おはようジョン、今日もいい子ね。

1.

 ヒールの音が規則的に遠ざかっていく。
 彼女は黒いローヒールにベージュの春コート。黒のトートバックを肩にかけ、黒い髪は一つに束ねられている。早朝だというのに隙はない。
 澄んだ朝の空気の中だというのに、彼女は重苦しい顔をしていた。昨日は曲がった道を、今日はまっすぐ進んでいく。彼女は何のために歩いているのか、それを明らかにする必要性を今はまだ、感じない。
 ナガサカは自分の頭に手をやる。切りそびれ、中途半端に長く伸びた天然パーマ。乱れた髪を軽く整え、再び走り始める。

2.

 クリスマス会、忘年会、新年会と称した飲み会ラッシュが一息ついた一月半ば、ナガサカは自身に違和感を抱いた。けれど寒さという名の誘惑に負けて、そのままぐうたら生活を続けたところ、いよいよ目も当てられない体型の変化をつきつけられた。
 去年のお気に入りだった春物パンツが入らない、という恐ろしい現実。腹周りに余分な肉が付いている。日頃の不摂生で体型が変わった気はしていたが、それにしてもこれほどまでとは。
 夕食の量を八分目にセーブして、寝る前には簡単なストレッチ。それにプラスして早朝ジョギング。高校生の頃にしていたことだから、これは無理のない運動計画。マイペースにじんわり続けていれば、これ以上の体重増加はないはず。
 初日から気負わず始めたものの、気持ちの良い早朝ランニングを満喫できていたのは五分少々。十分も走らない内に疲れてきた。これは日頃の運動不足のせいなのか、それとも年齢のせいなのか。
 ガードレールにもたれかかり一息つく。朝から疲れ切っていては仕事に差し障る。かなり軽めの運動だったはずなのに。
 目の前の自動販売機で温かいお茶を買い、一口含む。
 老化の文字が頭をよぎる。若いと思っているのは本人だけということだろうか。
 周囲を見渡せば早朝とはいえ、誰も起きていないわけではない。遠くからバイクの音、時折通りすぎていく車や自転車。ナガサカと同じようにジョギングしている人、散歩している人もいる。日中に比べて遭遇することは圧倒的に少ないが、いないわけではない。
 息も整ってきたので。さあ再開しようと顔を上げたところで、右手から女がやってきた。通勤のOLらしい恰好した三十歳くらいの女性。何の仕事か知らないが、こんな朝早くからとは頭が下がる。彼女が通りすぎるのを合図に走りだそうと思っていたら、彼女はナガサカの前で立ち止まった。
 何だろうと彼女の顔を見る。柔和な笑みを浮かべているものの、彼女の焦点は妙な方向を向いている。視線がとらえているのはどうやら、ナガサカの髪。
 天然パーマが珍しいのだろうか。中高年にはボサボサの寝癖ヘアーなどと言われるような頭。今時、珍しくはない。
 彼女はふわり、ナガサカの髪に手をやる。
「おはよう、ジョン。今日もいい子ね」
 ぐしぐしと頭をなでる。
 ナガサカは何が起こったのか理解できず、されるがまま。彼女は用が済んだとばかり何事もなかった顔で左手へ去ってゆく。彼女におかしな様子はない。ただ、奇妙に穏やかな顔をしていたのが印象的。
 彼女の後姿を見つめる。彼女が角を曲がり、姿が見えなくなった所で、ナガサカは今日のジョギングを取りやめることにした。

 翌朝も良い天気だった。昨日の件が家を出る前、頭をよぎったが、また同じことが起こったりし無いだろうと、同じコースを走り始めた。前日よりは緩めのペースで。
 途中、例の女性とすれ違った。しかし今日の彼女は何もなかった顔で、そのまま通りすぎていった。あれは夢だったのだろうか、とナガサカが思ってしまうほど。
 今日は休憩を取ることなく学生時代と同じコースを走りきれたが、ルートを変更した方がよさそうだ。走り切るまでに時間がかかりすぎる。

 三日目。昨日の結果を踏まえ、当初計画していた距離の三分の二程度にコースを修正する。
 例の場所よりずいぶん向こうであの女性を見かける。黒い猫相手に「おはよう、ジョン。今日もいい子ね」と声を掛けている姿を見かける。一瞬目が合ったので、反射的に頭を下げた。だが、彼女はナガサカに気づいた様子なく、昨日とは違う路地へ歩き去った。
 
