それを幸せと君は言う

 全く嫌になる。
 デレデレと、私の目の前でお惚気話をしてくれてんのは幼馴染のクボヤスこと、久保田安彦。場所は私が一人暮らししてるアパートの一室。時刻はもうすぐ〇時を回るところ。
 クボヤスの手土産であるボジョレーをマグカップに注ぎ、ゴクゴク、水のごとく飲んでやる。ボジョレーたってピンからキリまであるから、これがピンなのか、キリなのかなんて私にはわかんない。そもそも、赤ワインって、あんまり好きじゃないのよね。
 クボヤスは持参のワイングラスを大事そうに抱えたまま、ユリコさんとやらの話を口から垂れ流している。曰く、優しい。曰く、和風美人。曰く、料理上手。曰く、綺麗。曰く、曰く、曰く。しゃべってばかりで、ワインに口を付けないから、私が飲み干しちゃってもかまやしないだろう。
 私はカップに三杯目のボジョレー。さすがに胃が熱いし、気持ち悪い。三十歳ってメモリアルな誕生日を急性アルコール中毒で迎えたくはないが、そうなるのは間違いない。だって、あと八分したら明日。つまり、私の誕生日。めでたいんだか、めでたくないんだか私はシングルのまま三十歳の大台を迎えるのだ。目の前のクボヤスに裏切られたせいで。
 クボヤスと私はは生まれた時からのお付き合い。なんてったって、産婦人科のベッドで隣り同士で寝ていた仲。ご近所なこともあり、幼稚園、小学校、中学校と一緒。私が受験に失敗したせいで高校も一緒に通わせていただいた。大学は別だったけど、クボヤスのおばさんが「アユムちゃんが一緒だとおばさん安心。安彦、一人じゃ不安だし」って理由で、上京して借りたアパートの部屋が隣同士だったりするから本気で生まれてこの方三十年来のお付き合い。
 大学卒業の合同二次会の席で酔っ払った知人が「お前らほとんど夫婦だな。もう結婚すればいいだろ」って売り言葉に、酔った私が「三十歳までにお互い独身だったら結婚するわよね」って言った買い言葉をクボヤスはしっかり覚えていて、十日前に知り合ったばかりのユリコさんに三日前にプロポーズして今日、ほんの数時間前、婚約が成立したところだ。あーめでたい。
 そりゃま、ここんとこ酔っ払いの戯言ってやつで「私たち、もうすぐ結婚しなきゃだわね」なんて何度か、もしくは最近とみに絡んでたような気もしないではないけれど、はっきり言って、私はクボヤスのことなんてミジンコほども男として見たことはない。ミジンコに性別があるかどうかなんて私は知りはしないけど、結婚するならクボヤスより確実に私はミジンコを選ぶ。
 クボヤスは悪い人間じゃないけど、優柔不断だし、おっちょこちょいだし、物覚え悪いし、貧弱だし、方向音痴だし、機械音痴だし、物を知らないし、字は汚いし、要領悪いし、背は低いし、すでにてっぺんヤバイし。確かにすっごい優しいけど、男として、結婚相手としてはどうかと思う。
 それに比べ、ユリコさんこと篠沢由利子さんは女神だ。バツ三ではあるけれど、一人目は事故死だし、二人目三人目は相手側の不倫。男運がないというか、見る目がないと言ったら良いのか。四人目にクボヤスを選んじゃう辺りが、そうなんだろうなって思うというか。
 ユリコさんユリコさんユリコさんって、こいつは何度ユリコさんって単語を吐けば気が済むのか。五分に一回以上の頻度で、ユリコさんユリコさん言ってる。耳にタコができそうだ。っていうか、本気で気持ち悪くなってきた。
「吐く」
「え? アユムちゃん顔色悪いよ、真っ青。ちょっと待って。ここはやめなよ。後片付けするのアユムちゃんだよ? トイレ行きなよ、トイレ」
 まったく幼馴染がいのないやつだ。確かにここは私の部屋だし、クボヤスに私の部屋の物をむやみに触られたくないし、クボヤスなんかに私の部屋を掃除なんてされたくない。
 私は何とか立ち上がり、トイレに向かう。体が重い。
 トイレで散々、胃の中どころか腸の中身も出したんじゃないかってくらいもどしたところで、クボヤスが水をくれたから、それを飲んでまた吐いた。酸っぱい上に赤い水がドバドバ口から溢れて、つくづく私、噴水に生まれてこなくて良かったと思う。

