立ち止まりゼェゼェと肩で息をする。
物陰に身を潜め、息を殺して振り返る。
――誰もいない。
「良し」
僕は淡いピンク色をしたパジャマに、ミリタリー調のパーカー、テニスシューズ。
パーカーとシューズは途中で調達したものだ。僕に与えられてるのは、この膝丈のワンピースパジャマだけ。風にあおられて、短い裾がひらひら揺れる。
暑いのに比べれば寒いのは好きだったけど、やっぱりこの格好じゃ寒すぎた。ラジオで、今年は暖冬だと言っているのを聞いて決行した計画だったけれど、何年も冷暖房完備の部屋から出たことがなかったから、冬の、この身を切るような寒さを忘れていた。
見上げた空は灰色に近いくすんだ青色。
「まずまず……の天気」
誰に言うでもなく呟く。
青色は嫌い。
+
林を抜けて、線路を辿り、歩きつづけていると見知った場所によく似た景色を見つけた。
小学校。懐かしい木造の、朽ちた校舎。
廃校となったその校舎の前に広がるのは運動場。乾くとクリーム色、湿ると茶色く変色するごく普通の地面。
小さい頃、僕はよく一人で遊んでいた。
ゆっくりと、あの頃と同じように真中を目指す。
振り返るとテニスシューズ型に薄い青の染み。
ハハハ……自嘲気味に笑う。
あの頃と変わらない。
中央に達すると、僕はぐるりとあたりを見渡して、あの頃ようにまず、トンと軽くジャンプ。大地に現われたのは冬の青空と同じ色。
もう一度ジャンプ。
今度は高く、高く、もっと高く――
「痛っ……」
視界がぐるりと反転し、僕は地面に腰を打ちつけた。手で腰をさすりながら、荒い息を繰り返す。
君はこのところ筋力が著しく低下している。運動をするように――この間、そう言われたことを思い出す。
息を整えながら、うつ伏せに寝転がり、一回転。
「ふぅ……」
息を吐いて、僕が倒れた跡を見る。
大地に焼き付けられたような青い染み。
夏の海の色をした染みはゆっくりと、空中に溶けて消えてゆく。
もう一度ごろりと体を回転させる。
僕と同じ形をした青い染み。
それが消えるのを見届けて、また回転。それを何度も繰り返す。
頭の中を渦巻いて、何度も何度も僕を傷つけていく過去。
――そんな嘘ばっかりついて!
僕に向けられた苛立ち。
――あの子の頭はおかしいんだよ。
冷たく睨みつける瞳。
――それは精神的なものだよ。そこには本当は何もないんだってこと、わかってるんだよね?
そして、否定の言葉。
――どうして僕だけ……
「どうして僕だけ青いのがつくの?」
僕にしか見えない、青い染み。嫌だと泣きじゃくる僕の問いかけに、祖母はいつも優しく諭した。
――空はね、あなたの染みを……
運動場の端にたどり着く。
「空はね、あなたの染みを吸い取って青く染まっているの」
「ロマンチックな台詞ね」
突然、頭の上から響く女の声。ふわりと紫煙が膨らんで、辺りに場違いな甘い匂いが漂う。
「どうして……?」
ここがわかったのだろう。誰にも会わなかったというのに。
溜息をつきながら見上げると、年齢不詳の、不思議な雰囲気をもった女が立っていた。ストレートロングの黒髪に、黒を基調とした直線的な服。
僕が予想していた人間ではなく、まったく知らない人だった。
「あなたの匂いをたどってきたの。……私、鼻が利くから」
女は指で自分の鼻を指差す。
「ここで何してるの?」
視線を女から青い染みに移す。
「綺麗な青ね」
女の言葉に僕はきょろきょろとあたりを見渡し、女の視線の先――僕の跡を見た。だいぶ薄くなった青い染み。
「……見えるの?!」
「私たちには、ね」
女は大きく煙を吐き出し、煙草を黒のヒールでもみ消す。
僕はじっと染みを睨む。
これのせいで、僕は父母と別れ祖母と暮らすことになった。これのせいで、祖母が死んでからは病院に入れられたのだ。これが、僕にしか見えないから。
