1.
春と夏との間の季節。
一週間続いた雨もようやくあがり、洗い上げられた空は蒼く透き通っている。
「良い天気」
ぐぅっと伸びをし、空を仰ぎ見た私は久々の太陽にくらんでしまう。森は雨露をぬぐい切れず、日の光にキラキラと輝いている。
「久々に散歩ができる……かな?」
言いつつも足は自然、いつもの散歩コースに向かう。
「今日は一段と綺麗ね」
木々に話し掛けつつ、ずんずん歩く。歩いているのは獣道。自然、服はぬれてしまう。こうなれば……と開き直り、まだ乾ききっていない草地に寝転び濃い草の香りを胸いっぱいに吸い込む。
「いい気持ち――でも……」
何か変だ。何だかそわそわした気持ち。森中が、雨の喜びではないざわめきにみちている。気のせいじゃない。私の血も騒いでいる。私の中を流れる、魔女の血が興奮でざわめいている。
何だろう……
雨に対するような喜びでもなく、日の光に対するような喜びでもない。私はこの森で生まれ、この森で育ってきたが、こんな気持ちになるのは初めてだった。
私は魔女だ。天才的な、と人々に恐れられるほどの魔力と、魔術に必要な知識、勘、そんなものにはずば抜けている。だというのに、私には森の声を聞く力がない。
生まれながらの魔女は森の声、それも歌声を聞くことができると聞くが、私はただ、感じるだけ。力のない大部分の魔女が感じることのできる程度に。
森のざわめきはそれから三日経っても静まることはなく、ますますひどくなっていった。咲きもしない季節の花がつぼみを膨らませたり、木々が紅葉したり……。
何かの異変の前触れだろうか、と人々は噂したがそれにしても妙だった。あるのはただ、喜び、嬉しさ、こみ上げてくる懐かしさ。
森の奥へは入ってはいけないとかたく言い渡されていたが、私は木々に導かれるように森の中に足を踏み入れた。この森で生まれ育ってきた私だが、まだ森の深奥を見たことがない。森は魔女にとって、共に生きる友人である前に、犯すことなど許されない神域でもあったから。
視界が開け、森の中の小さな空き地――野原に出た。狂い咲きした多種類の花々が咲き乱れ、神々の楽園といった雰囲気。
その中に一人、私に背を向け、野原にふんわりと座っている――人というにはあまりにも美しい人がいた。
長い腰まで届くような透き通った銀髪、深い夜明けのような蒼色のぴったりした服を着、透き通った白いマントのようなものが煙のように周囲に漂っている。
私は息を呑んでその人の姿を見とれていた。後姿なのだが、宇宙の欠片が落ちてきたのではないかと言うような、神秘的な美しさが漂よっていた。
どれほどそうしていたのだろう。ふと、その人が振り向き、私の姿に気づいた。美しい人は戸惑いの色を見せたが、それはやがて深い森のような、優しく穏やかな笑みに変わり、しなやかな手で私を手招きした。
その人の肌はチョコレートのような艶やかな色。瞳はその身にまとった服よりも青い、藍色。
私はどぎまぎしながらもその人へと近づいた。
「こんにちは。君はここの人?」
古い老樹のような響きを持った、優しい音色の声で話し掛けられ、私は戸惑いながらも、大きく頷いた。
「ここはとても美しいところだね」
そういって、嬉しそうに木々に目をやる。そんな些細な仕草さえも、例えようも無いほど美しい。
私はその姿に目を奪われつつ、大きく頷く。森のことを褒められるのは嬉しい。この森は誕生して五百年ほどとまだ若いが、深い慈愛に満ちている。森の声を聞くことのできない私にも、この森の優しさを感じることができる。
「この森の木々の歌声も美しく優しい……」
美しい人の言葉に私は驚く。美しい人は哀しげに微笑み、
「ああ、人間には聞こえないんだったね。この森の奏でる美しい歌声が――」
「歌ってるんですね? やっぱり……」
私は思わず口走ってしまう。美しい人は怪訝そうな表情をし、
「君は人間ではないの?」
「わ、私は魔女……です。森の声は聞こえないけど、なんとなく感じるんです。この森はとても優しいって。それに、とっても美しい歌を歌ってるんじゃないかって」
一生懸命説明する。私にも美しい人と同じように森の優しさを感じていることを伝えなくてはならない気がして。
美しい人は何度も頷き、
「この森の歌声はとても優しくて、美しいよ。ところで、『マジョ』さん、君は人間とは異なるのかい? この世界は人間がいるだけだと思っていたんだが……」
「えっと……人間のほうが多いです。でも、魔法を使える人間のことは総称して魔女と呼ばれているんです。昔はこの世界には人間しかいなかったらしいんですけど、いつの頃からか魔女達もいるんです」
「へえ……」
その人は急に難しい顔をして黙り込んでしまった。何か、私は変なことを言ってしまったのだろうか……?
2.
