[リライト]様の「クリエイターへ」→「あいうえお作文」→「かなしみのうた」順番入れ替えて使用
一 ミズキ 香るあの夜の残り香
二 リョウスケ 身の内に巣食う凶暴な感情 / 望みはひとつだけだ
三 ミズキ (なし)
四 トモエ 死人の目をした男 / 美しきはあなたの頬の涙 / なくする痛みに耐えられない
五 ミズキ ただ愛しただけだった
一 ミズキ
トモエは他に云い忘れたかのような顔で、靴を履いてからミズキを見つめ、
「また、来させてもらいます」
ぎくしゃくと頭を下げ、出ていった。
ミズキは彼女が帰ったのちもしばらく、その場を動くことができなかった。彼女から聞かされた話はあまりにも衝撃的で、何をどこから考えたら良いものなのかわからない。頭の中はぐしゃぐしゃとかき混ぜられたような状態。体は自動的に部屋に引き返したものの、何もする気になれず、とりあえずベッドに突っ伏した。
今、部屋にいるのはミズキ一人だけ。昨日も一昨日も、一週間前もそうだった。明日も明後日も、一週間後も同じこと。
今はただ、呆然としている。今現在の心境をどのように感情表現していいのかわからない。先ほど聞いたことがすべて嘘であればいいと思いながら。けれど、それが事実であろうことも認識できている。
思い出そうと思わないのに、走馬灯のようにリョウスケとの日々が思い返される。目があって、気恥ずかしくて微笑みあったこととか、大したことないことで一緒に笑ったこととか、一緒に見た映画で大げさ過ぎるほど驚いて、感動したこととか。恋人として過ごした時間を。
どの感情を表面的に表すのが正しいのか、よくわからない。哀しい。切ない。腹立たしい。嬉しい。寂しい。感情は混ざりあい、主張し合っている。今現在が単純に寂しいと、もしくは悲しいと言えたらどんなに楽だろう。
リョウスケと恋人としてつきあっていたのは、思えばたった半年だった。けれど、とても充実した時間だったと心から言える。この絶望的な喪失感に圧倒されそうな今でも、リョウスケと一緒にいられて幸せだったと。
リョウスケとミズキはずいぶん古くからの友達だった。趣味の合う異性の友人という間柄のまま、いつの間にか時間が経ってしまっていたという方が正しいだろうか。何かの折に、適齢期というには年季の入った異性同士、このままだらだら友人として付き合いを続けるのはどうか、という話になり、一年後の結婚を前提に、もしくはどちらかに恋人ができるのを目途にお付き合いすることになった。
無意味に恋人イベントを充実させ、大げさに恋人っぽく振る舞う。突然の熱愛っぷりに周囲も驚くほど。二人は恋人ごっこをする仲間だった。けれど、それが互いの心理面には良かったらしく、数カ月しない内に、ちゃんと異性として認識してつき合うようになっていた。
そんな楽しい時間が終わったのはほんの三カ月前。その日、彼はやめたと言っていたはずの煙草を吸っていた。けれど、火をつけ、一口喫ったと思うと、すぐにもみ消す。それを繰り返していた。次を取り出そうとして、パッケージをぐしゃりと握りつぶした。
「終わりにしよう」
「また禁煙始めるの?」
リョウスケが何度も煙草をやめようとしてきた過去をミズキは知っている。
「続くわけないじゃん」
軽く返し、情報誌から視線を上げる。今夜は次回のデート先を決めようと、リョウスケを呼んだのだ。
そこでじっとミズキを見つめるリョウスケの目にぶつかった。最近リョウスケが良くする、重く強い視線。ミズキはその視線が嫌いだ。なぜだか不安でたまらなくなる。何か、良くないことが起こりそうな予感がして。
「別れよう、俺たち」
その台詞は、ぽんと部屋に投げ込まれた爆弾だった。周囲の音を飛ばし、光を、空間を空虚に捻じ曲げる。ミズキの中にその台詞が落ちるまで、一呼吸分かかった。意味を理解するまで、もう一呼吸。
「ああ、そうか。好きな人ができたんだね」
どこか遠くで、女の声が答えたのを聞いた。自分の口から発せられたものだけれど、自分の声だとはミズキには思えなかった。
手は無意味に情報誌をめくった。リョウスケから目をそらす。さっきまでリョウスケが吸っていた煙草の煙が、もう見えなくなったのにやけに目に染みて、まばたきしてしまう。
最初からその約束だった。今後は以前の関係に戻るだけだ。傷ついてはいけない。リョウスケの一番の友人として、祝福しなければならない。だから、傷つく必要なんてない――。
