一.中島亮太
連日の残業もようやく今日で終りを迎える。我が家に帰り着いたのは後一時間ほどで今日が終わろうとしている時刻だった。
我が家、とはいっても築二十年のおんぼろアパート。二階へと続く鉄筋の階段を上りつつ、妻と娘の顔を思い浮かべる。再婚したばかりの妻・菜摘とこの間六歳になった娘の朱音。二人が待っていてくれるのだと思うと自然、顔が緩んでくる。こういうのを幸せというのだろう。
部屋からもれる灯り。寝ていればいいと言っても、菜摘は帰りを待っていてくれる。それが嬉しい。
「ただいま」
ドアを開ける。菜摘は上がりはなに三つ指つき、じっと俺の顔を見ていた。ここまで丁寧な出迎え方をされたのは初めてだ。何事かといぶかしみつつ、
「ただい――」
「あなた、離婚して欲しいの」
「……え?」
何を言われたのか理解できなかった。いや、理解したくも無かった。菜摘はそれがわかっているとばかり、俺を追い詰めるように、
「離婚していただきたいの」
嘘偽り無いと語る真剣な眼差し。
「……どうして?」
なんと返せばいいかわからず、小さな声で問い掛けることしかできない。頭の中を駆け巡る幸福な思い出。今まで、今朝まで幸せに暮らしていたはずだ。そうだ、菜摘が幸せだと言っていたのはつい先日ではないか。俺は薄給取りでしかないけれど、菜摘は不平を言うような女ではなく、本当にできた女で――まさか。
「お、おま、う、浮気か? そうなのか?」
「違います」
落ち着き払った菜摘の声。自分一人動転しているのがあまりにも滑稽で、おかしいのではないかと思わせるような響き。俺は大きく深呼吸し、
「と、とりあえず飯を食ってからにしよう」
居心地の悪い部屋へとあがり込んだ。
二.中島朱音
高校二年二学期の中間テストも終わり、開放的な気分を味わいながら家路につく。
昼食は友達と一緒にファーストフードへ行こうかとも思ったけれど、いつも通り、顔なじみのスーパーで特売商品を買い込んだ。
家の前には長い黒髪を一つに束ねた、三十代半ばの女性。父さんの妹、つまりは私の叔母にあたる松井優香さんだ。
「優香さん」
声を掛ければにっこりと、満面の笑みで手を振ってくれる。手を振りかえそうと思ったけれど、片手に鞄、片手に買い物袋を下げた状態ではそれもできず、頭を下げる。
「帰りました」
「お帰り、朱音ちゃん。これ、おすそ分け」
手提げを持ち上げる。
「いつもありがとうございます。そうじゃないかと思ってました」
鞄から何とか鍵を取り出し、優香さんに渡す。優香さんも勝手知ったる何とやらで、家へあがり込む。優香さんにスーパーの袋を渡し、服を着替えに部屋へと向かう。
優香さんは週に一度、必ず尋ねてくる。以前は父方の祖母が尋ねてきていたのだが、体を壊してからは優香さんが後を継いだ。用件はただ一つ、父への再婚の勧めだ。
着替え終わって台所へ行くと、優香さんは持参した惣菜をテーブルに並べていた。
「ありがとうございます」
言いつつ、優香さん用の食器を手渡す。ご飯を盛って、朝のお味噌汁の残りを温めて注ぎ分ける。
テーブルにつき、食べ始める。優香さんが作った肉じゃがを一口。
「どう?」
「美味しい」
優香さんは本当に嬉しそうな笑みを浮かべる。こんなところが憎めない。
「ところで、兄さんは?」
「海――じゃないかな」
カレンダーにちらりと目をやり、答える。
「……まだ菜摘さんのことが忘れられないのね」
優香さんは私と同じ視線の先、カレンダーにつけられた印を見つめる。そんなとき、優香さんはちょっぴり哀しそうな顔をする。
父さんは満月の日になると、かならず海へ行く。瓶に母さんへの手紙を詰めて、海に流すのだ。
