一つの家族

 目覚まし時計が鳴る前にストップボタンを押す。世界中で目覚ましほど嫌らしい音は無いと思うんだけど、節子――セツがいつもセットして寝てしまうものだからどうしようもない。音が鳴っても起きないのならば、使わなきゃ良いのに。
 ジーパンにTシャツと手早く着替えて、ロングの髪をポニーテールに結い上げ、エプロンを羽織る。
 みんなはまだ夢の中。
 あたしはキッチンに立って、朝食とお弁当を手早く作る。いつも私って料理の天才じゃないかって惚れ惚れする腕前。スピーディーで美味しく、品数も多い。
「おはよー、梓ぁ」
 寝ぼけ声で美由紀が目を覚ます。あたしがせっかく整えた頭をぐしゃぐしゃとかき回し、ツインテールにしようと悪戦苦闘。
「美由紀、朝ご飯」
「梓ぁ、髪くくって」
 まったく我がままなお姫様だ。絡まった髪を手櫛で整え、一つにまとめる。
「二つに結んでよぉ」
 可愛らしくふくれっつら。
「だめ。早くご飯食べて。確かセツ、朝起きて宿題するって言ってたから、今日は起きるの早いよ」
「セツが宿題なんてやるわけないじゃん」
 ぶつぶつ言いつつも素直に朝食を食べ始める。
 トーストにたっぷりオレンジマーマレードを塗って、コーヒーにはたっぷりミルクとシュガー。オムレツにトマトケチャップをかけたところで、
「ねぇ梓ぁ、わたし目玉焼きが良いなぁ」
 甘えた声を出す。
「昨日、オムレツ食べたいって言ってたじゃない」
「だってぇ、目玉焼きが食べたいって思ったんだもん」
 作ってから『だって』と言われても。けれど美由紀が親の敵のような目でオムレツを睨みつけているので、
「わかった。明日作ってあげるから、今日はそれ食べなさい。もったいないでしょ」
 妥協案を持ち出す。けれど嫌々と首を振り、目玉焼きを作ってとわめき散らす。朝から鬱陶しい。
「もぅわかった。わかったわよ。作るから静かにして!」
「わーい! 梓ぁ、だから好き!」
 まったく。天使のような笑顔をされれば、ついついあたしも甘い顔になる。ああ、あたしってつくづく健気……。
「……ぁのさあ、ほっときゃ良いじゃん」
 だるそうな声をさせながら、慧が現れる。寝起きの癖に手にした煙草に火をつけようとするのをあたしは止める。
「言ってるでしょ? 子供が居る前で煙草、吸わないでって」
「……美由紀のどこが子供だよ。いい加減親離れしてもいいと思うけど? あ・づ・さ・ちゃん」
 あたしが『ちゃん』付けされる事が嫌なことを知っていて言っているのだ。慧は子悪魔的な笑みを浮かべる。
 まったく慧といい美由紀といい……。
「梓ぁ、目玉焼きはぁ?」
 美由紀の声で我に返る。いけない。まだ出来てない。
「ごめん、美由紀。もうちょっと待って」
「セツ、そろそろ起きそうだよ?」
「本当に? セツ、朝起きるの苦手なのに宿題ってそんなに切羽詰ってるわけ?」
 言いつつもフライパンを火にかける。フライパンはまだほんのり温かかったから、すぐにバターが溶ける温度になる。熱くなったら卵を割って、白くなり始めたら、弱火にして蓋をする。
「梓ぁ、セツ起きそう。私の目玉焼き食べられちゃう」
 美由紀は今にも泣き出しそう。でも、そんな顔も可愛い。
「もうちょっと待って、中まで火が通ってるのが良いんでしょ?」
 料理を作るのに焦りは禁物。
 タイムアウトは突然訪れる。
「梓ぁ、今度絶対絶対ぜっっっっったい、目玉焼き作ってね!」
 涙声で叫んで美由紀は寝始めた。
 セツはまだ、まどろみの中にいる様子で、ぼぉーっと視線をさ迷わせている。いつも寝起きは良くない。
「ったく、やっとお子ちゃまが寝たか」
 慧は煙草に手を伸ばす。
「煙草を吸わないでって言ってるでしょ!」
「子供は寝たんだし良いだろ?」
「そういう問題じゃないの」
 煙草で肺がんになった人の肺、なんてグロテスクなものを見せられてからは私にとって煙草は敵だ。慧と蘭子さんの喫煙でどれだけ私の肺が黒くなっているものか、想像もしたくない。
「ったく、ばばぁみたいなこと言うんじゃねえよ。まったくお堅いヤツだな……」
 文句を言いつつも煙草をしまってくれる。根は素直な良い子だ。
「そろそろおばさんの来る時間だな……俺は寝る」
 ひらひらと手を振って眠ってしまう。
 私は大きくため息をつく。
 やっと焼きあがった目玉焼きを皿にとり、食べようとしたところで、
「セツー起きてるぅー?」
 朝から近所迷惑な声。お隣に住んでいる、セツのおばさん――お父さんの妹さんだ。とは言ってみても、セツよりニ歳年上。けれども同じ大学の同期生だったりするんだが。
 あたしは玄関に向かいながら、
「はーい」
 声を返す。この人、あたしとセツの区別がついてない。
 玄関を開けると笑顔全開で彼女が立っていた。いつもの朝食たかりだ。
「おはようございます」
「おはよ! ご飯、ある?」
 尋ねてはいるが勝手に上がって台所に向かってるし。あたしは小さくため息をつきつつ後を追う。セツのために我慢してこの人と付き合っているんだが、顔を合わせるたびに腹立たしくて仕方ない。
 彼女は勝手に座って勝手に朝食を食べる。
「セツは料理美味いよね、どこで習ったの? 絶対良いお嫁さんになれるよ」
 食べものを口に含んだまましゃべらないでほしい。
 唾や食べかすが飛ぶから食事中に話をする人間は大嫌いだ。それは慧も一緒らしく、寝るといっておきながら、隅から殴りたそうに彼女を見てる。
「仏語の宿題やった?」
 それをやるためにセツは早起きしようとしてるみたいだけど、まだまどろみから抜けきれてない。
「あんた今日当たるでしょ? 私も当たるかもしれないから、やってたら見せてくんない?」
「……ごめんなさい、まだしてないです」
 仏語って確か教授が厳しくて、宿題やらなくて単位取れなかった先輩がいるとかいないとか……。
 問題後回しするその癖直さなきゃ大学卒業なんてままならないよ、とセツに面と向かって言ってやりたい。
 まだまだ夢心地のセツが宿題なんて出来るわけ無いから、いつも通りあたしがしなきゃならないんだろうなぁ。
「セツ、そんな心配しなくても大丈夫よ」
 何を根拠にしてか、おばさんが励ましの声をあげる。この人も悪い人じゃないんだよね、根本的には。かなりずうずうしいだけで。
 お腹が良くなると、かたずけもしないで帰っていく。宿題できたら見せてね、の一言を忘れずに。かたずけくらいしないと結婚できないわよ、おばさん。

