森

魔法J

 闇。
 暗闇。
 一筋の光も、微かな音さえも存在していない暗黒の世界。
 私は一人そこにいる。
 永遠とも刹那とも思われる時の流れ。
 いつからそこにいるのかわからない。
 膨大に広く、閉ざされた暗い世界。
 気が狂いそう……。
 死んでしまいたい。
 ……でも、どうやって? 
 そこにはなにもない。
 そこには私、たった一人。

 光。
 柔らかな朝の光。
 小さな窓から流れ込む六月の優しい光に、ジェーンはまぶしそうにまばたきを何度か繰り返す。それが現実であることを確かめるように。
 やがて、ゆっくりとお腹の上で組んでいた手をとき、寝汗で濡れたひたいに手をやり、青みがかった銀髪をかきあげる。
 大きく息を吐き、だるそうにベットから身を起こし、部屋中にともしていた明かりをゆっくり消した。
「まったく……世界は光で溢れているし、人間だって鬱陶しいくらいいる……なのに……夢の中には……」
 口の中で言葉を飲み込む。
 壁に掛かった小さな壁掛け時計に目をやる。――時計の針は六時十五分を指している。
 着古した服に手早く着替え、腰まで届く長い髪をとかしもせず一つに束ねると、朝食代わりの栄養錠剤を胃に流し込み部屋を後にした。

 朝の冷たく澄んだ空気の下、ジェーンは足早に図書館へと歩を進める。
 コンピュータネットワークの発達した今、書籍などという古い記録媒体は旧世界の遺物のように取り扱われている。けれど、この学園の図書館は世界中の書籍を網羅しているとも言われるほど膨大な蔵書量を誇っている。
 このところジェーンは図書館に通いつめている。けれど彼女は書籍に興味はない。
 哲学科で最先端のコンピュータ技術を研究している彼女と図書館、まったく共通点がないのだが――ジェーンが図書館に通うようになったのはある一つの目的のためだった。

***

 二ヶ月前、四月の某日。
 わずか十歳で哲学科に在籍を許された、学園始まっての才女に対し、少なからず反感やねたみを抱くものはいた。研究のこと以外にまったく興味のない彼女には、嫌がらせや皮肉もほとんど通じなかったのだが、唯一、彼女がこたえた出来事があった。

 その日、ジェーンは遅くまで研究室で一人、熱心に研究をしていた。ようやく一段落ついたのは、午後七時も過ぎたころだった。
 彼女は帰ろうと研究室の唯一の出入り口である、重厚な内開きの金属ドアに手をかけた。
「あら? 自動ロックでもかかっているのかしら?」
 ドアは硬く閉ざされており、開く気配がない。
 いつもより遅くまで研究室に残っていたので、気づかないうちに閉じ込められたのだろうとジェーンは考えた。
 そこでこんなときの裏技、コンピュータ端末機を持ち出し、学園の全警備を支配するメインコンピュータにアクセスしてドアの自動ロックをはずそうと試みる。
「あれ? ロックされてない?」
 ロックされていないのにドアが開かない――? どうして? 何故ロックされてないのにドアが開かないの? 
 何度もメインコンピュータにアクセスしてこのドアを開けようと試みる。
 けれど、ドアは開く気配すらない。
 メインコンピュータにアクセスできる人間は学園中――哲学科中探してもそうはいない。まして、メインコンピュータのプログラムを書き換えたことがばれると即退学、そして在籍していたことさえ取り消されるというのだから、それほど益のない、馬鹿な真似をする人間もいないだろう。学園の哲学科に在籍していたと言うだけで、引く手数多の未来が約束されているのだから。
 それならばどうやってロックのかかっていないドアが開かなくなるというのだろう。
 何度もドアを開けようとノブを廻し、何度もメインコンピュータにアクセスする。

――ブン……

 消灯時間が来たらしい。消灯プログラムに沿って、学園中の明りが波を引くように消えてゆく。
 訪れる闇の世界――。
 ジェーンは凍りつく。
 闇――どこへも行けない、暗黒の世界。何もない。どこへも行けない。――闇。
 違ウ、コレハ夢ジャナイ。夢ジャナイ。夢ジャナイ。
 必死に自分に言い聞かせる。コンピュータのディスプレイの明かり、コンピュータの発する電源光が暗闇に浮かび上がっている。
 そう、これは現実。夢じゃない。
 自分自身に言い聞かせるが、震えが止まらない。
 どれほどの時間そうしていたのだろう。

――ガタッ

 音とともに、それまで開かなかったドアがにわかに内側に開いた。
「???」
「やはり誰かいたのか」
 十三・四歳くらいの黒髪の少年が顔をのぞかせる。童顔で背の低い、黒髪黒い瞳の少年――だぶだぶの軍事科の制服を着ている。
「あんたはこんなとこで何してたんだ?」
 十六歳のジェーンに対して容赦ない言葉。
 ジェーンは瞳に涙を浮かべ、空笑いを漏らす。湧き上がる深い安堵感。
「何だ? なぜ泣く?」
 感情のない、儀礼的な言葉にも今のジェーンには強い安心感をもたらしてくれる。
 ようやく立ち上がり、ドアの外に出たジェーンはその疑問を思い出した。
「どうやってこのドア開けたの?」
 ジェーンと同じ背丈の少年はきょとんとした顔をし、
「これ」
 と、長い鉄棒を差し出す。
「なに? これ」
 ジェーンはわけもわからず聞き返す。少年は面倒くさそうに、
「これをノブのところに縛り付けると、この扉、内開きだから開かなくなるんだよ」
 言って実演して見せてくれた。ノブの上に鉄棒を当て、紐でその鉄棒をノブにくくりつけると、ドアの横幅よりもわずかに長い鉄棒が邪魔をして、内開きのドアは開かない。
「こんな単純なことで私はドアの外に出られなくなってたの……?」
 あまりに単純で……馬鹿馬鹿しい。
 ジェーンは先ほどまでの自分のことを思い、笑みを漏らす。少年はその様子にまるで気付かなかったらしく、相槌を打つように言葉を続ける。
「そうみたいだね。でも普通、ドアから出られないなら窓から出ればいい」
「窓? 窓は出入り口じゃないわよ」
 ジェーンの何を言い出すの、とばかりの言葉に少年はしばし考え込み、
「あんた、もしかしてジェーン・ジニスか?」
 どうして私の名前を知っているんだろう……?
 ジェーンは戸惑いつつも、首を縦に振る。
「……そうか」
 戸惑うジェーンをのこし、少年はジェーンから遠ざかってゆく。
「待って」
 少年の背に向かって投げかけた言葉に、少年は振り向かなかった。ジェーンは急いで研究室から自分の荷物を持ち出し、少年のあとを追おうとしたが、すでに少年の姿は闇にまぎれたように無かった。

