子供。どこにでもいる少女。まだまだ色気も何もない、普通の女子。お子様だ。
あれのどこがいいのか。自問自答する。考えても考えても思考は空転するばかりで結論は出ない。もし、一緒に歩く事があったとしても、妹と勘違いされる事はあっても、誰もそれ以外の関係性など想像しないだろう。
出るのはため息くらいなものだ。彼女と付き合いたいとか、結婚したいとか――そういう下心が全くないわけでもないが、まだ、それは強い想いではない。だからこそ、いい大人であるのに、ただ彼女の顔を見るだけで、満足できているのだ。
「拓人」
鼻歌交じりで買い物袋を手に、スーパーを出たところで呼び止められた。振り向かなくても相手は誰だかわかっている。猛獣警戒は月曜の朝一からじゃ遅すぎたようだ。
「何か用か」
振り向いた先にいたのは固い顔をした梨帆子だった。どんな顔をしたらよいのかわからない様子で、開けかけた口を閉じ、閉じた口を開ける。どうやら言葉を探しているらしいが、声にはならない様子。
知られたのだと悟る。触れれば砕けてしまう、ガラスの繊維で作られたような流麗な飾り細工に、梨帆子は好奇心の赴くまま、無遠慮に手を触れたのだ。どこまでも透明で、純粋な恋心が、泥足で踏みつけられた気分だ。
「何か用なのか」
自然、口調はきついものになる。もう、この恋はさっきまでの恋ではない。拓人ただ一人のものだったのに、梨帆子に知られてしまった今となっては。
梨帆子は何も言わない。険しい瞳で睨んでいるだけ。
「用がないなら呼び止めるな」
背を向け歩き出せば、一定間隔で後ろをついてくる。パンプスの音が、静かに背後で響く。怖いというより気持ち悪い。
「何なんだよ」
怒鳴りつけながら、振り返る。交差点での信号待ち。十分以上、梨帆子は後をついてきていた。
「何か言えよ」
梨帆子は表情を変えることなく、声も出さない。よく見れば、声も出さずに泣いている。眼から涙があふれているのに気が付いていない様子で、拓人を睨んでいる。
「梨帆子?」
戸惑ってしまったのは、梨帆子が泣く女だなんて知らなかったからだ。梨帆子は何を知っても、見ても、別れる時も、涙一つみせなかった。ただ冷めた表情で、嫌味を言っただけだ。多くの女のように、泣いてすがることも、泣いて暴れることもなかった。彼女は、そういう女たちとは違うものなのだと思っていた。そんな女だから、一番長く続いたのだと思っていた。
「梨帆子……なあ」
「拓人」
ようやく、梨帆子は声を出す。重苦しいものを吐き出すように、胸の空気を全部使い、その一言にすべての想いを乗せたかのような声色で。
「人を好きになるって、苦しいでしょう」
静かな笑みとともに言い、拓人を見つめる。見つめられているのに、梨帆子は拓人を見ていないのではないかと思う。梨帆子は大きくため息をつき、微笑む。
「まして、好きになってくれない人を馬鹿みたいに想うだなんて」
静かな、透明な笑み。何もかも、すべて吐き出した顔で、梨帆子はじゃあねと去ってゆく。
残された拓人はなんだか振られた気持ちになった。梨帆子と別れたのはずいぶん前で、あの時、別れを切り出したのはどちらだっただろう。いや、別れの言葉なんてなかった気がする。他の女たちとの別れと違い、梨帆子とは何のいさかいもなく、淡々とした、簡単な最後だった覚えがある。
去ってゆく梨帆子の背中は、表情とは異なり痛々しい。梨帆子は恋をしていたのだと、今更ながら知る。拓人がつき合ってきた多くの女たちのような恋ではなく、今の自分と同じ、透き通った、純粋な恋。知ったところで、梨帆子の気持ちに応えることはできない。報いる気もない。なんて酷い奴だろうと自分でも思う。
「ったく」
呟きは、誰に届くことなく、自分の中に落ちる。梨帆子が何を考えていたのか、今の拓人にはまだわからない。でもきっと、わかるようになるだろう予感はある。今、拓人の中を占めているのはあの子供だけ。
彼女との関係を進展させてみたい想いはないではないが、彼女に嫌われたらと思えば怖くてたまらない。彼女に会えない毎日なんて、フルカラーのこの世界をモノクロ写真で見るようなものだ。この幸福を一度味わえば、失ってしまうのは怖い。純粋な恋は麻薬のように心を蝕み、中毒にさせる。
この恋の行方は、いくら考えてみてもわからない。破滅的な展開を想像し絶望してみても、次の瞬間、また彼女への恋心に突き動かされる。彼女がいない世界なんて考えらない。なのに、彼女に近づくことは怖くてできない。なんて苦しくも幸福な毎日だろう。
今はただ、彼女が幸福であれば良いと願ってやまない。
終
ご覧いただきありがとうございました。〔2013/11/07〕
ligamentさまの「煽り文」使用
2015/7/14 訂正
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