死神

 ――空は灰色、曇り空
 ――僕の心を映したように
 ――冷たい雨が、街を濡らす……

 聞こえてきたのは古い歌だ。
 哀しく、死にたくなるようなメロディーに、暗い歌詞。
 半世紀ほど前に発表されたものの、すぐに封印された忌わしい歌。

 左手の赤い屋根をしたカントリー風の家に目をやる。
 音の発生源はここだ。
 物悲しい女の、悲鳴のような歌声が辺りに響いている。

 白いレースのカーテンが風に揺れる。
 その向こうに女の姿があった。揺り椅子に腰掛け、無表情に見つめているのは古い写真。
 じっとその写真を見つめ、レコードに合わせ、あの歌を口ずさんでいる。

 私は静かにドアを開けて彼女のそばへ近づいた。
「ご主人か?」
 そっと声をかけるが女は振り向かない。
「どうして君は生きている?」
 こんな表情をした人間が考えていることは、ただ一つ。
 女は初めて私の存在に気づき、
「あら……あなたはどなた?」
 瞳は私を映していない。女の声は虚ろに部屋に響くだけ。
「君は私を待っていただろ?」
 女は不思議そうに首をかしげる。
「死神だよ、君は私を待っていた。だからあの歌を歌っていたんだろ?」
 凍らせていた感情が溶けるように、女は柔らかな笑みを浮かべる。
「まぁ……そうでしたの」
 仕事ではないけれど、あの歌を口ずさんでいる人間に私は死を与えてやっている。
「どんな死が望みだ?」
「……彼の元へ行けるのならばどんなものでも」
 日に焼けた写真へ目を落とす。
 男は――事故死だ。大量の血を流し、助けも呼べず、寒さに震えながら死んでいる。
 脳裏にありありと浮かぶ男の死の情景。
「わかった。用意するから、一時間ほど待っていてくれないか」
 女を残し家を出た。

 二つ先の町で、電車から降りる。
 この街には死神専門の刃物屋がある。量販店などで大量販売されているようなちゃちな刃物ではない、人を殺すために作られた刃物が売られている。
 顔なじみの店員に女のイメージと伝えると、数本の刃物を出してきた。
「これがいいな」
 目を留めたのは、一番シンプルなデザインのもの。柄が赤く、あの家に住む女には似合っているだろう。
「これをもらう」
「はいよ、お代は上に?」
「いや、今払う」
 仕事ではないから、上から金は出ない。
「趣味もいい加減にされないと――」
 笑いながら、少しまけてくれた。給料の半分はこの店につぎ込んでいるものだから、店員は毎回、妙に優しい。
 浮き足立つ足をなんとか地に付け駅へ向かった。

 電車は多くない。
 女の家へ戻るための電車は三十分ほど後になるようだった。もう少し街をぶらついてくるんだったな。思いつつもホームのベンチで新聞を広げた。
 これから女を殺すのだと思うと、どうにも落ち着かない。
 電車はまだ来ないのだろうかと目を上げた瞬間、若い男と目が合った。
 あの目だ。
 死にたがっている人間が見せるくすんだ輝きをした瞳。
 思わず男に近づき、ぽんと手を肩に乗せるような調子で心臓を一突き。
 男は混乱した表情をしたものの、自分の胸に目をやり、突き立った赤い柄のナイフと私の瞳を見比べた。
「死神だ」
 私が名乗ると、納得がいったのか安らかな微笑を一瞬浮かべ、崩れ落ちる。
 魂が肉体から抜ける。
 私はそっと空を指し、行き先を告げる。
 魂はふわりふわりと風に揺れながらゆっくりと上って行く。

――ひ、人殺しィィィ!

 上ずった声が辺りに響く。
「しまった」
 女の血を吸うはずだったナイフは男の胸に深々と突き刺さっている。
 これを抜いたところで油にまみれたナイフは殺傷能力が鈍る。死にゆくものには良い刃物を使ってやりたい。
 しかたない、もう一本新しいナイフを買おう。
 私はホームを後にした。

 二十分ほどして戻ってくると、駅は混乱の渦の中にあった。
 人々が顔を見合わせながら、殺人だ、通り魔だと口に上らせる。電車には用のない人間も多く、混雑する人ごみの為に先ほど待っていた電車は乗り過ごしてしまった。
 腹立たしく思いつつも、誰にも目を合わせないようにして、じっと時間が過ぎるのを見る。先ほどのようなことが再びあってはいけない。

 二時間もかかってようやく女の家にたどり着く。
 家の中からあの歌は聞こえてこない。
 先ほどまで居た、道に面した部屋に女は居なかった。女を捜して部屋を覗く。
 血の臭い……
 水の音に混じって、呻くような女の声。
 切れ切れの音は、あの歌だった。
「ここか」
 浴室。
 浴槽で、赤く染まった湯とともに彼女がいた。
「遅いじゃない……」
 力ない声。
「すまない。だがこれを見てくれ」
 女にナイフを見せてやる。最初に買った赤いナイフよりも一回り小さなナイフ。黒い柄には赤いガラスが数個埋められている。
「……綺麗ね……」
「だが、必要なかったようだね」
 女の手から滑り落ちたらしい包丁に目をやる。
「……見て。綺麗な……色……」
 赤い湯を震える手で救い上げる。
「美しい色だ」
 死の淵に立ち会える喜びを噛み締める。
「……ねぇ……歌……って……」
 女は痙攣をはじめる。
 死の淵に近づいているのだ。
 私は低い声で、歌を歌い始める。

 ――空は灰色、曇り空
 ――僕の心を映したように
 ――冷たい雨が、街を濡らす

 女の瞳孔は開いていき、

 ――明日は暗い 闇の底
 ――時計は時を刻まない
 ――あの日から あの日から

 痙攣がぴたりと止む。

 ――哀しみは永久に
 ――君が死んだあの日から
 ――哀しみは永久に……
 
 女から魂が抜ける。
 恐る恐る、本当に自分が死んだのか確かめるように。
 私は空を指差す。
 魂はゆらゆら揺れながら、漂うように去ってゆく。

 胸いっぱいに血の臭いを嗅ぐ。
 むせ返るような死の臭い。
 この臭いが好きで惨殺された魂専門の死神をやっているやつも居ると聞くが、私は違う。
 魂が抜け出す瞬間。
 私はその瞬間を見るのが好きなんだ。

『死神』をご覧いただきありがとうございました。〔04/04/02〕

気色悪い…。書いてて気持ち悪くなりました(おい
シャンソンに『黒い日曜日』という自殺者が出たことで一時期禁止された歌がありますが、ここで登場してる歌とは関係ありません。私の創作です、全て。

2004年04月12日 改稿。
2006年06月11日 改稿。改めて読み直してもやっぱり気持ち悪いな、この小説は。「自殺」と言うのが、どうしても気持ち悪くて仕方が無いのですね、私にとって。でも、これは書き直すことができないのです。後半が直視できない為にと言うか…。
2012/01/18 訂正

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