――ジリリリリリリリリリ……
「……うるさい」
アレンは目覚し時計を乱暴に止め、起き上がる。
時計の針が指しているのは朝の六時――いつもならばまだ眠っている時間。だが、今日はどうしても起きなければならない、年に一度あるかないかの面白い事がある。
眠い頭を両手で叩き、無理やり目覚める。手近にあったTシャツにズボン、それに大きなフードのついた黒いだぶだぶの綿地のコートを着込む。六月とはいえ、昼間になれば暑いが、これがないと始められない。普段、魔女として生活することのないアレンにとって、これが魔女であることを自覚できる唯一のものだから。
寮を後にして学園奥にある図書館へ向かう。こんなに朝早くから図書館に行くことになったのも、同じ寮のカイと昨日こんな会話があったからだ。
夕食を食べ終わり、自分の部屋へ戻ろうと階段を上りかけると、ちょうど薄暗い玄関から、黒い人影が音もなく忍び込んできた。
「カイ、お前また図書館にいたのか?」
この変わり者はアレンの向かいの部屋の主、この国で知らぬ者はない軍人一家の嫡子、カイ・グラント。黒髪に、黒い瞳、黒い軍事科独特の制服を着た、小柄な男。
カイはちらりとアレンの姿を見、小さく溜息を吐くと、
「ジェーン・ジニスってお前のクラス……だったよな」
突然、学園一の才女の名を出す。名前を知らないものはモグリとも言われるほどの才女とは言え、学園で五本の指に入る変人カイ・グラントの口から聞くことがあろうとはアレンは想像だにしなかった。
「ああ、確かに同じクラスだが……」
「何の研究をしているんだ?」
尋問のような口調。
「さぁ、天才の考えてることなんて僕みたいな凡人にはまるっきり理解できないからな」
「そうか」
これっぽっちも否定しないところがカイらしい。
「ところでジェーン・ジニスがどうかしたのか?」
カイは眉間に皺を寄せ、話すか話すまいか迷っている様子。
「何なんだ? 話して減る事なのか?」
「ヘル?」
顔にクエスチョンマークを浮かべているので、アレンは言い直す。
「話して減るもんじゃ無いだろ?」
「……ああ、別に話しても何も減ることはないが……」
カイは再び溜息をつく。話が長引きそうなので、アレンは玄関の上がり口に座り込む。
カイはアレンの行動をじっと睨み付けるように――カイは目つきが悪い――見ていたが、やがて観念したように、ぽつりと呟いた。
「ジェーン・ジニスがこのところ図書館に来るんだ」
アレンはたっぷり十秒は息を呑み、カイの口から出たその新種のジョークを尋ね返した。
「お前、今、十歳で学園に入園し、今現在は最先端テクノロジーを研究している天才ジェーン・ジニスが、古代の遺物と呼ばれてる図書館に通ってるって言ったのか?」
「そうだが」
カイは何か文句を言いたげに、頷く。
「なんで?」
「わからない。どうも彼女に、見張られている気がする」
次々とカイの口からはショッキングな言葉が飛び出す。一応、確認の為にアレンは聞き返す。
「それは、ジェーン・ジニスが誰かに見張られているってことじゃないんだよな?」
カイはめんどくさそうに頷き、
「僕が、ジェーン・ジニスに見張られているんだ」
言い切る。
アレンの口からはしばらく空笑いが漏れていたが、それがおさまると早口にまくし立てた。
「軍事科にいるくせに魔女なんておとぎばなし研究を趣味にしてるお前なんかを見張って何になるんだ?」
カイは神妙な顔で大きく頷き、
「そうなんだ。だが、僕を見張ってることは間違いない。僕が視線を感じて目を上げるといつでもそこにジェーン・ジニスが座っている。閲覧室を移動しても彼女はついて来るんだ」
「間違いなく?」
「ジェーン・ジニスの存在に気づいてからずっとその状態が続いている」
絶対に自分に間違いなどない、という自信に満ちた答え。
百歩、いや、千歩譲ってみたところでジェーン・ジニスが図書館に通わなければならないような理由を思い当たらない。そのうえ、カイがいる場所といえば魔女やら魔法やら、そんな胡散臭いとされている書籍がおかれたエリア。ジェーン・ジニスにも、カイのような趣味があるのだろうか。
アレンの困惑した表情に、カイは信用されていないと思ったらしく言葉を付け足す。
「ここ二ヶ月くらいずっとそうだから、絶対に僕を見張っていることに間違いない。彼女と視線があったのは一度や二度のことじゃない」
「……もしかして――」
ニヤニヤとアレンは笑いはじめる。
ジェーン・ジニスは天才だ。カイに負けず劣らず、変人として五本の指にも入っている。そのために、その可能性を考えもしなかった。この様子じゃカイも気づいていない。そう思うとおかしくてたまらない。
あの天才が、この変人に……
そうとしか考えられない。カイは確証のあることしか口にしないから。
「……明日も、ジェーン・ジニスは来るのか?」
アレンは顔がにやけないように注意して尋ねる。カイは何も不審に思う様子なく頷く。
「そうか。じゃあ明日、僕も図書館に行こうかな」
「何のために?」
カイが不信げにたずねる。
「友達が困ってるんだ。助けてやろうと思ってね」
「……友達? いや、確かに困ってはいるが……」
害が無い、とつぶやく。
「だから、僕が注意してやろうと思ってさ」
クラスメイトだからと続ける。
同じ寮の向かいの部屋の人間が、入学してから三年間、一度もしゃべったことの無い相手に注意をする。なんともおかしな構図だが、当事者達はそれを気にするような神経をしていない。
「さて、それじゃ作戦を練らなきゃな……」
「……楽しんでるのか?」
カイの言葉を無視し、
「取り合えず、明日の朝も図書館に行くんだろ? 朝もジェーンは来てるのか?」
「ほとんど一日中見かけるが」
一日中――ってことは授業にも出ず、ずっと図書館に通いつめているのか。カイにしろ、ジェーン・ジニスにしろ、学園側から特例だとかで、授業に出なくても好きなことだけしていればいいとは聞いていたが……。
カイもこう見えて軍事科では天才と呼ばれている。入学して半年で軍事戦術、銃剣術、歴史、地理、全てにおいて卒業までに必要なテストを全てクリアしてしまっただとか。
幼いころから軍の要職につくための訓練を受けていたのかも知れないが、それにしても外見に似合わず恐ろしい。その為かカイに近づく人間などほとんどいないし、カイの行動に対しても何も言わない。喧嘩をしたところで勝てる人間などまずいないし、もし勝ったとすればその後が恐ろしい。
「アレン、君は朝が苦手だろ? 時間を変更したほうがいいんじゃないか?」
言われるが、後に引く気は無い。一刻も早く、その現実を自分の目で確かめたい。
「明日は図書館のどの辺のエリアにいるんだ?」
「一階の第五閲覧室だ」
言われても図書館に一度も行ったことが無いのでそれがどの辺なのか良くわからない。
「図書館って、中に案内図みたいなものはあるか?」
「……確か、あったと思う。それより、部屋の上に『第五閲覧室』と書かれたプレートが掲げられている」
それならば問題無いか、と頷く。
「とりあえず、そうだな……害が無いから注意できないって言ってただろ? だから僕がジェーンを怒らせるようなことをするから、そしたらカイが注意しろよ」
「怒らせる?」
「いい作戦がある」
フフフっと含んだ笑い方をするアレン。
「作戦内容は教えてくれないんだな?」
あまり興味ない様子のカイ。
「作戦ってほどの作戦じゃなからな」
答えつつ、どうやって怒らせようか思案をめぐらせ始める。そんなアレンをじっと睨み付けるカイ。
「何だ?」
「そこをどいてくれなないか?」
言われ、玄関はなに腰をおろしてしゃべっていたのが、カイの邪魔をしていたことに気づき、アレンは苦笑した。
目的の場所、図書館は学園の一番奥にある。六月とは言え、朝の空気はまだ冷たいが、ぼんやりした頭を目覚めさせるのにはちょうどいい気温。
アレンが図書館に近づくにつれ、朝の弱い光にきらめく銀髪の人影を見つけた。学園内にあれほど見事な銀髪をした人間は他にいない。驚かせてやろうと足音を忍ばせてその人物に近づき、
「おはよう!」
声とともに肩を叩く。ジェーン・ジニスは大きく後ずさり、そろりそろりと大人がふた抱えしてやっと届くほどの図書館前の巨大なコンクリート柱の影へ身を隠し、疑わしそうにアレンをうかがう。
そこまで警戒するか? 普通……。
「ごめん、そんなに驚くとは思ってなかったから」
神妙に謝るが、ジェーンは警戒を緩めることなく、
「あなた、私に何の用?」
「そんなに身構えられちゃ……」
アレンは大げさに反省している様子を見せる。
ジェーンはしぶしぶと柱の影から姿を現した、が警戒はまだ解かない。アレンを睨み付け、
「質問に答えて!」
ヒステリックな声をあげる。
彼女がこのような感情的な振る舞いをしている所を始めてみたアレンは驚きと同時に妙な安心感を覚えた。
「あぁ。そうだね……その前に自己紹介をしたほうがいいみたいだね」
その言葉にジェーンは慌てた様子で相槌を打つ。
「僕はアレン・ウイザード。君と同じクラスだよ……知ってた?」
握手しようと片手を差し出す。
「私はジェーン。ジェーン・ジニスよ」
ジェーンは慌てて名乗ったが、手を握り返しはしなかった。アレンは行き所ない手を引っ込め、
「知ってる。君を知らないヤツなんてモグリだよ」
ジェーンは眉間に皺を寄せ、何やら難しげに考え込んでいたが、
「で、私に何の用なの?」
相変わらず睨みつけたまま。
人見知りするタイプなのか? などとアレンは思いつつ、
「別に。用はないよ」
その言葉にジェーンは眉間に皺を寄せ、不満げな声を漏らす。
一般的な反応だが……ちょっと天然が入っているのかな?