 次に少年を見かけたのは、翌日の早朝だった。
 悪夢にうなされて目覚めたジェーンは朝早くから学園へ来ていた。まだ早朝と言うこともあり、開いている施設も少ない。
 ぶらぶらと学園内を散歩する。鮮やかに萌える街路樹。静かな湖面。鳥たちの鳴き声。建ち並ぶ校舎の群れ。……誰もいない。昼間溢れ返るあの五月蝿い人ごみは皆、まだ寮にいるのだ。
 朝のこの静観とした雰囲気がジェーンは好きだった。独り、その静かな景色の中を歩き回る。
 ……気持ちいい。
 世界中に自分しかいない感覚、世界を支配しているような気分……自分だけの為に世界が存在しているような……。
 視界の隅にふっと現われる、歩いている人影――昨日の少年だった。少年は湖の近くにある蔦におおわれた巨大な建物へと吸い込まれるように消えた。
 ジェーンは無意識に少年の後を追う。ジェーンが始めて入る建物。
「ここ……は?」
 きょろきょろとあたりを見渡すと『図書館』という表札が目に入った。図書館とはなんだろう。
 少年を探して中を歩く。
 一部の隙もなく、天井付近まで本が詰め込まれている。内部は広く、カビ臭い。
 十分ほどかかってようやく少年を見つけた。少年は分厚い本を熱心に読んでいる。じっと見つめていると、少年は不意に顔を上げ、
「何?」
 冷たい瞳で問うた。ジェーンはおろおろと戸惑ったが、
「き、昨日はありがとう……」
「昨日?」
 少年は眉間に皺を寄せ、考え込む。
「――ああ、あれか」
 少年は興味なさそうに呟くと、本に目を戻す。
「あの、えっと、どうして私がいると思ったの?」
 ジェーンが尋ねると、少年は面倒臭そうに顔を上げ、
「あの校舎の近くを通りかかったら、中から悪巧みしてるって顔した奴らが出てきたんだ。そのときは放っといたんだけど――」
「放っといたって、それって何時ごろのこと?」
 少年は話の腰を折られたことに気分を悪くしたのか、ジェーンの質問に答えることなく、
「消灯時間前に通りかかった時に、たまたま思いだして校舎の中を歩いてたら、鉄の棒を貼り付けた扉があった。そして、そこに君がいた。それだけだよ」
 少年は話し終わると、再び本に目を戻す。
「あの、」
「図書館は静かに本を読むところだ。喋りたいなら、出てってくれないか?」
 少年はイライラした様子を見せる。ジェーンは話し掛けるのをやめ、少年と同じように近くにあった本を手に取り、近くの椅子に腰掛けた。
 生まれて初めて本を開く。――インク臭く、埃臭い。

 それから毎日、ジェーンは早起きすると図書館へと訪れた。
 黒髪の少年を探し、同じ部屋で適当に選んだ本を読む。少年が部屋を移動するとそれについて移動し、また適当に本を選び手に取る。そんなことをこのところジェーンはずっと繰り返していた。

 春から初夏へと季節は移り変わり、青み掛かってきた並木道を歩きながら、ジェーンは学園奥にある、巨大な建物――図書館へと目をやる。
 その灰色のコンクリートの塊は、その肌に緑の蔦を幾重にも絡ませ、弱い朝の光の中、悠然とそびえ立っている。
 それは森とも見紛う雰囲気――もし、建築者がそれを狙っていたのならば彼を天才と称しても過言ではない――圧倒される外観。
 ジェーンが図書館へ入ろうと階段に足をかけた所――。
「おはよう!」
 声とともに突然肩を叩かれ、ジェーンは大きく後ずさった。
「な、何……?」
 ジェーンの声には怯えの色が混じっている。
 声をかけた人物は後ろ頭を掻きながら申し訳なさそうに、
「ごめん、そんなに驚くとは思ってなかったから」
 と謝る。
 ジェーンは図書館の入り口にある、大人がふた抱えしてやっと届くほどのコンクリート柱の影からその人物を睨みつけるように観察する。
 朝の弱い光に映える長い金髪。澄んだ深いブルーの瞳。年齢は二十歳前半というところだろう。百八十センチはあろうかと思われる背丈。シャツの上にフードのついた黒いコートを羽織っている。顔には申し訳ないといった様子の微笑み。
 朝、校内に人がいることなどほとんど無い時刻。今まで一度も声を掛けられたことなど無い。まして、昼間でもジェーンに声を掛ける人物はそういない。
 ジェーンは頭をひねるが……見覚えは無いように思う。と言っても、いちじるしく他人の顔と名前を覚えられない彼女にとって、絶対にとは言い切れない。
 ジェーンは警戒を解かず、注意深く尋ねる。
「あなた、私に何の用?」
「そんなに身構えられちゃ……」
 男は申し訳なさそうに言った。深く反省しているらしい様子に、彼女はしぶしぶと柱の影から姿をあらわす。が、ジェーンは警戒を解かない。
「質問に答えて!」
 男はふっと笑みを漏らし、
「あぁ。そうだね……その前に自己紹介をしたほうがいいみたいだね」
 男の言葉にジェーンは慌てた様子で相槌を打つ。
 彼女のそんな様子に彼はまた笑い、
「僕はアレン・ウイザード。君と同じクラスだよ……知ってた?」
 言って、握手を求めるように片手を差し出す。
「私はジェーン。ジェーン・ジニスよ」
 ジェーンはこの謎の男がクラスメイトだと知り、急いで自分も名乗ったが、手を握ることはなかった。
 アレンは行き所ない手を引っ込め、
「知ってる。君を知らないヤツなんてモグリだよ」
 可笑しそうに笑いながら言った。
 モグリとはなんだろう? いや、そんなことよりも朝早くからクラスメイトが何の用事があって自分に声をかけるというのだろうか。
「で、私に何の用なの?」
「別に。用はないよ」
「え?」
「図書館に用があって来てみたら君がいた。こんなに朝早いから誰もいないと思ってたのにね。それに、君はクラスメイト、僕が朝の挨拶をしても何らおかしくないと思うけど?」
「そ、そうね」
 少し納得はいかないが、反論の余地はなく、ジェーンは頷く。
「それで、君は?」
 ジェーンはアレンの問いかけの意味がわからず聞き返す。
「どういうこと?」
「僕は君に挨拶したよ。君は?」
「ああ! お、おはよう」
「おはよう。ジェーン・ジニス。ここで何してるの?」
 いきなり名前を呼び捨てとは馴れ馴れしい。いやそれよりも、先刻から会話の主導権をアレンに握られていないか? 相手のペースで話をしてはいけない……ますますつけこまれる。
「関係ないでしょ!」
「そう、じゃ、僕のほうの用事が何かも教えられない」
 アレンはニヤニヤ笑いを浮かべている。
「聞いてないじゃないの、そんなこと!」
「あとで後悔するよ」
 アレンは楽しげに言い残し、バイバイと手を振り、さっさと図書館内へと入ってゆく。
 ジェーンはアレンが去った後もその場でふつふつと湧き出す怒りに身を震わせていたが、大きく溜息をつき、
「一体なんなのよ」
 ひと言、言葉を吐き出すと少しは気が晴れる。ジェーンは気を取り直し、図書館内へと足を踏み入れた。

 黒髪の少年は、南に面した窓際の閲覧室にいた。いつもと同じように何か部厚い本を読んでいる。だが、いつもと違ったことに少年の傍らにさっきの男、アレンがいた。
 ジェーンは不可解な顔でアレンを見る。
 アレンはそれに気づいたのか、手元の本から顔を上げ、ふっと微笑を返す。
「さっき僕の用事が知りたいって言えばよかったのに」
 といった様子で。
 なんともいまいましい。
 ジェーンはアレンのことなど気づきもしなかったというようなすまし顔で、黒髪の少年が良く見える位置に席を取る。
 アレンはその様子を笑いを堪えたような顔をして見ていた。そのとき、黒髪の少年が顔を上げ、アレンに何か低い声で話し掛ける。
 黒髪の少年が迷惑そうな顔をしているところからすると、アレンは注意でもされたのだろうか。席を立ち上がり、閲覧室の席はどこも空いているというのに、よりにもよってジェーンのまん前――少年の姿を遮る椅子に坐った。
 ジェーンはアレンを睨み付けるが、アレンはひるむことなく、親しげに話し掛けてくる。
「何の本読んでるの?」
「あなたには関係ないでしょ」
「本逆さま」
「わ、わかってるわよ。そのくらい」
 ジェーンは慌てて本をもち返る。その様子を、アレンは目を細めて見ていたが、
「本読まないんなら、ここ出ない?」
 小さな声でジェーンに話し掛ける。
 ジェーンはアレンをまじまじと見つめ、
「どうして! それよりどこかに行ってくれない? 邪魔なんだけど」
「どうしてさ。図書館は本を読むところだよ。僕がいたって邪魔じゃないと思うけど?」
 アレンの言っていることは正しい。悔しいことに筋が通っている分、言い返せない。
「話し掛けないで」
 アレンに言い置き、少年の姿が見える位置へと席を移動する。
 するとアレンは少年の姿をふさぐように、またジェーンの前の席に坐る。
「どうして邪魔するのよ」
「なにが?」
 手元の本に目を注いだまま、アレンはすっとぼける。
 ジェーンはアレンを睨みつけながらもう一度繰り返す。
「邪魔しないで」
「何を?」
 アレンはあくまでもとぼける気らしい。
「と、とにかく邪魔しないで!」
「図書館では静かに!」
 黒髪の少年が声をあげる。思っていたよりもジェーンの声は大きかったらしい。迷惑だと言わんばかりの冷たい瞳で二人を睨みつけている。
 どうしよう。
 ジェーンは不安に襲われる。
「ほら、ここ出よう。あいつの機嫌損ねたくないだろ?」
 アレンの言葉にジェーンは素直に頷き、彼の後にしたがって図書館を後にした。

