村井 駿一 様
拝啓 夏が終り、風に秋の気配を感じるようになった今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。あなたは季節の変わり目に体調を崩しやすいお体でしたので、風邪などこじらせていらっしゃいませんか。
本日は前回のお手紙へのお返事を伺いたく、筆をとりました。さかのぼること数ヶ月前、手紙に添えてあなたに送付した書類のこと、覚えていらっしゃいますでしょうか。同封したお手紙、お忙しいお体だとは存じておりますが、一読いただけていないのでしょうか。私もあの文章をつづるのにずいぶん時間がかかりましたので、もし読んでいただけていないようならば、とても残念に思います。
あの時ほど、流麗な文章がつづれるとは思いませんが、私のもとにあなたからお返事が届かないため、あの手紙が何らかの手違いによって、あなたにご覧いただけていないと判断し、もう一度、書類と共に、この度の経緯と、私の気持ち、並びにあなたへのお願いを書き記させていただきます。
ずいぶん長い文章になってしまいますが、今回は是非とも読んでいただけますようお願い申し上げます。それと共に、私はこの手紙の中で書き記したいのは、あなたへの感謝の意であり、恨み言を書き散らすのが目的ではないことを先に表明いたしておきます。途中で読み終わことなく、最後まで丁寧にこの手紙をお読みいただければ、私の真意がお分かりいただけると信じております。
私にとって、あなたとの結婚生活とは、あなたのご実家である住み慣れない広い家で、私ただ独りで、あなたや、あなたのご家族の思い出に囲まれ、私の居場所を作り出す事は出来ず、金銭的には何不自由なく、けれど何一つ、家の中のことを変容させる権限は持たされず、それを息苦しく感じながら、あなたのお帰りを待ちわびる事でした。
結婚前に身分違い、分不相応と周囲から散々言い聞かされておりましたが、それがどういうものであるのか、愚かな私は予想できておりませんでした。
三度三度の食事も、洗濯も、掃除も家のことはみな、家政婦さんの手により隅々まで完璧に手が行き届き、素人の私が手を出そうものならば即刻修正され、遠まわしながら二度と手を出さないようお断りされてしまいました。
あなたもご存知のように、私は蝶よ花よと育てられた娘ではありません。仕事をしなければ生活できない、根っからの庶民の生まれです。ですから、一日、何もすることなく優雅に時間を過ごすなど、数日ならば何とかなりましたが、結婚して一ヶ月も経たない内に耐えることが出来なくなってしまいました。
お稽古事として、ピアノやバイオリンなどの楽器を奏でたり、絵画を描いたり、馬に乗ったり、お友達を作って観劇や演奏会に出かけるようあなたに言われたこともありましたが、私は日がな一日中、あなたのお金を使って遊びたいがために結婚したわけではありません。料理や裁縫を趣味でおこなうような人間として生まれ育ちはしなかったのです。
あなたとの結婚で思い知らされたのは、生活文化に違いがある者同士が結婚生活を続けていくために必要なのは双方の歩み寄り、もしくは妥協とたゆまぬ努力だと言うこと。あなたの帰らぬ家で、私は独り何もする事なく、ただじっと息をして一日を過ごす日々の繰り返しに私の精神が耐えられるとあなたはお考えでしたか。
もし私の為を想ってくださるのならば、もし私を哀れに想ってくださる心をお持ちならば、同封の書類に速やかにあなたの記入をいただきたく思います。そしてご面倒ですが、私のほうへご返送ください。私は一庶民として地に足をつけ、生活のために手に職をつけ、額に汗して働く人生を取り戻したくなったのです。あなたとの結婚生活は私の人生にとって神様からいただけた贅沢なバカンスだったのだと思っております。私のことを思ってくださいますならば、どうか、わがままをお許しください。
また、遺産相続等の放棄書類も同封しておりますので、お受け取りください。他に必要な書類があれば私の方へ申し付けください。私はあなたからこれ以上、何も受け取りたいと思っておりません。頂いていたクレジットカード、ならびに小切手帳もあなたの書斎の引き出しの中に返しております。ご確認いただければ幸いです。
敬具
東原 椛 拝
一通目は悪戯だと思っていた。忘れかけていたころ、二通目が来た。事態は彼女の言う通り、何も進展していない。それは当然のことだろう。この手紙は村井駿一本人に届いていないのだから。
会ったことのない彼女だが、思い込んだら一直線、猪突猛進タイプなのだろうと推測できる。周囲の反対を押し切って結婚したことからも、結婚したのを後悔して家を飛び出したことからも、また、このような重要な手紙を住所を間違えて送ってくることからも。その上、そそっかしいようだ。手紙を返送して欲しいと書きながらも、自分の住所を書いていない。封筒にはただ「東原 椛」とあるだけ。同封された離婚届も、財産放棄の書類も、この間違えられた住所で記入しているのだから手に負えない。
村井駿一という男にこの手紙を返送してあげたいのはやまやまだが、この東原椛という女に僕は興味を持ってしまった。人の出会いにはいろんな形があるものだが、彼女が直筆で書いた文面を見るだけで、その文章を読んだだけで、恋に堕ちるとは想いもしなかった。
彼女の文字を見ているだけで、彼女の筆遣いを、彼女の文字の運びを、彼女の言葉の選び方を見ているだけで、僕は幸福な気持ちになれる。恋に堕ちるとは、人をおかしくするのだ。
彼女の手紙をもう一度最初から、一文字一文字指でたどりながら読み返す。静かに手紙をたたみなおし、封筒に入れなおす。
戸籍上の、夫である男に書かれた別れを催促する手紙。これがどうして、まかり間違って僕の手元に届く事になったのかは分からない。彼女は知的で、計画的で、用意周到に動きはするが、どこか間が抜けているのだろう。だからこんな些細なミスに気づきもせず、僕の元に手紙を出し、辛抱強く、来ない手紙を待っていられるのだ。
村井駿一が愛したのは、彼女のそんなところなのかもしれない。見も知らぬ男に嫉妬し、見もしらぬ女に恋い焦がれる。恋する者の思考はおかしい。
彼女に会いたい。そして、僕の思いを伝えたい。その思いは強まるが、彼女が住所を書かない限り、僕は彼女に会えず、僕の元に男への別れの催促の手紙が届き続けるのだ。じりじりとした焦燥感を感じているのは、僕と、彼女と、そしてきっと村井駿一――。
終
ご覧いただきありがとうございました。〔2013/11/09〕
ligamentさまの「煽り文」使用
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