「図書館に用があって来てみたら君がいた。こんなに朝早いから誰もいないと思ってたのにね。それに、君はクラスメイト、僕が朝の挨拶をしても何らおかしくないと思うけど?」
「そ、そうね」
ジェーンは納得いかない様子だが、頷く。納得いかないのが普通だ。今時、図書館などに用のある人間などいない。それに、いくらクラスメイトだからって入学して三年間、一度も話をしたことのない人間に挨拶したりはしない。
「それで、君は?」
「どういうこと?」
質問の意味がわからなかったのか聞き返された。そこで、もう一度言い直す。
「僕は君に挨拶したよ。君は?」
ジェーンは大きく頷き、
「ああ! お、おはよう」
「おはよう。ジェーン・ジニス、ここで何してるの?」
ジェーンはまた眉間に皺を寄せ、気分を害した様子で、
「関係ないでしょ!」
「……そう、じゃ、僕のほうの用事が何かも教えられない」
「聞いてないじゃないの、そんなこと!」
また怒鳴り返される。
「あとで後悔するよ」
バイバイと手を振りアレンは図書館へと足を踏み入れた。
■■■■■■■■■■
カイは昨日の夜、アレンと打ち合わせていた所にいた。分厚い『魔女と魔法〜森を蘇らせる力』とか『魔法のスペル研究』などという妖しげな本を数冊、机の上に積み上げ、分厚い一冊を熱心に読んでいる。
その姿に、アレンは苦しそうに溜息をつく。
あんなものを読むよりも、百聞は一見にしかず。一度、魔女が魔法を使うところを見たほうが解りやすい。言葉で説明するよりも、あの独特の感覚は味わったほうが早い。とはいってみても、今では魔女はいないことになっているのだが。
それもこれも大昔、魔女は森と共に生き、森の為に死すと言われている森を人間が伐採し始めたことに端を発する。
人間の文明が発達するに連れ、森は急激に破壊されていった。魔女は森を守ろうと様々な努力をした……それはやがて人間との対立を生み、戦争が起こった。戦争はますます森を破壊し、やがて多くの魔女達はその当時残っていた一番大きな森――魔王の森と呼ばれていた森に結界をはって人間と関わろうとはしなくなった。それ以来、魔女はいないことになっている。
そのほうが魔女を迫害し、大量に殺してきた人間にとっても、この世界に残った少数の魔女にとっても都合がいい。
カイは軍人一家の嫡男。自分たち魔女にとって敵も同然。けれど、ここまで森や魔女に興味を持つ人間も珍しい。カイが普通の人間であったら、自分の正体をあかすのに……。
アレンは再び溜息をつき、本棚から『妖精の歴史』なる、妖しげな本を手にとる。美しい挿絵が挿入され、その妖精の生息地や生態が事細かに書かれている――といって、魔女であるアレンにも妖精が存在するという話は聞いたことがない。
ふと、アレンが顔を上げるとその部屋に入ってきたジェーンと目があった。しばらくしてようやくカイも気づき、
「言っていた通りだろ?」
低い声でそっとアレンに話しかける。
「とりあえず、図書館に近づかないようにすれば良いんだろ?」
確認すると、カイは頷く。アレンは立ち上がり、カイとジェーンの間の席――ジェーンからカイの姿が見えなくなる位置に腰を下ろした。ジェーンはアレンを憎憎しげに睨みつけたが、アレンはかまうことなく声をかける。
「何の本読んでるの?」
「あなたには関係ないでしょ」
苛立った声。
「本逆さまだけど?」
「わ、わかってるわよ。そのくらい」
ジェーンは慌てて本を持ち返る。
「……本読まないんなら、ここ出ない?」
ジェーンはアレンをまじまじと見つめ、
「どうして!? それよりどこかに行ってくれない? 邪魔なんだけど」
「どうしてさ。図書館は本を読むところだよ。僕がいたって邪魔じゃないと思うけど?」
ジェーンは忌々しげに、
「話し掛けないで」
アレンに言い置き、席を移動する。ジェーンが席に腰を落ち着けたところでアレンは立ち上がり、またカイとジェーンの間の席に座る。
「どうして邪魔するのよ」
睨み付けるジェーンに、
「何が?」
手元の本に目を注いだまま、アレンはとぼける。ジェーンはアレンを睨みつけながらもう一度繰り返す。
「邪魔をしないで」
「何を?」
何も知らない振りをして尋ね返すと、
「と、とにかく邪魔しないで!」
閲覧室に響き渡るような大きな声。それにかぶさるように、
「図書館では静かに!」
カイの冷たい声が重なる。昨晩の打ち合わせ通りだが……あいかわらずその目つきが非常に悪い。
「ほら、ここ出よう。あいつの機嫌損ねたくないだろ?」
アレンの言葉にジェーンは素直に頷き、図書館を後にした。
図書館から出るとアレンはくるりと振り向き、ジェーンに話し掛けた。
「さて、僕に質問があるだろ?」
ジェーンはしばらく考えこんだが、
「何で?」
しばし沈黙の後、アレンは高笑いする。
「ハハハ……君って天然ボケ? それともわかってない?」
笑いはおさまらない。
「君が毎日図書館通いして見つめてる、黒髪の――」
「な、なんでそんなこと!」
ジェーンはアレンにつかみかかり、口をふさごうとする。が、アレンはジェーンと比べ二十センチほど身長が高いので、簡単に交わす。
「と、友達だから――」
ジェーンから逃れながら、アレンは言った。
「カイとは……」
ジェーンはその言葉にぱっと手を放す。
「カイ?」
アレンは突然ジェーンに手を離されたことで倒れそうになったが、なんとか体制を取り直し、
「あいつ、カイ・グラントって言うんだ……あいつとは友達なんだ」
「それで?」
詰問調で尋ねられる。
「カイから相談を受けたんだ。このごろ自分のことを見張ってる奴がいるって……それで――」
ジェーンは顔を青くする。
「相談を受けたんだ。どうにかしてくれないかって」
ジェーンは判決を受ける受刑者のような顔でアレンを見上げる。
「それで……?」
こんな顔をされるとかなり言いづらい。
