ダイブ

 分厚い鉄の扉一枚隔てた室内は別世界だった。
 廊下から漏れてくる蛍光灯の光が救いに思えるほど室内は暗く、気味の悪い雰囲気。目の前を歩くミトは慣れた様子で、ずんずん進んでいく。シンはミトの後ろを歩きつつ、興味深く周囲を見渡す。
 回廊の左右に並べられた、筒状の『プール』と呼ばれている透明なカプセル。二メートルくらいの高さ。直径は一メートル半くらいあるだろうか。
 その上部に取り付けられたライトからは、柔らかな緑色の光。これが室内の光源。
 カプセル内には水のような液体と、それに漂うように浮かんでいる人間。電子音と水音が、奇妙な調和を持ちながら、静かな室内に一定のリズムを刻んでいる。
「まるで、アクアリウムみたいじゃない?」
 くるりと振り向き、ミトは楽しげな笑みを浮かべる。
「一匹づつ、小さな水槽に閉じ込められた熱帯魚……そんな感じしない?」
「……闘魚のことか?」
 いつもながら無愛想にシンは答える。
「トウギョ?」
「オスは綺麗だが喧嘩早いから、一匹づつ小さな瓶の中に閉じ込めて飼うらしい」
「ふーん、こんな感じで?」
「さぁ、実物を見たことないから……」
 様々な色のスウェットスーツ。頭部に取り付けられた幾本ものチューブやコード。皆、軽く体を曲げ、中には足を抱え込むように水の中に浮いている。遠くから見れば、熱帯魚を閉じ込めているように見えるかもしれない。だが、目の前でそんな感想を漏らすミトの感覚はどこかずれている。

 更衣室で、シンは自前のダイブ用スウェットスーツに着替える。中古で買ったものだが、去年流行していた柄なのでそれほど古いものではない。深緑の地に鮮やかな黄緑色の線が龍のように描かれている。
「あ、懐かしい。私も一着持ってたよ。黄色のヤツ」
 澄んだ青色に和風な金魚が墨絵的に描かれたデザインのスウェットスーツをミトは着ていた。
「これ、可愛いでしょ? こないだ買ったんだ」
 ファッションショーのように格好をつけてくるりと回転。
 ミトはガイドで稼いだ金を全てスウェットスーツにつぎ込んでいるらしい。他のヤツにガイドを頼めばよかったとシンはいまさら考える。
「あ、後悔してる? 後悔は『後』で『悔やむ』って書くから、正解だわ」
 手を叩き、嬉しそう。
「――三一号機に入って」
 奥にある何も入っていないプールを指差す。
 近くによってまじまじと見やるが、シンはどこから入ればいいのかわからない。
「……どうやって?」
 ミトは隣に並んだ三二号機の操作パネルから顔を上げ、
「……シン、本気で初心者だったんだ。珍し〜い」
軽く口笛。
 頼む時にそう言ったはずだがと、シンは言いかけてやめる。口論でミトに勝てるとは思えない。
「このボタン押したら扉が開くわ。中から出る時も一緒。あと、何か緊急事態のときもね」
 カプセルの手前に大きな丸いボタン。つぎはぎだらけの機械なので、目に付きにくい。手のひらで押すと、カプセルの扉がゆっくり、左から右へと開いた。
「さっさと入って。入ったらこれとこれとこれと、そっちの線をこっちにつないで、あれはこっち。それはあっち。で、アレをこっちにこうやって……」
「何を言ってるかわからない」
「もう、覚えがわるいんだから!」
 ミトが専門的過ぎるだけだ。素人にもわかるように説明してほしい。
 思いはするが、口には出さない。シンがふてくされていることなどミトにはお見通しの様子で、
「今回は全部やってあげるから、次回は自分で全部接続できるようにダイブ関連の参考書最低十冊は頭の中に叩き込んどきなさい。じゃないと、正規料金取るから」
 友達だからと、かなりの安価な料金でガイドを引き受けてもらっている以上シンは文句を言えない。
 ミトの手によってあっという間にコード類の設置が終わる。首筋や頭部に取り付けられたコードは体温や脈拍数のデータを採取するためのものらしい。コード類は上から垂れ下がっているためあまり重さを感じない。
「扉閉めるわよ。注水するから、マスクかぶって」
 イヤホンを通じてミトの声が耳に響く。本人はガラスの向こうで、軽く手を振り、
「ダイブした先では私が一番先に声かけてあげるから……」
 シンと同じダイブ先になるよう、三一・三二号機を連結するための設定をしている。
 水かさは徐々に増し、シンは腰の辺りまですでに浸かっている。他のカプセル同様、頭の上まで水は来るはずだ。
「大丈夫よ、落ち着いて」
 心拍数などのデータを見たのだろう。ミトがシンに声をかける。
 狭い場所に閉じ込められ、水が流れ込んでくるという感覚は誰しも多少の混乱を伴う。
「浅い眠りにつくのと一緒よ。違いがあるとすればそれがとてもリアルな夢だって事」
 チューブから注ぎ込まれる酸素に、睡眠系のガスでも混ぜてあるのだろう。徐々にシンの意識は薄れていった。

