What is his happiness?

一.

 ブランシェット家の若き主人、アーヴァント・ブランシェットの名を若い娘が口にするとき――。それは熱狂と共にある。
 彼の見た目の美しさはもちろん、優しい微笑み、雰囲気の爽やかさ、物腰の柔らかさ、女性への細かな気遣い、親切な心配り……どれをとっても彼は完璧で、物語に登場する王子様を連想させるに十分なもの。その上、彼の家は古く、屋敷は大きく、代々仕えるものもいて、若くして既に主人であり、奥方もいない。噂に上った女性は数多いが、どの恋も長続きしない。
「アーヴァント様、お独りになられたんですって」
 街角で、店先で。若い娘たちの黄色い歓声と、かしましいおしゃべり。次こそは自分にチャンスが訪れるはずだという熱のこもった声。
「まったく、毎度毎度にぎやかな事だ」
「朝から祭りのようですね」
 兄のウルズ・オーウェンの呆れのまじった苦笑いに、妹ジェシカ・オーウェンの表情のない声が続く。ウルズはそんな妹を横目で見やり、
「まあ、お前ぐらいなものだな」
 ジェシカは言葉の意味が分からず、視線で兄に言葉の先をうながす。
「あの男が失恋して、喜んでいない女はこの町でお前ぐらいなものだってことだ」
 何が面白いのか、ウルズはにやついている。ジェシカはますます憮然とした表情になり、歩を早める。
 十才に満たない少女から、上は八十才過ぎのご婦人までありとあらゆる女性がアーヴェントの失恋を喜び、今日はお祭り騒ぎとなっている。この町で無関心な顔をしている女性はジェシカと、アーヴェントをふった女たちだけだ。
「俺は褒めてんだけど」
 ウルズは足を早め、妹に並ぶ。五つ下の妹、ジェシカはどちらかといえば可愛らしい部類の容姿をしている。ただ、態度に女性らしい柔らかさはなく、無骨で無愛想だ。初対面だと、女顔の弟だと勘違いする人間も多い。
 兄妹の生家、オーウェン家といえば、古くからアーヴェントの家――ブランシェット家に仕えてきた。とはいえ、今の主人であるアーヴェントとウルズは年齢が同じこともあって、友人のような間柄。だからか、アーヴェントはウルズの妹であるジェシカのことも、妹――というより弟のような扱い方をしている。
 幼い頃のジェシカは泣き虫で寂しがりやで、兄の後を何処へでもついてまわったが、何をどう間違えて育ったものか、適齢期の現在、頑固な負けず嫌いへと変貌してしまった。
 彼女が色気づきだす年齢の頃に父がなくなり、少女でいることが罪悪だと考えたのかもしれない。髪を切り、動きやすさを優先して男物の服を好んで着るようになった。化粧気などありはしない。人手不足のブランシェット家では働き者のジェシカの存在は、非常にありがたいのだが、それが自分の妹となるとウルズの心中は複雑だ。
 市場で買い揃えた食料品を手に、ウルズとジェシカはブランシェットの屋敷へ帰り着いた。


二.