 クボヤスが結婚して五年が経った。ユリコさんってば、クボヤスの阿保に何言われてたのか、私のこと最初は目の敵にしてたけど、今ではすっかり仲良し。私に姉がいればこんな感じなんだろうなってなくらいのお付き合い。ちょくちょく美味しい晩ご飯をご相伴してるし、買い物にも一緒に行くし、日帰りの旅行にも二人っきりでで出かけちゃったりする仲。実に良き友、良き隣人。
 ユリコさんの連れ児が三人いるので、二人の間に子供はいない。全員父親違いなんだから、クボヤスの子供が居ても良いと思うんだけれど、ユリコさんの年齢的に厳しいのかも。上の子は今年、高校生だし。
 子供たちってばユリコさんの教育の賜物か、実に良い子達で、私のこと「お姉さん」って呼んでくれるものだから、よく行くスーパーの店員さんたちに年の離れた兄弟だとか思われてる雰囲気。実に愉快痛快。
 しかも三人揃って文武両道。勉強もクボヤスなんかよりよっぽどできるし、スポーツも県大会に行くくらい出来ちゃう。ユリコさんの血がそうさせるんだと思えば可愛いったらありゃしない。
「広い物件探さないと」なんて言いつつ、クボヤスは相変わらず私の隣に住んでいる。確かにここのアパートってば、大家さんが「私は儲けなんて考えてないのよ。年金でなんとか暮らせるからね、それでいいの。十分なの」なんて二言目には言ってくるくらい、周囲に比べて格安優良物件だし、大きな子供が三人もいて、県大会行くくらい部活動してるとなれば、養育費って結構かかってるっぽいし、ユリコさんのニ番目と三番目の別れた旦那は養育費をとどこうらせているって話だし。
 そう考えてみればクボヤス一家、意外と財政的に厳しいのかも。でも、もしかしたら、マイホーム貯金してる可能性も無きにしもあらず。クボヤスってば、昔から「なかなか斬新で素晴らしい」「実に良いですね〜。素晴らしい」ってソフトな声が素敵なお宅訪問番組好きだし、住宅展示場めぐりをユリコさんとニ人でちょくちょくしてるみたいだし。
 でも、もし本当にヒサヤスが一戸建てを買っちゃったら、私はここに一人取り残されちゃうわけで、それはそれで寂しい……かも。でもま、近場だったら、連絡もなしに押しかけるてやるけどさ。
 私生活はこんな具合で楽しく暮らしている訳だけれど、このところ問題は別にあった。それは恋愛って言いたいとこだが、悲しいことに現場は職場だ。
 考えてみれば私の人生、学生時代は部活部活。その後は仕事仕事で浮いた話なんて一つもありゃしない。高校の時に告られはしたけれど、同じ部活の後輩の女の子に「先輩に憧れてました」なんて言われても、その気なんてない私は付き合うも何もできたもんじゃない。幼い頃から私の周りをクボヤスがウロウロしてるのが虫除けになっちゃってるってわかっていても、幼馴染を完全排除なんて出来るわけもなく、憧れの人は何人かいたものの、気が付けば親しい友人としてお付き合いになっていて、異性としてなんてまったく意識してもらえないという恋愛だか失恋だかしかしたことがない。
 その点、私と違って色気があるのは、中途採用で入った二十七歳の女子社員、春山萌絵。専務と不倫しかけ、取引先ニ社の担当者に手をだし、お得意樣経由で事態は発覚。後から後から芋づる式に男関係が発覚したものの、どこの仏の手が伸びたのか首にはならず、男性社員の少ない部署こと私んとこに回されてきた。
 部署に回ってきてすぐは、すっごく気の利く優しい子って前評判はどこから出たものやらってほどの豹変振り。それまでがかまととぶってたのか、猫をかぶってたのか。来た日から女性社員たちとの間で一発触発状態。間に立つ私に対しても、親の敵のような対応されるもんだから、こっちとしても堪忍袋の緒を切ってやりたいと思いながらも、これも仕事のうちと耐え忍ぶ日々。そうこうしていたら結婚するとか言い出し、男性社員連中が目の色変えて「相手はどんな男? モエちゃん騙されてるんじゃない?」なんて、次から次へって言いたくなるくらいの頻度で、シングル連中が告白やらプロポーズやら。
 中には既婚者もいて「妻とは別れる」なんて、涙ながらにすがったなんて話もあったが、火のないところに煙が立つはずもない。私のようなお局含め、連日、昼食時にモエちゃんの男ニュースは更新され続けたが、ワイドショーも真っ青なことに、名前が出るわ出るわ。傍から見ていれば楽しい話かもしれないが、他山の石とは言えない立場にいる私には胃がキリキリ痛みを訴えていた。
 モエちゃんの結婚話は本当だったらしく、数週間後、彼女は薬指にシンプルな結婚指輪をはめて出社してきた。結婚式は無しで入籍だけ済ませたという。お金の問題というより、日程に都合がつかないからだというが、相手の職業はなんなのか聞いてみても要領をえない。
 それよりモエちゃんは結婚して気持ちが落ち着いたのか、それまでの野生猫っぷりはなりを潜め、前評判通りの可愛らしく気立てのよい女性へ見事に変身をとげた。変り身の速さには驚くばかりだけれど、喧々囂々と仕事しなくてすむ分にはありがたい。
 とまあ、ここまではこの夏までのでき事だったりする。
「あー……嫌になる」
 と、私が思わずつぶやいてしまったのはお隣さんのことだ。ヒサヤスが住んでいるのは私の左隣りの角部屋。私は真ん中。右隣の角部屋には誰が住んでいるんだが、生活時間のすれ違いで今日の今まで顔を見たことがなかった。
 三年くらい前から住んでいることは知っていたが、挨拶の粗品は郵便ポストに入っていたし、時折物音は聞こえてくるけど、安普請な作りのアパートじゃないので、たいして音は響いてこない。
 まさかモエちゃんの旦那さんがお隣の人だったとは、二人揃ってご挨拶に見えるまでまったく、知りもしなかった。しかも――。
「全く嫌になる」
 二人が辞退し、ドアをしめた後、私はその場にへたり込んでしまった。
 久々に味わうこの感情――胸の高鳴り、血圧の上昇、顔の火照り……そう、これは恋。世に言う一目惚れ。
 なんで、今――今更。っていうか、今頃。よりにもよって、なんでモエちゃんの旦那さんなんだ、私。
 彼の名前は以前から知っていた。中川清文。一階んとこに置いてある郵便ポストに、クセのあるボールペン字で書いてあるから、ご本人は見たことなくても「中川清文」って文字だけはよく見知っていた。
 パートをやってるユリコさんは時々、中川さんと顔を合わせたことがあり「かなり男前な人だったわよ」なんて言っていたけれど、私はタイミングがまったく合わず、ちらりと見たこともなかった。そんなものだから、私は二人がご挨拶に訪ねてきた際、目を白黒させてしまった。だって、モエちゃんにイケメン。この取合せが扉の向こうに立ってるなんて、ドアスコープで見ても驚きだし、扉を開けても信じられないし。
 どうすりゃいいのか。今更どうもできないわけだけど。わかっていても、なんかこう、どうにもならないけど、どうにかなるんじゃないかって邪なこと考えてしまう。ユリコさんと散々、不倫なんてする人の気持ちが理解できないなんて話し込んじゃったこと、一度やニ度じゃ効かないってのに。まったく、当事者になってみなきゃわかんないことって多いよね。