 頭の痛みに、手をやりつつ目をあける。
「……ここは?」
 肺へ吸い込む空気は暑く、季節は夏のようだとシンは認識する。澄み渡った青空、覗きこむ水着姿の人々。自分はどうやら上向きに寝ているらしい。
「大丈夫か?」
 シンに声を掛けたのは左手から覗き込んでいる青年だった。
「ミトか?」
 シンの問いかけに、
「何言ってんだ? おまえ、倒れたときに頭打ったか?」
怪訝な顔。
「混乱してんじゃない? 休んでれば良くなるよ――」
 右手から覗き込んでいる若い女の同情的な声。
「立てる? マサキ」
 声を掛けられたものの、シンはそれが自分の名前だとはわからなかった。
「大丈夫? マサキ」
 女がもう一度声を掛けたので、シンはそれが自分の名前だと気づき、立ち上がる。
 ふらり、立ちくらむが、歩けないことは無い。
「あっちで休んでて、冷たいもの買ってくるから」
 女は日陰になっているベンチを指差し、白いパーカーを羽織り、どこかへ駆けてゆく。
「……どこだ、ここ」
 誰にとも無く、シンは呟く。
 蝉の熱気をあげるような鳴声。プールの中で、色とりどりの薄い布を身につけ、水と戯れる人々。涼やかな水の音と、にぎやかな声。
 ゆっくりと見回すが、ミトらしき人間は見当たらない。
「はい、」
 先ほどの女が冷たい缶をシンに差し出す。
「……?」
 戸惑っていると、女はプルタブを開け、再び差し出すのでシンはしぶしぶ受け取る。
「美味しいよ、シン」
 隣に座り込んだ女の横顔を見る。黒い髪は肩ほどの長さのストレート。
「ミトか?」
「当ったり〜。でも、ここではカナ、君はマサキね」
 カナと名乗ったミトは自分用の缶を開け、飲み始める。
「美味しい〜」
 嬉しそうに空を仰ぎ見る。シンもミト――カナの目線の先を見つめる。
 夏特有の高く澄んだ青空。白い雲が山の端に大きくせり上がっている。積乱雲によって形成される、夏特有の入道雲ってやつだろう。
 カナが何も言わないことに業を煮やし、シンは口を開く。
「これはなんだ?」
「この時代、アルミ缶なんかに飲み物入れて売ってるの」
 飲め、とばかり突き返される。促すような視線。仕方なく、ごくり、飲み下す。
「……変な味」
「飲み慣れないからよ」
「それより、説明してくれ」
 カナに向き直る。
「いつもダイブするときは男の体だって言ってたよな?」
「だいぶがんばってみたんだけどね……」
 カナがプールに目をやる。シンも同じように目をやると、そこに先ほどシンがミトと間違えた男の姿。
「最初は彼の身体にダイブしようとしたの。でも波長があわないらしくってさ、一番身近で波長の合うこの身体にダイブすることにしたの」
 と、自分を指差す。どこにでもいそうな感じの少女。
「あと、ごめんね、シン」
「……何が?」
「タイムラグちょっと大きかったなぁって思って」
 考えてみれば、シンが気づいたときにはミトがカナであることに違和感が無かった。周囲も気づいている様子もなく……ダイブに慣れているとはいえ、確かに少し変かもしれない。
「シン、ダイブ初めてでしょ? 不信に思われないように似たような性格の個体を選んでたらちょっと時間かかっちゃって」
「別にいいよ」
 シンは溜息を漏らし、
「で、ここはどこだ?」
 言って、あわてて付け足す。
「――プールだって事はわかるが」
 カナはにんまりとした笑みを貼り付け、
「『プール』からプールへなんて面白くない?」
 シンはげんなりと首を振る。
「でも屋外プールを見るのは初めてでしょ? これはシンの希望通りだと思うけど?」
 シンはプールを見たまま頷く。
「夕方までここにいることになると思う」
 言って立ち上がる。
 太陽は傾いてはいるが、まだ当分沈みそうに無い。
「私はまた泳ぎに行くけど……マサキはここでゆっくりしてた方がいいわね。その身体、慣れてないでしょ?」
 答え代わりに片手を上げる。何もしていないのに、なんだかひどく疲れきっていた。
 カナはパーカーを脱ぎ、プールへ向かう。プールには一メートルと、三メートルの二段階の高さのある飛び込み台が設置されており、
「マサキ〜!」
 高い方の飛び込み台からカナが手を振る。シンが気づいたことがわかったのか、カナは台の上から大きくジャンプ。跳ね上がる水しぶき。周囲の歓声。水底へと沈んだ身体は、間もなく水面へ顔を出す。満面の笑顔。
 カナはプールから上がると、再び飛び込み台へと足を向ける。
 何が楽しいというのだろう。
 シンの不信そうな顔に、カナは不敵な笑みを返し、飛び込み台のはしごへと脚をかける。
 興味を失ったシンはごろり、横になる。気温は高いのだが、木陰にいるシンにはそれがちょうど気持ち良いくらい。穏やかな風は揺り籠のようで、プールサイドの歓声や水の音もいつしか子守唄になり、シンは深い眠りの底へと引き込まれる。
 どこか遠くのほうから、静かな水音が、眠りに落ちるその瞬間まで耳の奥で響いていた。

