リフレイン

 澄み渡った空。
 気持ちの良い風。
 良い一日が始まりそうな予感。
「おはよう」
「おはようございます」
 出会い頭の朝の挨拶。どこにでもある社会の日常。同僚としての常識。ただし、それが彼でさえなかったら。
 去ってゆく彼の足音を背後に聞きつつ、私は自分のパーフェクトな普通っぷり、鉄壁のポーカーフェイスに感謝する。
 まさか朝一に出会うとは思ってもいなかった。心臓の鼓動がめちゃくちゃ早い。落ち着け。私に落ち度はなかった。問題ない。ばれてない。
 歩調は緩めず、速めず、そのまま歩き続ける。すでに背後の足音は聞こえない。彼がどこへ向かっているのかなんて、振り向いて確認などしない。そんなこと出来ようものか。
 角を左に曲がる。完全に彼から、私の姿は見えなくなる。安堵し、速度を緩める。脳内はとりとめもなく混乱している。少し落ち着かなければいけない。まだ午前中だというのに、ため息をつく。
「面倒くさい」
 朝から呟く言葉としては最悪の部類に入る単語だと思うが、この言葉以上、的確に今の自分の心理状態を説明できない。
 脳内では乱闘気味で緊急招集会議真っ只中だが、やすやすと顔や態度に表しはしない。
 答えのない問いかけほど無意味なものはない。白か黒、はっきり割り切れるものこそ素晴らしい。国語より数学、奇数より偶数が好ましいというように。
 言うなれば全ての問いかけは、YesかNoかで即答できるものであればいい。そうは思っていても、世の中それでは通らないことも立派な社会人として理解している。人が増えれば増えるほど、白でも黒でもない、グレーな解答が歓迎される。
 だがしかし。
 それでも。
 ビビビってのはどうかと思う。
「本当に」
 またもやため息がもれる。一目ぼれなんて、幽霊を見たとか、UFOを目撃したなんてレベルの話だと思っていたが、自分の身の上に降りかかってみれば、その天災レベルの圧倒的破壊力が理解できるわけで。
 振り返ってみるのもたやすい、彼との出会い。なんてことないある日の出来事。忘れ去っているのが普通の、ただの単なる顔合わせの瞬間――。
 だがあの瞬間、それまで築き上げてきた自分自身すべてを否定されたのだ。完全だと、完璧だと思っていた自分の思考を否定されたのだ。自分自身に。
 信頼していた自分に裏切られ、私が私でいられなくなる。彼が世界の中心であると、瞬時に理解し、それを肯定する。好みのタイプとか、どんなしぐさが好きだとか、共通の趣味が持ちたいなんて、何度友人と盛り上がったかもしれない話題が、些細で陳腐なことだと一蹴される。
「まったく」
 青春真っ盛りな少女であれば、今の私の心理状態を歓迎するところなのかもしれない。だが、こちらは既に成人して数年。今さらこんな状態におちいっても歓迎できるものではない。円満な人間関係を築いていくには邪魔なだけだ。
 朝から偶然、姿を見かけるなど毎日あることではない。今日は特別だったということ。昨日もおとといもその前の日も一日姿を見かけなかった。
 最良はこのままの関係を維持することだ。私が普通にさえしていれば、誰にもばれることなく、何もおこりはしない。全ては丸く収まる。
 それが一番簡単で………………難しい。
 この結論に達するのは何百回目だろう。
 では想いを伝え、足にすがりついてでも恋人同士になってもらうか――。
「ありえない」
 それはありえない。はっきり言って、彼はまったく私の好みのタイプじゃない。彼のどこが好ましいかという質問には答えられるが、彼のどこが好きかという質問には答えられない。
 例えば、何かの間違いで恋人同士になったとして、二人がハリウッド級の絶体絶命の大ピンチに陥ったとする。そこで私と、どこの誰だか知らない人が助けを求めていたとする。その上、彼はどちらかしか助けられない。その場合、彼が助けるのは普通、私だろう。
 でも、私は私を助けてくれる人より、他人を助ける人の方が好ましい。そして、私を失った悲しみにくれながらも、そこから立ち直り新しい彼女を見つけ、幸せな人生を送る人の方が――
 その後、彼は結婚して子供ができ、幸せな家庭を築く。私のことはたまに、年に一度くらい思い出してくれればいい。私は彼の幸せを草葉の陰から見守り続ける――
「素敵だわ」
 つぶやいて我に返る。思わず、現実を忘れて妄想モードに突入するところだった。
 彼女を助けない男が好きだと言う私の思考は、多くの人に理解されないであろうと認識しているが、私は、彼が幸せになれるのであれば、私が彼のそばにいる必要性を感じない。むしろ、私と言う人間をよく知っているからこそ、彼の隣に私自身を置きたくないのだ。
 ようは、この例え話を突き詰めれば、私という人間は、自分さえいればいい女だということになる。彼の幸せを願う一方、自分勝手な彼の幸せを願って止まないバカな女であると。
 そうであるなら、彼と現状以上の親密な関係性を築く必要性がない。その上、彼が新しい彼女を見つけて幸せになれるような人であるならば、私を失う悲しみをわざわざ味あわせる必要なんてないわけで。
「結局」
 彼に彼女ができることをひっそりこっそり応援しつつ、現状維持が私的に正しい答えなのだと思う。
 この回答にたどり着くまで、ずいぶん時間がかかった。ようやく導き出した回答なのに、なぜだか、私は同じ問いを問い続けている。彼と出会ったあの瞬間から、彼に関する情報は更新され続けているが、答えが変ったことなんて一度もないと言うのに。
 何度目になるかわからない脳内会議の、何度目になるかわからない同じ結論に、私は何度目になるかわからない承認印を押す。なぜだか、いささか不満が残るものの。
 だが、彼に出くわした瞬間、またこの混乱は一から繰り返されるのだ――。

『リフレイン』をご覧いただきありがとうございました。

■2011/04/11
「独り言の多い女性」ってタイトルにしようと思って書き始めたのだけれど、たいして独り言を言っていなかったので変更。珍しく、タイトル決めてから書き始めた話だと言うのに。

2012/01/19 訂正

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