 四日目。ナガサカはなんとなく、初日のあの場所で休んでいた。彼女を待っていたわけではないが、あの日と同じように彼女は現れ、あの日と同じように「おはよう、ジョン。今日もいい子ね」と頭を撫でられた。
 彼女と目を合わせる。彼女は微笑んでいるが、こちらを見ている様子はなく、そのまま行ってしまおうとする。だからナガサカは声を掛けた。
「あの、」
 勇気をだして呼び止めたのに、彼女は歩みを止めない。肩に手をかけ、
「すいません」
 彼女は初めてそこで目覚めたような顔でナガサカを見、きょろきょろと辺りを見まわし、もう一度ナガサカを見つめ、疑問符だらけの顔で、
「誰?」
 思いもよらない彼女の態度にナガサカはどう答えたら良いものかわからない。互いに言葉なく見つめ合う。顔に答えが書いてあるような表情で。
 ナガサカがようやく出した問いは「寝ぼけてる?」というものだった。彼女は瞬きを繰り返し「すいません」と謝る。
 長い沈黙。戸惑いの表情を浮かべながら見つめ合う二人。話のとっかかりをつかめない。
「おはよう、ジョン。今日もいい子ね」
 ナガサカがようやく見つけた言葉。なぜこんなことを言われたのかを聞きたかった。
 彼女は不思議そうな顔でナガサカを見つめる。
「どうしてジョンのこと、知ってるんですか?」
「猫なの? ジョンて」
 ジョンは彼女の身近に存在している小動物だろう。猫やカラスに声を掛けている姿を見かけたけれど、ナガサカにも同じ言葉をかけてくる。いったいジョンとは何なのか。
「ウサギです」
 予想外の答え。犬に間違えられたと思っていたのに、ウサギとは。大きさが全然違うだろうに。
「ウサギ、ですか」
 これ以上尋ねることもないので、ナガサカは失礼しますと走りだす。彼女はやはり寝ぼけているのだと結論づけて。
 
 その後も天候の悪い日以外ジョギングを続けていたら、彼女が様々な生物に対し「おはよう、ジョン。今日もいい子ね」とやっている姿を見かけるようになった。どうやらそれが彼女の挨拶の言葉らしい。
 通勤スタイルで早朝に歩いているのも、彼女にとってそれが寝ぼけているからだということも理解した。一度、ラフな格好で歩いている彼女を見かけた時、彼女は完全に目覚めていたようで、誰だったか思い出せない顔で軽く会釈されたからだ。
 まったくもって人騒がせな女性だと思う。

3.

 幼馴染のナガサカが早朝ジョギングをしていることをキタザワが知ったのは、二カ月くらい前のこと。ナガサカが最近はじめたと言っているのを聞いて。
 その時、一緒にやりたいと約束してはみたものの、なかなか早起きができない。
 早く起きるのが苦痛すぎて、ナガサカに申しわけないと思いながら、五分刻みで起きる時間を早くして、ようやく起きられるようになった。
 一緒に走りたいと申し出てからすでに二カ月。長い道のりだった。
「おはよう」
 ナガサカの家の前であくびをかみ殺す。ジョギングウェアは寝巻代わりにこの二カ月、着て寝ている。準備は万端だが、ジョギングができたためしがない。
「ようやく起きられるようになったか」
 ナガサカが皮肉めいた口調で言うが、その言葉に反論できるほど、脳は目覚めていない。立っているだけで重労働だ。
「行くぞ」
 と、出発したのは良いが、走るというより早歩き、ようはウォーキングだ。
「走るんじゃないのか」
「普段運動していないのに、いきなり走るなんて無茶だ。最初はこのくらいのペースでいい」
 軽いなと思っていたのも数分で、キタザワはすぐに休憩しようと申しでる。ガードレールに身を預け、自販機で購入した缶コーヒーを一口。熱い液体が胃に届き、ようやく目が覚めてきた気がする。
 前方から彼女が歩いてくる。ナガサカはキタザワを彼女から隠すようにガードレールに腰かける。キタザワはそれに気づかず「コーヒー、奢ってやろうか?」と声を掛けるが、ナガサカは神妙な顔で「ちょっと黙っててくれ」と顔を伏せる。
 コーヒーを飲みながら、キタザワは朝の空気を堪能する。日中では味わえない爽やかさ。この清涼な空気を吸っているだけで、健康になれそうな気がする。
 こんな朝早く出勤する人もいるのだなと思っていたら、女性は立ち止まり、それが儀式であるかのように、ナガサカの髪をかき混ぜて、
「おはよう、ジョン。今日もいい子ね」
 何事もなかったかのような顔で歩み去っていった。呆然と彼女を見送るキタザワだったが「休憩終わり」と、ナガサカも何もなかったような顔で歩きだすから、キタザワは飲み掛けの缶を捨て背中を追いかける。衝撃的な光景にすっかり目も覚めてしまった。
「今の誰?」
「さあ、」
「さあって、誰だよ」
「いや、本当に」
「隠すなよ」
 ナガサカの要領を得ない返事に何度も尋ね返す。ナガサカは立ち止まる。怒ったのかと顔を見やれば、本当にわからないという顔だった。
「全く知らない人だよ」