「お疲れ様〜」
 耳に飛び込んできた大声に、びくりとシンは身体をこわばらせ、重い瞼を開いた。そこにはにやついたミトの顔。
「初めてのダイブはどう? 楽しかった?」
「……いや、あれが?」
 プールで目が覚め、ミトと会話した後は体調不良で眠っていただけだ。
「初心者は最初のうちは一日三時間以内って規則があるのよ」
「へぇ」
 ミトもきちんとガイドをやってくれているみたいだ。
「ほら、そこら辺にボタン無い? プールに入るときに押したのと同じボタン」
 言われ、見回す。確かに同じ場所に同じようなボタンがあった。
「これ、押せばいいのか?」
「押すってより、押して回して?」
 ジェスチャーする。
 言われたとおりすると、徐々にシンを取り巻いていた水が抜けていく。頭に取り付けられたコード類が少々重く感じる。
 水が抜け切ると自動的に扉が開く。
「ほら、動かない」
 カプセルを出ようとしたシンを押し止め、ミトは手際よく取り付けられていたコード類をはがしていく。
「よしっと」
 やっとカプセルから出るが、体は重い。
「大丈夫? シン」
 苦笑いするミト。
 向こうでも同じように声を掛けられたことを思い出し、シンも苦笑する。
「これ片付けるから先に着替えてて」
 ミトは慣れた様子でコード類の片付けや、カプセルの点検を済ませてゆく。ダイブのため、体力づくりしているだけのことはある。
 更衣室に向かうが、身体は重く、思うように動かない。ようよう着替え終わり、更衣室を出てみるとそこには着替え終わったミトが、携帯端末を睨み付けていた。
「……ごめん」
「あ、別にいいよ」
 端末から顔を上げ、微笑む。集中していて気づかなかったらしい。いつもながらにミトには迷惑ばかりかけている。
「次のダイブなんだけど――」
 ミトが携帯端末を大画面に切り替える。ミトとシンの間にホログラムのように浮かぶ複数の画面。前後から同じように画面が見られるこのモデルは三ヶ月ほど前に売り出されたもの。ガイドのバイトは相当稼ぎがいいらしい。
「ほら、これが今日のシンの体調データ」
 ミトが一枚の画面を指差す。
 そこには脈拍数、血圧、体温などが折れ線グラフで記されている。
「特に問題はなかったみたい。ま、大半寝てればこんなもんだろうけど」
 嫌味だろうか。
「ちょっと不安なのは体力不足ね。三時間以上のダイブは要注意が必要ってところ」
 それほど体力が無いほうだっただろうか。
「そんな不満そうな顔はしないの。水の中に三時間ずっといるって考えてるより体力消耗することなんだから」
「……そういえば、昔、拷問の方法でそんなのがあったらしい」
「ふぅん、シン、変なことよく知ってるよね」
 百科事典を読むのが趣味だとは言えない。
「でね、次のダイブなんだけど――」
 ミトとダイブの約束をし、別れた。送っていこうか、という言葉を断り、シンは家にたどり着く。思っていたより疲れていたのか、仮眠しようと倒れこんだベッドで目覚めたのは翌朝だった。