「そういうんじゃない」
「じゃあ、なんで!?」声の大きさに、ミズキ自身驚き、ゴメンと小さな声で謝る。リョウスケの目の中に映るミズキは今にも泣きそうな顔をしていた。リョウスケもまた同じ顔をしている。言い出したのはリョウスケなのに、どうしてそんな苦しそうな顔をしているのか、ミズキにはわからない。
リョウスケは振り切るように立ちあがり、歩きだす。狭い部屋だから、すぐに戸口に辿り着く。靴を履き、ミズキに背中を向けたまま、
「お前のこと、誰よりも好きだから」
吐きだすように言い、扉を開けた。リョウスケと入れ違いに、夜の寂しい空気が部屋に入り込んできた。
ミズキは彼の言葉を、態度をどう理解していいのかわからず、呆然としていた。リョウスケが何を考えていたのか、なぜ急にそんなことを言い出したのか、いくら考えてもミズキにはわからなかった。
その夜以降、リョウスケは消息が知れなくなった。
二 リョウスケ
医者の口から告げられた病名をリョウスケはすぐに信じられなかった。
「冗談はやめて下さい」
どんな顔をして言ったのか覚えていない。たぶん、笑っていたはずだ。嘘だという言葉を引きだせれば、自分は死なないのではないかと思って。けれど医者は、誠に残念ながらと、無表情に、淡々と説明を始める。専門用語を交え、今の体の状態、そしてこれからのリョウスケに訪れる症状を説明していく。
それは数年前から話題になっている致死性の極めて高い病気、と言えば誰でも病名を知っているだろう。当初は、呪いだとさえ言われていたアレだ。医者の声は染みいるように、脳内を侵食してゆく。ひたひたと静かに恐怖と不安、絶望が湧きあがる。嘘だと叫び出したいと思いながらも、どこか冷静な部分が医者の話に相槌を打っている。
「あきらめないでください。一緒にがんばりましょう」
これ以上ない冗談だ。治療法も、感染経路もいまだ判明していないことは誰でも知っている。発症すれば数カ月後に死亡。もしくは激痛を伴いながら数年生きられる。その場しのぎの、痛みを和らげるためだけの処方しか今はない。平均寿命は八十歳近いというのに、もって数年だなんて冗談じゃない。
病院を出て、歩く。興奮が冷めてくると、ミズキのことが気になった。頭の中で考え事をしていても、足は勝手にいつも通りのコースをたどる。ミズキの職場の前で立ち止まり、時計を見やる。彼女が定時で上がれるようならば、食事でもできそうな時間だった。
自分がいなくなった世界で、ミズキがどんな顔をして、どんな思いをしながら生きていくのだろう。そんなことを考える。きっと俺がいなくなってすぐは寂しがって、泣いてばかりいるはずだ。本人は自覚していないようだけれど、結構寂しがり屋なところがある。
ああ、とリョウスケは絶望する。けれど、やがて微笑んで、笑って、再び幸福な顔をして、俺の知らない誰かの隣に立つだろう未来がくることを思うと、彼女を殺したくてたまらなくなった。永い間、ミズキはただの友達だった。なのに、今ではミズキを誰にも渡したくない。ずっと近くにいたのに、ミズキが代えがたい存在だと気づくまでこれほど時間がかかったなんて、自分はなんてバカなのだろう。
ずっとミズキと一緒に生きていられると思っていた。来年も。再来年も。年寄りになって、死ぬまでずっと。なのに、どうしてこんな不公平な現実が自分に訪れるのだろう。
「リョウスケ、」
仕事が終わり、ミズキが会社から出てきた。リョウスケを見かけ、嬉し気に駆け寄る。いつもと変わらないミズキの様子。何も気づいていない。
「メールしてくればよかったのに。ちょっと待たせた?」
「いや、俺も今ついたとこ」
「食事して帰る?」
いつもの道を、いつもの店に向かって歩きだす。並んで歩くのも、つき合い始めて距離が近くなった。ミズキの手が時折触れる。何気なく手を握る。ミズキも握り返してくる。昨日までと何も変わらない。
「病院どうだった?」
ミズキの台詞に、リョウスケは一瞬、動きを止めた。事実を告げなければと思ったのに、どう答えて良いのかわからない。
「……ただの風邪。薬飲めば治る」
口が勝手にそう言っていた。ミズキは嘘に気づく様子もなく、何かしゃべっている。適当に相槌を打ち、聞いてないでしょと怒られる。