4.

 キタザワがナガサカと早朝ジョギングを始めて二週間。ジョギングというよりウォーキングだが、休むことなく続けられているのは彼女の存在があるからだ。
 彼女は神出鬼没だった。早朝、スーツ姿で近所を徘徊し、カラスやら犬、猫などの小動物を見かけては「おはよう、ジョン。今日もいい子ね」と挨拶をしている。
 頭をなでるのは休憩中で屈みこんだナガサカに限られる。走っているナガサカは認識できないらしく、素通りしていく。
 小動物には一歩引いた場所から声を掛けるだけ。逃げられないようにだろうか。見かけない日もあるが、曜日は関係ないようだ。
「謎が謎を呼ぶな」
 キタザワが楽し気な声を上げる。今日は走っているときに遭遇したので、素通りされた。
「何のための早起きなんだ」
「そりゃ決まってる」
 そもそもジョギングでなくても、良い気がする。早朝だから何をやってても、体を動かしていさえすれば気持ちよく健康になれそうだ。
「変な女とは関わりあいにならないのが一番だ」
 ナガサカは言うが、彼女が出没する場所はある程度わかっている。嫌うのならば彼女が通らない道を通ればいいのに、色々と理由をつけてナガサカが彼女に出会える頻度が上がるようなルートを走っていることはわかっている。
「春だな」
 にやけ顔でキタザワがナガサカを見やれば、すっとぼけ顔で返された。
「もう桜は散ったぞ」

5.

 またやってしまったのか。
 肌寒いと、コートの合わせを手繰り寄せたところで、ユリは気が付いた。見まわせば、どうやらここは近所の公園。ベンチに腰かけている。
 時刻はまだ早朝といえる内。空気の清涼さ、日差しの柔らかさ、何より、人の気配が薄い。時計を見なくてもわかる。
 自分の恰好はわかっている。ちゃんとスーツを着こんで、髪もメイクも整えられている。そんな必要はもうないのに、長年の習慣からか無意識的に、寝ぼけながらにできてしまう。これは有難い癖なのか、悲しい性なのか。立ちあがり、帰路につく。
 溜息一つつき、アパートのドアをくぐる。
 十数年前、進学のために上京し、そのまま就職して、一人暮らしをしてきた。引っ越そうと思ったことは何度かあったし、不動産屋に部屋を見せてもらったことも何度かある。けれど、引っ越すのが面倒くさいとか、住み慣れた町が便利で良いだとか、細々した理由からいまだ同じ住所に住み続けている。
 数カ月前、ユリは十年近く勤めていた会社を不本意ながら辞めることになった。ろくな会社じゃなかったけれど、新卒で取ってくれたのはそこしかなかったから、ずっとそこで頑張って来た。
 家を出るのは日の出前。帰ってくるのは零時過ぎ。土日祝日なんて関係ない。とにかく働いて働いて働いて。
 それだけを毎日繰り返していたら、ある日、突然、できなくなった。乗るはずの電車を間違えたり、降りる駅を間違えたり、はたまた、どうやって電車に乗ったら良いのかわからなくなったり。
 朝、目覚めることが悪夢のようだった。会社に行こうと思わなければ普通に電車に乗れるのに、行こうと思えば失敗した。なんとか会社の近くに辿り着いても、近づくとなぜか道に迷ったり、目的地がわからなくなった。自分がおかしいことはわかっていたけれど、どうしてこんな状態に陥っているのかわからなかった。とにかく、会社に行けないこと、仕事ができないことに焦りを感じるばかり。
 そんな日々が続き、遅刻と欠勤が重なって結局クビになった。あっけない幕切れ。あんなに一生懸命働いていたのは、何のためだったのだろう。
 辞めて数カ月経つというのに、まだあの頃の癖が抜けきらない。疲れて遅く帰った翌日ほど、やってしまう癖。自分はなんて愚かなんだろうと思う。
 早く新しい職場を見つけなければと思う一方、ほぼ十年ぶりのまとまった休暇を味わいたいと思っている自分もいる。貯金は少ないものの、ないわけでもない。小遣い稼ぎに居酒屋でバイトも始めた。学生時代にやっていた仕事だから、流れはわかっている。夕方から夜にかけてのシフト。日によっては午前様。だからたまに早朝、癖が出る。
 パジャマに着替え、ユリはベッドに横になる。せっかくだから、休めるうちにしっかり休みを味わおう。こうやってゆっくり寝られるなんて、勤めていた頃には考えられなかったことだ。