 図書館から出るとアレンはくるりと振り向き、ジェーンに話し掛けた。
「さて、僕に用があるだろ?」
 ジェーンはしばし考えたが、
「何で?」
 尋ね返す。
 アレンはしばらくの沈黙の後、高笑いと共に言った。
「ハハハハハハハ……天然ボケ? それとも本当に気づいてないの?」
「……?」
「君が毎日図書館通いして見つめてる、黒髪の――」
「な、なんでそんなこと!」
 真赤な顔のジェーンがアレンにつかみかかり、口をふさごうとする。が、アレンはジェーンと比べ二十センチほど身長が高いので、簡単にかわされる。
「と、友達だから」
 ジェーンから逃れながら、アレンは言った。
「カイとは――」
 ジェーンはその言葉にぱっと手を放す。
「カイ?」
 アレンは突然ジェーンに手を離されたことで倒れそうになったが、何とかといった様子で体制を取り直し、
「あいつ、カイ・グラントって言うんだ……あいつとは友達なんだ」
「それで?」
 ジェーンは続きをうながす。
「カイから相談を受けたんだ。このごろ自分のことを見張ってる奴がいるって……それで――」
 ジェーンは顔を青くする。
 自分の行動が不審に思われた?
「相談を受けたんだ。どうにかしてくれないかって」
 アレンはまっすぐに立ち、ジェーンを見下ろすように話す。ジェーンはじっと自分の靴のつま先を見詰め、アレンの話をうながす。
「それで……?」
「クラス委員にならない?」
 ジェーンは何度か瞬きを繰り返し、
「クラス委員?」
 アレンの言葉をそのまま返す。
 どうしていきなりクラス委員の話をし始めたのか理解できない。
 アレンはジェーンのそんな様子にも全くかまうことなく話を続ける。
「みんな集まりが悪いからさ、うちのクラス、クラス委員が決まらないんだ」
 アレンの言葉を聞いてもまだ、なぜ突然クラス委員の話を始めたのか理解できず、
「どういうこと?」
 ジェーンが尋ね返すと、アレンは大きくため息をつき、
「はっきり言ったほうがいいみたいだね。君にクラス委員になってもらいたいんだ」
「何で私が? あなたがすれば?」
「悪いけど、僕は入園してから三年間ほどクラス委員やってるよ」
「じゃあ、今まで通りあなたが――」
 アレンはジェーンの言葉を遮り、
「ダメ。必ず二人でって大原則があるんだよ。今まで僕と一緒にクラス委員してた奴は交換留学生で先月からいないしさ、探してたんだ。クラス委員やれる暇な人」
 暇なという部分が大きく聞こえたのは気のせいではないだろう。 
「わ、私は暇じゃ――」
「このところ毎日、用もない図書館へ来てるだろ? 大丈夫、クラス委員って週一回開かれる委員会に出席してればいいだけだから」
「でも――」
「このこと、学園中に広めたい?」
 アレンの目が笑っている。
「このこと……?」
 言われてジェーンは戸惑う。
「別に、問題は……ない……でしょ……?」
 そんな風に言われると不安になる。自分は全く普通の常識について知らないことが多いことは、わかっている。もしかすると、あの行為には何か不都合があるのだろうか……?
「君もカイも自分たちが思ってるより有名人だってこと、気づいてないみたいだね」
「ど、どういうことよ……」
 ますます不安になる。自分が思っているより有名人、ということは……不自然な行動は慎むべきだということなのだろうか。
「言った通りの意味だよ……どうする、クラス委員?」
 アレンの目が凶悪に光る。
「わ、わかったわ」
 ジェーンはそれだけ言うと背を向け歩き出したのだが、アレンは慌ててジェーンの前に廻りこみ彼女の片手をつかみ 笑顔で、
「握手、握手」
 と組み合わせた手を上下に振った。

 翌日からジェーンはクラス委員の名のもと、時間を忙殺されるようになった。もちろん、図書館に通う時間など五分とありはしない。
 アレンに言わせれば、
「このクラスは非協力的な人間が多いから……他のクラスはもっと楽なんだけどね」
 ということだった。確かにクラスの人々は皆、非協力的だった。話し掛けても聞いてないし、いくら言っても覚えてない。
 そんなこんなで慣れないクラス委員になって一ヶ月。
 精神的にも肉体的にも慣れない仕事に疲れきっていた。あの悪夢を見ないために、なるべく眠らないようにしてきたことが、ますます体を疲弊させる。教室でレポートを書いていたジェーンは穏やかな光、やわらかな風に誘われ――。

「……ん?」
 目の前に、弱い赤銅色に輝く柔らかな髪、美しい造型の顔――アレンの顔があった。
「な、何?」
 ジェーンは口元のよだれをふき取り、辺りを見回す。――辺りはもう日が陰ってきている。時計の針は六時三十五分。
 二時間ほど記憶がない。
 その事実に、ジェーンは派手な音を立てながら、椅子から立ち上がる。
「あ、おはよう……ジェーン」
 その音で、アレンは目が醒めたらしい。目を擦りながらあくびをしている。
 ジェーンは冷たい瞳で、アレンに問う。
「何であなたが、私の横で寝てんのよ?」
 アレンはゆっくりと大きく伸びをし、
「今日は委員会の日だよ。ジェーン探してたら、ここで寝てたから……僕もつい」
「『つい』って何よ? 委員会はどうなったの?」
「この時間じゃねぇ……」
 両手を降参といった様子であげ、首を振る。
「もう終わってる。どう? ゆっくり寝れた?」
「……」
 その言葉で気づく。あの悪夢を見なかったことに。
 ジェーンはアレンの顔を見つめ、大きく頷く。
 アレンは優しげな微笑を浮かべ、
「そう、良かったね。じゃあ、また明日」
 手を振って、教室を出て行った。
 後に残されたジェーンはその不思議さに頭を捻ひね》る。いつだって、どんなときだって、必ずあの夢を見てきた。光も音も、自分自身の肉体も、何も無い――悪夢を。
 