 ささっと食器をかたずけて、仏語の直訳に試みる。今日やる予定の範囲は……三ページ? セツ、逃げすぎ。どうして一週間も放っておいたのよ、まったく。
 泣いていても始まらない。あたしは黙々訳していく。料理と一緒で、勉強も得意だったりするものだからこういう時、逃げようと思わない自分が嫌いだ。
 まどろみの中にいるセツが徐々に覚醒を始める。それと同時に地の底から響いてくる、官能的な声色――
「私が……何時までも一緒にいてあげる……」
 魅惑的な音色で囁きかける女性の声。
「ちょっと、蘭子さん!」
 いつもいつもセツを誘惑して何が楽しいのだろう、この人は。頭が痛い。
 蘭子さんは眉間に皺をよせ、
「あら、何がいけないのかしら?」
 魅力的な女の唇。蘭子さんが手櫛で整えるストレートの黒髪は、彼女の美しさを際立たせるための小道具として存在しているとしか思えない。
「……だから……ですね」
 口篭もる。毒っ気にあてられないよう眼をそらし、宿題に没頭する。
 宿題もほぼ終わりかけた頃、セツが目覚める。時計を見やると、いつもと同じ時間。まったく、いつもより長くまどろんでいただけじゃないか。
 目覚めたセツはだるそうに着替える。ごてごてした飾りのついた黒のブラウスに、ふわふわの黒のスカート。ジャラジャラと重い鎖を腰に巻き、濃すぎるメイク。
 この格好で出かけるんだから、まったくやりきれない。
 セツはデジタル時計に目をやって、今日の日付と時刻を確認し、教材と私のやった宿題を鞄代わりの小さなトランクに詰め、お弁当を忘れずに手に持って玄関へ向かう。
 背の高い編み上げ靴に手間取っていたけれど、目覚めて一時間ほどで出かけられたのだから今日は良いほうか。