6.

 居酒屋のバイトにもずいぶん慣れた。個人経営の店だから、閉店時間を過ぎても居座る客のために、帰宅時間が大幅に遅れることもあるけれど、前職に比べればたいした時間でもない。なにせ出勤時間は夕方でよいのだから。
 例のあの癖も出なくなってきた。目覚めれば、布団の中という事態に安心している自分がいる。昼過ぎまで惰眠をむさぼっていられるのはありがたいことなのか、悲しいことなのか。
 きちんと朝、起きられる生活をしなければ、再就職は難しいと思いつつ、もう少しこの現状に甘えていてもいいのではないかと最近、思っている自分がいる。
 焦る必要はない。と、考えられるのは小遣い程度とはいえ仕事をしているからなのか、焦った所で見動きが取れないと諦めているからなのか。

 最近、よく飲みに来ている二十代半ばくらいのキタザワ君はおしゃべり好きな男だ。こちらの手が空いたのを見計らい、話しかけてくる。適当にあしらうが、なぜか度々「一緒にジョギングしない?」と誘われる。しかも早朝ジョギングに。
 運動が好きそうな体型でもないし、趣味でジョギングをしているっぽくもみえない。
 朝から走れば、起きられるようになるかもしれない。けれど、早朝から走るなんて体にきつそう。それに眠い。
「いや、俺も春は走ってたんだけど、最近はご無沙汰。なんせ熱帯夜で寝不足気味だからね。だから秋からまた走るって約束してんだけど」
「約束?」
「ツレが走ってんのよ。で、ツレに盆が終わったらまたつき合うって言ってたんだけど。今、俺、仕事が忙しくてね」
 ビールを流し込む。キタザワはこのところ、毎晩のように飲みにきている。忙しいのは仕事のせいばかりじゃなさそうだ。
「約束を先送りしてるってこと」
「いやあ、ユリさんが一緒なら、その日から再開するよ」
「口がうまい人のいうことなんて信用できないわ」
「言うねえ」
 酔った顔でにやりとキタザワは笑う。
「おはよう、ジョン。今日もいい子ね」
 店の喧騒が消え去る。
「どうして、それ」
 ユリがようやく出した声は固かった。
 幼いころから持っているウサギのぬいぐるみ。未だ捨てられないジョンに、毎朝儀式のように、呪いのようにかけ続けている言葉。誰も知らないはずなのに。
 キタザワはユリの様子に気づいた様子なく、それまで通りビールを飲み、枝豆を口に運びながら、
「俺のツレがユリさんに絡まれた時に言ってた」
「絡んだ? 私が?」
「そう。早朝ジョギングしてる時」
 言われ、一度だけ男に声を掛けられたことを思い出す。けれど、顔ははっきり覚えていない。

7.

