夢か、現か。

 気づいたら、コンクリートのビルが立ち並ぶ雑踏に立っていた。
 周囲を顔の無い人々が通り過ぎてゆく。私を避けるように、私などいないかのように、どこかへと過ぎ去ってゆく。立ち止まるものはいない。一定のリズムを刻み、彼らは歩きつづける。
 無音。
 どのくらい経っただろう。世界に音が無いことに気づく。衣擦れの音、呼吸音、足音。そんな微細な音さえも無い。それに気づくこともなく、それを不思議とも思わなかった自分に唖然とする。
 夢だ。
 これは夢だ。
 頭の中に湧き上がる言葉。それが鍵であったかのように、忘れていた記憶が姿を表す。
 この街は私の脳内が作り出した架空の世界だ。私が一から作り上げたものではなく、どこかで見た景色をでたらめに混ぜ合わせたもの。だから完全に知らない街とはいえない。
 夢だとわかれば、立ち止まっている必要は無い。
 歩き出した私をやはり人の波は避けて通り過ぎてゆく。大股に歩くが、誰にもぶつからない。
 湧き上がるように徐々に。先ほどまでまったくしなかった音がやけにリアルに響きはじめる。夢だと認識した途端、それを打ち消すかのように。
 車の音、信号の音、雑踏の雑音までもが再現され、どこにでもある景色へと移り変わってゆく。
 歩を進めるが、いくら歩いても周囲の景色は変わることは無い。無限に続くかのような、雑踏。どこからともなく、どこへともなく歩いてゆく人々。顔は見えない。現実で見ようとしないもの、見ていてもそれを記憶しようとしないものは再現できないのだろう。
 不安も寂しさも感じないが、ただ違和感だけが湧き上がる。
 私はどこへ行く?
 目の端に小さな紅色が映る。
 あれは笑みの形をした女の唇だ。
 不意に街は姿を消し、草原へ出た。どこまでも果てなく続く枯れた草の原。冬へと映り行く灰色の空。十年ほど前、卒業旅行で訪れた北海道の記憶だ。
 あの時、私はこのさえぎるものの無い景色にいたく感動した。後ろには小屋があり、私達が乗ってきたレンタカーが止まっている。仲間達は車中で買ったばかりのホットドリンクを宝物のように抱え込んでいるはずだ。
 さえぎるものが無いため、強い風が休むことなく吹き荒れている。コートの中で身を震わせつつも、やはり、あの時同様、私は動けなくなっていた。
 風の吹き荒れる音だけが響く。いつまでも見つめつづけていたい。だが、タイムリミットはやがて訪れるのだ。風の冷たさに堪えられなくなった時、陽が沈んだ時……。
 いや、それは起きない。これは夢だ。だからこそ、かなえられる想い。いつまでも、私はこの景色を眺めていられるのだ。
 夢の中では時間などという概念自体が存在しない。一瞬は永遠で、永遠は一瞬に過ぎない。
 では、私は何時間この景色を見ているのだろう?
 前方から白いワンピースを着た女が歩いてくる。顔はまだ見えないが、私は彼女を知っている。とてもよく知っている。
 彼女はまっすぐに歩いてくる。そこが見渡す限りの草原であり、強い風が吹いていることなど構いもせずに。一つにまとめた髪も、ワンピースの裾も、彼女が歩くために起こる振動以上に揺れようとはしない。
 そんな彼女の頑固さに私は笑みを漏らす。そうだ、何にも捕らわれず、誰にも影響を受けないのが彼女だ。私は彼女のそんなところが気に入っているのだ。
 唇には紅いルージュ。化粧っ気の無い彼女の唇を彩る唯一の紅色。シンプル過ぎるけれど、派手過ぎるよりは良い。
 魔法の呪文を唱えるように、彼女は唇を動かす。言葉は聞き取れない。遠い上、風が強いのだ。聞き取れないと首を振るが、彼女は構わずしゃべりつづける。私は必死で聞き取ろうと、風の中に彼女の声を探し、前に向かって歩き出す。
 歩いても、歩いても彼女との距離は縮まろうとはしない。言うべきことは言ったとばかり、彼女は背を向け歩き出す。仕方なく、私は大股で歩き出し、距離が縮まらないことに焦り、やがて走りだす。
 駆けても駆けても距離は開くばかり。
「待ってくれ――」
 彼女の名だ。
 それが鍵だ。この夢の世界を終焉させる鍵。
「頼む――」
 名を呼べば、この世界は終わる。現実に戻れるのだ。
 だが、果たして私は戻りたいのか? 現実に。ここにいればこのすばらしい景色を眺めていられるというのに。
 そんな想いに気づいたのか、彼女は振り向く。
「私は何なんです?」
 紅い唇は不服そうに言葉を紡ぎ、再び歩き出す。
 君は君だろ? 頑固で、優秀で、努力家で、優しくて……。
 いい加減走るのに疲れてきた。私は日ごろから運動不足気味だってことは君も知っているはずじゃないか。いつも私を叱責しているだろ? なのになぜ待ってくれない? いや、待つのが当然だろ? 君は私の部下で、私は君の上司で、同じ研究室の先輩であり後輩であり……
「美咲!」
 うっすらと目を開く。目の前には女の顔。よく知った、けれど幾分か老け込んだ顔。
「やっと、起きた」
 紅をさした唇は嬉しそうに言葉をつむぐ。
「……うん?」
 自分の現状、周囲の現状に戸惑う。ここはどこで、私は誰だ? いや、私が誰かは分かっている。問題はここがどこで、そしていつか、だ。
「夢を見てたんですよ。長い、長い夢」
「夢?」
 朧に霞み、溶けてゆく記憶。確かにはっきりしていたはずの、先ほどまで現実だったはずの風景はどこか遠くへ追いやられる。
「夢、か」
 呟いた言葉に、なぜか既視感を覚えた。

『夢か、現か。』をご覧いただきありがとうございました。〔2004/12/5〕

突発性企画:Series"Colors"「紅」の企画トップページの口紅がどうしても頭から離れず、「紅いルージュの女、いや、赤いドレスの女だったか?」なんて言葉が頭の中で繰り返され、どうにもならないのでそのまま書いてみる。えぇっと……赤いドレスの女とか灰色の雑踏ってのはまんま映画『マトリックス』です。何回も見たわけでもなく、ストーリーさえいまいちわかってないってのに、映像が頭に残ってまして。当初はSFちっくにしようともくろむも(彼女は最初、白衣を着ていた)、話が長引く&まとめられそうにないのでばっさりと。この作品は突発性企画:Series"Colors"「紅」 に参加してます。

2006-06-10 改稿。
2012/01/18 訂正

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