遠い遠い過去の夢

 久々に心地よい小春日和。私は縁側に座り、静かに日本茶を口に含む。色あせた深緑色の座布団を敷き、ゆっくり、景色を見やる。目に映るのは小さな、荒れ果てた庭と、空。冬空は、澄み、寂しげな色をしている。
 風が強いのだろう。ガタガタ、ガラスが揺れる。アザミ色のカーデ一枚しか羽織っていないのに、不思議と寒さは感じない。むしろ日差しが心地よい。うつらうつらしてしまう。
 家の中には誰もいない。
 耳を澄まさずとも、誰の気配もないことはわかっている。この家にいるのは私一人。ずいぶん前から、たった独りだけ。訪れる人もなく、尋ねてくる人もない。独居老人の孤独死が問題になったのはいつの事だっただろう。まだ、私が若い頃にはすでに社会問題になっていた気がする。
 お茶を一口すする。白湯のような薄さだというのに、脳が覚えている日本茶の味を舌は感じている。この年齢でそこまで舌の感覚が良いわけもない。これは妄想、もしくは幻覚――ありがたい。
 私の寿命はもう長くない。もうそろそろお陀仏になるだろうと思いながら、ここ数週間、過ごしてきた。今日は死ぬのに良い日よりだ。動物であれば、山中でひっそりくたばるところだが、私の足腰では山歩きなど出来そうもない。迷惑を掛けるが、ここで逝かせてもらおう。
 染みのついた古い座布団と、くたびれたカーデと、使い古した茶碗。私はそれらをもう一度なでる。死ねば何一つ、あの世に持っていけやしない。そして、縁のある私がいなくなれば、それらは容赦なくゴミとして捨てられるのだ。生きるとは何ておかしなことだろう。
 時折、表の通りを誰かが通り過ぎていくが、誰もこちらを見ることはない。日向ぼっこしている私に誰も気づいていないのだ。それとも、私はすでに死んで幽霊になってしまっているのだろうか。もうすぐ死ぬと思い込んでいる幽霊だったら、なんて馬鹿らしいだろう。
 日本茶を口に含む。冷めてしまって冷たい。
 もし、このまま。座ったままで私が死んでしまったら、誰が私の遺体を見つけるのだろう。もしかして、私の遺体は日向ぼっこしたまま誰にも見つけてもらえず、腐乱してゆくだろうか。それとも、この冷たく乾燥した気候で、ミイラになってしまうだろうか。
 私という魂がたった一人でこの家で暮らすと決めてから、私と言う肉体にはずいぶん無理ばかりさせてきた。最近は悲鳴をあげるばかりで、満足に動かす事もままならない。私が死ぬことを理解して、子供のようにすねているのではないかとさえ思われる。
 寒さが和らいできた。
 もう夕方なのだろうか。ずいぶん暗くなってきた。
 風もやんだのか、静かだ。ああ、心地よくて眠い。こんなところで寝てしまったら、風邪を引いてしまうのに。
 思い瞼を開ける。空に、白い光りが浮かんでいる。あれは、太陽だと脳が告げる。世界はこんなに薄暗いのに、まだ昼間なのかと、私は思う。
 心地よい深い眠りにつくように、私の魂は沈んでゆく。浮かび上がれない。きっと、二度と目覚める事のない眠り――あがらいがたい誘惑。私が生きてきた、全ての縁が切れてゆく。閉じてゆく。私はそれを止める力などない。死ぬのだと理解する。不安はない。
 深く深く、無へと私は沈んでゆく――。

 目が覚める。
 懐かしい夢を見た。気持ちの良い夢――だった。砂をつかむように、輪郭は崩れ、あいまいになる。ただ、心地よい夢だった事は覚えている。
 目覚ましを見やる。鳴りだす、一分前。ニヤニヤしつつ、それを待って、ベルを止める。
 真新しい制服に着替え、リビングへ向かう。
「偉いわね。一人で起きるなんて」
 なんて母さんに言われ、私は笑う。
「だって今日から高校生だもの。一人で起きられるわよ」
 朝食を食べ、余裕をもって家を出る。バス停にはまだ誰の姿もない。
 ふと、何だか懐かしいような気がしてあたりを見渡す。見慣れない景色。このバスに乗るのだって今日が初めてだ。なのに、なぜ。小さな疑問は、友人の姿を目がとらえ、脳の片隅に追いやられる。

 私は目覚めた。
 目覚ましを叩きつける。眠りたいけれど、起きなければいけない。
 仕事から帰ってきたのは午前零時を回っていたのに、出勤はいつも通りだなんて何てふざけているんだろう。
 思い体を引きずり、いつも通り、行動させる。それもこれも、全部。あの使えない課長のせい。なんで私達が尻拭いをしなきゃならないんだ。納期が迫った仕事があるのに、余分な仕事を増やしてくれて。その上、その納期は一週間前なのだから笑える。通常、三ヶ月はかかる仕事を超特急で仕上げろなんて。
 怒りながらご飯をかきこみ、怒りながら出勤する。
 辞めてやる。今年中に、いいえ、半年以内に辞めてやる。ずいぶん前に書いた辞表が鞄の中にあることを確認する。
 電車を待つ。見慣れた景色。いつもの光景。デジャヴ。どこかでこの景色を、この場面を知っていると私は思う。けれど思い出せない。ただ、酷く懐かしく思う。

 私は目が覚めた。
 ゆっくり身を起こす。節々が痛い。肉体の衰え、という言葉は知っていたが、実際のところ、実感するのはやはり、老いてみなければわからない。
 自分の体が思うように動かない。いつもどこかが痛む。ずいぶん昔、若い頃、負った怪我が、今さらながらに体のあちこちに悲鳴を上げさせる。
 ようよう体を起こし、台所に向かう。何もかも、面倒だと思いながらも、何もしないわけにはいかない。米をとぎ、味噌汁を作る。
 何だか酷く遠い過去の記憶のような気がする――いや、そうではない。毎日があまりに単調なくり返しだからだ。これはデジャヴなどではない。
 小さな小さな疑問は何度も繰り返されるが、そのたび、その時の私にはもっと他に重大な問題があり、そちらに意識をそらされる。

 コトリ、遠くで小さな音がする。
 何の音? 
 これは、茶碗が落ちた音。私の手から滑り落ち、廊下に落ちた音だと、回らない脳が教えてくれる。
 ああ。これは夢だった。
 走馬灯。駆け抜けいったのは、私の一生。
 それとも、生れ落ちた日からの全てが、死ぬ前の私が見た、一瞬の夢だったのだろうか。私は、遠くない未来の記憶を思い出せないまま、生きてきたのだろうか。
 ああ。もう何もかも、どうでも良い。
 とにかく眠い。

『遠い遠い過去の夢』をご覧いただきありがとうございました。〔2012/02/18〕

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