 朝から雨が降っていた。テレビをつければ、いまだに不確かな天気予報を流している。科学が発達してみても、完全な天気の予測は不可能らしい。
 トーストにコーヒー、ベーコンエッグにサラダといつもと代わり映えのしない朝食をとっていると、電話が鳴った。電話の上にはホログラムが映され、満面笑顔のミトの顔写真。
 この間来たときにでも、勝手に電話の登録情報を変えたのだろう。シンは初期設定のまま、シンプルに『ミト』という文字がホログラムに浮かぶようにしていたはずなのに。
 文字と写真ではその居心地の悪さはぜんぜん違う。無視しようと黙々パンを齧っていたシンだったが、コール音に合わせて点滅するミトの写真に嫌気が差し、電話に出ることにした。
「もしもし、」
「お、やっぱり顔写真に変えたのは正解だったみたいね」
「……勝手に人のうちの電話の設定を変えるなよ」
「そんな事言って、戻すの面倒くさいからそのまま使うんでしょ?」
 よまれている。
「ま、私の電話には即刻でないシンが悪いんだけどね」
 自分勝手すぎる。
「――体調どう?」
「……別に、普通」
「十二時間くらい寝てましたって顔してるけど?」
「…………お前、僕の方の電話、映像モードにしてるのか?」
 通話中、ホログラムに表示させる画像には映像モード、画像モード、文字モードと三種類有り、初期設定では文字モード――通話相手の名前がそこに表示されている状態になっている。画像モードにすれば、好きな写真や、絵などを表示でき、映像モードにすれば相手の顔を見ながら対話できる。
 ミトは勝手にシンの電話を映像モードに切り替え、尚且つ、自分の方は画像モードにしているようだ。
「そう嫌そうな顔しない」
 完全に見えているらしい。説明書はどこにしまいこんだか。
「――ダイブのことなんだけど、」
 食事をいったん中止し、ミトの顔写真に向き直る。
「キャンセル入ったから、今日でも良い?」
「別にいつでも……」
「そう、なら昨日と同じとこで同じ時間に待ってるから」
 電話が切れた。昨日と同じ時間ということは、後三十分ほどで家から出なければ間に合わない。急いで出かける準備をした。

 夕日に染まる川面。赤く燃えるような水の色。
「綺麗でしょ?」
「あぁ」
 話かけてきたカナにシンは素直に答える。
 赤い鉄橋に、同じ色をした川、黒い町並みが見事な一枚絵。
「ここはどこだ?」
 昨日はプールだった。今いるのは川原の土手。カナは紺地に朝顔柄の浴衣姿。自分は灰色地の甚平。
「花火大会に向かうところ」
 不思議そうな顔をするシンに、
「昨日の続きからダイブできればよかったんだけど、ちょっとずれたみたい」
 けれど、ずれたためにこのようにすばらしい景色が見ることができたのならば、それはそれでよかったのかもしれない。
「制限時間は三時間なのか?」
「そうよ。それより体調はどう? 二回目だからそれほどでもないと思うけど?」
 確かに、前回のような頭の痛みも無ければ、だるさも無い。
「大丈夫そうだ」
「そう。無理をしないことに越したことは無いんだけど――」
 言葉を濁らせる。
「何だ?」
 心配して声を掛けたシンに、にかっとカナは笑みを返し、
「シンがダイブしているのは伊藤正樹。私は佐々木可奈って子。私はシンのことマサキって呼ぶから、シンは私のことカナって呼んで」
「あぁ」
「質問は無い?」
「あぁ」
「マサキは無口だよね」
「あ――いや、そんなことは……」
 誘導尋問に引っかかってしまった。カナは可笑しそうに笑い、
「似たような性格の個体を選んでるからいつも通り行動してれば特におかしいなんて言われないはずよ」
「……そう」
「マサキ、水の音は聞こえる?」
 突然そんなことを言い、立ち止まる。マサキも同じように立ち止まり、首を傾げる。聞こえてくるのは川を流れる水の音。
 マサキの視線の先を見たカナは苦笑し、
「そうじゃないの。『プール』につかってるシンの肉体が聞いている音。電子音とか、水音とか……静かな室内に木霊してたでしょ? 気づかなかった?」
「いや、わかったけど……」
「ダイブ初心者だからかなり深いところまで潜り込んじゃってるみたいね。もうちょっと引いてみて。そしたらマサキの記憶とか、感情とか……シンが必要としている情報がすぐに手に入る」
「引く?」
「うーん、何ていったらいいのかな……?」
 カナは弱りきった顔。
 空は夕暮れから夕闇へと変わりつつある。
「ダイブ初心者は大概そうなんだけど――」
 右手を握り締め、顔の前に持っていく。
「シンは今、こういう状態ね。でも、こうすれば他の情報も見える――」
 手を伸ばす。握り締めた拳の向こうに、川土手の景色。空には梳いたような雲に反射した赤い光。
「なかなか出来ない人もいるけど、コツさえつかめば簡単よ。そうすれば、ガイドが無くてもダイブできるようになるわ」
 言われたところで、ピンとこない。
「そんな困った顔しなくても大丈夫。初心者なんだから」
 カナは再び笑い、歩き出す。遅れて歩き出すマサキ。
(引く……深いところまで潜り込んでる……?)
 何度もカナの言った言葉を脳内で繰り返してみるが、理解できない。