母さんとは言っても私を産んだ人ではない。私が物心ついたころに父さんが再婚した、菜摘さんという女性だ。私も父さんも母さんが大好きだったのだけれど、ある日、母さんはいなくなってしまった。
「母さんは遠いところで元気にしてるよ」
母さんがいなくなってすぐ、父はそう言いながら母に宛てた手紙を書くように言った。幼い私は「私は元気です。母さん、早く帰ってきてね」と結ぶ手紙を書いた。毎月、満月の前の晩、私は同じ内容の手紙を書いた。
けれど、なんとなくそれに違和感を感じ始めるようになったある日、私は父に問い掛けた。
「手紙はポストにいれるものでしょ?」
父は言葉に詰まった様子で、しばらく考え込んだ後、寂しそうに呟いた。
「母さんはとても遠いところにいるからね、ポストに入れたんじゃ届かないんだよ」
母はもう帰ってこないのだ。ぼんやりとした不安がはっきりと輪郭を見せた瞬間だった。私は母への手紙を書くことをやめた。
暖かい海、冷たい海、季節ごとに表情を変える海を何度も見た。
瓶に詰めた手紙はいつまでも海面へ浮かんでいることもあったし、すぐに姿がわからなくなってしまうこともあった。父はそれを見つめながら寂しそうに母の名を呟くのだ。やがて私は海へ行くことも止めてしまった。
「お母さん、ってどんな人だったか覚えてる?」
「さぁ、物心ついたころに死んじゃったから」
覚えてないと首を振る。
嘘。本当はよく覚えてる。一緒に暮らしたのは短かったし、幼なかったけれど、大好きだった。
母って存在に憧れを抱いていた幼い頃、私は父に隠れて毎夜、星に願っていた。なんて子供っぽい、そして熱い情熱だっただろう。そしてある夜、星のようなきらめきとともに現れた彼女を見た。今ならば車のハイビームにでも照らされているのだろうと思うのだけど、幼い私は星が降ってきたのだと思った。だから、あれは母さんに違いない、そう思った。けれど、彼女は私の元には来ず、そのままどこかへ行ってしまった。再び出会ったのは三日ほどして、橋の上だった。
「残っているものも少ないし」
母の持ち物はとにかく少ない。まるで父と結婚するまで、母の存在などこの世界に無かったかのように。そして家族も、親戚も、友人も存在しないのだ。
母が写っている写真も少ない。結婚式代わりに撮った写真。ウエディングドレスを身に着けた母、真中にピンクのワンピースを着た私、タキシードを着た父。みんな幸福そうに微笑んでいる。
そして私が六歳の誕生日のときの写真。よくあるイチゴの誕生日ケーキに立てられた蝋燭を前に、私と父と母、三人で写りこんだものだ。母はそこでもまた、笑っていた。
父さんが戻ってきたのは優香さんと夕食を作っているときだった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「お帰りなさい」
優香さんの顔を見た途端、父さんは不機嫌になる。
「また来てたのか」
「またって何よ」
「別に」
「もう、喧嘩しないでよ。二人ともいい歳して」
仲裁していて気が付いた。父さんの片手には瓶。海に流すため、持っていったものだ。今までそれを持ち帰ってきたことは無い。
「父さん、どうしたの?」
瓶を指差す。
「あぁ、」
父さんは途端、にこやかに微笑む。
「菜摘が帰ってくるんだ」
「は?」
「はい?」
優香さんと顔を見合わせる。
「あのさ父さん、母さん死んだんだよね?」
おそるおそる尋ねる。
「俺がいつそんなこと言った? 菜摘は遠いところへ行ってるって言わなかったか?」
「いや、確かにそう聞いたけど――」
小さく呟く。確かにそう聞いた。けれど、普通それは死んだって事の隠喩なはずで……。
「じゃあ何のために手紙を海に流してたの?」
優香さんの声に勇気付けられる。
「そうだよ、いくら遠くても、海外でも手紙は届くでしょ? 何も海に流さなくても――」