 ***
 
 翌日。
 委員会の進行役・執行部に呼び出され、アレンとジェーンは委員会に欠席したことをきつく叱られた。執行部を後にした二人は、クラスへと向かって歩いていた。
「まったく、クラス委員って面倒だろ?」
 アレンが大きく溜息を吐きながらそう言ってくる。ジェーンは側を歩くアレンを冷たく睨み上げ、
「あなた最初、クラス委員は委員会に出席するだけって言ってたわよね。なのに何であんなに雑事があるの?」
 アレンはジェーンに比べ二十センチくらい背丈が高いから、どうしても見上げる格好になってしまう。
「仕方ないよ。他のクラスは、クラス委員の他に、雑事を全般的にする係りって制度があるんだけど、うちのクラスじゃまるっきり機能してないからね。みんな自分のことに一生懸命で、クラスのことなんてまるっきり……だからね」
 アレンは芝居かかった仕草で両腕を掲げ上げ、天を仰ぎ見、大きく肩を落とす。
 そんな仕草をしてみても可笑しく見えないのだからこの男はたいしたものだ……。
 そんな風に思っていると、ちらっとアレンと目が合った。ジェーンは慌てて、
「それに何なの? この行事っていうのは!」
「毎年行われてる通例の行事だよ。ほら、体育大会とか、陸上競技大会、球技大会、文化祭に音楽祭、ダンス大会に演劇祭、研究発表会に、論文発表会、創立記念合唱祭に……あと何だっけ?」
 どうでもいい話だったのだが、アレンは懇切こんせつ》丁寧に教えてくれる。こんなどうでもいい話でも振ってしまったからには続けなくてはアレンに悪い……気がする。
「数え上げてたら十分は掛かるわ。ここってこんなに行事あったの?」
「知らなかった? ほら、ここって大きく分けても軍事・経済・哲学・芸術の四つの科があるだろ? だから、週に一回くらいの割合で、どこかの科で何か行事をやってるんだ。例えば、今週は……芸術科、近代美術による『近未来アート展覧会』とか……」
 言いながら、行事予定表を見入っている。最初は最悪な、嫌な男だとしか思わなかったが、案外いい人間なのかもしれない。昨日はあの夢を見なかったし。
 ……なぜ――?
「夢、どうやったの?」
 アレンはプリントから目を上げ、ジェーンの顔をまじまじと見つめ返し、
「何?」
 アレンは何を言われたのかわからないという表情を見せる。それでもジェーンは尋ねる。
「夢、どうやったの?」
「どうって、何が?」
 何も知らないというのだろうか。いつものようにとぼけているだけではないのか――。
「私の悪夢、どうしたの?」
「どうって……どういうこと?」
 本当に知らないというのだろうか?
「昨日あなたが隣で寝ていたでしょ? あの時、私は悪夢を見なかった。どうして?」
「どうしてって……そりゃ、夢を見ないことだってあるさ」
 笑いながらアレンが答える。
「私はずっとずっと物心つく前から、あの悪夢を見つづけていたのよ。一度だって……一度だってあの悪夢の無い眠りなんて無かった。それなのにどうして!」
 ジェーンが怒鳴ると、アレンはジェーンの肩に手を置き、ゆっくりと首を振って静かに答えた。
「僕に夢をどうこうする力があるって言うのかい?」
 優しい声。わけのわからないことを言い出したジェーンを気のどくに思っているような響さえある。
「……」
 アレンの言っていることは正しい……。
「そうよね。悪かったわ。この話は無かったことにして」
 アレンのもとから走り去る。アレンと一緒にいると自分がコントロールできない。どうして、あれほど感情的に物事をしゃべってしまうのだろう。
 
 ++++++++++
 
 季節は夏から秋へと移り変わろうとしていた。図書館を覆う蔦つた》が色づき始め、緑の館であったそれが、今ではほんのりと黄色っぽく色づいている。
 ジェーンはあたりを窺うかが》いながらゆっくりと、カイに近づいた。
 そっと小さな声で尋ねる。
「アレン、いないわよね?」
 カイは分厚い本から目を上げることなく、首でうんと頷き、
「どうしたの?」
 セリフを棒読みしている大根役者のような声。
「カイ、悪いけど匿かくま》ってくれる? アレンには私がいること教えないでね。絶対に!」
 カイの後ろにある本棚の影に隠れる。
 五分ほどすると、
「ジェーン! おーい!」
 図書館に響くアレンの声。
「アレン!」
 カイは返事をするように声をあげる。
 恨みのこもった眼差しでじっとりと睨みつけるがカイがそれに気づく様子もない。
 ……こういうヤツなのよね、カイは。
 そう思ってみてももう遅い。アレンに見つかってしまったのだから。それでも、溶け込もうとでもいうかのように体を本棚に押し付け、息を殺す。
「どこだ?」
 アレンの声。
「世界史のところ!」
 カイが答えて三分もかからずアレンはその部屋に現われ、隠れていたと言うのにジェーンは簡単に見つかってしまう。
 アレンはジェーンの前に立ち、上から見下ろしながら、
「ジェーン、どうして僕から逃げるのさ?」
 心外だと言うような口調。自分の行動にまるっきり覚えがないとみえる。どうしてカイといい、アレンといい……腹が立つ――
「あなたが不必要に私にまとわりつくからでしょ!」
 アレンはチラッとカイのほうを見る。それに答えるようにカイは、
「気を利かせたほうがいいのか?」
「ダメ!」
「サンキュっ」
 ジェーンの声に重なるように、アレンの声が重なる。
 カイは重い腰を上げ、数冊の分厚い本を持って部屋を出て行ってしまう。ジェーンは馬鹿でかい体の持ち主――アレンに進路を邪魔されて逃げることができない。
「カイぃぃぃ行かないでぇぇぇぇぇ」
 悲鳴に近い声を上げるが……カイは助けてはくれない。カイはどこまでも他人に無関心だ。いや、ここのところ毎日繰り返されているこの行為――図書館での追いかけっこに腹を立てているのかもしれない。
「さ、立ち話もなんだから椅子に座ろうよ」
 カイが立ち去ったのを見届けるように、アレンは微笑む。
 優しい微笑み。全てを優しくおおい包んでしまうような……。
 ジェーンは素直にアレンが背を引いてくれた椅子に腰を落とす。
「一体今日は何の用? クラス委員の仕事ならもう済ませたわよ」
 睨みつけるような瞳と冷たい声色で話し掛けるのだが、アレンは全く怯ひる》むことなく、むしろ優しい声でどうでもいいような世間話を始める。
 アレンとしゃべっているとジェーンはいつも眠気に襲われる。うとうととし始めると、アレンはいつも低い声で何かつぶやく。
「アレン……?」
 アレンの片手がジェーンの後頭部へとまわされ、触れられると、ジェーンは崩れるように眠りの世界へと引き込まれる。逃れられないほどの強い睡魔――。
 アレンが何かを囁ささや》いている――けれど、それを聞き取れない。

 ……またか。
 大きく溜息をつき、そっと静かに立ち上がる。
 自分は昔からこれほどよく眠る体質ではなかった。それが、アレンが側にいるとなぜだかあの悪夢のない眠りの世界へと引き込まれてしまう。
 側で眠っているアレンを起こさないよう、静かにその部屋を出てカイの元へと足を運ぶ。カイは第一閲覧室で本を読んでいた。
「カイ、」
 呼びかても顔を上げてはくれない。
「ここ、座っててもいい?」
「図書館は本を読むところだよ。おしゃべりする所じゃない」
 慌てて近くの本を手に取り、目を落とす。
「……あの、カイ――」
「図書館はおしゃべりする所じゃない」
 しゃべる時も本から目を上げない。
「ごめん……」
 小さく謝って本に集中しようとする。その本は『ヴァンパイア消滅計画』というタイトルの小説だった。ちっとも面白くない。