 駅から電車に乗り込み、数駅先で下車。
「……何か臭う」
「海の匂いよ、花火大会ってのはたいてい海辺で行われるのよ」
 駅構内は人でいっぱいだった。
「おい、二人とも!」
 前方を歩く若者の群れの中から声を上げる青年。ミトと間違えた青年だ。
「さっさと来いよ、迷子になるぞ」
 どっと笑い声を上げる集団。そういえば土手を歩いていたときから、彼らは前方に居た。
「カナの兄は心配性ね」
 疲れたとばかり小さく漏らし、
「いい年して迷子になんてならないわよ!」
 カナは怒鳴り返す。扇子代わりにしていたパンフレットを広げ、
「集合場所はここだから、はぐれても大丈夫よ」
 パンフレットに書かれた地図の一点を指差す。パンフレットには煽り文句と共に、数枚の花火の写真。きっと去年のものなのだろう。夜空に咲いた、大輪の花。
「ダイブするのはやっぱり夏に限るわ」
 路上は人が増え、歩くのもままならなくなってくる。
「すごい人だな。これ、みんな花火を見るために集まってるのか?」
「そうよ。一瞬の芸術。儚いからこそ美しい」
 歌うように言い、露店へと視線を走らせる。
「あれ、」
 指差す先には、りんご飴の幕。
「食べない?」
「何?」
「ふふふ、私、好物なの」
 食物とは思えないどぎつい色で身を固めたリンゴ。小さなもの、中くらいのもの、大きなものと大きさはさまざまあるが、赤、緑、青色と色は酷い。
 カナは中くらいの赤いリンゴ飴を二つ買い、一つをマサキに渡す。
「ま、何事も経験よ」
 言われ、一口舐めてみる。ひたすら甘かった。

「シン!」
 いきなりの大声に、びくりとシンは瞼を開けた。
 ガラスの向こうにミトの顔。
「何?」
「体調不良のため、中止」
 怒ったような口調。
「……え?」
「思ってた以上に体力無いみたいね」
 ガラス越しにホログラムを見せられる。体調データという項目には注意という文字が大きく点滅している。
「まったく、これから花火だってところだったのに!」
 怒っている原因はそれらしい。
「さっさと出て」
 前日同様、ミトはコード類を手早くはずす。
「シン、まともにご飯食べてる?」
「食べてるよ」
「朝のアレ、アレは食事って言わないのよ」
 トースト、ベーコンエッグ、コーヒー、サラダ。普通だと思うのだが、
「内容じゃなくて、量の問題。普通、猫の餌かと思うわよ」
 朝はそれほど食べないものだろうに。
 反論したい雰囲気のシンに、
「昼食、おごってあげるから付き合いなさい」
「……あぁ」
 うなづいたのが運のつきだった。