 翌日、覚悟を決めて早起きした。自分が何をしていたのか、はっきり知ろうと思って。
「あれ?」
 と、ユリが首をかしげたのはキタザワに言われた集合場所に、見知らぬ男しかいなかったからだ。彼がキタザワのいっていた友人だろうか。
「キタザワ君は?」
「寝坊。いつものこと」
「じゃあ、おはようございます。始めまして」
 ユリの挨拶にナガサカは面白そうな色を瞳に浮かべる。
「おはようございます。ナガサカです。あなたのことはキタザワから聞いてます」
 簡単にルートを説明される。
 ナガサカはキタザワと違って口数が少ない。必要最低限の言葉でしゃべっている印象。キタザワとはまるでタイプが違う。だが、どうやら面倒見がよい性格らしい。ジョギング初心者のユリに合わせて、スローペースで走ってくれた。
「明日もまた」
 言われ、はいと返事をした自分にユリは思わず笑みが漏れる。早朝ジョギングがこんなに気持ちが良いだなんて知らなかった。
 ナガサカはまぶしそうに目を細める。朝日がナガサカを射抜くように、ユリの背後から光を投げかけている。

 翌日もまた、キタザワは寝坊した。
 ユリはナガサカと一緒に走る。特に会話らしい会話はない。
 今日こそキタザワが言っていた、寝ぼけたユリがナガサカに絡んでいたという事件を聞きだそうと思っていたのに、聞きだせそうもない。会話もないまま、黙々と走る。隣を走るナガサカは何も語ってくれない。
「あの、私のペースに合わせてくれなくてもいいですよ」
 ユリは思い切って言ってみた。会話もないまま、特に親しくもない人間と一緒に走るのも走りにくいだろうと思って。
 すると、変なことでも言われた顔で、ナガサカはユリを見る。
「俺はどっちでもいいんです」
「どっちでもって?」
「どっちでも」
 そのまま会話は途切れ、今朝も一緒に走り終えた。翌日も走る約束をして、別れる。別れぎわに一瞬見えたナガサカの顔に、ユリは妙な既視感を覚える。それはとても懐かしくて、とても優しいと思えるもの。ユリはそれが何なのか思い出せない。

8.

 走っていることで血の巡りが良くなるからか、喋りもせず走っているからなのか、妙なことばかりぐるぐる考えてしまう。近所にある小学校の前を走っていると、連想するように、幼いころのことを思い出してしまう。
 ユリは幼いころ、遠方にある、ど田舎の祖父母の家に預けられていた。今にして思えば、体の弱いユリのためだったのだけれど、幼心に自分は両親に嫌われているのだと思っていた。
 忙しい両親とユリが会える時間はなかなかなく、たまに会えてもあっという間。幼いユリは両親にどう接して良いのかわからず戸惑っているうち時間は過ぎて、二人は戻っていってしまう。
 けれど小学校に上がることを機にユリは両親とともに暮らしはじめた。祖父母と暮らしていた田舎とまったく違う町。戸惑うばかりのユリに、家へ帰る道すがら両親がプレゼントしてくれたのが触り心地の良い、黒いうさぎのぬいぐるみだった。
「おはよう、ユリ。今日もいい子ね」
 毎朝、両親から掛けられる言葉が嬉しくて、幼い自分も真似をしてジョンに挨拶しはじめた。
 夏休みが終わるころ、ユリは再び祖父母との暮らしに戻った。町の暮らしにはなじめなかったからだ。けれど、小学校の高学年になったころ、祖父が倒れ、ユリは再び両親と暮らすことになった。なじめない、ぎこちない、家族ごっこのような関係だった。だから、中学は寮があるところを選び、その後もずっと両親の顔を見ないで生きてきた。生きてこれた。
 人は一人で生きるものだと思っていた。そんなユリを支え、見守ってくれていたのがジョンだった。気の置けないたった一人の家族――。
 ゴールの集合場所が見えてきた。
 何だか妙に気持ちが高揚している。ラストスパート。全力で走る。
「ゴール」
 膝に手を突き、肩で大きく息をする。疲れたのに、すがすがしい。気持ちいい。
 ナガサカは屈みこんでいる。急に走りだしたユリにつき合って走ったからだ。
 ユリは目の前にあるナガサカの頭に思わず手を出していた。
「おはよう、ジョン。今日もいい子ね」
 頭をなでて、我にかえる。前にも同じことをした。ぼんやりとだが思い出した。まったく恥ずかしいやら、居たたまれないやら。なんとか手を、頭から遠ざける。触り心地の良い髪だった。
 ナガサカは顔を上げる。そこに広がっていたのは柔らかい笑顔。
「おはよう、ユリさん。今日もいい子だね」
 それは長年、ユリが誰かから聞きたいと思っていた言葉だった。

△上へ

『おはようジョン、今日もいい子ね。』をご覧いただきありがとうございました。〔2017/06/09〕

久々に友人達と作った同人誌用に書いた物語。書き上げるまでに時間がかかったかかった。。。

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