窓から見える景色は奇妙な一枚絵だ。抜けるような鮮やかな空色とコンクリートビル群。厳しい太陽に照らされ、日陰は黒に、日向は白に塗り分けられている。
冷房のきいた部屋。北向きの窓から見た外は、光に溢れまぶしい。立ち上る陽炎はゆらゆらと砂漠のようだ。白い肩の無い綿シャツに短いキュロットスカート。肩よりやや長い髪は無造作にポニーテール。涼しくなる努力はしているが、それでも暑い。外に出たらきっと暑気あたりで倒れるだろう。だから、昼間はうちの中に限る。
でも、と若菜は座ったまま大きく伸びをしてあくびを一つ。黒い木製の大きな机。ワックスではない艶が美しく木地を浮かばせている。進の祖父だか、曽祖父だかの持ち物だったものだ。今時こんなものを買おうとすれば車が買えるはずだ。だが、売る気は無い。いわゆる遺品だし、これの前に一度座ってみれば他人に譲る気なんてなくなってしまう。そんな逸品の上には真っ白なノートが広がっている。
窓からは街が一望できる。緑色の鉛筆を手の中でくるくるまわし、若菜は次に何を書こうか考える。
八月三日 晴れ
今日も暑い。お昼はそうめんだった。初めて食べた。ハシは使いにくいけど、フォークだともっと食べにくかった。
八月四日 晴れ
今日もとても暑い。海に行きたいけれど、ダメだと言われた。日本のビーチのオススメはないですか?
八月五日 晴れ
今日もとっても暑い。
ノートにはミミズが死を目の前にのたうち廻ったような、いびつな文字が並んでいる。若菜はため息をつき、鉛筆を持ち替える。
二十一世紀も後半になり、パソコンは社会にも生活にも浸透しきっているのに、ジュニアスクール生は宿題として冬は書道、夏は作文と文字を手書きで書かねばならない。どれほど無意味で、理不尽な行為だろう。歴史をそらんじたり、生物を解剖したり、光化学スモックが酷くて一等星くらいしか見えないのに星図の見方を習ったり……そんな行為よりもずっと無意味だとしか思えない。
「日記はやめて、写本にしようかな」
呟いてみるが、そちらのほうがどう考えても大変だ。日記は短くても何も言われないが、写本は学校指定図書。かなりの文字数になる。どう考えてもたくさん文字を書か無ければいけないし、漢字もたくさん書くことになる。それだけは嫌だ。
気を取り直してもう一度ノートを見やる。ページはただただ白い。ため息をつき、引出しを開ける。中身をひっくり返し、きれいに整頓する。箱は開けて中を確認。紙類は目を通していく。一つ目が片付くとなんとなく気分が良くなって、次にかかる。進は妙なものを取っときたがる。紙くずは紙類資源箱に、プラスティックは資源箱に――。
「眼鏡?」
淡いピンクのプラスティックケースに、黄緑色の布と共に入っていたのは赤いフレームの華奢な眼鏡。
「女性物……だよね。何でこんなとこに?」
眼鏡は主にファッション用。視力が悪ければ視力矯正手術をする時代――。そっと眼鏡を掛けてみる。やはり度が入っていなかった。眼鏡を掛けた自分の顔を鏡に映してじっくり見つめる。結構悪くない。なんだか嬉しくなって、さまざまな角度から顔を見つめ、再び片付け作業に没頭する。
「これ、何だ?」
真っ白な封筒。表には『米山進様』と一行だけ。差出人の名前は無い。中にはシンプルな便箋が一枚。女性らしい、丸みを帯びた手書きの文字が行儀良く並んでいる。
進へ
鈴花が幸福であること。
それが私の願いです。
さようなら。
愛理
「りんかって誰? あいりって――お隣の愛理さんのこと?」
タイミングよく玄関の戸が開き、ドアチャイムが鳴る。涼しげな風鈴に似た電子音。戸口付近に仕掛けたセンサーに引っかかると鳴る仕掛け。防犯対策を兼ねている。
「帰った」