 +

 定期テストも終り、いよいよ冬の気配が強まってきていた。
 けれどジェーンは相変わらすアレンに追い掛け回されていた。
 今日も今日とて図書館で、ジェーンとアレンははカイに迷惑をかけ、カイはどこか他の場所へと引っ越してしまっていた。
 ジェーンはアレンを睨みつけ、
「で、何の用なの? 私、クラス委員の仕事は済ませたわよね?」
 いつものように冷たい声で尋ねる。アレンはきょろきょろとあたりを不自然に見渡すが、じっと立ったまま動かない。
「何? 何の用なの?」
 ジェーンがもう一度声をかけると、アレンは戸惑いつつ、
「いや、これを……」
 薄いブルーのリボンでラッピングされた可愛らしい、小さな包みをジェーンに渡す。
「何、これ?」
 シンプルな銀の指輪が一つ。
 綺麗……。
 取り出して、右手の薬指にはめる。顔の前で右手を何度も近づけたり離したり、裏返したり表にしてみたりと指輪を眺める。窓の外から入り込む弱い冬の日差しを受けて、それはキラキラと月の光のように輝く。
 本当に綺麗――。
「婚約指輪」
 えっと顔を上げてアレンを見る。
「私に?」
 婚約と言えば、結婚をする約束と言うこと。一体なぜ? どうして研究だけが生きがいの私なんかと婚約したいなどとと言い出すのだろう……?
「そうだよ」
 アレンは躊躇ちゅうちょ》なく答える。
 ますますわからない。
「どうして?」
「どうしてって……愛してるから」
 あ、愛? 私のことをアイシテイルですって? どこからそんなとんちんかんな言葉が沸いて出てくるというのだろう。結婚するというのは愛のある恋人同士の間に出てくる言葉であって、ただの友達同士の間に出てくる言葉じゃない……はず。それならば――
「ちょっとまって、『愛してる』って挨拶の一つじゃないの?」
 もう一つの可能性を示唆しさ》する。するとアレンはむっとした顔をし、
「挨拶でこんなこと言わないよ」
「え……ちょっと待って、何? まさか、あなたが私に恋をしてる? ……じゃない、愛してるって言うんだから――」
 あ、頭が混乱する。
 どうゆうこと? 挨拶では愛してるって言葉は使わなくて、アレンと私は友達で、アレンは私に婚約指輪を渡して、婚約指輪は恋人同士のもので――。
 突然、優しく抱きしめられる。
「愛してる」
 頭上から響いてくる低く優しい声。
 ……顔から火が出そう。頭の中が――真っ白で……、えっと、何か言わないと――
「お、お願い、ちょっとまって――」
 ジェーンはアレンの胸の中でやっとそれだけ口にした。
「何を考えてるの?」
「いや、だって、恋って、じゃない、あの、あの、愛……でしょ?」
「気づいてなかったのは、ジェーンくらいのものだよ」
 突然冷めた声。声の主は、すぐ近くから現われた。
「な、何でお前がここに……」
 顔を真っ赤にしてうろたえるアレンに、冷めた口調でカイは答える。
「必要な本を一冊持っていき忘れたんだ。引き返してみたら、僕に気づく様子もなく求婚してるバカップルがいた」
 バカップル?
「き、聞いてたのか……全部?」
 アレンが真っ赤な顔で尋ねると、
「一部始終。別に見ようとしてたわけじゃない。それより、ジェーン」
 突然、会話を振られる。予想もしていなかったものだから、びくっと体がすくむ。
「どうせ君のことだから、愛や恋がどういうことかって悩んでるんだろ?」
「――え、ええ」
 なぜ解ったんだろう?
「今、ドキドキしてる?」
 何を言い出すんだろう……?
 ジェーンは戸惑いながらも、大きく頷く。
「アレンが死にそうになったらどうする?」
 どう……するって、どうなんだろう……?
 ちらっとアレンの顔をうかがう。
「その様子じゃあまんざらでもないって感じだね」
「え!?」
 カイの言葉に二人が声をはもらせる。
「私も恋、じゃない、愛をしているっていうの? アレンに?」
「そうじゃないのか? 今までアレンに抱きつかれても、愛の言葉を囁かれても嫌そうにしてなかったんだし――」
「だって、あれは――」
 友達の、とジェーンが言う間もなく、カイに話は遮られ、
「嫌だったり、迷惑だったら徹底的に抵抗するし、そんな事してくるやつのことは避けるものだよ……普通は」
 普通――。そうか、普通はそんなことをされても嫌がらない人は友達って言うんじゃなくて、恋人と言うのか……。
「アレン、」
 ジェーンは真っ赤な顔をアレンに向け、
「あの、えっと……その、ちょっと待ってくれる? 返事……」
 怒られた子供のようにアレンの顔を見上げる。
 アレンも顔を赤くしながら、上の空と言った様子で頷いた。
 互いに気恥ずかしくて会話ができない。これが恋と言うものなのだろうか。
「あの、えっと、じゃあね」
 不自然に二人に言葉をかけると図書館を出た。
 大きく肩を落とし溜息を吐く。深い深い自己嫌悪。一体私はどうしたというのだろう。
 普段の私は――冷静で、大人で、感情を表情に出したりせず、女の子らしさなど微塵みじん》もない……そう、先刻のアレンに対するあれは私ではない。
 でも、この胸のドキドキは悪くない。

「えっ? 今、何て言ったの?」
 いつもの図書館――ではなく図書館前のベンチに腰掛けていたカイに、ジェーンが話し掛けると返事が帰ってくるかわりに、そう告げられた。
「卒業することになった」
 一字一字噛み締めるようなしゃべり方。……不機嫌そう。
「卒業って……」
「僕はもう十七歳だからね」
 学園はある一定の成績を修おさ》め、卒業課題を提出し終わった者はいつでも卒業できる。
 ジェーンはベンチに腰掛けているカイの姿を観察する。ジェーンと同じくらい――百六十センチほどの身長。やや長めの黒髪。大きな瞳。だぶだぶの軍服――。
「卒業おめでとう……ってカイって私より一歳年上なの?」
 その言葉にカイは初めてジェーンの顔を見た。カイは大きく溜息をつき、
「まあ、この身長だし、童顔だから幼く見られてるとは思ってたけど……一体僕のこと何歳くらいだと思ってたんだ?」
 あきらめたような声。ジェーンは率直に答える。
「十三・四歳」
「……」
 カイはますます大きく肩を落とし、やがて壊れたように笑い始めた。
「カ、カイ……大丈夫?」
 カイは笑いをこらえていると言った様子だったが、
「ああ、心配ない。……そうだ、これあげる」

 ハンカチにくるまれた小型の軽い包み。受け取ると、
――柔かい?
「何? これ」
「寮母さんの特製サンドイッチ。美味しいよ」
「サンドイッチ?」
 ジェーンの顔にクエスチョンマークが浮かぶ。
「まさかサンドイッチ、食べたことないの?」
「……え、いや……そんな事ないと思うけど……」
 包みを開けて一切れ取り出す。
 白くふわふわしたパンの間に黄色と白の綺麗な具が挟まっている。
「可愛い。これ、何?」
「いや、サンドイッチだけど……」
 カイが呆れたような声をだす。
「これ、食べてもいいの?」
「……ああ。本当に食べたこと――」
 一口ほうばる。
 口の中に甘くて、ほんのちょっぴり酸っぱい、幸せな味が広がる。
「どう、美味しい?」
 口の中にものがあるのでしゃべることができない。そこで、うんと大きく首を縦に振る。
「そうやってると、君のほうが十三・四歳に見えるよ」
 カイは可笑しそうに笑う。子供のような無邪気な笑顔。
 ……始めて見た。
 カイにも笑うという感情はあったらしい。カイにはいつもの――妙に冷め切った表情しかしないのだと思っていた。
「――ジェーン」
 その声に振り向くと、アレンが立っていた。
「ほら、君の王子様が来たから僕は退散しないと」
 冗談めかした調子でカイは言うと、図書館へとはいっていった。
 アレンはカイが立ち去るのを見届けると、
「ジェーン、カイと何を話してたの?」
 カイが座っていた場所に、今度はアレンが腰をかける。
「えっと、カイが卒業するって」
「……そうか、やっぱり」
 アレンはどこか暗い顔をした。だが、話題を変えるように明るい声で、
「ところでジェーン、何食べてるの?」
「えっと、サンドイッチ……だったかな?」
 アレンは包みを覗き込み、
「タマゴサンドか。自分で作ったの?」
 一つ手に取り、口に運びながら言う。
「違うわ。これ、カイにもらったの――」
 ジェーンは二つ目に手をのばす。
「寮母さんの特製だって」
「あぁ、おばちゃんの!」
 アレンは大きく頷きながら声をあげる。
「知り合い?」
「カイとは同じ寮だから」
 言われて気づく。同じ科でもなく、年齢も離れた二人が友達だった理由が。
「アレンも寮生だったんだ」
「学園生の九十数パーセントが寮生活してんるんだよ。寮に入ってないほうが珍しいよ」
「……そう言われればそうね」
 自分も寮生だった事を思い出し、ジェーンは三切れ目の卵サンドに手をのばした。