 家柄が良くても、容姿が良くても、女性にもてても、人生、問題はある。
 アーヴェントは今日、何度目になるか分からないため息をついた。
「リエーテ・ラッシュ。良い線いってると思ったんだけれど――」
 軽薄な男ではあるが、失恋すれば彼でも落ち込む。
「あの顔も、あの性格も、あの趣味も。何から何まで私の好みじゃなかったけれど、それでも金の為と思って、百歩譲ったんだがなあ」
 女性たちの前では決して見せない顔。ウルズとジェシカが部屋にいるが、ジェシカは女性とは思っていない。
「この部屋を見られたらそりゃ終わりだろ」
「百年の恋も冷めます」
 三人がいるのは、何とか持ちこたえている廃屋の一室と表現したくなる部屋。ブランシェット屋敷は、外から見れば実に風情のある屋敷だが、使用している一部の部屋をのぞき、ほとんどの部屋が閑散として廃墟のような状態だ。屋敷の老朽はいかんともしがたく、それを補修するための金銭はあまりに莫大で、目処が立たない。
「成金商家の娘は、やはりソロバン勘定がうまいのか?」
「商家の娘じゃなくても、この惨状は目を覆いたくなります」
 アーヴェントの言葉にジェシカが塩を塗りこむ。
 金持ちだと思っていた男が実は貧乏で、自分の方が金があることが分かれば……娘にかかっていた恋の魔法は解ける。
「あとは、シェルフィール・ドトール婦人だけか――」
 アーヴェントは華奢なティーカップに入った白湯を啜りつつ、大きなため息を吐き出す。女性には分け隔てなく優しく、特に金を持っている女性には大変親切なアーヴェントだが、彼にも苦手なタイプはいる。その筆頭がシェルフィール・ドトール婦人だ。
 彼女は近隣で一番の富豪だが、美しい男たちを周囲にはべらせるのが趣味の、個性的な容姿をした女性だ。アーヴェントは彼女のお眼鏡にかない、何年も前からシェルフィール・ドトール婦人の愛人になるよう、こわれている。
 アーヴェントが金のある女性を特に好むように、ドトール婦人は美しい男を好む。アーヴェントは恵まれた容姿を活用して女性に近づき、ドトール婦人は自分の財力を持って男たちを手なずける。そう考えれば、二人の相性はとてもよいようだが、同族嫌悪なのかアーヴェントは彼女を毛嫌いしている。
 ウルズは妹が淹れた微かにお茶の香りがする白湯を飲み干し、腰を上げる。雨が降る前に屋根裏の補修をしなければいけない。
「お前もとうとう、美しい愛人たちの仲間入りか?」
「いや、私には一応、夫の肩書きを用意してくださると――」
「立場は他の方々と一緒なのでしょう?」
 ジェシカもお茶の時間は終わりとばかり、食器を片付ける。兄の手伝いもしなければならないが、カーテンもいくつかつくろわなければいけない。することはたくさんある。
 二人がいなくなった部屋で、アーヴェントは天井を見つめ、言い聞かせるようにつぶやいた。
「私はブランシェット家の主人なんだ」


三.

 ドトール婦人へ送られた手紙の返事は早かった。従者を引き連れ、婦人はブランシェット家を訪れた。屋敷の内情に眉をひそめたものの、それだけだった。とんとん拍子で話はまとまった。
 結婚後はドトール婦人の屋敷の一つで暮らす事が決まった。結婚式もドトール婦人が選んだ教会で盛大に行われる事になった。全部、彼女が手配し、アーヴェントは事後報告として通知された。

 結婚式のため、その後の新婚生活のため、長年暮らしてきた屋敷から離れる事になった。
 振り返り、見上げる。古いが美しい屋敷。内情のわりに、実に手入れが行き届いている。おんぼろだと誰にも気付かれないよう、努力して、ここまで維持してきた。今後は、朽ちていくだけだろう。主人となって数年。若いアーヴェントには重圧だったが、今となっては感慨深い。
 馬車に乗り込む。ドトール婦人に頼み、旅中の従者はウルズとジェシカにしてもらった。街に着けば二人は解雇されるが、それまでは一緒だ。給金が幾度も滞るような主人によく仕えてくれた。次の仕事の口を世話してくれるよう、婦人には頼んである。
 馬車に揺られる。沿道の女性たちが、悲しみの表情で見送ってくれている。心苦しくなり、カーテンを引き、目を閉じた。
 街を出たところで舗装が途切れた。馬車の振動が変る。耳で、身体で感じていたが、アーヴェントは窓の外を見ようとはしなかった。山道を上り始めてずいぶん経った。
「アーヴェント、街をよく見とけよ。もう少ししたら見えなくなるからな」
 御者台に座るウルズから声をかけられ、アーヴェントは目を開けた。カーテンの外に、街にそびえる美しい屋敷が見えた。嫌ってさえいた屋敷だったのに、寂しさを覚えた。見えなくなっても、そちらの方向から目が離せなかった。
 不意に馬車が止まった。
「アーヴェント、嵐がきそうだ」
 ドアを開けながらウルズが言う。出発前から心配していたことではあるが、これ以上日程を延ばすことは無理だったので強行していたのだった。
「急いでも、先の街に着くのは難しい。引き返すか、山小屋でも見つけて、嵐が過ぎ去るのを待つしかない」
「先に進め。後戻りはできない」
「わかったよ。ジェシカ、お前は中に入れ。邪魔だ。二人とも歯を食いしばっていろ、飛ばすぞ」
 馬車は速度を上げて走り始めた。
 灰色の厚い雲が広がり、空が黒くなっていく。雨が降り始め、叩きつけるように強くなる。雷が轟く。怖がった馬が暴れる。馬車を止めようとするが、止まらない。一頭がぬかるみに足を取られ、転倒する。ひっくり返る――一瞬の出来事。