 連れて行かれたのは焼肉屋。昼食時から少しずれた時間帯だったので、店は空いていた。案内されることも無く、店の奥の席を陣取り、慌てて水とおしぼりを運んできた店員に、
「焼肉定食二人前」
 勝手にミトは注文する。
「あのさ、昼に焼肉は胃にもたれるんだけど」
「何言ってんのよ、シン。肉を食べれば体力は自然ついてくるのよ」
 店の中は焼けた肉の香ばしい匂いに溢れている。店の中央にはなぜか大型の水槽が置かれ、熱帯魚の群れが優雅に泳いでいる。
「ギャラクシーグラスグッピー、プラティレッドムーン、ゴールデンハニーグラミー、コリドラス・ジュリィ、オトシンクルス――」
 すらすらとミトの口から漏れる呪文。
「何?」
「あの水槽で泳いでる熱帯魚の名前」
 魚が好きなことは知っていたが、
「見ただけでわかるのか?」
「まさか、」
 と、笑みを漏らす。
「水槽の端に熱帯魚の写真と名前が書いてあるのよ」
 店の中は水槽から聞こえる水音と、有線の音楽が響いている。最近の曲もあれば、十年ほど前の曲、もっと昔の曲と、そのバリエーションはとりとめも無い。
 熱帯魚に目を奪われているうちに時間が経過していたらしく、注文していた品が運ばれてくる。
 目の前の料理の量を見て、シンは眩暈を起こしそうだった。
「これ、食べるのか?」
「当たり前でしょ、体力つけて、花火見るのよ」
「……まさか、食事済んだらまたダイブするのか?」
「そうよ、文句あるの?」
 ミトは嬉々とした表情で、熱せられた鉄板に肉と野菜を並べてゆく。
「さっきは一時間くらいしかダイブしてなかったから、今日はもう二時間くらい時間があるのよ」
 初心者は一日三時間以内。だが、気分が悪くなった時点で、他の日に変更するんじゃないだろうか。普通は。
「言いたいことあるなら言ってみなさい。ただし、言ったらガイド降りるから」
 脅迫めいたミトの言葉に、シンはしぶしぶご飯に手を伸ばす。
「肉を食べなさい。肉。肉を食べれば体力増幅するんだから」
 何を根拠にそんなことを言うのかわからない。普段からあまり肉を食べないシンは観念した様子で焼肉に手を伸ばした。

「あー食べた、食べた」
 わき腹をさすりつつ、爪楊枝を口にくわえ席を立つミト。結局焼肉のほとんどはミトの胃袋へ消えていたが、シン自身いつも以上に食べているので文句など無い。
「……みっともない」
 あまりに親父くさい仕草を指摘すると、
「悪ぅございました」
 照れた様子で姿勢を正し、会計を済ませる。
「紳士的にさ、ここでお金払ってくれれば格好良かったのに」
「ミトが奢るって言ってただろ?」
 バイトの稼ぎはそれほど多くない。
 ミトもそれ以上追求しようとはせず、場を取り繕うように、
「じゃあ、腹ごなしにゲームセンター……いや、映画でも見ましょうか」
 先陣を切って歩き出す。ゲームセンターは、以前ミトと一緒に行った時、シンのあまりの下手さ加減にミトが切れ、二度と行かないと言い渡していたことを思い出したのだろう。
 映画鑑賞は最近出来たミトの趣味の一つだったはずだ。考えてみれば、ミトは意外と多趣味かもしれない。
 妙な敗北感に襲われつつ、シンはミトの後をついてゆく。歩いて十五分ほどの場所に懐かしいたたずまいの映画館。懐古趣味の人々のために残されたこの町唯一の映画館だ。
「ジャストタイミングではじまる映画があるみたいね」
 ミトに促されるまま、自動清算機で金を払い入場する。
 館内は暗く、静まり返っている。スクリーンに映し出されているのは古きモノクロ映画。後方に席を取り、スクリーンを見やる。
 ホログラムや立体映像では表現できない情感。閉鎖されたこの薄暗い闇の中で、一時だけ他人と時間を共有するその贅沢さ。ミトがはまる理由がわかったかもしれない。
 二時間ほどして映画は終わった。ローマへやってきた王女が新聞記者と恋に落ちるという有名な映画だったが、シンは初めて見るものだった。
「いい映画だな」
 右隣に座るミトに顔を向けると、顔をぐしゃぐしゃにしている。
「……泣いてるのか?」
 始めてみる光景に、しどろもどろ声を掛ける。
「うるさい。紳士ならここでハンカチくらい差し出しなさい」
 映画が終り帰ってゆく観客が、もの珍しそうに二人を見る。シンは慌てて、街頭でもらったポケットティッシュを差し出す。
「あー、駄目だ。感動するとさ、涙が止まんないのよね」
 ティッシュを全て使って顔をぬぐう。
「涙腺壊れてるんじゃないかと思って診察してもらったんだけど、どこもおかしくないんだって」
 すっくと、立ち上がる。
「腹ごなしも終わったところで、ダイブしましょうか」
 いつものミトがそこに居た。