 +

 山々には雪が積もり、世界は白と黒のモノクロの世界へと変貌した。
 ジェーンは二十一歳になっていた。今では学園を卒業し、研究所に所属している。
 彼女の研究――最先端テクノロジーの研究は世界的にも五本の指に入るほど優れており、その日は世界的な科学博覧会で講演することになっていた。
 ロビーに設置された赤いソファーの一つに一組の男女がいる。男性のほうは少々長めの金髪に、澄んだ碧眼。百八十センチほどの背丈で、モノトーンのスーツ姿。
 女性は青みがかった銀髪、フレームの無い眼鏡の奥には深い青色の知的な瞳が輝き、色がぬけるように白い肌に、白いチャイナドレスに似たツーピースを着ている。
「ジェーン……」
 男性が傍の女性に不安そうに声をかける。
「大丈夫よ、アレン」
 書類を見直していたジェーンは力強く応える。
 ここ何週間も続いている不気味な脅迫状に、アレンはジェーンの身を心配していた。
「こんなに警備員もいるのよ。心配することなんてないわ」
 会場に入るためには厳しい手荷物チェックがあったし、警備員もそこかしこに立っている。だから、ジェーンは気にもとめていなかった。けれどアレンは不安でならないらしい。
「本当に大丈夫だから」
 言って、左手の薬指を振ってみせる。アレンはそれを見て微笑んだ。
 ジェーンの左手薬指には綺麗な銀のシンプルな指輪がはまっている――。
「心配しないで、アレン」
 時計を見ると開始時間が一時間後に迫せま》っていた。
「ほら、私もう時間だから」
 アレンと別れ、関係者のみ立ち入れる奥の部屋へと入る。用意された個室へと通され、発表に必要な書類を確認したり、発表するための様々な諸注意を受けているうち、開始時間を迎えた。
 ジェーンは壇上に上がり、一礼をして話し始める。前からニ列目にアレンとカイが座っているのが見えた。
 カイと会うのは一年ぶりだ。けれど、相変わらず十三・四歳にしか見えない。
 ジェーンが話し始めて十分ほど経ったころだった。
「悪魔め!」
 野太い男の声が開場に響き渡る。
 ――?
 観客の一人なのだろう、五十歳代の一人の男が立ち上がり舞台上――ジェーンを指差しながら声を荒げる。
「お前のような腐った奴は裁かれるべきなんだ!」
 警備員が怒鳴る男のもとに駆けつけ捕らえようとするが、男は慣れた様子で逃げ回り、
「森と魔女を殺すものは滅びろ!」
 男が壇上のジェーン目掛け、何かを投げつけた。
 凍りついたようにゆっくりと流れる時間。

 爆発……
       爆煙……
             破壊……

 ジェーンは木の葉のよう宙を舞い、壁に叩きつけられる。
 衝撃はない。あるのはただ、驚き。やがて――痛み。
「ジェーン!」
 アレンの声が遠くから響いてくる。
「ジェーン! ジェーン!」
 アレン……どうしてどこかへ行ってしまうの? 声が聞こえなくなるじゃない……。
 ジェーンの意識は砂時計のように、落ちてゆく。
「助ける、絶対」
 アレンの言葉が染み込むように、ジェーンに伝わってきた。ジェーンは弱々しく微笑む。
 無理よ。助かるわけがない……絶対に……。目の前が真赤だ。きっと、これは私の……血。
 アレン? どこにいるの?
 赤く染まった手を持ち上げる。手は鉛のように重い。
 ジェーンは白くぼやけてくる視界にアレンの心配げな顔が見える。
「ア、レン……」
「話すな、今助けるから」
「ア、レン……」
 地球の重力に逆らって体、いや、体の中にある自分自身、自分の根源、きっと魂と呼ばれるものが軽く浮き上がり、物質的な肉体から抜けてゆく。
 動かそうとする手足は重く、自由に動かすことができない。
「……ア、レン……」
 視界は白くなり、もう誰の姿も見えない。声に出したはずの言葉も、きっと口の中で消滅してしまって、誰の耳にも届いていない。光が、音が失われてゆく。聞こえるのは、心臓の鼓動に似た、高く低く響く、不思議な声。
「ア、レン……?」
 ジェーンが言葉を口にする。弱々しいが、はっきりとした言葉。
 その場にいた誰もが息を呑み、神の存在を、奇蹟を目の当たりにする。
「……アレン……私…………」

 目の前に広がるのは穏やかな白い光――。
 白い光――?
 目を開けると白いカーテンを通って、白い光が部屋の中に流れ込んでいた。知らない部屋。白ばかりの……
「気がついたんだ、ジェーン」
 声の聞こえてきた方を見れば、アレンが微笑みながら立っている。
「良かった……ジェーン、五日間も眠ってたから……」
 安堵した表情。
「ここ……どこ?」
 私は確か発表をしていたはずだ。なのにどうしてこんな所にいるのだろう。
 アレンは苦しげな表情を一瞬浮かべたが、
「ここは病院だよ」
「病院? 病院って……どうして――っ」
 そうだった。私は……。
「大丈夫。後二ヶ月もしたら退院できるって」
 優しい声。
「どうして? 私、死んでないの……?」
「……奇跡だよ。神様の慈愛ってやつさ……きっとね……」
 アレンはジェーンから目をそらして答える。ジェーンもそれ以上深く追求しようとはしなかった。気まずい雰囲気を吹き飛ばすようにアレンが大きな声を上げる。
「それよりさ、結婚式どうする? 一月後に予約してたやつはキャンセルした方がいいよね」
「予約? ……え、ちょっと待って、式あげることになってたの?」
 ジェーンは怪我人らしからぬ大きな声を上げる。アレンはじと目で、
「話してただろ、この間」
「この間――って、ああ、あの時……」
 講演日の数日前、脅迫状のことをアレンに話したときにそんな話もしていたような気がする。
「やっぱり人の話を聞いてなかったんだね」
 アレンは大きく息を吐き、哀しそうな瞳でジェーンを見る。
 聞いてなかったのではなく覚えていなかったと行った方が正しい。が、そんなことをいうとますます機嫌を悪くするだろう。
「あ、えっと、じゃあ、改めて式の日取りを決めましょうよ」
「そうだね」
 アレンは答えてはくれるが、あまり乗り気ではない様子。無意味にはしゃいだ様子でアレンに話し掛ける。
「私が退院できるのって二ヶ月後なのよね? そのころは――」
「退院してもしばらくは静養しないとダメだよ」
「静養って、何日くらい?」
「君の怪我だったら最低でも、一ヶ月だね」
「……ということは、式は三ヶ月後?」
「そのころって、ジェーンは後援会だの学会だのに忙しい時分だったよね?」
「……そうだったかしら?」
「今回の日取りを決めるのにも半年以上かかったんだって事、覚えてないんだね?」
「……えっと……」
 ジェーンが言葉に詰まると、アレンはふっと優しい微笑みを浮かべ、
「心配しないで、ジェーン。僕はどこにもいいかないし、君をどこにも行かせやしないから」
 芝居がかった物言いで、ジェーンをそっと抱きしめる。が、すぐに体を離し、顔をしかめる。
「どうしたの? アレン」
 尋ねてもいつもと同じ答え。
「なんでもない」
 そういいつつ笑うだけ。
 アレンは、何かを隠している。

 コンコン

 ノックの音に二人は、白いドアを見つめる。
 ドアはゆっくりと内側に開けられ、忍び込むようにカイが入ってきた。カイは暗く、思い詰めた顔をしている。ジェーンはアレンと顔を見合わせ、アレンが声をかけた。
「どうしたんだ? カイ」
 カイは押し黙ったまま、うつむいている。アレンは悲しそうな笑みをもらし、
「ごめん、ジェーン。ちょっとでてくる」
 カイの背を押すようにアレンはそっとドアを閉め、二人は病室から出ていった。
 
 ***

 白い天井。白い壁。白いシーツ。神経質なほど、全てが白で統一されている部屋。

 カチャ
 
 ドアを開ける音にジェーンは戸口から入ってきた人物に鋭い目線を投げつける。
「カイ、アレンを連行したってどういうことなの?」
 強い口調でジェーンはカイに尋ねる。アレンがいなくなってから二週間――。
 カイはじっと押し黙り、ジェーンの顔を見ようともしない。
「どういうことなの? あのテロの共犯って!」
 ジェーンは押し殺した声で繰り返す。聞いても無駄だ、無意味なのだということはわかっていた。カイがどういう性格なのかということは、少しはわかっていたから。でも、どうしても――自分を抑えることが出来ない。
「ねえ、カイ!」
 カイはジェーンから逃れるように顔を背け、
「アレンは……ったんだ」
 聞き取れない呟き声。カイは苦しそうに顔を上げる。黒い瞳は悲しみだけを深くたたえている。
「ねえ、どういうことなのカイ!」
「……僕は…………駒でしかないんだ」
 カイは暗い呟きを漏らす。一体何が言いたいのか理解できない。
 病室の中には重い空気がたちこめる。ジェーンがもう一度声をあげようとすると、
「ごめん、ジェーン」
 カイは顔をそらし、病室から駆け去っていった。ジェーンは伸ばした手をゆっくりと引っ込め、カイが姿を消したドアを見つめ、呟いた。
「……どう、いう……こと、なのよ……?」
 駒ってどういうこと?
 何のことだかわからない。

 夢を見る。
 暗い、暗い、暗黒の夢。
 どこにも行けない。
 一人ぼっち。
 恐い……。
 不安。
 焦り。
 恐怖……。
 アレン……助けて、アレン……!
 