ぶっきらぼうな声が響く。若菜は急いで手紙をノートに挟み込み、それを抱いてリビングに向かう。裸足はこういうとき音がしなくて良い。リビングでノートを広げなおし、テーブル下に無造作にうち投げられてたスリッパを引っ掛け、立ち上がったばかりという雰囲気で振り向く。勝手に机を使っていたことがばれれば嫌な顔をされる。減るもんじゃないだろうにケチ臭い。
「お帰り。なんか帰り、早くない?」
「そこは普通は喜ぶ所だろ?」
作業着姿の進はちらりと若菜を見やり、固まる。
「それ――」
「え?」
「なんでもない」
言葉を打ち消し、着替えるために部屋へと引き上げていく。いつだって無表情。言葉少なめ。何を考えているのかわからない。理解不能な男だ。
「帰ってきてくれて嬉しいよ、うわーい!」
進の背中に向かい、両手を上げ、満面の笑みで叫んでみる。
振り向きもせず、何考えてるんだかとばかり頭を振りながらため息一つ。ぶっきらぼうとか、冷たいとかそれを超えてる、と若菜は思う。腹立たしい。
「晩飯はカレーで良いか?」
からすの行水ならぬ、からすの着替え。一分経たない間にカーキ色のカーゴパンツにオレンジのTシャツ姿。
「その材料しか買ってないんでしょ?」
若菜の問いかけに進は返答することなく夕食を作り始める。図星らしい。いつだって、こちらの意見なんて聞かないくせに、なぜ、いちいち確認してくるのかわからない。だいたい食事なんてオートメーションシステムに任せとけば良いのだ。あれなら完璧な味付け、歯ざわり、カロリーで出来上がると言うのに。何のための高価な調理機器を購入したんだかわからない、と若菜は思うが進は手作りが好きだ。だから、進が家にいるときはいつも彼が作る。成功ばかりではなく、独創性のある料理は塩加減が足りなかったり――塩分控えめって言うけれど――甘すぎたり――今日は疲れてるからと言い訳――辛すぎたり――特別料理だなんて言う――味が一定ではない。
「ねぇ、そういえば」
料理を作る進の背中に向かって、若菜は何の気なしを装って問い掛ける。
たまねぎを刻んでいる進は上の空。涙を流してるんだろう、鼻声。絶対に若菜に顔を見せないのは、男の意地ってものらしい。生きた化石と言っても支障がない考え方。
「私と婚約する前、何してた?」
「何って、特に変わったことは――」
進のことは三年程前に出会ってからしか知らない。それ以前のことは仕事関係と教育課程なんてものは知っているけれど、個人情報保護の名のもと、突き詰めて知りたいことを若菜は知らない。
「例えば、恋愛とか」
「っつ――」
指を抑えてこちらを振り向く。
「お前が変なこと言い出すから指切っただろ、バンソウコウ持ってこい」
「何よ、変なことって」
若菜は慌てて立ち上がる。抑える指の間から滴る赤い液体。見てると気が遠くなりそうだ。なるべく意識を向けないようにしつつ、心の中でアップテンポの歌を思い浮かべながら救急箱を用意する。進は十回に一度くらいは指を切っているのだ。いいかげん慣れなければ心臓に悪い。思いつつも、それに慣れることはできそうに無い。
進は慣れた様子で手当てを済ませ、料理の続きをはじめる。
「あのさ、いつも思ってるんだけど」
「思ってるだけにしとけ」
背中が聞く気は無いと雄弁に語っているので、若菜は言葉を続けるのを諦める。怪我をした人間が作った料理は、衛生的に良くないはず。人間が調理していること自体、衛生的には問題あると思うのだが、その辺は言葉にしない。そうなると、突き詰めて考えれば、進を否定することになりかねない。
若菜は進を否定したいわけじゃないし、進の作った料理はおいしい時もあるから……頭の中ではいろんな事を思っていても結局、食べてしまうのだ。何とも不思議。自分でも理解できない感情。オートメーションシステムの方が進が作る料理に比べ美味しいはず。だって完璧に計算された料理なのだから。でも。失敗していても、進の料理の方が美味しい気がするのはなぜだろう?