この病気のせいで俺がミズキを失ってしまうのか、それともミズキが俺を失ってしまうのか。リョウスケはそのことを考え続けた。
ミズキの前では今まで通りの自分を演じ続けた。体調が悪いのは風邪が治らないから。もしくは前日飲みすぎたせい。もしくは仕事が忙しくて疲れたせい。もしくは前日徹夜で映画を見たせい。いろんな理由をつけ、不安げなミズキの声を黙殺し続けた。
ミズキの不安そうな顔を見るのも限界が近づいていた。彼女には今まで通り、笑った顔をしていて欲しかった。自分のワガママだということはわかっている。けれど、俺にはミズキしかいない。ミズキには……。
ミズキには一生、俺だけのものだと誓ってほしい。いや、誓うだけじゃ足りない。俺がいない世界で、ミズキが約束を破ることなんて簡単だから。俺たち二人で過ごした数カ月は、すぐに過ぎ去る。ミズキは新たな男とともに人生を過ごすことができる。俺と違って、ミズキの先は長いのだから。
あの頃の俺の目はずいぶん凶悪な光をたたえて、彼女を見つめていたと思う。彼女を愛していた。心の底から。だから、彼女を殺したくてたまらなかった。そんな自分が嫌でたまらなかった。
薬のせいなのか病気のせいなのか、疲れが酷くて体力が続かなくなり、仕事をやめた。ミズキには新しい上司と反りが合わないから辞めたと言い訳して。
何もせずに家にいると、ろくなことを考えない。うたたねは良くしていたが、見る夢は悪夢ばかり。ミズキが他の男の隣を歩いているか、俺がミズキを殺しているか。
体力のない俺が町に出てできる時間つぶしといったら、映画を見ることだけだった。何の因果か、ふらりと立ち寄った映画館でタイミングよく見れる映画が恋愛ものばかりだったので、俺は一人寂しく席に坐り込んだ。両手で数えるのも難しい程、短期間に恋愛映画ばかり見た俺は、あることに気づいた。
それは恋愛の終わりは二種類あるということだ。
恋人と別れるか、それともどちらかが死別するか。
俺と境遇が似ているのは後者だ。だが、死別した女はたいてい、男を失った心の傷が癒えた後、新たな恋愛をするのだ。失われてしまった思い出の上に、新しい幸福な日々を築きあげる。
前者は女から去っていくのか、男から去っていくのかで、また話は変わる。だが、男を心から愛している女は、男が戻ってくるのを待っていることが多い。何年たっても、自分を捨てて去っていった男を想いながら、怒ったり、悲しんだり、寂しがったりしながら待っている。
それは映画の中だけの話なのかもしれない。けれど、俺は賭けてみようと思った。このまま俺がいずれ狂って、ミズキを殺すより、よっぽどまともな話だ。
俺はミズキを愛している。ずっと人生の終わりまで、ミズキと共に生き、別れるまでミズキを愛するはずだった。予定がずいぶん狂ったけれど、ミズキが俺を一生愛し続ける布石を敷きたいと思った。俺はミズキの思い出にはなりたくない。
三 ミズキ
リョウスケが何を考えて私の元を去ったのか、当初はわからなかった。あの頃のリョウスケは誰がどう見たって、体調が悪そうだった。病院を変えるか、もっと精密な検査を受けるよう何度も勧めたが、彼はうるさそうにするだけだった。
その癖、こちらを見つめている暗い目があった。幸せになるのを放棄した人間、そうとしか思えない目をしていた。絶望の淵ではなく、そこから奈落に落ちてしまった人の目。
そして、ある日彼は私の元を去っていった。ただ一言でもいいから、私は理由を知りたかった。彼を知るすべての人は、私が何か知っていると思い、何度も何度も尋ねられた。「本当のところ、どうなの?」それを知りたいのは私の方だ。私こそ一番近くにいたのに、何も教えられなかった。彼はそもそも、何もいわずに失踪するような人間ではない。これが隠し事だとするならば、これこそが最初で最後の秘密。彼が何を考えていたのかなんて、わからない。
リョウスケに会いたい。会って、どうしてこんなことをしたのか聞きたい。「さよなら」の一言だけで、いなくなるなんて、あまりにも酷すぎる。どんなに考えても、リョウスケが何を考えていたのかわからない。
喧嘩がなかったとはいわない。すれ違いがなかったともいわない。でも、私とリョウスケは一緒にいて楽しく過ごせていた。大きな秘密はなかった。小さな秘密はあったけれど、それをお互いに目くじら立てるようなことではなかった。リョウスケにも私にも、互いに互いのことで知らないことはあった。今は猛烈にそれが知りたくてたまらない。