四.

「いてててて……」
 ウルズは起き上がった。一瞬、意識を飛ばしていたらしい。全身、痛みはあるものの、たいした怪我はしなかったようだ。見事に馬車はひっくり返り、不恰好に倒れた馬が暴れている。一頭は足を怪我したようで、起き上がれないようだ。怪我をしていない馬を落ち着かせ、木に繋ぐ。
 中をのぞく。アーヴェントとジェシカが抱きあった格好で倒れているのにぎょっとしたが、とっさにジェシカがかばったのだろうと思いいたる。
「大丈夫か?」
「何とか」
 アーヴェントが痛みをこらえつつ、馬車の外へ出る。ジェシカは動かない。最悪の想像をしたが、気を失っているだけだった。脈拍は安定している。
「とりあえず、雨風をしのげる場所を確保しよう。アーヴェントはその荷物を持て」
 ジェシカを外套でくるみ、肩に担いで移動する。昔、金脈のあったこの山は洞窟が多い。しばらく歩き、ようやく見つける。衣服が雨にぬれ、重くなってきていたところだったので、助かった。
 洞窟内に入る。生活しながら金を掘っていたのか、まきや鍋が残されていた。ありがたいと、火をおこす。温まってきたところで、
「ジェシカ、ジェシカ――」
 声をかけるが目を覚まさない。意味不明な寝言を答えるものの、目覚める様子はない。
「そのままで良いよ、ウルズ」
 アーヴェントは止める。その辺の娘に比べれば頼りになるが、今の状況では役に立ちそうにない。
 アーヴェントがもってきた荷物をほどき、ウルズは肩を落とした。
「何でこっちをもってきた」
「お前がこれを持てって言っただろ」
「違う。もう一つの方だ。あっちに食料が入ってたのに」
 雨の中、ウルズは取りに戻る羽目になった。


五.

 ウルズが出かけてまもなく、ジェシカは目を覚ました。
「やあジェシカ。気がついたかい?」
 アーヴェントが声をかけるが、ぼやっと天井を見つめたまま。様子がおかしい。
「ジェシカ?」
 目に涙がたまったかと思うと、痛いと大きな声で泣き出した。まるで幼い子供のように。
「ジェシカ、どうした?」
 慌てて声をかければ、そこで初めてアーヴェントに気付いた様子で、ジェシカはぴたりと泣き止んだ。だが、人見知りな子供が知らない人を見る瞳で凝視している。少しでも近寄ろうとすれば後ずさる。
「だれ?」
「誰って、私はアーヴェントだよ」
 言われた言葉に、ジェシカは不思議そうに首を傾げる。アーヴェントが女性向けのスマイルを向ければ、少し、不安感が和らいだ様子で、逃げるのをやめた。けれど、様子を伺うように、アーヴェントの一挙手一投足をを見つめている。
 雷が鳴る。再び泣きだしそうな顔に、アーヴェントはげんなりする。早くウルズが帰ってくるのを祈るのみだ。ジェシカから視線をはずし、炎を見つめる。