 寄せては返す水の音。濃い、潮の香り。
 ゆっくりと目を開ければ、見渡す限りの海。
「マサキ、大丈夫?」
 覗きこんでいるのはカナ。
「あぁ」
「……ダイブしてみて吃驚ね」
 にんまりした笑み。周囲には数人の人影。
「今日が満ち潮かどうかくらい調べとけよ」
 野次を飛ばす男の声。
「仕方無いだろ、浸かるだなんて思わなかったんだよ」
 カナの兄の声。
「ここは?」
「あまり時間は経過して無いみたい。ここは花火の良く見える場所って兄が言ってた場所。集合場所からそれほど離れて無いみたいだけど……まさか海の中だとは思わなかったわね」
 背後には小さな島の崖。人間一人がやっと通れるような険しい道がついている。平らになっているあたりには、松などの木々。花火が見たければ、ここで浸かっていなければならないらしい。
 遠く見える浜辺には溢れかえった人の山。あそこにいるよりはましかとマサキは息をつく。
 まだ、開催時刻にならないのだろう。空には月が一つ、明るく輝いている。
「花火は闇夜じゃなくてもいいのか?」
「は?」
「月が明るいだろ?」
「……見ればわかるわよ」
 肩を震わし、可笑しそうにカナは言う。
 打ち上げ花火開始を知らせるアナウンス。
 闇夜を切り裂くような、甲高い音。一瞬途切れ、地響きを伴う爆発音。小規模な破裂音と共に夜空へ咲いた大輪の花。
 後を追うように、光の柱が空へと駆け上り、花を咲かせる。一つ、二つ、三つ……。やがて数えるのも忘れ、ただ、そのスケールを感じる。
「すごい」
 漏れた感嘆の声は波にかき消され、あっという間に第一幕の十五分が終わる。
 横を見れば、涙を流しているカナの姿。浴衣の袂で涙をぬぐっている。マサキの視線に気づくと、恥ずかしそうに微笑み、
「どう、感動的でしょ?」
 にんまりした笑みを見せる。
 無理やりダイブさせられたのではあるが、これを見れたのであれば感謝しなければならないだろう。
「あぁ――」
 有難うと言いかけたところで、世界が反転する。

 まぶたを開ければ、カプセルの中。ダイブから強制的に戻されたらしい。
 不審に思いつつボタンを押す。適当にコード類を取り、カプセルから外へ出る。隣のカプセルに入っているはずのミトの姿は無い。
「ミト?」
 更衣室の奥から水の音。蛇口を思い切りひねり、そのまま出しっぱなしにしているような水流音。
「ミト」
 周囲に誰もいないことを確認し、半開きの扉の奥へ呼びかけると、低いうなり声。
「大丈夫?」
「ごめん、ちょっと食べ過ぎたみたい」
 調子の悪そうな声。
 覗きに行きたいが、更衣室の中まで押しかけるわけにも行かないだろう。扉の前でミトが出てくるのを待つ。