リョウスケが遺していったもの、リョウスケを知っている人達に会って、私は私が知る以上のリョウスケを知ろうとした。けれど、どんなに小さな情報をつなぎ合わせても、私が知るリョウスケを大きくはみ出すような像はできあがらなかった。私が知るリョウスケは、みんなが知るリョウスケよりちょっと深く濃い。それだけ。
ではなぜ、突然いなくなってしまったのだろう。何度も何度も私は自身に問いかける。リョウスケはいない。失踪するような必要性もみあたらない。
時々、生きていると一方的な連絡をもらったという人がいる。けれど、返信しても繋がらないと言う。どうして私に連絡をくれないのだろう。何度も繋がらない携帯に留守伝を残し、メールを送る。私の声は、言葉は彼に届いているのだろうか。……わからない。
リョウスケに会いたい。どうしてこんなことをしているのか、問いただしたい。みんなに心配かけて、何を考えているんだろう。いなくなる前、寂しそうにしていた眼は、どこを向いていたのだろう。どうして私に何も教えてくれなかったのだろう。
いつかきっと帰ってくる。私は信じて待つしかない。
リョウスケがいつ帰ってきても良いように、リョウスケの荷物を私はそのままにしている。月日が経つ。リョウスケはまだ、生きているのだろうか。ふと、妙なことを考えている自分が嫌になる。リョウスケは帰ってくる。きっと、ふらりと出ていった時と同じように。突然、思いついたように帰ってくるだろうと信じて。
今日はリョウスケの好きな、シチューでも作ろうか。ニンジン抜き、アスパラと粒コーンをたっぷり入れたのを。
リョウスケ。
早く帰ってこなきゃ、私一人で食べちゃうから。
四 トモエ
トモエがリョウスケに出会ったのは、一ヶ月前のこと。トモエがやっている飲み屋の裏、ゴミ置き場の近くで捨て犬のように転がっているのを仕事明けのトモエが見つけたのだ。いつもならば警察に連絡するところだが、彼が十年近く前に死んだ兄に似た年恰好だったらから、一晩だけ、酒が抜けるまで面倒を見ることにした。
「お酒が抜けたら帰りなさいよ。私はこれから仕事だから出るわ。鍵は管理人さんに預けておいて」
夕方になっても、寝たままの若い男に声をかけ、仕事に向かった。帰って来ればいなくなっているだろうと思っていた。けれど、彼は同じ格好で寝ていた。
「具合、悪いの」
尋ねた声に、不安そうな瞳をしたものの、男は何もいわなかった。トモエが尋ねたことに、男が答えたのは、たった一つ。リョウスケという名前だけだった。
リョウスケはすでに死んだ人間だった。息をしてはいたが、それはまだ生命活動を止めていない肉体が惰性的に行っている生理現象の一つ、と言わんばかりのもので、彼の魂はすでに活動をやめていた。彼は常に必要最低限の行動を行うのみ。それもごくゆっくりと、間違えないように。もしくは間違いを訂正する力などすでに亡くした人間のような速度で。彼の反応は常に、薄い反射。薄汚れた、鈍い輝きしかみせない鏡のようなものだった。
彼がなくしてしまったものの大きさは計り知れない。トモエはそれが知りたかった。けれど、知ってしまうのは怖かった。でも、どうしても気になっていた。リョウスケは酒を飲みすぎたとき、ぽつりと断片を語ることがあった。ミズキという名は彼にはとても重要で、忌避すべきものだった。彼は、心から愛する人間と別れなければならなかったのだと知った。その時、彼が彼女を捨てたのか、彼が彼女を捨てたのかはわからない。彼女が愛しただろう彼自身はその時、彼から捨てられてしまったのだろう。
それを知った時、トモエはやるせなくなった。きっと一生、そんな重い恋なんて経験することはないだろう。だから、リョウスケの気持ちを量り知ることはできない。どうして愛しているというのに、別れなければならなかったのかわからない。彼女への恋心とともに、墓穴の中に埋めてしまった彼自身はどんな男だったのだろう。
リョウスケが時々、顔をしかめるのに気づいたのは数日前からだ。
「どこか痛いの? やっぱり病院行ったほうがいいんじゃない?」