「ちちうえ!」
 喜びの声を上げ、ジェシカが洞窟入り口に現れたウルズに抱きついた。
「えっと……ジェシカ?」
 ウルズは荷物を脇に置き、言動のおかしな妹を見やる。アーヴェントに説明を求めるが、答えることはできない。
「ジェシカ、どうした?」
「ちちうえ、どこにいらっしゃったのですか? あにうえはどちらですか?」
「えぇっとだな、ジェシカ。落ち着け。俺はお前の兄であって、親父じゃない。アーヴェント、何があった?」
「わからない。頭を打っているのかもしれない」
 転倒するとき、車中で、ジェシカがアーヴェントの頭を守るよう、抱き寄せたことを思い出す。
「なんてこった」
 ウルズはもらし、外套を脱ぐと、炎の近くへ座る。ジェシカはウルズに抱きついたままだ。
「ジェシカ、どこか痛いところはないか?」
 言われ、ジェシカは思い出したのか再び泣き出そうとする。口を塞ごうと手を伸ばしたアーヴェントから逃れようと、ジェシカはウルズの背中に顔をうずめる。
「うちの妹をいじめるな」
「待ってくれ、ウルズ。ジェシカ、本気で子供みたいに大きな声で泣きじゃくるんだ。さっき、凄かったんだからな」
 ジェシカは様子を伺うようにアーヴェントを見たものの、アーヴェントと視線が合い、ウルズの背後に隠れる。
 事態は深刻だ。
「これ、どうやったら治るんだ?」
「知らないよ。明日になったら治ってるんじゃないか」
 服を広げて横になり、目を閉じる。硬いが、眠れないほどじゃない。

 うとうとして目が覚めたら兄妹が向かい合って話をしていた。
「あのな、ジェシカ。俺はお前の兄――兄上だ」
「あにうえ?」
「そうだ、俺はお前の兄上だ」
 教え込むような口調。ウルズが何だか優しい顔をしている。最近は妹と口喧嘩をしているところしか見かけないが、昔は仲が良かったのだろうか。
「ジェシカ、どこか痛いところがあるか?」
「ない。ちちうえ、ここどこ?」
「俺は兄上だって」
「お前ら仲いいな」
「起きたのか。まだ、雨は止んでない」
 アーヴェントの声に、ウルズは照れくさそうに言う。
「ジェシカはな、幼い頃は人見知りで、寂しがり屋で、俺がいないと泣き出すような子供だったんだ」
「それはお前の妄想の中の妹の話だろ」
「現実だよ。親父が死んで、しっかりしないとって思ったんだろう。今のジェシカになった」
 複雑そうな顔。
「ジェシカ、早めに医者に見せるべきだよな」
「頭を打っているのならなるべく動かさないほうがいいそうだよ」
「それは寝てたほうが良いってことか? もう少し早く言え」
 ウルズはジェシカを寝かしつけた。最初は眠くないとぐずっていたが、ウルズは妹を慣れた様子で寝かしつけた。
「ウルズ、私の知らないところで子供がいるだろ」
「いるわけないだろ。あの屋敷に一日何時間いると思ってるんだ……」
 二人は本当に働き者の兄妹だった。若い主人であるアーヴェントにはありがたかった。その二人とももうすぐお別れだと思うと、寂しい。
 ウルズは照れくさそうに付け加えた。
「妹を寝かしつけるのは子供の頃の俺の役割だったんだ」