カレーを食べ始め、若菜はやっと進が顔を見ようとしないことに気づいた。ちらりと、不満げな顔で見はするが、決していつものように、睨み付けるような高圧的な瞳で見たりはしない。
「私の顔、なんかついてる?」
首を傾げる若菜に、進は言いにくそうに、
「眼鏡」
慌てて眼鏡をはずす。
「あ、あのね、あれよ。こないだ買った服のおまけって」
「ふーん」
信じてない様子の声。でも、つっこんでこない。いつもと違う。重い空気。話題を変えようと、
「今日のカレー、いつもと違うね」
辛いけれど、まろやかな感じ。
「こないだのカレーは若菜が辛いって言ってたから、ココナッツミルクを入れてみたんだ。美味しくないか?」
「微妙」
「でも、辛いのダメだろ?」
「こないだのは辛すぎると思うけど、いつものは美味しいよ」
「お前、いつも同じカレーじゃ面白くないって言ってただろ?」
あきれたような声。そんなこと、言ったっけ?
食器は食器洗浄器に放り込んで、リビングテーブルの上には真っ白なノートとコーヒーカップが二つ。若菜は再び親の敵とばかり悲壮な顔でノートの前に座っている。進は食後のコーヒー片手に、鬼教官もかくやという顔で若菜とノートを睨み付ける。やっといつもの感じ。若菜はほっとしつつ、ちらりと進を見やる。
「そんなに睨まれてたらやりにくいんだけど」
「お前、そんな調子じゃ資源の無駄使いもはなはだしいし、ちっとも字が上達してないじゃないか」
「そんなことより、いまどき鉛筆にノートで文字を書く必要性ある? ものすごく意味無いでしょ?」
「……サインは?」
「印鑑文化のある日本でサインなんてそれほど必要ない」
「でも、名前くらい書けないと。だろ?」
言われて、若菜は自筆サインが必要な紙を一枚だけ思い出す。結婚届。ほとんどパソコン入力でOKなのに、一部自筆署名捺印が必要。一応念のため、確認のためらしいのだが。
「そういえば進って二十八歳よね? 未婚者特別税金どうしてんの?」
未婚の二十五歳以上の人間に課せられる馬鹿げた重税。お陰で税金対策のための仮面夫婦が増えている現状なのだが。
「払ってるよ」
「うわー、お金持ち」
税率高いのに。オートメーションシステムのローンやら、マンションの賃貸料やらあるだろうに。ずいぶん金回りのいい男だ。仕事はいたって普通。結婚していればこの生活に違和感はないが、結婚もせずこの生活は無理だろう。税金として持っていかれる割合が高すぎる。
「若菜のジュニアスクール卒業資格があればもう払わなくてもいいんだけど」
嫌みったらしい。私も好き好んで書き取りが苦手〜なんていってるわけじゃない。他の教科は問題ないのだ。
そんなことより、と若菜は思う。何で二十四歳にもなって、大学卒業資格も有しているのに一からやり直さなければならないのか。生まれ育ったのは日本ではなかった。両親が日本人なので会話は大丈夫だったが、パソコン入力ばかりで、文字は自分のサインが書ければよかった。なのに、日本に戻ってきてみれば相当数の文字が書けなければいけない。しかも、ジュニアスクールの卒業資格がなければ結婚もできない。ほとんどの人はすぐに取れる資格らしいが、若菜の前にはそれが壁のようにそびえている。文字を書く習慣が無かったから、微妙な筆圧のコントロールできないし、読むことはできても、いざ書こうとなると文字が書けないのだ。お陰で、ジュニアスクールに二年も席を置かせていただき、宿題をたっぷりさせてもらっているのである。
筆圧が強すぎたのだろう。ビリッと紙が破れ、若菜はこみ上げてくる涙を抑えながらページをめくる。
「もっと軽く握ったほうがいいぞ。肩とか痛くないか?」
「軽く握ったら書けないじゃない」
「いいかげん筆圧の感覚、掴めよ」