何度も発作のようなものがおとずれていたらしい。彼は今まで、それを無表情に耐えていたようだ。けれど、耐えられないほどの状態になったらしい。医者だ、病院だとおろおろするトモエに、リョウスケは、苦しみを抑えた声色で言った。
「もう手遅れだ」
意味がわからなかった。
「それ、どういうこと?」
「自分の体のことは良くわかってる。あと三カ月持たないっていわれたのにもうすぐ半年。良く持ちこたえたと自分で思ってる」
「リョウスケ。何、言ってるの?」
認めたくなくて尋ねる私に、リョウスケは初めて微笑みの顔を浮かべてみせた。騙せていたことが嬉しかったのだろうか。その時、不意にトモエは、自分がリョウスケにとってどうでもよい存在なのだと理解した。リョウスケが必要とする人間は、ここにはいない。彼は捨ててしまったのだ。
トモエはリョウスケを無理やり入院させた。病気だと、リョウスケが自分で思いこんでいるだけじゃないかと思った。けれど、検査をするまでもなく医者は首を振った。
十年前が思い出される。父代わりにトモエを育ててくれた、年の離れた兄だった。兄は突然、交通事故でいなくなった。唯一の肉親であったが、遺体は見ない方がいいと言われた。そこを無理に見せてもらったが、それが死体だとは、まして兄だとは思えなかった。だからなのか、未だに兄が死んだのだという実感がない。高校卒業以来、ずっと兄とは離れて暮らしていた。だからなのか、寂しさは薄い。
けれど、リョウスケは別だ。彼はトモエの目の前で死をまとっている。死ぬのだと、理解できている。寂しさが膨れ上がってくる。彼と一緒にいた一ヶ月。彼は捨て猫のように、寝て、起きて、テレビを見るくらいしかしていなかった。けれど、彼がいなくなるのだという現実は、辛く苦しい。泣きたくないのに、涙があふれてくる。リョウスケの近くに近寄れない。
リョウスケの頬をつ、と涙が流れた。それを追うように一つ、また一つ。目元に涙が湧きあがり、決壊し、頬を伝い落ちてゆく。彼はそれを拭おうともしない。じっと天井を見つめている。
「怖い」
静まり返った部屋に、彼の言葉が吸いこまれた。棺桶のような部屋という表現があるが、あれはまさに今の状況。恐ろしさのあまり、私は部屋から出ていきたいと思う。でも、今ここを出ていくことはできない。彼を一人きりにしてしまえば、彼の旅立ちを早めるだけではないだろうか。
恐ろしさに震えているのは、私以上に彼自身なのだから。
「怖いんだ」
私は彼に触れることができない。彼は私に触れられるのを歓迎しない。怖いと言いつつ、彼が助けを求めているのはただ一人、ミズキさんだけ。私は代わりになれない。
彼はゆっくりと沈みこむように息を引き取った。私は彼のベッドのそばに立ったまま、彼を見つめていた。
彼は病気に負けたのだ。負けることがわかっていたから、最愛のミズキさんを手放した。そして、どうでもいい人間とだけつき合ったのだ。私のような。
彼の病気を心から心配してくれる人達は、彼が病気であったことを知らない。彼の死を、心から悲しむ人達は、まだ彼の死を知らない。知っているのは、彼の中でどうでもよかった私だけ。
酷い男だと思う。でも、憎めない。だから、彼のことが嫌いになれない。ミズキさんにすべてを教えてしまいたい。けれど、彼を失った悲しみを彼女と分け合うのは悔しい。彼女は幸せな彼の記憶を持っているのだ。私が持っていない、彼との幸福な時間の思い出。
彼の涙は、彼の死は私だけのものにしても良いのではないだろうか。彼女にはもっとたくさん思い出があるのだから。悪魔が囁く。私は振り切るように、彼の顔に白い布をかけた。彼は死んだのだと、私は自分に告げた。
ひらり、雪が舞い落ちるように、現実が降り積もっていく。心が冷たく凍てついてゆくのを感じる。リョウスケの死を自分だけの中にしまいこむのは、とても重苦しい。哀しみを分かち会える人間がいるのは、きっと幸せ。私はミズキさんに会いに行こうと決めた。
五 ミズキ
トモエさんと会って数週間過ぎた。彼女から聞かされた話が、胸の中、虚ろに響いている。自分の中でリョウスケへの想いをどう処理して良いのかわからない。
どこにいても、何をしていても、彼を失った悲しみが重く心にのしかかっている。心は常に分厚い雲の下にいるようなもの。太陽の光は届かない。熱はただ、鬱陶しい湿度を伴っているだけ。まして、爽やかな風など吹くはずもない。あるのはただ、表層をかき回すだけの滞留。何も変化させることはできない。