「届かないよ。海外じゃないからね」
「じゃ、どこだって言うのよ。海の中だとでもいうの?」
「でも無いらしい」
父さんは今までに見せたことの無い、謎めいた微笑を浮かべ、
「わからないんだ。どこだか」
もしかして、母さんがいなくなったショックでいよいよおかしくなってしまったのだろうか。
色々問いたげな優香さんを言いくるめ、何とか帰ってもらう。
「あのさ、父さん大丈夫?」
食後の日本茶を淹れながら、そっと父さんの様子を伺う。
「何が?」
答えた父さんはいつもの父さんで――。
「何がって――母さんのこと」
父さんは思案顔をしていたが、やがて、
「そうだな。朱音には話してもいいよな」
何か重大なことを話しはじめる雰囲気。私は固唾を飲んで父さんの次の言葉を待った。
「母さんはな、本物の魔法使いなんだよ」
言われた意味を理解できなかった。景気付けにもう一杯日本茶を煽り、
「母さんが魔法使いだなんて――いつ思いついたの?」
「信じられないのはよくわかるが、母さんは本物の魔法使いなんだよ」
心外だとばかりの顔。
「あのね、魔法使いなんている訳無いでしょ?」
「そうだな、父さんも最初は戸惑ったからな」
話が進まない。
「わかった。じゃぁ、母さんが魔法使いって事で話を進めましょ」
ぶつぶつと呟く父さんを無視し、質問を投げかける。
「どうして海に投げ込んだ手紙が母さんに届くの? 母さんがいる遠いところってどこ?」
「わからない」
ものすごくシンプルな答え。
「は?」
「わからないけどな、母さんがそうすれば手紙が届くって言ったんだ。それと、母さんがいるのは魔界だそうだ」
「意味がわからないし、魔界ってどこよ?」
「母さんがそういってたんだ。魔法使いがいるから魔界だって」
私は大きく息を吐いた。父の事は信頼しているし、とてもじゃないがこんなファンタジーを思いつく人だとも思ったことは無い。かといって、母さんが魔法使いだなんて信じられようか。
「父さんのことが信じられないんだな?」
「うん」
大きく頷き返す。父さんは悲しそうに溜息を一つつき、
「ちょっと待ってろ」
自室から前回の満月の日、海から持ち帰った瓶を持ってきた。
「これがどうしたの?」
「約束したんだ、菜摘と」
「何を?」
父さんは黙ってコルクを抜き、瓶を逆さにした。出てくるはずの丸めた手紙は出てくること無く、小さな、鈴が鳴るような音が響く。
「――え?」
白い欠片、金色の欠片、蒼い欠片。色とりどりの金平糖が湧き出るかのように、テーブルへ落ちる。
「星屑だそうだ」
うっすら光るそれを手にとる。金平糖に似てはいたが、それは宝石のようだった。
三.中島菜摘
親元を飛び出したのは、若気の至りだったのだと今にして思う。
母様は優れた魔法使いで、お婆様は魔界でも名の知れた魔法使いだった。そんな家系に生まれたからには周囲に期待されるのは当たり前のこと。わかってはいても、当事者には辛いこと。
夏の成人の儀式を前にしてスランプに陥ってしまった私は、何とか脱出しようと散々努力をした。けれど、蟻地獄。底なし沼。もがけばもがくほど、無力な自分を知るばかり。
儀式当日、プレッシャーに負け、スランプを脱せず、散々な精神状態のまま挑んだ私は成人に値せずの評価を受けた。前後数日間の記憶が定かでないのは、そのショックの大きさからだろう。
ふらりと家を飛び出し、流星に乗ってたどり着いたのは人間界のある街。若い上、何ができるというわけでもない私は、そこでも己の無力さを思い知らされた。かといって今更、家に戻るわけにも行かない。
困り果て、大きな橋の真中から川面を見つめているときだった。
「何してるの?」
小さな女の子の声。
「え?」
水色のワンピースを着た、おかっぱ頭の少女が私と同じように欄干の隙間から川面を見つめ、