 額ひたい》を流れる嫌な汗を腕で拭う。
 アレンがいなくなってからまたあの夢を見始めた。
 暗く、深い恐怖――。恐くて恐くてたまらない。けれど、一番安心できる相手――アレンはいない。
 奇跡的な回復を見せているとはいえ、ジェーンの傷は深いものだった。ベットから起きあがることも出来ず、ただひたすら待っているしかない。ひたすら白に囲まれた檻の中での生活は……孤独。
 ジェーンには親類などいない。だから、誰も見舞いには訪れない。見舞いに来るのは十歳で学園に入り、十七歳で研究所に入った才女の名声を借りたい人々だけ。ジェーンが会ったことも、ジェーンが名前を聞いたこともないような人々だけ。
 死にたい。
 何度、胸の中で呟いたことだろう。
 やりたい研究は沢山ある。けれど、全てをほっぽりだしてでもここから逃げ出してしまいたい。……死んでしまいたい。

 コンコン

 ノックの音がして白い服の中年の女性が病室へと入ってくる。
「検査の時間ですよ」
 感情のない声。彼女はジェーンの体中につけられたチューブや線が体から剥がれていないか確かめる。
 私はモルモットでしかない――。
 様々な血圧の変化、脳波の変化を記録され、理解の出来ない量の薬を処方され、注射され、点滴を受ける。

 黒い夢。
 黒い世界。
 黒い地獄。
 白い現実。
 白い部屋。
 白い地獄。
 毎日が黒と白の繰り返し……繰り返し。

 ジェーンはふと目を覚ます。
 真っ暗な世界――現実? 夢?
 体中に貼られた線を引きちぎり、無理矢理ベットから立ち上がる。吐く息は白い。ガウンを羽織り、ほのかに明るい廊下をたどり、病院内をふらふらと彷徨さまよ》う。
 ――庭?
 広く、整備された中庭。白く凍りついた草木。花々。闇の中で眠っている。
 ジェーンはベンチに腰を下ろす。見上げると、宇宙。わずかに輝く数えるほどの星星。
「……森と魔女を殺すもの、か」
 あの男の言った言葉を思い出す。どういう意味なのかわからない。
「アレンがテロのメンバーで、カイは駒。そして、私は森と魔女を殺すもの……か」
 一体どういうことなのか理解できない。それに、答えてくれるものも無い。
 都市から隔絶されていた学園と違って、この病院は都市の中にあるらしい。星星は人工的な光によって輝きを失い、あの頃、見上げれば手に汲み取れそうだった星星も、今は遠く、それは非現実的な事なのだと知らされる。
 閉ざされた現実、知らない真実。アレンもカイも私の知らない所で、私に見せたことのない顔をして生きていたのだろうか。それとも、それを私が気付かなかっただけ?
 思考は袋小路に迷い込み――いつの間にかジェーンは眠り始める。
「ジェーン・ジニス、あなた死にたいの?」
 目を覚ますと、白いワンピースの若い女が目の前にいた。濃紺の短い髪に、優しい緑の瞳をしている。
「ジェーン・ジニス、死ぬ気だったの?」
 目の色は優しいが、目つきは鋭い。口調も怒っているようだ。
 彼女にもう一度尋ねられ、ジェーンは冷たい瞳で答える。
「……どうして?」
「こんな所で寝ているという事は、死にたがっていると見て間違いないと思うわ」
 腰に手をあてて、酷ひど》く呆れた瞳でジェーンを睨む。
「こんなところで寝ていて死ねるなら、それでも良いわ」
 白いワンピースの女はあきれたような顔をし、
「ジェーン・ジニス。あなた、自分の怪我がどれだけ重いものなのかわかってないのね?」
「怪我……ああ、そう言えば怪我をしてたわね」
 でも、もう見た目にはほとんど怪我はない。それなのに、病室に閉じ込められて、検査ばかり。所詮、モルモットだから――。
 ジェーンは女から逃れようと立ち上がる。

 ――あれ?
 
 ふらふらと、ベンチへと崩れ落ちる。
「ほら、まともに立つこともできない。見た目は治っているように見えても、あなたが負った傷は二週間程度で完治するような傷じゃないわ。もっと体をいたわらなきゃ、死んでしまうわよ」
 女性はジェーンに肩を貸し、立ち上がらせると再び白い部屋へ連れて行った。

 どこへも行けない。

 毎夜繰り返される暗黒の世界。
 見慣れていたはずの夢も、アレンが側にいた間――夢見なかった時間があると何倍にも恐ろしいものへと変わる。

 眠りたくない。

 目が覚めると、一面の白。白いカーテン、白い壁、白いシーツ、白い天井、白、白、白……。白く閉じこめられた世界。

 気が狂いそう。
 
 ++++++++++
 
 空が真っ暗な闇から徐々に、白い光に薄く溶け込んでゆく。空の一点がほんのりと蒼ざめると、後は怒涛どとう》の如く白く霞んでゆく。長い長い闇の世界に比べ、昼の世界への移行――夜明けは急激だ。
 窓からそんな不可思議な色の変化を眺める。青色にもいろいろな色があるのだと教えられる。
 日の光が一筋、空へと注がれるともう闇の世界は終り。草木も眠りから覚めるように鮮やかな色へと移り変わってゆく。
「ジェーン・ジニス、あなた死にたいの?」
 ジェーンが顔を上げるといつの間にやら、白いワンピース姿の女性がそばにいた。
「あなたにはたっぷりの睡眠と、たっぷりの食事、それにのんびりとした生活が必要なの。それなのに眠りもせず、食べもせず、一日中暗く沈んでいたら、良くなる怪我も悪くなるわ」
 女性は言いながら、白い花瓶に生けられた青い花束から枯れた花をぬいてゆく。
「たくさん眠って、たくさん食べないとダメよ、ジェーン・ジニス」
 枯れた青い花を手に女性は部屋から出て行った。

「ジェーン・ジニス、あなたにプレゼントよ」
 白いワンピースの女性が胸に何か抱きながらジェーンの病室に現われたのは、それから三十分ほどしてからだった。
「――あっそう」
 ジェーンが興味のない声を出しても一向に構う様子もなく、
「これよ」
 懐から女性は何かを取り出し、ジェーンの手に押し付ける。
 小さくて温かくて灰色のふわふわして丸い……
「な、何これ? 動いた!」
「大きな声を出さないで。動物は持って入っちゃ行けない決まりになってるんだから」
 女性はジェーンの手からそれを抱き上げ、優しく頭を撫でながら、
「ほら、こういう風に優しく抱いてあげなければダメよ。仔猫が可哀相だわ」
 頭を撫でられている、その小さな塊からは小さなミーミーという鳴き声がもれる。
「コネコ?」
 ジェーンが身を乗り出して、恐々とだが人差し指を突き出して触れてみる。子猫はそのつきだされた指を不思議そうに目で追う。
「可愛いでしょ。道端に捨てられていたのを見つけたの。この子はまだ小さくて、誰かの手がないと死んでしまわ。ジェーン・ジニス、この子の世話をしてあげて」
 ゆっくりと仔猫の腹を撫でながら、ジェーンは尋ね返す。
「世話? どうして?」
「私は忙しいの。あなたはそうやって一日中何もしないで暗い顔をしてるだけでしょ? 仔猫の世話をする暇くらいあるわよね」
「……でも、私、コネコなんて世話したことない……」
 ジェーンにそう答えられ、女性はしばし考え込む。
「たぶん……この大きさだとまだミルクを与えればいい時期だと思うけれど……ごめんなさい、明日には飼い方の資料を揃そろ》えるわ」
 ジェーンの手に子猫を戻し、扉のほうへと向かう。
「子猫はとても死にやすいから気をつけて見てあげていないとダメよ」
 音も立てずに扉を開け、出て行った。
 子猫はジェーンの手の中で元気に転げまわる。
 