 雨が小降りになってきた。日も差し始めた。
「止みそうだな」
 ウルズは外套を羽織る。
「ちょっと馬車の様子を見てくる」
 と、出かけていく。友がいなくなると、徐々に不安になってきた。子供のようなジェシカと、自分だけ取り残されたら、何もできない。
「ちちうえ、どこにいったの?」
 ジェシカが起きてしまった。どうやら寝たふりをしていただけのようだ。
「もう少ししたら帰ってくるよ。それより、お腹すかない?」
「すいた」
 荷物の中に入っていたのはお菓子とお茶だけだった。
「お腹、すいたよね」
 アーヴェントの言葉に、ジェシカはポケットから飴玉を取り出した。
「あげる」
 受け取り、口の中に放り込む。甘ったるい。いつも無愛想なジェシカが、こんなものを持ち歩いているだなんて知らなかった。
 ジェシカも口の中に入れているらしく、頬が丸く膨らんでいる。やがて、飴も溶けてなくなった。互いに黙り込んでいるのが疲れる。
「ウルズ、遅いな」
 炎が弱まってきた。小枝が底をつきそうだ。枝をとってくるぐらいなら自分でもできるだろうと立ち上がる。
「ジェシカ、お留守番できる?」
 びくりとジェシカがアーヴェントを見やる。大きく首を振る。
「困ったな……えぇっと、あのね、ちょっとだけだから。すぐに帰ってくるから」
「ダメ」
 突進するような勢いで強く抱きつかれた。中身は子供だが身体は大人なので、そのまま倒れこんでしまう。どこも怪我はしなかったが、ジェシカの力は強い。
「ジェシカ、苦しい。離れて」
 あがいているところに、怒りを含んだ声。
「――アーヴェント。お前、うちの妹に手を出すってどういうつもりだ?」
 タイミング悪くウルズが帰ってきた。
「ちちうえ」
 ジェシカは何事もなかったかのような顔でウルズに抱きつく。酷く嬉しそうだ。アーヴェントは疲れきった顔で起き上がる。
「違う、ジェシカが抱きついてきたんだ」
 誤解されたままでは、腕の一本や二本折られかねない雰囲気だ。
「そもそも。私は、金のない家の娘に興味はない」
 それもそうだとウルズはうなづき、お茶の支度をはじめた。後で正気に戻った妹に殺されなければいいが。

 ぬかるみにはまり込んだ馬車をおこすのは不可能なので、助けを呼ぶことになった。ウルズが馬で街まで戻り、人手を集めてくる間、アーヴェントとジェシカは留守番だ。
 腹が良くなって眠たくなったのか、ジェシカは静かな寝息を立てている。おとなしくしてくれているのが一番ありがたい。一晩眠って起きれば、また旅の再開だ。
 火も消え、夜も更けてくると肌寒さを感じた。ウルズは今頃、街にたどり着いた頃だろうかと思う。着替えの衣服を寝具代わりにしているが、固い地面に敷いている方が多い。
 眠れなくて寝返りを繰り返していると、不意に暖かくなった。目を開ければ、離れて寝ていたはずのジェシカが近くにいて驚く。離れようとすれば、泣き出した。
「ええっと、ジェシカ、寒いの?」
「うん」
 ウルズが帰ってくるのは早くて明朝だろう。泣き出されないよう、彼女を胸に抱きよせる。安心したのか、また寝息が聞こえ出した。
 どうしてこんなに不幸なんだろうと自分のことを省みる。
 他人からみれば恵まれた環境に生まれ育ったと思われていそうだが、そんなことはない。地位や名誉があったって、それでは食べていけない。古くて大きな屋敷は管理が大変なだけだ。けれど、人々はそれに憧れる。
 もっと普通の家で生まれ、普通の人生をおくってみたかった。屋敷の管理なんて必要なく、常に先祖たちと比較されないような人生が。
 そもそも、なぜ自分はあんな朽ちかけた屋敷に固執していたのだろう。あんな屋敷に囚われなければ、好みではない金のある女を口説きまわる必要もなかったし、こんな結婚なんてありえなかった。
 幼い頃は、他の子供と同じように、自分は幸せな子供だと思っていた。仕事の父親と一緒にやってくるウルズといつも遊んでいた。ずっと、この時間が続けばいいと思っていた。父がいて、母がいて、美しい屋敷があって。
 ああ、そうだったのかと理解した。自分は、あの頃の幸せを追いかけていたのだ。あの屋敷には幼少期の幸せな時間がつまっていた。両親がなくなる直前まで流れていた、少年の時間が。
 主人なのだから、何もかも手元から離してしまえば、彼はそれなりに幸せになれたのに、それらを抱え込み、維持しようと努力したのは自分だ。ブランシェット家の主人である自分だった。
 幼い頃の美しい家に戻すには金がいった。同じ事故で親を亡くした、友人のウルズとジェシカを幸せにしてあげたかった。金があれば二人が喜ぶと思っていた。けれど、シェルフィール・ドトール婦人の夫になれば、金は手に入るが、二人と一緒にはいられない。
 彼女の夫になれば、今見出した幸福とは永遠に手を切らなければならない。自分は、なんて愚かだろう。欲しいものを見失っていたなんて。


六.