「何を見てたの?」
問い掛けられる。
「――何も」
首を振る。全てが億劫だった。
「朱音、」
男性の声。少女のいる方向から男性がゆっくりと歩み寄ってくる。
「朱音、何してるんだ?」
父親なのだろう。少女に似た面影がある。
「わかんない」
少女は笑って答え、私を振り返る。
「だよね?」
秘密を共有しているかのように笑いかけられる。
「すいません」
男性はなぜか謝る。
「別にかまいませんよ」
「お邪魔じゃなかったですか?」
「彼女の言った通り、特に何を見てたわけでもないんです」
川面を見つめる私の視線の先を探るように、父娘は目を向ける。
「何もありませんね」
確認するような問いかけ。父娘揃って、なぜ、私の見ているものを知りたいのだろう。
「……えぇ」
何だか可笑しくて、笑みを隠し切れず頷く。
「本当に何を見ていたってわけじゃないんです」
ぽつり、にわか夕立。
父娘は嬌声を上げつつ、橋のふもとにある喫茶店へかけてゆく。私は呆然と二人を見送り――父親が戻ってきた。
「何してるんです、急いで」
「あの、私」
「ほら早く」
「でも、あの――」
お金を持っていない、告げる前に喫茶店へ連れ込まれた。降り止まぬ雨を窓越しに眺めながら、彼が早婚したものの今は独身であり、娘の朱音ちゃんと二人暮らしであることを知り、私は行くあてのない身であることを告げたのだった。
なぜか父娘に気に入られた私はほんの数日、仕事が見つかるまで彼の家でお世話になることになった。けれど不景気なご時世、身元がはっきりしない私の仕事先などなかなか見つからず、父娘の世話になる日々はずるずると長引いた。
「結婚してくれないかな?」
「父さんのお嫁さんになってあげて」
二人に頼み込まれたのはクリスマスの日。運命って言葉は好きじゃない。けれど、彼との出会いは運命だったのだ。そうとしか言えない。私は自分でも不思議なほど素直に頷いていた。
「後継者問題が起こりそうなの」
突然電話があったのは、朱音ちゃんを寝かしつけ、近頃帰りの遅い彼をうとうとと待っているときだった。どうして私がここにいることが――尋ねようとして、優れた魔法使いである母にとって、このくらい造作も無いことだったと思い当たる。
「菜摘さん、帰って来られません?」
「……無理です」
私は母に今の状況をかいつまんで伝えた。母は黙って聞いていたが、
「それでもあなたには帰ってきていただかないと。お母様――お婆様はあなたを後継者にしたいとおっしゃられているの」
お婆様の後継者。私が魔界でも屈指の魔法使いであるお婆様の後を継ぐなど、愚の骨頂だ。
「そんなこと――」
「菜摘さん、あなた、あの頃のあなたの状態、本当にスランプだったと思っていらっしゃっるの?」
私は沈黙を持って答える。
冷静にあの頃を思い出せば、確かにスランプというには微妙に違う感覚が付きまとっていたことは否めない。それまでできていた魔法が使えなくなってしまったことにスランプだと思っていたのだが、魔法を使う際、覚えていた恐ろしさや不安――。
「あなたは、一皮向ける寸前だった。私もお婆様もそう思っていたのですけれど」
自分で制御できないほどの魔法力。私はそれに恐れをなしたのだ。そして、それを克服できないまま目を背け、逃げた。それが真実。
「お母様、私は……」
「修行を積めばあなたはお婆様を超える魔法使いになれます。今夜十二時に迎えをやります。それで帰っていらっしゃい」
母の言葉は絶対だ。見習魔法使いでしかない私に逆らうすべなど無い。
私のことなど母も祖母も見捨てているだろうと思っていた。だから、母の言葉はとても嬉しいものだったし、お婆様から期待を掛けられている事実は小躍りしたいくらいだった。魔法使いになること、それは私が物心ついた頃から願い、夢見ていたことだったから。