「おい」
 アパートを出たところでセツを呼び止める男の声。
 途端、セツは震え始める。
「その格好は何なの」
 女の声。
 二人とも怒気を押し殺したような声だが、本当に怒っているわけではない。
 けれどセツは恐怖のあまり意識を失う。
 あたしはセツが倒れないよう支えながら、ゆっくりと振り返る。忘れたくても忘れられない。この二人の声は。
「――何だよ」
 睨み付ける慧。
「相変わらず反抗的だな」
「まったく、何も変わっていやしないじゃないの」
 セツの両親はもう一人の人間に鋭い目を向ける。セツのカウンセリングをしている高橋範子さんだ。
 淡いピンクのサマーセーターを着た彼女は穏やかな顔で、
「半年やそこいらで変わるほど、彼女の症状は軽くはありませんよ」
 二人を真っ向から見やる。
 男は面白くなさそうに目をそらし、
「役にたたんな」
 胸元からタバコを取り出す。
「あれが報酬に見合う仕事だと思うの?」
 娘を『あれ』だなんて物のように扱うのはどうかと思う。
 今にも殴りかかりそうな慧を何とかなだめながら、私は高橋さんを見る。この場を何とかしてくれるのは彼女しかいない。
 私に力強く頷き返し、彼女はセツの両親と対峙する。
「お二人はカウンセリングに行かれています? 最初にそうお約束していましたよね?」
「私は暇じゃないんだ」
「そのような時間を割く余裕はありません。あなたはもう結構、別の者を探します」
 女はセツを捕らえようと手を伸ばす。
「待ちなさい。彼女は私の患者です」
 セツを守るように立ちはだかる。
 外見の優しい雰囲気に騙されて、彼女の強さに気づかない人間は多い。彼女は誰にも屈しない強さを持っている女性だ。
 数分対峙していたが、二人は捨て台詞を吐き残して帰ってゆく。

「ごめんなさい」
 二人の姿が完全に見えなくなって、高橋さんは神妙に謝る。
「落ち着くまで二人には節子さんには会わないように言っていたのに、いきなりなんだもの」
「今まであの二人が顔を見せなかったってだけでも、高橋さんって凄いわよ」
 セツの両親って強引で我がままで『親』には絶対に向いてない人種。そんな下に生まれたセツはあまりにも子供で、純粋すぎた。彼女が壊れるのに時間なんてかからなかったし、壊れてゆく娘に二人は気づきもしなかった。
 慧が切れて、二人に殴りかかるまで。
「あいつらいつ見てもムカつく」
「あら慧君? 久しぶり」
 高橋さんは私たちを見分けることが出来る唯一の人。
「でもあいつら言ってたことで一つだけ当たってることがある」
 誰に対しても敵対心剥き出しな慧だけど、高橋さんにはちょっと強がってるような生意気さ。
「何?」
 高橋さんは嬉しそうに尋ねる。聞かないほうがいいと思うんだけど。
「仕事してないって事」
「ちょっと、高橋さんに失礼でしょ」
 慧は構うことなく懐からタバコを取り出す。
「何でセツがタバコなんて持ってんのよ」
「これ、蘭子のタバコ」
 慧は銘柄を胡散臭げに見やる。慧は銘柄にこだわってないみたいだけれど、蘭子さんの好物である甘ったるい味のタバコはダメらしい。
「仕事してないわけじゃないのよ」
 やんわりと慧のタバコを取り上げて、高橋さんは言葉を続ける。
「節子さんは精神的に成長しようって思ってないでしょう? 都合が悪いとすぐに逃げてしまう……彼女の精神を成長させなければいけないんだけれど、蘭子さんが――」
「アイツか」
「蘭子さんは苦手なんだよね」
 深くため息をつく。
 私が気づいた時には蘭子さんってもうセツの隣にいた。甘く痺れるような声色でセツを誘惑していた。
 彼女が何をしたいのか、何をしようとしているかなんて私にはわからない。彼女はセツ意外とは話をする気が無いらしく、たまに話し掛けると腹立たしげな様子を見せる。
「蘭子さん、彼女が鍵よ」
 高橋さんは強い調子で言う。
 あたしたちもそうだろうとは思うんだけれど、セツと蘭子さんの絆はとても深いところにある。あたしたちでは入り込めないようなところに。セツがまどろんでいる時、たまにその片鱗を見ることは出来るけれど……。