「クラス委員にならない?」
「クラス委員?」
ジェーンはアレンの言葉をそのまま返す。意味が分からないと言った表情。アレンはジェーンのそんな様子にも全くかまうことなく話を続ける。
「うちのクラス、六月だってのにまだクラス委員が決まってないんだ」
「どういうこと?」
アレンは溜息をつき、
「はっきり言ったほうがいいみたいだね。君にクラス委員になってもらいたいんだ」
「何で私が? あなたがすれば?」
「悪いけど、僕は入園してから三年間ずっと何がしかのクラス委員やってるよ」
「じゃあ、今まで通りあなたが――」
アレンはジェーンの言葉を遮り、
「ダメ。必ず二人でって大原則があるんだよ。今まで僕と一緒にクラス委員してた奴は交換留学生で先月からいないしさ、探してたんだ。クラス委員やれる暇な人」
暇な、という部分に力をこめる。
「わ、私は別に暇じゃ――」
うろたえるジェーンに畳みかけるように、
「このところ毎日、用もない図書館へ来てるだろ? 大丈夫、クラス委員って週一回開かれる委員会に出席してればいいだけだから」
「でも――」
「このこと、学園中に広めたい?」
「このこと……?」
言われてジェーンは不安そうな顔になる。
「別に、問題は……ない……でしょ……?」
「君もカイも自分たちが思ってるより有名人だってこと、気づいてないみたいだね」
最先端科学の研究をしているジェーン・ジニスが図書館に通っている、というだけでも大ニュースなのに、片思いの男の顔を見るために図書館に通っているともなると、学園の今年一番のニュースになる。
「ど、どういうことよ……」
意味はわかっていない様子だが、ジェーンはますます不安そうな顔をする。
「言った通りの意味だよ……どうする、クラス委員?」
「わ、わかったわ」
それだけ言うと背を向け歩き出した。アレンは慌ててジェーンの前に廻りこみ彼女の片手をつかみ笑顔で、
「握手、握手」
と組み合わせた手を上下に振った。
■■■■■■■■■■
ジェーンは思っていた以上に生真面目な人間だった。言いつけた用事は完璧にこなす。そのおかげでアレンはやってもらうべき用事を探すのに大変だった。
とにかく図書館に近づけないようにするために些細な用事さえジェーンにやってもらっていた。クラス委員の仕事など本来、週一回の委員会に出席する以外にはなかったのだが。
「遅い……」
アレンはいらいらと壁に掛けられた時計を見た。
あれから一月が経とうとしていた。
今日は委員会がある。いつもならば待たなくてもジェーンは待ち合わせ場所に来ているのだが、今日は違った。十五分過ぎても来ない。委員会が始まるまであと五分。ジェーンの行きそうな場所を中心に探し回る。研究室、図書館、教室……。
「いた」
穏やかな午後の光、初夏の爽やかな風の中、机にかぶさって眠っている。起こそうとをあげかけ、アレンはためらった。
長い銀髪が光にきらめいている。
――……
しばらくジェーンの姿に見入っていたアレンは、ジェーンが眉間に皺を寄せているのに気づいた。悪夢――を見ているのだろうか。
アレンは誰もいないのを確認し、ジェーンに魔法をかける。そして、自分自身にも魔法をかけ、ジェーンの頭に自分の頭を重ねる――。
闇。
暗闇。
混沌とした、黒い世界。
時も、光も、音もない。
そこにあるのはただただ、深い深い闇。
アレンは驚いて身を起こす。今まで興味半分にいろいろな他人の夢を覗き見てきた。だが……何もないというのは初めてだ。何もない……それは、誰よりも孤独。
アレンは改めてジェーンに魔法をかける。夢のない、深い眠りへと導く魔法。
ジェーンはふっと天使のような笑みを見せて微笑む。純粋で美しい微笑み――。
――美しい人……
3.
私と美しい人は、その小さいけれど豊かな野原で話をするようになった。美しい人はいろんな事を知っていた。とくに、宇宙の話は面白かった。ひどく真面目な顔をして、
「宵の明星と呼ばれている金星は、美の女神ヴィーナスとも言われているね? あれは見た目は美しいが、実際はとても荒涼としているんだ」
私は笑い、
「なんだか、見てきたみたいですね」
そう言うと決まってあの人は微笑んで、
「さあ、どうだろうね?」
悪戯っぽく笑った。その笑みもまた、その人に良く似合う、とても美しいものだった。
そうやって、一ヶ月ほどが過ぎた。美しい人はある日突然、
「そろそろお別れの時がきたようだね」
そう言ったときもやわらかに微笑んでいた。
「帰ってしまうんですか? 一体どこへです?」
美しいなどという言葉では言い表せないほど、美しいあの人が住む地――そんな場所が世界にあるとは到底思えなかった。こんな、楽園のような野原の中にいてもその存在はとても浮いて見えたのだから。
「はるかに遠いところだよ。次にここへ来る時はきっと、君は死んでしまっている。百年ほどの寿命しかもたない君では」
ひどく冗談めかした言い方をした。けれど、あの人の言うことは本当だという気がした。この世界の住人ではない、その方があの人らしかった。永遠の生命をもっているほうがらしかった。そう思えるほどの、神秘的な美しさを持った人だったから。
「あなたを待っていてもいいですか?」
あの人は首を振り、
「君は魔法が使えるといえども人間だ。定められた寿命を全うするのが、一番幸せなこと……決して過ぎたことを考えてはいけない。ちょうど良いくらいの時を生きれば、死ねるように一生は定めれらているのだから」
「でも、」
私が言いかけるのをあの人は制し、静かな声で言った。
「この森はとても美しい。君にもこの森の声を聞かせられたらどれほど良かっただろう」
そう言って微笑んだ。私は急に哀しくなり、泣き始めた。あの人は私を優しく抱きしめ、森が奏でている歌というものを歌ってくれた。とても優しい、そして暖かい歌だった。
4.