「起きろ」
 ウルズの声がして目が覚めた。外はまだ薄暗く、ウルズの持ったランプの明かりが眩しい。
「今、何時だ?」
 起き上がろうとしたが、腕が何かに挟まれている。横を見てアーヴェントは顔色を失った。
「違う、ウルズ落ち着け。これはお前の妹が――」
「妹は寝たら朝まで起きない性質なんだよ。なんで寝かしつけて出たのに、お前と抱き合って寝てんだ。おかしいだろうが」
 すごまれる。言い争いをしていると、ジェシカが不機嫌な顔で、
「一体何の騒ぎですか?」
起きた。昨日の昼までと同じジェシカ。幼い子供のような言葉遣いはなく、表情も固い。見慣れたジェシカだった。
「それより、ここはどこです? さっきまで私は馬車に乗っていたはずなのですが――?」
 と、混乱している。
「さっきまでの方が可愛かったのに」
「あのままの方が嫁の貰い手がありそうだったな」
 ウルズとアーヴェントは肩を落とす。
「何の事です?」
「いや、こっちのこと。ウルズ、馬車は?」
「手伝ってもらって何とかなったが、旅程は変更しないと無理だ」
「そうか、ついてないな」
 アーヴェントは何だか、おかしくなった。
「いっそ、やめようか」
「は? やめるって何を?」
「アーヴェント様、何を?」
「気がすすまない。いくら金を持っていても、彼女はまったく私のタイプじゃないし」
 と、立ち上がる。金、金、金と普段はうるさいくせに、この変貌に兄妹は首を傾げる。どこかで頭を打ったのかもしれない。


七.

「これ、街まで持ちますか?」
 三人を乗せ、壊れかかった馬車は戻ってゆく。
「アハハ、次から次へと壊れてくね。なおせやしないのに」
「シェルフィール・ドトール婦人には何と?」
「気が変ったと手紙でも書くさ。愛人は両手で足りないくらいいるんだ、私と結婚できなくても問題なんてないはずさ」
 明るく言う主人の顔を、兄妹は不可解な顔で覗き込む。
「何たくらんでんだ?」
「お金持ちの令嬢で声をかけたことのない女性を思い出されたとか?」
「適齢期の令嬢から、後家さんに狙い変更?」
「兄上、そのあたりは抜かりなく手を出しているはずです」
「年齢層を広げたか?」
「アーヴェント様の許容範囲の広さに驚かれていたのは兄上ですよ」
「じゃあ、女性以外にも手をつけることにした、とか?」
「筋金入りの病的な女ったらしなのに?」
 何を言われても笑顔のアーヴェント。彼の目論見がわからず、妙な方向に話が脱線してゆく兄妹。結局答えは出ず、ウルズはアーヴェントに問いかける。
「なぁ、本当のところ、お前は何を考えているんだ?」
「この際だし、あのボロ屋敷、売り払おうか。何もかも処分すれば、かなりの額になる。小さくても新しい家を買ったほうが、手っ取り早いだろ」
「お前、気は確かか?」
「あんなにお屋敷にこだわられていたのに……」
 顔を見合わせ肩をすくめる兄妹。アーヴェントは尋ねる。
「君たちはあの屋敷がなくなっても、私に仕えてくれるかい?」
「お前、俺たちがいなきゃ何にもできないだろ」
「アーヴェント様が首だとおっしゃられない限りは」
 二人の答えに、アーヴェントは幸せそうに微笑む。
 雨上がりの空は澄み渡っていた。

『What is his happiness?』をご覧いただきありがとうございました。〔2011/07/07〕

兄妹ものが書きたかっただけ。最初、アーヴェントは脇役だったのだけど、正気に戻ったジェシカがウルズを殺しかねないオーラを出しながら兄に抱きついたりしてたので、アーヴェントを主役に。今回一番損な役割はシェルフィール・ドトール婦人。名前が長いので、私がシルフィールとか、シェルフィールドとか間違えまくってた人。
仮タイトルを「約束」にしていたのだけれど、書きあがったら幼い頃の「いつまでも三人で一緒にいようね」なんて約束シーンを削除してしまっていたのでタイトル変更。意味なく英語タイトル。

2012/01/19 訂正

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