けれど、二人と分かれることなど……でも。なりたい。願ってやまなかった魔法使いに。母様、お婆様がなれると言うのならば、私はなることができるのだ。魔法使いに。
「あなた、離婚して欲しいの」
いつもながらに幸せそうな顔をして帰ってきた彼に非道だとは思ったけれど、決意が鈍るのが怖かった。
「……え?」
うわの空の彼に繰り返し突きつける。
「離婚していただきたいの」
「……どうして? ――お、おま、う、浮気か? そうなのか?」
回らぬ頭で、あらぬ想像を働かせているらしい。
「違います」
私の言葉にそれでは――と頭を抱えていたが、やがて考えつかれたのか、
「と、とりあえず飯を食ってからにしよう」
「で、なんで離婚なんだ?」
食後の日本茶を啜りつつ、彼が問い掛ける。
「母から戻って来いと言われたの。私の家はね、地元じゃ有名な古い家柄なの」
今まで一度も話さなかった身の上話。彼は先を促す。
「相続の問題が起きそうだからって……」
嘘を並べ立てなければいけない自分が嫌になる。彼は黙って茶を啜る。
「――だから私に帰って来いって……」
「菜摘の実家なら、僕も一度挨拶に行かないと――」
「無理よ」
首を振る。
「とっても遠いところにあるのよ。だから――」
「いや、でも、地球の裏側とかじゃないだろ?」
冗談めかした口調。なんと説明しようか、考えあぐねたものの素直にはなすことにした。彼ならばどんな内容だろうと信じてくれる気がして。
「あのね、私、隠してたことがあるの」
「何?」
不安そうな顔。その顔をしなければならないのは私のほうなのに。
「私、魔法使いなの。本物の」
彼は不思議そうに首を傾げ、
「魔法使い?」
「そうなの、私、本物の魔法使いなの」
見習だけど、と小さな声で付け足す。
「……」
「信じてないでしょ?」
大きく頷く。
私は呪文を唱え、星屑をいくつか取り出してみせる。とても簡単でありふれた魔法だけれど、彼はそれで納得してくれた。しげしげと星屑の欠片に見入っている。
「信じてくれた?」
「――ま、ちょっと」
星屑をこわごわ、触りながら頷く。
「私の実家は魔界では――魔法使いのいる世界のことをこう呼んでるんだけれど――名のある家柄なの」
「……」
混乱した顔で頷く。理解できなくても、理解しようと努力してくれている。本当に私にはもったいない人だ。
「祖母は魔界でも高位の魔法使いなのだけれど、私に後を継がせたいって」
「へぇ」
感心したって声。
「でも私、まだ一人前の魔法使いじゃないの。一人前の魔法使いになるための試験に落ちてしまって――あなたと出会ったのはその頃なの」
あの頃の自暴自棄振りを思い出すと苦笑するしかない。
「魔法使いになることは、私の小さな頃の夢だったの」
彼はことりと湯飲みを置く。
「で、なんで離婚しなきゃならないんだ?」
「なんでって……私、もうこちらの世界には戻ってこれないかもしれないから……」
彼は大きく息をつく。
「もし、かもしれないだろ?」
「でもそれを決めるのは私じゃなくて、お婆様なの。私が一人前の魔法使いになれば、お婆様は私をきっと跡目にされるわ」
「だからって、なんで離婚しなきゃならないんだ?」
彼はしつこく尋ねる。
「一緒にいられないのよ?」
「それだけか?」
彼はほっとした様子で、
「菜摘が単身赴任してると思って、こっちで朱音と待ってる。君が帰ってくるまで、ずっと待ってるから」
なんと言えばわかってもらえるだろう。言葉を捜す私に、彼はいつもの優しい笑みで言った。
「初めて会ったときから、ずっと変わらず好きだよ」
口癖のように繰り返し聞かされる言葉。何度聞いても恥ずかしくて、うつむく私の顔を覗き込み、