――ガタン
物音で、アレンは目が覚めた。あたりを見回すと、もうだいぶ日がかげってきている。そして、冷たい瞳で睨みつけているジェーンの姿。
「おはよう……ジェーン」
ジェーンの穏やかな寝顔を見ているうちに眠ってしまったようだ。目を擦りながら欠伸をする。
「何であなたが、私の横で寝てんのよ?」
ジェーンの声には怒りがこもっている。アレンは大きく伸びをし、
「今日は委員会の日だよ。ジェーン探してたら、ここで寝てたから……僕もつい」
「『つい』って何よ? 委員会はどうなったの?」
「この時間じゃ……もう終わってる。どう? ゆっくり寝れた?」
「……」
ジェーンはアレンの顔を見つめ、驚愕した顔で大きく頷く。
「そう、良かったね。じゃあ、また明日」
手を振って、アレンは教室を後にした。
■■■■■■■■■■
翌日。
委員会の進行役・執行部に呼び出され、アレンとジェーンは委員会に欠席したことをきつく叱られた。
執行部を後にしたアレンは大きく溜息をついた。
「まったく、クラス委員って面倒だろ?」
「あなた最初、クラス委員は委員会に出席するだけの簡単な仕事って言ってたわよね。なのに雑事はたくさんあるし……どうなってるの?」
側を歩いていたジェーンが睨みつけながら言葉を吐き出す。執行部に呼び出され叱られたことに、かなり腹を立てているらしい。ジェーンの姿を見てアレンは気づかれないように小さく溜息を吐く。ジェーンはいつでもむっつりとした、怒ったような顔をしている。
冬空のような空色の瞳に、度のきつい眼鏡をかけ、青みがかった銀色の髪をとかしもせず、一つにまとめて束ねている。そして毎日同じ、よれよれになった服を着ている。哲学科ではそう珍しい風体ではない。これ以上の酷い格好をした人間はいくらでもいる。自分の研究に熱中するあまり、当たり前のことができない人間が――。
アレンは頭で別のことを考えながらも、ジェーンに相槌を打つ。このくらいの芸当は朝飯前だった。
「仕方ないよ。他のクラスは、クラス委員の他に、雑事を全般的にする係りって制度があるんだけど、うちのクラスじゃまるっきり機能してないからね。みんな自分のことに一生懸命で、クラスのことなんてまるっきり……だからね」
アレンは天を仰ぎ見て、大きく肩を落とす。そして、ちらりと横目でジェーンの顔を盗み見る。
ジェーンがまともな格好をすればかなりの美少女になることは間違いない……昨日のあの微笑み――。
「それに何なの? この行事っていうのは!」
ジェーンは執行部から渡されたプリントを見ながら怒ったように言う。慌てて、アレンはプリントの行事予定表を読み上げてゆく。
「毎年行われてる通例の行事だよ。ほら、体育大会とか、陸上競技大会、球技大会、文化祭に音楽祭、ダンス大会に演劇祭、研究発表会に、論文発表会、創立記念合唱祭に……あと何だっけ?」
「数え上げてたら十分は掛かるわ。ここってこんなに行事あったの?」
「知らなかった? ほら、ここって大きく分けても軍事・経済・哲学・芸術の四つの科があるだろ? そして、それらすべての学生数は、約五万人とも言われてる。半端じゃない人数がいるんだよ。それに、週に一回くらいの割合で、どこかの科で何か行事をやってる。例えば、今週は……芸術科、近代美術クラスによる『近未来アート展覧会』とか……」
「ここって、大きいとは思ってたけどそんなに人のいる所だったのね」
「ハハハ……あらためて考えてみると絶句するね」
アレンは手元のプリントにしげしげと目を落とす。来週は軍事科スペシャリスト養成クラスの実弾射撃訓練の一般開放と、芸術科宮廷音楽家養成クラスの『ハーモニィ〜清涼なる音楽の調べ〜』。翌週が――。
「夢、どうやったの?」
ジェーンの声にプリントから目を上げ、アレンは尋ね返す。「
何?」
ジェーンは真剣な眼差しでもう一度繰り返す。
「夢、どうやったの?」
「どうって、何が?」
わけがわからずアレンが尋ね返すと、
「私の悪夢、どうしたの?」
「どうって……どういうこと?」
ジェーンはもどかしそうに言葉を搾り出す。
「昨日あなたが隣で寝ていたでしょ? あの時、私は悪夢を見なかった。どうして?」
「どうしてって……そりゃ、夢を見ないことだってあるさ」
笑いながらアレンが答える。ジェーンは沈黙の後、静かに言った。
「私は物心つく前から、あの悪夢を見つづけていたのよ。一度だって、あの悪夢の無い眠りなんて無かった。それなのにどうして!」
ジェーンは肩を震わせ、すがるような瞳をしている。
魔女狩りにあいたくなくば、魔女だと言うことを知られてはならない。アレンは申し訳なさそうにゆっくりと首を振り、静かに答える。
「僕に夢をどうこうする力があるって言うのかい?」
ジェーンはアレンをしばらく睨みつけていたが、やがて肩を落とし、
「そうよね。悪かったわ。この話は無かったことにして」
言って、教室のほうへ走り去っていった。
「物心つく前からあんな悪夢を……」
ジェーンの後姿を見送りながらアレンは哀しい瞳で呟き、立ち止まる。
この世界では魔法を使える人々を総称して魔女と呼ぶ。アレンは魔法が使える――魔女。けれどそれは人には明かすことの出来ない秘密。未だに闇で魔女狩りが行われている世界では。
とぼとぼと歩きだすと、
「アレン」
声を掛けてきたのはカイだった。あいかわらずの童顔、そして彼の着ている服は軍事科特有の詰襟の制服なのだが……まるで似合ってない。いつまでたっても服に着せられている感じだ。
「どうしたんだ? 暗い顔して」
アレンはふっと笑みを漏らす。珍しいこともあるものだ。まさかカイの口から、気遣いの言葉を聞く日がこようとは思ってもみなかった。
「どっちが。僕が暗いって言うんなら、お前は真っ暗だよ」
言い返す。
「相変わらず口が悪いな……ところでジェーンの方、どうやったんだ?」
図書館に来なくなった理由を聞きたいらしい。
「ジェーンにクラス委員になってもらった。お陰で僕の仕事の量がちょっと減った」
もう一人のクラス委員は交換留学に旅立ったのではなく、研究に明け暮れ、まるで仕事をしない人間だった。アレンは口八丁でジェーンを丸め込み、彼女をクラス委員に仕立て上げて、毎日、ジェーンに何らかの仕事をするように言い渡す。彼女を図書館から引き離そうと。
「そうか」
カイは嬉しそうな顔で、感慨深げに呟く。
「なんだか、いつも図書館で見張られているような感じだったからなぁ」
カイはジェーンの気持ちには全く気づいていない。