「すぐにわかれば苦労しないわよ」
消しゴムを取り出し、間違えた文字を消す。グシャリと紙がゆがむ。ノートはぼろぼろだ。
「やめ、もう今日はここまで」
若菜は怒ってノートをたたむ。
「ここまでって、すすんでないだろ? 宿題提出日、もうすぐだろ?」
「明日がんばる。そういうことで、私寝るから」
荒々しく扉を閉めて、自分の部屋に引きあげる。
いつもより早くベットに入り、悔しくて泣いていたら何時の間にか眠ってしまったらしい。ずいぶん早くから目が覚める。デジタルカレンダーを見ると赤い丸が一つ。
「何の日だっけ?」
日付に指先を触れる。カレンダーの数字が薄くなり、その上に小さなメモが表示される。
『尾行して確かめる』
何でこんなこと書いたんだろう? 着替えながら頭をめぐらし、ようよう思い出す。一年前、仕事を休んで進がどこかに出かけたのだ。行き先はあやふやに答えて。帰ってきても話をはぐらかして。菊の花と線香の匂いがしていたから、きっと来年も同じ日に出かけると見当つけて書いたのだ。
「今日も出かけるかな?」
空色のワンピースを着こんででリビングへ足を運ぶ。そこにはすでに朝食の用意をする進の姿。仕事用ではないけれど、びしっとした黒っぽい外出用の服装。やはりどこかに出かけるようだ。
食卓の上には一汁三菜。毎度毎度、ご苦労様なことだ。腰掛けて、ニュースチェックを済ませる。世界は相変わらずごたごたしている。ニュースというほどのことでもないニュースで量を増してるだけなのかも知れないけれど。
「さ、食べるぞ」
「いただきます」
声をそろえて挨拶して、食べはじめる。お味噌汁の具はサイの目の豆腐に短冊に切られた厚揚げ。何で同じものいれるのかわからない。
「美味いか?」
毎朝、幸福そうに微笑んで進は若菜の食べる姿に問い掛ける。若菜は顔を上げずうなずく。毎度答えは一緒なのに、何でこんなに嬉しそうなのかわからない。
「今日、ちょっと用事あって出かけるから」
言い出しにくそうな顔。嘘ついてる顔。
「わかった」
「留守番頼むな」
「私も出かける」
「え?」
すいませんね出不精で。いつもならば買い物はネット通販利用してるけれど、そんなに驚いた顔しなくてもよさそうなのに。若菜は白々しく、
「筆記用具買いに行こうかなって思って。気分転換も兼ねて」
ほっとした様子で進はうなずく。
「じゃ、角のとこまで一緒に行こうか」
一緒に出かける必要性なんて無いのに。若菜はそう思いながらも、素直にうなづく。いつも以上に静かな食事は終わり、二人は出かけた。
角を曲がって右に行くとショッピングセンター。急いでノートを買い込み、道を引き返す。進は角を左に曲がった。区画整理されてるから、道は込み入っていない。何とか見つけられるはずだ。進が歩いていれば。小走りに歩いていると、
「若菜さん」
後ろから声を掛けられた。ぎくりと振り向く。そこには同じマンションのお隣さん、安部愛理。黒のパンツスーツに花束。髪の色は以前見たときとまた違う、派手な赤紫。
「あ――安部さん、こんにちは」
愛理さんと思わず言いかけて、若菜は言い直す。彼女が『安部』なんて普通の苗字はしっくりこない外見をしているからだ。
「どこかお出かけですか?」
ここで捕まっては進の後が追えない。
「あの、急いでるんで」
駆け出そうとするが、手首を捕まれる。
「待って、ちょっと付き合って欲しいの」
「あの、急いでるんですけど」
「進の後を追いかけてるんでしょ?」
なんでそれを……若菜は声には出さなかったが顔に出てしまっていたらしい。愛理はにこりと微笑む。
「私も進と目的地一緒だから」
エアタクシーを拾い、愛理は目的地を告げる。三十分程走ったところで車は止まり、愛理は会計を済ませる。百メートルばかり向こうにそびえる、真っ白でシンプルなつくりの建築物。集団墓地と言うやつだ。