「菜摘は?」
「――わかってるでしょうに」
そっけない言葉を返しても、彼は満面の笑み。
「菜摘は帰ってくる、だろ?」
帰ってきてもいいのだろうか。いつになるかわからないのに。
「菜摘、帰ってくるよな?」
「……えぇ」
なぜか涙が溢れてくる。
「連絡はとれる?」
無理だと首を振る。魔法使いがこちらの世界に干渉することはできても、人間が魔界に干渉することはできないから。
「あ、でも、もしかするとボトルレターならば可能かもしれない」
「ボトルレター?」
「手紙を瓶に入れて海に投げ入れてくれれば恋愛ごとの好きな人魚達が届けてくれるかもしれないから」
「人魚? 人魚って存在するの?」
唖然とした顔の彼。可笑しくて笑える。
「満月の夜はね、魔界との出入り口が開くから」
人魚は物語に何度も登場しているというのに、どうしてその存在を忘れるのだろう。それとも、忘れてしまうのだろうか。胸の中に不安が広がる。
「菜摘、俺は待ってるよ、ずっと」
彼の言葉は力強い。
「ありがとう――」
十二時を告げる鐘の音がどこからともなく聞こえた。
「時間だわ」
さよならの言葉を言う間もなく光に包まれ、私は魔界にある生家の玄関先にたたずんでいた。そして、迎え入れるように、扉が開く――。
四.中島朱音
母さんの好きな花を買い、食材、食器を買い込んだ。両手に持ちきれないほどの荷物を持って家にたどり着く。荷物を解きかけたところで、
――ピンポーン
来客の音に、玄関を開ける。
目の前に立つのは戸惑い顔の女性。よく見知った、少し老けてはいるけれど懐かしい顔。
「……朱音ちゃん?」
言葉も無くただ立ち尽くす。どう声を掛けていいものか、どんな言葉を掛ければいいものか思い浮かばない。言いたいことは山ほどある。罵りの言葉、喜びの言葉、どれから言えば良いのだろう。
「誰が来たんだ?」
父さんが顔を覗かせ、
「……菜摘!」
「っきゃ」
「痛い、苦しいぃぃ」
感涙とばかり私を巻き込んで抱きつく。何度も母さんの名前を連呼し、
「お帰り」
泣き始めた父さんに、母さんは写真同様、極上の笑みを浮かべる。母さんも同じ思いでいたんだってこと、私は初めて理解した。
「お帰り、母さん」
ぎゅっと抱きつく。母さんは泣きながら私達を抱き返した。
「――ただいま」
終
『リアルマジシャン』をご覧いただきありがとうございました。
04/11/11 この作品は突発性競作企画第9弾 「Real Magician」に参加してます。お題を出しといてなんですが、なかなかネタが思いつかず、かといって書かないわけにもいかず…最初はコミカルな高校生の恋愛ものを書こうとしてたのだけれど、なかなか話が膨らまず、次に女探偵と魔法使いのばかばかしい話を書こうと画策するも話が進まず、結局「奥さまは魔女」しかないなぁと。久々に小説書いたもので、文章的にも、流れ的にもなんだかめちゃくちゃで、毎日ちょこちょこ書き直し――で、一週間くらいつついてたんですが、(その間に松井優香さんが同僚だったり、元奥さんだったり、叔母さんに落ち着いたりと色々しましたが)何とか、話はうまいことまとめられたんじゃないかと。
いつも愚痴ってるような気もするけれど、短くまとまってる小説ってものが好きなので、このネタならば長くても30枚以内と決めて書き始めました。枚数的には収まっているのだけれど、やはり、どこか無駄な部分が多い気が。かといって削るのも惜しいので、そのままなわけで。優柔不断はよくないなぁと思うけれど、改めないあたりが優柔不断なんでしょう。タイトルはまったく思いつかなかったので、そのまま使用。タイトルと中身がずいぶん違う気もしないわけではないけれど。
2006/06/11 改稿
2012/01/18 訂正