リョウスケが私と別れようとしたのは、彼の思いやりだったのだろうか。それとも自己愛からだったのだろうか。答える人間のない問いから逃れるには、幸せな妄想で私自身を慰めるしかない。
愛する人を失うことと、愛しているからこそ別れを告げること、どちらがより苦しいのだろう。近頃、私はそんなことばかり考えている。リョウスケが選んだのは、後者だった。失われる前に、彼は私を突き放した。そうすることで、私の中に、彼が望まない形で焼き付けられるのを防いだのだ。
これは愛だったのだろうか。
愛していたから、こんなことをしたのだろうか。
わからない。いくら考えてみても、わからない。どちらにしろ、誰にとっても辛い結果しか残らなかった。もし、私がリョウスケのような状態だったら、同じ結末を選ぶだろうかと考える。
私にはできない。したくない。
あんなに、何もかも、以心伝心でやりとりできるとさえ、傲慢に思っていたあの頃。懐かしく思う。
あの日、トモエさんから聞かされたリョウスケの死を、リョウスケの病気を、そして最後の日々を何度も何度も思い返した。彼が何を考えていたのか、パズルのピースをはめるように、自分で納得できるような形にしたいと思ったのだ。傲慢と人に言われてもかまわない。リョウスケを誰よりも知っているのは自分自身だということは、わかっているのだから。
リョウスケ。私は、答えを出すよ。
これは、あなたが淋しがりやだから思いつき、嫉妬深いから実行しようとした作戦だった。
あなたは失踪してから、私に忘れられるのを恐れるようなタイミングで連絡をしてきたね。私とあなたに共通の知人に対して、あまりにそっけなく、あまりに一方的な内容のメールを。あなたがどこで何をしているのかをうかがわせるような文章はなくて、ただ、生きているとわかるだけのものを。
返信しても、それが返ってくることはなかった。どこでどうしているのか、わからない。あなたからのメールだけが、あなたの生存を証明していた。
どうして直接、私に連絡をくれないのだろうと、私がどれだけ思い悩んだか。リョウスケ、あなた、知れば喜ぶでしょうね。あなたの望みは、私があなたのことだけを考えることだと知ったのは、トモエさんの話を聞いてから。それがあなたの策略だったってことを知ったのよ。
私は、あなたにそう仕向けられなくても、これからもあなたのをことを想い続けるでしょう。恋愛も結婚も、今のところ何も考えられません。今の一瞬を永遠といっても良いのなら、それは真実。そして、永遠は一瞬だと言いかえられるのならば、それはこの場を取り繕うためのごまかし。とても深く重い、限りなく真実に近い虚言。
あなた以上に愛せる人ができるなんて思えないし、自信もない。これは本当。だから、あなたは何も心配することなど無かったのに。
私が同じ立場ならば、同じことを思って、同じことをしたかしら。同じ立場に立ってみなければわからないけれど、一生独占しておきたい気持ちをどうにかして成し遂げたかったというのは理解できそうな気もするわ。実行する、しないは別として。
あなたはこんな回りくどいことをして、ただ私に愛していると伝えたかったのだろうとトモエさんは言いました。あなたへの腹立ちが収まり、静かに、あなたが何を望んでいたのか考えた時、私も同じ結論を下すしかありませんでした。あなたは何より、元気であった頃の自分自身を私の記憶の中で生かそうとした。そのための手段として、衰弱していく自分を消し、私の周囲に少しだけ、傷跡のように存在を匂わせようとした。
ずるいやり方だけれど、私にはとても効果的な方法でした。まったく、あなたは私のことが良く分かっていたわね。本当に憎らしいくらい、素晴らしい手法でした。
改めて、私もあなたに伝えたいことがあるの。
私もあなたを愛していた。心の底から愛していた、と。
それから――、一生とまでは言いきらないけれど、当分、黒い服しか着る気になれないってことも。
終
『君と一緒にいたいから』をご覧いただきありがとうございました。〔11/08/16〕
この作品は[リライト]様の「クリエイターへ」→「あいうえお作文」→「かなしみのうた」使用を使用しています。
荻田 遼介 おぎた りょうすけ
浜辺 瑞生 はまべ みずき
野山 巴 のやま ともえ