「ここからは歩かなきゃならないの」
そこへと続く小道――と言っても結構大きなもの――を歩き出す。周囲は木々や草花が植えられ、適度に管理されている様子。今を盛りと夏の花々が咲き乱れている。
愛理は黙ったまま歩くので、若菜も黙々歩く。運動不足な人間には結構辛いが、愛理は高いヒールを履いているくせに顔色一つ変えない。なんだか悔しい。
建物の中はひんやりと、人工的な涼しさに満ちていた。初めてそこで若菜の様子に気づいた愛理は足を止め、ホールの中に設置されたソファを指差す。
「ちょっと休みましょうか。足、大丈夫?」
「……たぶん」
靴擦れになりかけてる。家では裸足だし、ワンピースにあうおろしたてのサンダルを履いたのが原因だろう。愛理は飲み物を買い、若菜に手渡す。
「誰がここに眠っているんですか?」
若菜は不思議に思っていたことを尋ねる。進の両親は健在だし、祖父母はの墓は別にある。それに、接点がないと思っていた進とお隣さん、共通の知り合いなんてあっただろうか? 愛理は困ったような顔をしたが、やがて諦め顔をしてうっすら微笑み、
「他人の口から言うことじゃないけど、ここにいるのは進の前の奥さん」
それって、もしかして。あの手紙の――
「鈴花さん?」
「……知ってるの? そう、鈴花」
さびしそうに、愛理はその名前を口にする。
「鈴花は私にとって姉のような人だった。日陰に咲く花のような雰囲気の、ひっそりとした感じの人。私は大好きだった」
愛理は脇に抱えていた小さなカバンからデジタルカメラを取り出す。電源を入れ、一枚の3D写真が浮かび上がる。若い二人の少女。黒い髪の活発そうな愛理と、大人しそうな眼鏡を掛けた女性。陽光の中、リンと一本、大輪の花として存在していそうな愛理とはまったく逆のタイプ。一定時間経過し、写真が変わる。愛理が何かを書いている写真。明朝体っぽい、大人びた文字が並ぶ紙。写真が変わり、照れた顔で紙を隠す愛理の顔――
「私ね、昔、進と婚約してたの」
「え?」
「すごく昔の話よ。半分、親同士が決めてたこと。でも、私達も将来結婚するんだって思ってた。だけど、鈴花がね、進を好きになって――」
聞かされた話はどこにでもある三角関係が原因の愛憎劇。一目惚れから、激しい愛情へ瞬く間に変化し、周囲を巻き込み、傷つけ、逃げた男を求め、やがてその想いは憎しみへと変わり、すべてを呪い、そして彼女は最後に自分を深く傷つけた。
「彼女の嘘にあの頃はみんな翻弄されて、何がなんだかわからなくなって。疑心暗鬼ね。私は誰も信じられなくて、それでも鈴花を信じたいと思ってて」
悲しそう微笑みも、彼女には妙に似合う。外見的な派手さと内面的な気質が違っているからだろう。
「私は婚約を解消し、進は鈴花と結婚した。進の留学の話が出た頃、鈴花は妊娠した。けれど、進は逃げるように留学しちゃって――」
「それで?」
続きを促す。語りにくそうに、愛理は言葉を選びながら口にする。妊娠した妻をそのままに留学する酷い男と進を責めるような声ではない。
「鈴花の子供はね、結局、人工授精児だったの。誰の子なのか知ってるのは鈴花と、知る権利があるのは本人だけ。鈴花はそれが進の子だって言い張ったけど――大きくなってもぜんぜん進に似てないの」
女の執念。情念というのだろうか。そこまでしてでも自分の元に引き止めたい男。自分に振り向かせたい男。でも、言っちゃなんだが進はそれほどの男だろうか? 若菜は考え込む。
「誰にも想像できないくらい鈴花は進を愛してた。それだけのことだったのかも知れない」
私にも想像つかない、と若菜は思う。嫌味っぽくて、口数少なくて、何考えてるかわからなくて。一昔以上昔の信念を持って生きてるような、化石のような男だ。