 ***
 
「ジェーン・ジニス……死んでしまうわよ」
「えっ?」
 ジェーンが声に振り向くと白いワンピースの女性が立っていた。
「死なないようにずっと見てたんだけど……」
 彼女が立ち去ってから、ジェーンは仔猫の一挙手一投足をずっと見ていたのだ。
 ジェーンが不安げに答えると、彼女は大きく溜息をつき、
「仔猫はそれほど見張ってなくても大丈夫よ。私はあなたのことを言っているの」
「私? ……どうして?」
「今はもう夜の八時を過ぎてるわ。あなた、今日、一度でも食事を食べた?」
「あ、そう言えば食べてなかった……」
 女性が朝、子猫を持って現われたのは六時前だった。
 朝食は七時過ぎからだから……丸一日何も食べていない。
 女性は大きく溜息をつき、
「仔猫の世話をあなたに頼んだのは間違いだったかもしれないわね。あなたには、仔猫よりもあなたのことを世話してくれる人が必要のようね、ジェーン・ジニス」
「……」
「仔猫のミルクを持ってきたから、あなたもほら、食事を取りに行って来て。その間、私が見てるから」
「でも、」
「デモも糸瓜へちま》も胡瓜きゅうり》もないわ、あなたはここに何のために入院したかわかってる? あなたの怪我を治すためよ。それなのに……」
「い、行って来ます。コネコのことよろしくお願いします」
 ジェーンは人に泣き言を言われるのが苦手だ。そこで慌てて食堂へと向かった。

 急いで食事から戻ってみると、白いワンピースの女性の姿はもうなかった。
 満足な食事をした体は眠りへと人の精神を引きずりこみ始める。
 満足げな顔をしたコネコは眠そうに小さな口で欠伸あくび》を一つした。
 ジェーンもそれにつられるように欠伸をする。何度か交互に欠伸を繰り返し、いつの間にか、一匹と一人は眠りの世界へと誘われ――。

 ――誰……アレン?

 窓辺に佇たたず》む黒いシルエット。
 朦朧もうろう》とした意識のなかで知覚するが、目覚めることはできない。懐かしい、蟻地獄のような眠りの世界へと引きずり込まれてゆく――。

 ジェーンはそれから、順調に快方へと向かっていった。
 不思議と夢を見なくなり、たっぷりとした睡眠を取れるようになった。
 食事もきちんととり始めたし、暗い顔をして考え込むことも少なくなった。

 +

 入院して二ヶ月――桃のほころぶ季節へ変わりと、寒さは緩んできていた。
 白いワンピースの女性は忙しいと言いながらも、ちょくちょくコネコ――ジェーンが名づけた猫の名前――のもとへ遊びに来ていたし、ジェーンのよき話し相手にもなっていた。
「ジェーン・ジニス、あと五日で退院ね」
 成長したコネコを撫でながら白いワンピースの彼女はいう。
「退院したら、どうするの?」
 コネコの前足でもって、ジェーンを小突く。
「大丈夫。やらなくてはならないことがたくさんあるから」
 ジェーンは微笑みながら答える。彼女はもっとずっと真面目な人だと思っていたのに、コネコの前では少し子供っぽい事をする。
「そう、好きなことを目いっぱいやってると、嫌なことも忘れられるわね……長い人生の中ではね、逃げたり、回り道したりすることも、とても大切なことだもの、ねぇ」
 彼女はコネコに言い聞かせるように、話す。
「でも――」
 ジェーンの言葉を遮り、彼女は言葉を続ける。
「確かに、立ち向かう勇気も大切よ。けれど、その勇気も時には無謀ともとられてしまうことは多々たた》あることよ。勇気だけじゃなくて、そこで諦めたり、回り道したりできる判断力や知恵も人生には重要なのよ、ねぇ」
 コネコの顔を横に引っ張る。コネコはジェーンに、
「この女の行動をやめさせてや、迷惑やけぇ」
 と訴えるような視線を投げかけてくる。
 ごめん、コネコ。愛らしくて助けられない。
 ジェーンは心の中で謝る。彼女は二人(?)の様子に気づくことなく、話を続ける。
「大丈夫、あなたなら何とかなるわ。知恵と勇気をもっているもの。ただ、もうちょっと判断力を養ったほうがいいけれどね」
 女性はコネコをジェーンに返し、立ち上がる。
「ジェーン・ジニス、私はここでお別れよ」
「えっ?」
 あまりにも突然の言葉に、ジェーンははわけもわからず聞き返す。
「どういうこと?」
 女性は敬礼の姿勢をとり、改まった口調で、
「私はカイ・グラント中佐の命令により、ジェーン・ジニス博士の特別警護をいたしておりましたマルチナ・モリス少尉です。本日付でカイ・グラント中佐のもとより外されましたのでこれにて失礼いたします――」
 そこまで言うと、
「……そういうことだったのよ、ジェーン。ごめんなさいね」
 戸惑ったような微笑を浮かべる。
「そういう……って?」
 ジェーンが不思議そうに尋ねると、マルチナと名乗った女性は、
「カイ・グラント中佐は心配していらっしゃったみたいです。あなたと、アレン・ウイザードさんのこと――」
 その名前にジェーンは顔を曇らせる。
「アレンは今、どうして……?」
 マルチナは答えにくそうに言葉を濁していたが、やがて、
「行方不明です。先月の十七日に収容所を脱走したらしく――」
「先月の十七日……?」
 二十日ほど前。それは、また夢を見なくなった頃。
「その後の足取りも全くつかめていません。まったく魔法でも使って空中に消えてしまったかのようで――」
 突然、カイの言葉が蘇る。あまりに小さくて、聞き取れなかったが、確かにあの時、カイの口は、

 アレンは魔女だったんだ――

 確かにそう動いていた。だとすると、夢を見ない――これは、
「魔法?」
 ジェーンの言葉にマルチナはしばし戸惑ったような顔をし、
「ええ、煙のように消息が消えてしまうなんて、まるでおとぎばなしに登場する魔女が魔法でも使ったかのような……」
 ジェーンが黙り込んだので、マルチナは心配げに声をあげる。
「あの、ジェーン・ジニス?」
「大丈夫、です。ありがとう」
 ジェーンはうつろな状態のまま答える。マルチナは戸惑った様子を見せたが、
「それでは、いつかまたお会いいたしましょう。ジェーン・ジニス博士。それに、コネコちゃん」
 コネコの頭を撫でると、音も立てずに部屋から出て行った。
 
 ***
 
 ジェーンは無事に退院し、研究所へと戻った。日々を研究に費やし、無難に毎日を送っている。
 けれど、ふとした瞬間空を見上げ、待ちぼうけしている人特有の不安と期待の入り混じった複雑な表情を見せ、小さく溜息をつく。

(end)

『魔法J』をご覧いただきありがとうございました。

■01/4/12 「 森 」で書ききれなかった、ジェーンの事件を書いた話。当初は「魔法」というタイトルで、一本で書くはずだったのですが、ジェーンが死にかける場面をジェーンの一人称で書きたかったために、分けました。分けようと思ったときにも、ジェーン・アレン・カイの三人の視点で書こうと思っていたのですが……枚数的に多すぎるので、カイの話は削りました。カイの性格を青野が掴みきれていないために、カイを視点とした話は現時点の私には書けないです(汗) 誤字・脱字を訂正、一部書き直してアップしてます。 

2004/04/20 改稿
2012/01/14 訂正

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