「ハハハ……お前を見張ったって何の特にもならないだろ? 魔術だの魔法だのっておとぎばなしを熱心に研究しているような奴」
そう、おとぎばなし。この世界では魔女はいないことになっている。それなのに――。
「そんなことないさ。どこかに魔女の血を持つ奴が絶対いるさ。こんなに文献に登場してるんだぞ。魔女がいないって方がおかしい」
カイは情熱的に語り始める。
いつだってそうだ。どうして、人間の癖に魔女の存在を信じる? それも純粋な思いだけで。
「わかった、わかった。でも、魔女は昔々の大昔に結界張って、隠居生活してるんじゃなかったっけ?」
おとぎばなしの一つを持ち出す。
魔女は森と供に生きてきたが、人間は森を壊しながら生きてきた。それは交わることのない生き方――いつしかそれは、百年戦争とも言われる大戦争を引き起こした。文明の発達した人間は鉄の武器と破壊によって、森の保護を主張する魔女を追いつめ、迫害した。
人数も減り、力の弱まった魔女たちは森を追われ、森は次々と破壊された。争いを嫌う魔女たちはある時、その時現存していた一番大きな森を中心に人間たちが入ってこられないよう結界を張り、自ら閉じこもることですべての争いに終止符を打った。
「でも、こっちの世界に残った魔女がいたっておかしくないだろ?」
カイはなおもくい下がる。
魔女が魔法を使って人間を攻撃していたら、全く違う状況になっていただろうが、多くの魔女たちは争いを望まなかった。争いで森が傷つくのを恐れた。虐待され、迫害されても森を守ろうと魔女は活動しつづけた。
けれど、何事にも限界と言うものがある。魔女たちは行き詰まり、閉じこもらざるを得なくなった。戦争によって、あまりにも多くの魔女が殺され、森が傷ついてしまった。森とともに生き、森の声を聞く能力のある魔女にとって、その世界は苦しみでしかなかった。だから、世界から隔絶すること――閉じこもることで逃げ出したのだ。悲鳴をあげる森から――破壊しか能のない人間から。
アレンは投げやりな声で、カイに答える。
「はいはい。魔女はいるよ」
「なんだよ、人が真面目に話してるってのに!」
カイは怒ってどこかへと行ってしまう。
きっとまた、図書館にでもこもるのだろう。魔女のことについて調べるのはいいかげんやめて欲しい……。
魔女はただ森を愛し、森とともに生きていけることを願っているだけ。争いなく平穏に、静かに暮らして行きたいだけ。人間が争いを好みつづける限り、魔女は姿を隠しつづけなければならない。
季節は夏から秋へと移り変わろうとしていた。図書館を覆う蔦草が色づき始め、緑の館であったそれが、今ではほんのりと黄色く色づいている。
ジェーンはクラス委員の仕事にも慣れ、アレンが仕事を言う前に用事を片付けてしまう。どこを探してみても仕事などないような状態で――つまり、ジェーンが図書館へ足を運び出す暇ができたということで。
「ジェーン! おーい!」
図書館は結構広い。
「アレン!」
カイの声。
「どこだ?」
「世界史のところ!」
少々時間がかかったが、結構早く世界史のコーナーのある閲覧室へと辿り着く。
だが、そこにジェーンの姿はない。とは言ってみても、ジェーンのかくれんぼの腕は甘い。今回も本棚の後ろにいたジェーンを簡単に見つけ出し、
「ジェーン、どうして僕から逃げるのさ?」
アレンが優しく尋ねると、ジェーンはヒステリックに、
「あなたが不必要に私にまとわりつくからでしょ!」
アレンはちらりとカイに視線を送る。カイはそれに答えるように、
「気を利かせたほうがいいのか?」
「サンキュっ」
「ダメ!」
アレンの声に重なるようにジェーンの声が重なる。カイはジェーンの声を無視し、数冊の分厚い本を持って部屋を出て行く。
「カイぃぃぃ行かないでぇぇぇぇぇ」
ジェーンは悲鳴に近い声をあげる。そんな声をあげたところで、無駄なことはわかっているだろうに。
「さ、立ち話もなんだから椅子に座ろうよ」
ジェーンはしぶしぶと、アレンが背を引いた椅子に腰掛け、
「一体今日は何の用? クラス委員の仕事ならもう済ませたわよ」
「まぁまぁ、それより――」
たわいもない話をしながら、アレンはジェーンの後頭部にそっと手を触れ、深く染み込んでゆくような声色で魔法を発動させる。そして、最後に小さな声で呟く。
「守ってあげるから……」
ジェーンはすぐに逃れようのない深い深い眠りへと誘われてゆく。
「アレン……?」
「ジェーン、絶対に守ってあげるから」
語り聞かせるような声。夢うつつのジェーンは声を絞り出し、答える。
「そんなこと……不可能……よ……」
やがてジェーンは静かに、整った呼吸を始める。アレンはジェーンが完全に眠っていることを確認すると、そっと優しくその言葉を口上にする。
「僕の命にかえても君を守るから……」
深く、暗い闇の中からジェーンを救いたい――ただそれだけのためにアレンは危険を冒していた。こんな人目につきやすい場所で魔法を使えば、いつかは誰かに魔女であることがばれてしまうだろう。そうなれば、きっと収容所へ送られる。
収容所とは文字通り、魔女を収容しておく施設だ。数年前から、魔女の力によって森を蘇らせようというプロジェクト実施され、そのため極秘裏ではあるが魔女狩りが行われている。
そこでは、人間の身勝手によって破壊された森を蘇らせるために、魔女は寿命を削るほどの魔法力を使わされる。魔法には森を活性化させる働きがあると言われているためだ。
けれど、魔女の中でも魔法を使うことによって森が活性化するという考え方に異論を唱えるものが多くいる。魔法と森がどれほどの関連があるのか――それは森の声を聞くことのできる魔女にもわからない。『魔女は森と共に生き、森の為に死ぬと聞く』という言葉があるように、魔女は森と共に生き、森の為に命を落としてきた。
しかし、森は魔女に優しく微笑みかけてはくれるが、その心の奥までもは木々の奥に深く覆い隠してしまっている。森は共に生きる道を選んだ魔女にさえ、かすかな真意をも見せてはくれない。ただただ優しく微笑んでいるだけ。
アレンは天使のように美しい笑みを浮かべて眠るジェーンの顔をじっと見つめる。
――愛してる
小さな声で呟き、ジェーンの隣の席に腰を下ろす。あまり大げさな魔法ではないものの、毎日のように魔法をかけ続ける事はかなり体力を消耗する。アレンはそれほど魔力の強い魔女ではない。それに、人間に見つかりはしないかというストレスもあるのだろう。
ジェーンの寝顔を見つめているうち、今日もアレンは隣で寝息を立て始めた。
5.