「それ、嫌いなの?」
ジッポーライターの音がして、女は次の煙草に火をつけたようだった。また、あの香りがし始める。
「大っ嫌い」
「……私は嫌いじゃないわ。青色、好きだから」
「僕は嫌い」
しばらく沈黙が続いた。
+
沈黙を破ったのは鳥の鳴き声だった。ピーヒョロロロロロゥ……トンビの間抜けな鳴き声。
「寒くない?」
女の声。
僕は体の芯から冷え切っていた。体が凍えて、口を動かすのも辛かった。
女は手をのばし、僕の冷え切った腕を取って抱え起こす。
僕がじっと寝転んでいた大地には深い宇宙のような青。
「唇、真っ青よ」
女はニヤリと、不敵という言葉が合う笑みを見せ、
「温かいコーヒーなんてどう?」
数百メーター先にある年期の入った商店の軒先に置かれた、古い自動販売機を指す。
僕は首を振る。
暖かいものは心底ほしかったが、コーヒーは苦手だ。
「そんなに震えてるのに?」
「コーヒー嫌い」
僕の言葉に女は目をぱちくりとさせ、
「じゃ、紅茶は?」
僕は頷く。
女は黒いコートを脱ぐと、僕の肩にかけ、ブランコに座らせた。
ガタガタ震えていると、女が熱いレモンティーの缶をくれ、僕のコートを掛けなおし、隣のブランコに腰をおろした。
「あなたの触れたものは何でも青く染まるのね」
感情のない声。
コートをかけなおしたとき、コートの裏地が青く染まっているのを見たのだろう。
「ちょっと素敵かも……ね」
そう言って、コーヒーを一口含んで、アチチと顔をしかめる。猫舌らしい。
「ありがとう」
礼を言って、僕も飲みはじめる。
「青……なのよね――」
女の声に僕は顔を上げる。
女は空を見上げている。考え事をして、声が漏れた雰囲気。
僕が残り少なくなった紅茶缶に目を戻そうとすると、
「私もね、青いのよ」
「え?」
何のことだかわからず尋ね返す。
「香りをね、青く感じるの――見えるって言ってもいいかな……」
いまいち意味がつかめない。僕の戸惑いを感じとったのか、補うように言葉を続ける。
「あなたは本当に真っ青な匂いがするのよ。濃くて、深くって、澄んだ青。純粋に青い――真っ青な色」
「僕が……青い……?」
「そ、飛び切り上等の青――」
そう言って、煙草に火をつけようとして、
「ごめん、煙草吸ってもいい?」
僕は首を振る。
煙草の匂いは好きじゃない。
「……そう」
残念そうにしながらも女は煙草を箱の中に収める。
「これもね、素敵な青なの」
女の言葉に、僕は女の手に握られたタバコの箱を見る。
見たことのない銘柄の箱。
「タバコ、好きなの?」
僕の声に、箱を見つめていた女は首を振り、
「これが素敵な青だから……」
互いに話すこともなく黙り込む。
タッタッタッターラララッタッタッ……
どこかで聞いたことのあるクラシック曲の電子音。
彼女は慌てて、黒い小さなカバンから携帯電話を取り出し、
「ちょっとここで待っててね」
声が聞こえない場所まで歩み去る。
僕は手を伸ばし、彼女が携帯をバッグから取り出した時に舞い落ちた、白い紙片を拾い上げる。
そこにはシンプルに、ただ、
【不老不死友の会 藤見 リツ】
と印刷されていた。ご丁寧にも【ふろうふしとものかい】と横にルビまで入っている。
胡散臭い。全然そんな雰囲気なかったのに。
僕以上に病院が必要な人らしい。いや、名刺を持っていたといっても、そもそも本人とは限らないか。
だが、どうしよう。
もし、彼女がこの名刺の主であった場合、なぜ、僕に声をかけてきたのだろう。
戸惑っていると、彼女が戻ってきた。
「――あっ!」
僕の見つめていた名刺を目にも止まらぬ速さで奪い取り、
「ぁあ、もう! ウチ何やっとんじゃ……」
頭を抱えてその場に座り込む。
それまでの謎めいた雰囲気まるでない。言葉も――なまってる……?