 少し青ざめた顔をしてミトは出てきた。しかも、着替えている。
「シン、まだダイブする気?」
 いつもながらに自分勝手。
「いや、」
「だったら着替えて、ほら、景気直しにゲームセンターでも行こっ」
「いや、ゲームセンターは――」
「いいから着替えなさいってば」
 促されるまま、更衣室へ入る。
 服を着替えて出てきたときには、ミトの顔色はずいぶん良くなっており、機嫌も良くなっているようだった。
「どう、ダイブは?」
 ゲームセンターへ歩きながら、ミトは不意に尋ねる。
 問われたところで、ダイブしていた時間は実質的に三時間にも満たない。沈む夕焼けを見て、海で花火を見た。ただそれだけ。
「悪くは無いでしょ?」
「確かに」
「もう少しすればもっと楽しくなるよ」
 ガイドとして、ダイブ先をいろいろ検討してくれているらしい。ミトは花見、紅葉狩り、クリスマスに……と、楽しげに行事を指折り数える。
「止めとく」
「は?」
 立ち止まり、まじまじとシンの顔を見る。シンはまっすぐミトを見つめ、
「ダイブはリアルな夢だって――儚いからこそ美しい、そう言った」
 シンの言葉にミトはうなづく。
「五感で感じる全てが幻、頭ではわかっていても、全てがあまりにリアルすぎて、切なくなる」
 青空。まぶしい太陽。蝉の鳴声。入道雲。夕焼け。鉄橋。星空。黒い海。花火。青々とした木々。
 数十年前には失われてしまった自然。スクリーンに映し出される光の粒子ではなく、写真に残されたインクの固まりでもない。ダイブすれば、それらは実際に体感できる。
 けれど、それはリアルな夢に過ぎない。
「――虚しいんだ」
 シンは暗い笑みを浮かべる。
「……そっか、そだね」
 ミトはつられて同じように笑う。
「なんかさ、シンには私と同じものを見せてるはずなのに、いつも違うものを見てるよね」
 シンは首を傾げる。
「シンは私の知らないことをいっぱい知ってて、いろんなことを考えてる。私はさ、シンに言われるまで気づかないで……馬鹿みたい」
 ミトはいつも自分の知らない世界を知り、いつでも置いていかれた気になっているのはシンのほうだ。
「シン、私のこと嫌いなら、嫌いだってはっきり言ってよ。今まで引っ張りまわしてゴメンね」
 駆けて行こうとするミトの腕をつかむ。だが、体力の差、力の差。シンが数メートル引きずられたところで、やっとミトが止まる。
「手、離して」
 口調はキツイ。
「あのさ、また自分勝手に暴走してるだろ?」
 シンは逃すまいと、強く腕を握り締める。
「私のこと嫌いなんでしょ?」
「嫌いじゃないよ、別に」
 この状況下だというのに、シンは落ち着いている。慌てるとか、取り乱すということがほとんど無い人間だ。
「……婚約、解消しよ」
 心にも無い言葉がミトの口から漏れる。いつシンに言われるかと、ひやひやしていた言葉。
 結婚年齢が高齢化し、出生率が〇・五を下回った頃、国による大規模な許婚計画が行われた。人権やプライバシーなど問題は多かったが、それよりも低迷する出生率の低下を防ぐほうが先決だったらしい。
 ミトとシンは物心ついた頃には許婚関係だった。将来は互いに結婚するものだと決められ、常に一緒に行動させられていた。
「忘れてた」
 シンが呟く。
「忘れてたって何よ!」
 婚約を解消すれば多額の罰則金を支払わなければならない。けれど、押し付けられた格好の婚約はやはり反発も多く、婚約解消は近年の流行にもなっている。
「……えぇっと、違うんだ。忘れてたのは別の事で――」
 しどろもどろにシンは言う。
「あの、南アフリカで自然回復プロジェクトが進められているんだけれど、それに誘われてて……行ったら、十年くらいは帰ってこられないんだ」
 十年後といえば、お互いに三十歳を越える。二十五歳までには結婚し、結婚後三年以内には是非第一子を……と言われているのに。シンが何を考えているのかわからない。
「あのさ、南アフリカはいいとこだよ」
「そう」
「映画館もさ、いくつかあるらしいよ」
「へぇ」
「ゲームセンターだって結構大きなのがあるって」
「ふーん」
「食べ物も美味しいって」
「……」
「水族館の大きなのもあるよ、あと、それに――」
 シンはミトが興味を持ちそうなことを次々あげてゆく。
 じっとシンの話を聞いていたミトは、もしかして、とやっとシンの言いたいことに気づく。昔から重要なことほど婉曲した言い回しをする男だ。そして、友人にも言われることだが、自分はそれに気づかないタイプらしい。だが、わかってしまえばこっちのもの。そして、その予測は外れたことが無い。
 ミトは溢れる笑みを押し殺し、なるべく先ほどまでと変わらない様子でシンに尋ねる。
「なんで急にダイブしたくなったの?」
 ミトの誘いを今までことごとく断っていたくせに、今回は自分からダイブのガイドを頼んできた。
「ミトがはまってるって言うから……」
「焼肉屋や、映画館について来たのは?」
 いつもならば目を放した隙に帰ってしまうような男だ。
 シンは押し黙り、睨み付けるような瞳でミトを見る。自分の感情を表現するボキャブラリーは極端に低い。
「何で手、握ってんの」
「……ごめん、あのさ、」
 いつもながらにシンが申し訳なさそうな声を上げ、手を離そうとする。ミトはシンの腕をつかみ、
「そうじゃなくて、他に言う言葉があるでしょ?」
 シンは火が噴出しそうなほど真っ赤な顔で、黙り込み、小さな声で呟いた。長年シンの許婚をしていたミトでなければ聞き取れないような言葉。
 ミトは満面の笑みを浮かべ、シンの胸元に飛び込んだ。

『ダイブ』をご覧いただきありがとうございました。

04/06/26  ラストの「胸に飛び込んだ」と「ダイブ」を掛けてるんですが…気づかないか、普通。「満ち潮の月」ってのが、消化するのに一番難関なお題でした。 お題は〔10 themes in water 〕さまの「水に関する10のお題」からお借りしてます。
短編で描こうとしていたんだけれど、無理でした。設定が細かすぎました。佐々木可奈、最初考えていた苗字は「佐々」。なので通称を「サカナ」にしようと目論んでました。兄の名は鉄平で通称「サテツ」にしようかと(以下略) 二人が見ていた映画は『ローマの休日』です。

2006/06/14 誤字脱字訂正 一部改稿

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