「でも、じゃあ進は誰を愛してたの?」
愛理はきょとんと表情を無くし、やがて顔を伏せ、おかしそうにひとしきり笑うと、
「今はあなたが好きなのよ。第三者的な立場に立ってみるとわかりやすい奴よね」
「わかりやすい? 何考えてるのかちっともわからないんだけど」
「離れてみればわかるの――あっと、見つかった」
顔を上げると進の姿。真っ直ぐこちらに歩いてくる。
「若菜、お前なんでこんなところにいるんだ?」
「あい――阿部さんに連れてこられた」
責任転嫁。わかっているが愛理は何も言わない。
「私のことは愛理でいいわよ。二人ともじゃあね」
手を振って愛理はコントロールパネルの前へと行ってしまう。そこの前に立てば、故人の遺影がモニターに映し出され、献花と焼香ができるようになっている。
「聞いたのか?」
進に問い掛けられて、若菜はうなづく。全部とはいかないだろうが、大体のところは。鈴花から進は逃げて、愛理は離れた。そして鈴花は最後に自分を傷つけた。なんと言えば良いのか、重い。当事者ではない人間は何も言えない。言わないほうがいい。
立ち上がり、歩き出した若菜の様子に、
「お前、靴連れしてんじゃないのか?」
「してないわよ」
言い返す。なんだか無性に腹立たしい。日本のすばらしさだけを進に聞かされ、留学を終えて帰る進と一緒に飛行機に乗り込んだ。一定年齢以上の男女が結婚してなきゃ罰則金があるなんて若菜は知らなかったのだから、進に騙されたって言っても言い過ぎじゃないはず。あの時、両親は嫁に出すような顔をして別れを告げていたけれど、あながち的外れじゃなかった。結婚を申し込まれた時だって、騙されたと思いはしたがあまり腹立たしくは無かった。結局、若菜に日本のジュニアスクール卒業資格が無いってことが判明して結婚はまだ出来ていないのだが。
「エアタクシー呼ぼう」
「贅沢は敵じゃなかったの?」
進は妙にさわやかに笑って、
「前の奥さんの保険金があるんだよ。それがお前に隠してた秘密その二」
「そんなお金、使って良いの?」
「最後にさ、テレビ電話で会話した時に言われたんだよ。辛そうな顔は見たくないって」
「それとこれとどう関係が――って、ちょっと」
話は終わりとばかり、背負われる。百メートルばかりならば、足を引きずってでも歩けそうなのに。若菜は言葉に出来ない自分の感情に、とりあえず、進の肩に回した手に力を込めた。
「これ」
部屋に帰り着き、昨日見つけた眼鏡と手紙を若菜は進に差し出す。進はため息をついて、コーヒーを用意すると、
「ニセモノだったんだよ」
テーブルに置きながら、投げやりに言葉を紡ぐ。
「ニセモノ?」
椅子に腰掛けた進は封筒から便箋を取り出す。丸い、可愛らしい文字。
「愛理はこんな字、書かないんだ」
写真に写っていた十代の愛理は明朝体のような大人びた字だったことを思い出す。
「わかってなきゃいけなかったのに、俺は騙された。愛理に振られたと思って鈴花と結婚した。でも、嘘で――問い詰めたら鈴花は子供が出来たって」
進はコーヒーを一口すする。
「俺も鈴花も十六歳で若かったし、鈴花のしていることが狂気じみてて怖かった。だから、目の前にあった留学の話が蜘蛛の糸のように思えた。鈴花が死んだのを知ったのは留学して五年くらい経った頃、愛理から――。鈴花の遺品整理してたら、いろんな証拠が出てきて、やっと、鈴花のしていたことがわかったって」
何も口をはさめない。逃げなければ、鈴花さんの想いを受け止めてあげればよかったのに、と今更。他人事のように思うことはできる。でも、十六歳の少年と十四歳の少女にそれを言うのは残酷だ。良くある愛憎劇。けれど当事者には良くあるなんて言葉では済ませられない。