あの人は消えてしまった。その日から木々の不思議なざわめきもピタリとやんでしまった。始めからそこには誰もいなかったかのように、何もなくなってしまった。
私は何日も、何年も呆然と日々を過ごした。あの人は、私にとって森だった。私を生かし、包み込む暖かな森のような優しい存在だった。
あの人に会いたかった。もう一度だけ、どうしても逢いたかった。名前も知らず、きっと人ではない、人とは異なる時間の流れを生きるあの人にもう一度逢いたかった。
あの人は戻ってくると言っていた。あの人はダメだといったが、私はあの人を待とうと思った。あの人が帰ってくるのを……。
永遠とも思える月日が私を素通りした。月が、太陽が何度、空を交差したことだろう。
百年経ってもあの人はまだ戻っては来なかった。私は生きていた。自らの時間を止め、不老不死となって。闇よりも深い、絶望するほどの孤独も、あの人に会いたい一身で耐えた。
そして――あの人はようやく戻ってきた。深い森のような美しさを持つあの人が。
あの人は嬉しそうに木々に話し掛け……やがて、私の姿に気づいた。あの人は怪訝な表情を浮かべ、
「君はなぜ死んでいない? 人間ならばもう滅しているだけの時が流れたはずだが」
怒っているのだということがわかった。
「どうしても、あなたにもう一度逢いたかったのです」
私は必死に訴えようとする、が……言葉が出てこない。……涙が溢れてくる。それに気づいたのか、あの人は哀しい顔をして、
「それは、望んではいけないことだったんだよ。例え魔女であろうとも、君は人間なのだから」
諭すように言い、
「私は二度と再びこの地は訪れない。これで終り、永遠にさよならだ」
「そんな!」
「私は君に話し掛けるべきではなかった。君の幸福な人間としての人生を私が狂わせてしまったんだね……」
そう言って、また哀しそうに笑った。
「さよなら、なんですか?」
ただただあなたに逢いたい一身で、永遠とも思える孤独の闇の中で私は生きてきたというのに?
「ああ、さよならだ」
かみしめるようにその人がその言葉を呟いた瞬間――私はあの人を殺していた。
いや、あの人を殺した感触などない。ただ、気づくとあの人はぐったりと、私の腕の中で死んでしまっていたのだ。
私はあの人の亡骸が腐り、白骨化するまであの人を抱きしめていた。そして、あの人が完全に骨になってしまうと、私はあの人を小さな木箱に入れ、世界中を放浪し始めた。
森と共に生きる魔女にとって、森のない生活というのは自分の半身を失ったような、奇妙な感覚を味わうということでもある。けれど私は森を避け、世界中を流浪した。
私が自身にかけた呪いは、私の魔力が弱まらなければ効力を失うことがない。
私はあの人に逢うために待っていた時間よりはるかに長く、暗い孤独を味わった。……生きている現実こそが、悪夢だった。
6.
定期テストも終り、いよいよ冬の気配が強まっていた。今日は十二月十五日。魔女たちにとって特別な日――結界を張った日である。
今日も今日とて図書館でアレンとジェーンはカイに迷惑をかけ、今、その部屋には二人だけがいた。
その部屋の窓からは広大な湖と、天からもたらされる白い真綿による美しい雪景色が観覧できた。
「で、何の用なの? 私、クラス委員の仕事は済ませたわよね?」
ジェーンがむっとした表情で言葉を発する。
六月の頃に比べ、ジェーンはぐっと美しさを増していた。アレンによってもたらされる悪夢のない眠りが大きく関与していることは否めない。
ジェーンと初めて言葉を交わしてから、半年。魔法を使い始めてから五ヶ月が経とうとしていた。
じっとたたずんだままアレンはジェーンを見つめた。
「何? 何の用なの?」
アレンの汗ばんだ手の中にジェーンに渡そうと先日買ったそれが硬く握られている。
どうしてそれを買おうと思ったのか、アレンもよく覚えていない。それを店頭で見かけ、美しいデザインだな……と思うと同時にジェーンのことを思いだしていた。
――美しいあの人に捧げよう……
まだ早いかも知れない。そう思いつつも、ジェーンのようなタイプは早めに捕まえていたほうがいいと思い、結局買ってしまった。
色々と台詞を考えていたはずなのに、頭の中は空っぽだった。
「いや、これを――」
どうしようもなく素っ気ない台詞。もっと言いようがあるはずだと自問する。だが、頭の中はパニックで上手い言葉が見つけられない。手に握り締めていたものを渡す。
「何これ?」
言いつつもジェーンは受け取り、中を見る。
「綺麗ね」
ジェーンは小箱を開け、中からシンプルな銀の指輪を取り出し指にはめ、顔に近づけたり離してみたりしている。
美しい一枚絵のような光景――青みがかった銀髪と、空色の瞳。白い指に輝く銀色のリング。湖を背にして立っているため、背景には白く美しい風景が展開されている――まさに月の女神といった趣き。
「婚約指輪」
アレンはジェーンの姿に見とれながらも、はっきりとその言葉を口に上らせる。ストレートに言わなければ、絶対にジェーンは理解しない。
「私に?」
ジェーンは不思議そうに聞き返す。顔に笑みはない。
「そうだよ」
「どうして?」
「どうしてって……愛してるから」
アレンがここ数ヶ月くりかえしている言葉を口にする。ジェーンは複雑な表情を見せた後、
「ちょっと待って、『愛してる』って挨拶の一つじゃないの?」
ここまできて何を言い出すんだ、この女は。世間知らずもここまでくれば犯罪だぞ。
アレンは呆れ顔で心の中で悪態を付く。
「挨拶でこんなこと言わないよ」
「え……ちょっと待って、何? まさか、あなたが私に恋をしてる? じゃない、愛してるって言うんだから――」
アレンは混乱するジェーンを抱きしめ、
「愛してる」
「お、お願い、ちょっと待って……」
ジェーンはアレンの胸の中でやっとそれだけ口にした。
「何で?」
「いや、だって、恋って、じゃない、あの、あの、愛……でしょ?」
ジェーンは赤面し、しどろもどろに話す。混乱していることが手にとるようにわかる。
「気づいてなかったのは、ジェーンくらいのものだよ」
冷めた声。声の主は、すぐ近くから現われた。
「な、何でお前がここに……」
顔を真っ赤にしてうろたえるアレンとジェーンに、冷めた口調でカイは答えた。
「必要な本を一冊持って行き忘れたんだ。引き返してみたら、僕に気づく様子もなく求婚してるバカップルがいた」
「き、聞いてたのか……全部?」