「ウチ、めっちゃ怪しいなぁ? 怪しいと思うじゃろ――こんな名刺持っとるけぇ……」
「……あ、あの」
「ウチな、めちゃくちゃ、おっちょこちょいなんよ。じゃけぇ、めっちゃ気ぃつけとったんじゃけど……もう、クールにしとってもしゃーないわなぁ」
ちらり、と僕の顔を見て、にこりと笑う。人懐こい笑顔。
つまりは彼女は【不老不死友の会 藤見リツ】で、いいらしい。彼女のその変容に僕は戸惑いを隠せない。
「ウチのことは【リッちゃん】でええよ。みんな、そう呼んどるけぇ」
「えぇ……あぁ……はい……」
僕の隣のブランコに先ほどと同じように腰をおろし、リッちゃんは空を見つめながら、
「【青】なんよ」
ふいに語り始めた。
「ようはわからんのじゃけど、ウチ等の共通点は【青】なんよ。あんたは青い跡、ウチは青い香り、青い時間、青い音、青い空気……」
「それが、共通点……ですか?」
僕は意味がよくつかめず尋ねかえす。
「――そうなんよ!」
リッちゃんは、強く頷く。
そうしてまた黙り込み、空を睨み付ける。考えるときの癖らしい。
僕は理解できないまま、
「【不老不死友の会】っていうのは何ですか?」
あの名刺の肩書きについて尋ねる。
僕の問いかけに、リッちゃんは心底驚いた表情を見せ、
「あんた、自分の体質にまだ気づいてなかったん?」
「体質……?」
「老いもせず、死にもせん。そういう体じゃろ?」
今度は僕がリッちゃんと同じ表情をする番だった。
「気づいてなかったん? さっき青が共通点じゃって言ったじゃろ? 不老不死の体質のもんは何でかわからんのじゃけど、青色の能力を持っとんよ」
僕が不老不死?
「まぁ、不老不死ゆうても完全じゃないんじゃけどな。普通の人よりは生命力が強ぉて、ちょっとばかり寿命が長いだけなんじゃけど……」
なんだか頭がクラクラしてきた。僕も同じ人種だと言われて。
「長いって……どのくらい?」
「はっきりしたことはよぉわからんのじゃけど、三倍以上ってとこじゃろうか。やっぱ個人差みたいなのあるし、それに、寿命縮めるようなこと好んでするヤツもおるけぇなぁ」
笑ってタバコを吸う振りをしてみせる。
「……上限は無しってことですか?」
「まぁ、ウチが知っとる一番年寄りは千年生きとるとか言うとったけど、嘘か本当かわからんけぇなぁ」
それより年上おらんし……と笑う。
何だかおかしな展開になってきた。
「それで……僕はどうすればいいんですか」
「どうって、別に」
リッちゃんは困ったような顔をして、空を見つめる。
「ウチらはただ、ウチらみたいなのが他にもおるってことを知ってもらえりゃぁ、ええだけじゃけぇなぁ」
困りきった表情で僕を見る。
「あんたが病院戻りたいんなら戻りゃええし、逃げたいんなら逃げりゃええ。あんたの好きに、自由にすりゃええよ。ウチらは別に――」
「何なんですか?」
僕の声に、リッちゃんは首をかしげる。
「何のための会なんです?」
リッちゃんはため息をつき、ちょっと寂しげに僕を見た。
「ウチら長生きじゃろ? じゃけぇ、あっという間に知り合いがおらんようなる」
空を見上げる。
「年とらんけぇ、そのうち気味悪がられだす。その土地におられんようになって、転々と……見ず知らずの土地を流れ――そんな生活に嫌気をさして、自殺――」
暗い顔。
「しとうはないじゃろ?」
ケラケラと明るく笑う。
「ウチらもな、なんか世の中の役に立つようなこと、できりゃええとは思うんよ。じゃけど、ウチらの能力って言うても、青いことと不老不死だけ――そんなもん、人体実験の材料にでもされて終わりじゃが。そうなりとうはないじゃろ?」
「……はぁ……」
リッちゃんの妙なテンションについていけず、僕はただ頷くのみ。
「じゃけぇ、ウチらみたいなのが明るく暮らしていくために、【不老不死友の会】があるんよ!」
リッちゃんは勢いよく立ち上がり、
「ほんなら、また」
振り向きもせず去っていった。
+
僕はブランコに座ったまま、リッちゃんが見ていた空を見上げる。頭の中をリッちゃんの言葉が繰り返し繰り返し、流れては消えていく。
立ち上がり、僕の座っていた――青い痕を見つめる。
空に吸い取られていくように、だんだん地の肌を取り戻してゆく、古ぼけたブランコ。そこから完全に痕が消えてしまうと、僕は再び空を見上げた。
ほんのちょっぴり、青さが増している――そんな気がした。
終
『青の病』をご覧いただきありがとうございました。〔02/2/23〕
思いついたネタ(足跡が残る)に、昔考えたネタ(不老不死の藤見リツ)をあわせて割ったら、こんな感じになりました。このところ、方言を使った小説が書きたかったので、リッちゃんには方言で語っていただきました。……やっとのこと、ここまでまとめあげたんですが…なんていうか、面白くない。青色でまとめたので、文章的にまとまってるだけの小説だなぁって感じです。盛り上がりもなく、不老不死友の会についても触れもせず…ただだらだらと…あぁ……
2004/04/24 改稿
2012/01/18 訂正