進は以前暗かったって周囲が言ってた理由はこれだったのかと若菜は理解した。
「俺は鈴花のやってたことに腹が立ってたし、理解してくれない周囲も恨めしかったし、死んだって聞かされてもそれが本当だとは思えなくて――鈴花が待ち受けてるんじゃないかって思って……気持ちの整理がつかなくて、日本に帰るのを延ばしてた。でも、やっぱり帰らなきゃならなくなって……電話で愛理と鈴花のことをずいぶんたくさん話した。それで、やっと気持ちに整理がついた」
いつに無く饒舌。手紙のことはわかった。けれど――
「この眼鏡は?」
「愛理が鈴花へ贈ったプレゼントだったんだ。その時初めて俺は鈴花に会った」
そんなものを掛けてりゃ、そりゃ気まずくなる。
「眼鏡、欲しいんなら買ってやるから。別にそれが気に入ったわけじゃないだろ?」
懇願するような声。
「さぁ、どうだろ」
若菜はとぼける。きっと一度も使われなかった眼鏡。日陰の花のようだと例えた鈴花に、日向の花のような愛理が贈った眼鏡にはどんな思いがこめられていたのだろう。
「それにしても愛理さんがいるから、ここに住むことにしたの?」
「偶然に決まってるだろ。この広さで手ごろな値段のマンションなんてそうないんだから」
怒ったように言い放つ。婚約者なんて関係は未婚状態なわけで、まったく何も恩恵にあずかれないのだ。税金関連でも、住居関連でも。
「でも、愛理さん結婚してるよね? 可愛い旦那さん見かけるし」
マンションはここじゃなくて良かったはず。もっと良い条件で、もっと安くて住めるはずだ。
「結婚は十四歳以上。新之助君はまだ十一歳だ」
「そうなの? あ、だから秘密なんだ」
愛理が結婚指輪らしきものをつけていることに若菜は気づいていたが、相手について知ったのはずいぶん経ってのことだ。のらりくらりと、愛理は本当に上手く逃げる。最後には内緒だと教えてくれたが――。
「小さな子供がした求婚でも、あいつはまじめだからきちんと返事したんだよ。その前に、俺達の一件で少々人間不信気味になってるきらいはあるが――まぁ、本人の人生だし、周囲がいろいろ言っても仕方がない。鈴花の子供を引き取った時点で親にも半分勘当されてるようなもんだし……」
しゃべり過ぎたとばかり、進は言葉を濁す。じゃあ新之助君が鈴花さんの子供? 若菜は愛理の計り知れない心情を思う。婚約者を取られて、周囲をめちゃくちゃにして、誰も信じられなくなって。そんな状態にした人間の子供を育てられるだろうか? けれど、新之助君はちょっと変わったところはあるものの、普通の、幸福そうな少年だ。愛理が何を考えているのかわからない。それとも、愛理は自分が好きだった鈴花と変わってしまった鈴花を分けて考えているのだろうか。新之助は好きだった鈴花の子供として思っているのだろうか。考えてみても愛理の心情はわからない。
「でも、進の子供でもあるんじゃないの?」
「血のつながりはないけど、戸籍上はね。でも、鈴花が死んだときに愛理がいろいろ手続きしたんだ。俺は保護者としての責任能力無しって判断されて、愛理の両親が名目上の保護者となってる」
「愛理さん、見かけと違って壮絶な人生歩んでるのね」
「あいつは、しっかりし過ぎてるんだ」
進は寂しそうに呟いて、若菜と目が合い気まずそうに微笑む。若菜はにやりと微笑んで、それまでの辛気臭さを吹き飛ばすかのように、
「私はジュニアスクールの卒業目指してがんばるよ」
進は一瞬表情を無くしたが、やがて満面の笑顔になり、
「おう、がんばれ」
終
『彼と私と彼女の事情』をご覧いただきありがとうございました。〔06/07/28〕
この作品は「眼鏡祭」に参加して書いたものです。
リレー小説「特別な関係の僕ら」と同じ舞台設定の物語になっています