 それから一週間経った。
 気が気じゃないってのは、私だけじゃなく、中川さんもだったらしい。ここでいう中川さんってのは結婚して苗字の変わったモエちゃんこと中川萌絵ではなくて、中川清文さんのこと。彼も、どうやら私に一目惚れしてしまったらしい。因果なこともあるもんだ。
「困ると思うけど」
 と、前置きして彼は私に気持ちを告げてきた。
 会社帰りの駅前コンビニ前。モエちゃんを駅まで迎えに来ていたらしいが、残念ながら彼女は残業であることを告げた私に、彼は「それじゃ一緒に」なんて言いつつ、アパートまでの道すがら、なんとなく立ち寄った公園。中学生のカップルでもいまどきこんな告白はしないだろう。
「一目あった時から、君が気になってて……」
 見つめ合っているだけで言葉はいらない。これが永遠であれば良いと思うけど、無常にも時間は進む。互いに手に手を取り合って駆け落ち、もしくは天城越えなんてするわけにもいかず、私は彼に「困ります」と答えた。
 大人の判断力ってやつがこの時ほど恨めしいと思ったことはない。全てをなげうてるものこそ本物の恋だとか、相手のためなら死んでも良いと思えるのが真実の恋だとか聞くけれど……私は大人だ。それなりの責任やら社会的地位やら、いろいろある。結婚していない私には仕事は重要だし、彼と駆け落ちして――なんて、愚かな夢を語れるほど、若くもない。

 ぎくしゃくとした大根役者も、時間が経てば、成長する。私はキヨフミさんへの気持ちを見事に心の水面下に押しやり、モエちゃんと仲良くやれるようになった。時折、恨みがましい目付きでモエちゃんは私を見るが、新婚さんのお惚気話を聞いてあげていれば機嫌はよくなる。
「アユムさん、アユムさん」
 と、なんだか妙に懐かれてしまって、年の離れた妹が出来たよう。そのうち、きっと二人の間には可愛らしい子供ができ、アパートを出ていくだろう。それより、私がここから出ていくのが早いだろうか?
 クボヤスに置いて行かれるのではなんて、杞憂していたのが遠い昔のことのようだ。今ではキヨフミさんとは駅で時たま目線で挨拶する仲。彼と言葉を交わすことなどないが、モエちゃんは女の感なのか何なのか、私に釘指すように幸せアピールをしてくる。私は「またか」と思いつつ、彼女の話を針のむしろの上で聞く。でも、このむしろの針でさえ愛おしいと思ってしまう気持ちはいつになったら冷めるのだろう。
 私は、私の手に入らなかった愛おしいものに挟まれて暮らしている。これは不幸なのか、幸福なのか。私がうんと長生きして、クボヤスかキヨフミさんの墓参りをしたときに、墓石の前で思い切り「バカやろー」と叫んでやれば、このモヤモヤした気持ちは晴れるんじゃないかと思う。
 私は住み慣れた部屋で左右の部屋から漏れ聞こえてくる、幸福な家族の喧騒を聴きながら、年越し蕎麦を食べている。食べ終わったら、クボヤスんとこに奇襲して「ゆく年くる年」を見て、そのあとモエちゃんんとこに押しかけて新年の挨拶をしよう。

 来年は良い年でありますように。

『それを幸せと君は言う』をご覧いただきありがとうございました。〔2011/12/21〕

2012/01/19 訂正

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