「一部始終。別に見ようとしてたわけじゃない。それより、ジェーン」
不意に言葉を掛けられ、ジェーンは真っ赤な顔でカイを見る。
「どうせ君のことだから、愛や恋がどういうことかって悩んでるんだろ?」
「――え、ええ」
ジェーンは大きく頷きながら答える。カイはさめた口調で、
「今、ドキドキしてる?」
ジェーンは戸惑いながらも、大きく頷く。
「アレンが死にそうになったらどうする?」
ジェーンは眉間に皺を寄せつつも、不安げにアレンの横顔を見る。
「その様子じゃあまんざらでもないって感じだね」
『え!?』
カイの言葉に二人が声をはもらせる。
「私も恋、じゃない、愛してるっていうの? アレンを?」
「そうじゃないのか? 今までアレンに抱きつかれても、愛の言葉を囁かれても嫌そうにしてなかったんだし――」
「だって、あれは――」
ジェーンの言葉を遮り、カイが言葉を割り込ませる。
「嫌だったり、迷惑だったら徹底的に抵抗するし、そんな事してくるやつのことは避けるものだよ……普通は」
そう言いきられてジェーンが言葉を詰まらせる。事の成り行きを見守っていたアレンは心の底から嬉しそうな顔をする。
「アレン、あの、えっと……その、待ってくれる? 返事……」
最後のほうは消え入りそうなほど小さな声だった。その言葉にアレンも顔を赤くしながら、大きく頷く。
「あの、えっと、じゃあね」
ジェーンは不自然な動きで手を振ると、図書館からよろめきつつ駆け出していった。
「おめでとう、アレン」
カイがぽんとアレンの肩に手を置き、祝福の言葉をかける。今のジェーンの反応さえ見れば、答えは決まっている。
アレンはふとカイの顔を見つめ、複雑な笑みを浮かべながら、
「君が私に…………もたらしてくれたのか……」
「……アレン?」
カイが不審げな声をあげ、アレンはふと我に返る。
「ありがとう」
ただそれだけカイに言い、アレンは図書館を後にした。
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数日後。
アレンはジェーンとカイが図書館前のベンチに二人並んで腰をかけ、談笑している姿を見つけた。
「――ジェーン」
思わず声をかける。なんだかヤキモチを焼いているようで、ひどく自分自身が情けない。
アレンの姿に気づいたカイが、低い声で何かをジェーンに囁き、ジェーンは恥ずかしげに下を向く。
アレンはカイを睨みつけ、ジェーンの側に腰を下ろす。やっぱり嫉妬しているのかもしれない。
「ジェーン、何食べてるの?」
「えっと、サンドイッチ……だったかな?」
アレンは包みを覗き込み、
「タマゴサンドか。自分で作ったの?」
一つ手に取り、口に運びながら言う。
「違うわ。これ、カイにもらったの――」
ジェーンは一つ目を食べ終わり、二つ目に手をのばす。
「寮母さんの特製だって」
「あぁ、おばちゃんの」
アレンは大きく頷きながら声をあげる。
あのおばちゃんは何でもお手製のものを『特製』と称する。目玉焼きだろうが、素うどんだろうが、あのおばちゃんの手に掛かれば全てが特製だ。
「知り合い?」
「カイとは同じ寮だから」
答えると、ジェーンは驚いた顔で、
「アレンも寮だったんだ」
「学園生の九十数パーセントが寮生活してんるんだよ。寮に入ってないほうが珍しいよ」
互いに笑顔でとりとめもない話をする。
7.
世界中をさ迷い歩き、私は人間によって破壊され、冷たく、何もかもを拒絶している森に住み着いた。森の声が聞こえる者たちには地獄とも思えるだろう、寂しく辛い地だった。けれど、傷心の私にはその地のほうが居心地が良かった。その時の私には暖かく迎えてくれる森よりも、冷たく拒絶されるほうが良かった。
私はそこで世捨て人のような暮らしをした。もともと魔女自体がそれほど人間と交流して暮らすタイプではない。だから、私には何の支障もなかった。
だがある日、その森の入り口で私は小さな捨て子――私の手がなければ死んでしまうだろう赤子を拾った。戦争孤児らしい。
私はその子に、ルカ――古い神話に出てくるはかない妖精の名を与え、育て始めた。ほんの気紛れだった。
ルカは育ち、年を取った。成長し、私をとり残して年老いてゆく事が腹立たしかった。このままではやがて老衰し、死んでしまうのだ。そう思うと、憎らしかった。だからルカを私と同じ体にした。ルカに不老不死の魔法をかけた。
ルカは私をひどく嫌い、憎み、私の前からいなくなってしまった。再び、孤独がやって来た。
絶望した。
百年ほど経ち、ルカは私の前に帰って来た。喜ぶ私に対し、ルカは私に哀れんだような瞳を向け、
「死ぬための方法がわかりました」
そう言った。
ルカは死ぬことを望んでいた。ルカに言われるまま、私はその魔法――私のかけた不老不死の呪いの不完全なもの――を私自身と、ルカにかけた。
それから百年ほど私達は共に生き――ルカは死んだ。
私は、再び永遠とも思える時間を独り生きることになった。それは耐えがたいものだった。けれど、私は死が恐かった。死ねばきっとあの人とルカがいる彼岸の地へと行くのだろう。あの人に、ルカに逢うのが怖かった。あの人に、ルカに拒絶されるのが恐かった。
死が近づくにつれ、そればかりを考えるようになった。私はある日、それから逃れる方法――魔法をかけた私自身の肉体を捨て、他の人間の肉体に乗り移る魔法を見つけた。
私ほどの魔力のある肉体に乗り移られれば、不老不死の魔法が再び唱えられる。けれど、私ほどの魔力を持つ魔女には出会えなかった。天才的な魔女である自分におよぶほどの魔力を持つものなどいなかった。
新たな、若い肉体を手に入れるたび私は混乱と破壊を繰り返した。その肉体の持ち主の精神と、私の精神が水と油のように反発しあい……多くのものが破壊され、多くの人間が死んだ。いつのころからか私は、ギルド・フォール――古い神話に出てくる悪魔の名で呼ばれ始めた。
肉体を乗っ取ろうとするのはそう易々とできることではない。私の精神は、肉体の持ち主の精神を封じてしまおうと一つの肉体の中で暴れた。それが外側にも、破壊と虐殺と言う形であらわれていたのかもしれない。――いや、私はルカのようにただ死んでしまう、死ぬことを当たり前のように受け止めることのできる人間を憎んでいたのかもしれない。
どれほどの村や街が消滅し、どれほどの人々が死んだことだろう。私はそれらを覚えていない。それはどうでもいいことだったから……。