***

 慧が暴力をふるった翌日、セツはカウンセリングに通うことになった。けれどセツの母親に連れて行かれたのは結局私で、長年培っていた演技力で切り抜けようとしたんだけれど……高橋さんは優秀な人だった。
 私がセツじゃないって事をカウンセリングニ回目には見破り、
「あなた、誰? 節子さんじゃないでしょ?」
「何を言い出すの? 私はセツよ」
「あなたは節子さんじゃない。節子さんは右利きよね? あなたは無理して右利きの振りをしている。書体も似せようとしている努力は評価してあげるけれど、これは節子さんの字じゃないわ」
 ずいぶん練習してるんだけど。こうもあっさり見破られたんじゃ意味が無い。
「……高橋さんって優秀ね」
 思い切ってあたしは正体をばらすことにした。
 高橋さんはなんとなく信頼できる気がしたから。セツの母親が診療に立ち会うって言った時に、やんわりとだけれど頑なに断っていた態度が気に入ったってこともある。セツの母は大嫌いだ。一秒だって同じ空間にはいたくない。
「じゃあ、あなたは誰なの?」
 それまでと同じ声色で高橋さんは問い掛けてきた。優しくて、信頼できそうな、そんな声色で。
「あたしは梓」
「はじめまして、じゃないのか。前回もあなただったわよね?」
 伸ばされた手にあたしは手を重ねる。あたしがセツとして握手することはあるけれど、あたしがあたしとして握手したのは彼女が初めてだ。なんだか不思議な感じ。
「節子さんはどうしているの?」
「どうって……」
 どう説明しようかと考え込んでいると、
 蘭子さんがゆっくりと椅子にかけなおす。値踏みするような眼で高橋さんを見る。結構失礼な態度なんだけれど、蘭子さんがすると妙に色っぽくしか見えない。
「あなたは?」
 あたしじゃないことに高橋さんはすぐに気づく。
「私は蘭子」
 妖艶にほほ笑む。
「節子さん、出てきてくれないかしら?」
 辛抱強く高橋さんは問い掛ける。蘭子さんの目を見て話が出来る人間を始めて見た。
 蘭子さんはうっすらとほほ笑み、
「セツには会わせない」
「ちょっと、何言ってんの?」
 あたしが声をあげるのも無理はない。この体はセツのものだってことは蘭子さんよく知ってることだから。
 蘭子さんは意外なことに読書が好きで、精神とか心とかそんな本をたくさん読んでる。あたしがセツのふりをはじめたのも彼女に言われたからで……そんな彼女がセツにカウンセリングを受けさせないなんて変だ。
 蘭子さんは言いたいことだけ言ってしまうと、姿を消してしまった。
「蘭子さん? 蘭子さんってば……おーい」
 声をかけても返事が無い。眠ってしまったんだろうか。

 蘭子さんの宣言通り、セツは高橋さんの前には姿を見せない。蘭子さんとセツの間には妙な絆があって、誰もそこに入り込むことが出来ない。二人が何を考えているのか、あたしでもわからない。
 そんなこんなでカウンセリングはひたすら私と高橋さんのおしゃべりの場と化してしまった。たまには高橋さんから精神や心についてのお話を聞いているけれど、それもおしゃべりの域を出ない程度の簡単なもの。そんなものだから慧が仕事をしてないだなんて失礼なことを言うのもあながち的外れじゃないわけだけど。
 それにしても、何で高橋さんにセツを会わせられないんだろう?

 ポタン――

 水の音に目を覚ます。
 体がだるい。それに、寒い。
 時計を見ると、お風呂に入ってから一時間は経ってる。お風呂のお湯もずいぶんぬるくなっちゃってるわけだ。
 追い炊きしようと手を伸ばしかけて、
「――嘘っ」
 ぞぞっと背中が寒くなる。
 湯船は真っ赤に染まってる。それがあたしの血だと気づくまで時間はかからなかった。左腕は血が抜けて色が白くなり、感覚も無い。
「あずさぁ……」
 美由紀がほっとしたような声を上げる。恐い目に会うのはいつも美由紀。
「セツと蘭子がぁ」
 言いつつも泣きじゃくる。
「もう大丈夫よ。恐かったね」
 ぎゅっと抱きしめてあげたいけれど、そんな力も入らない。腕の付け根に手を当てて止血を試みるけれど、ふらつくだけ。
「ったく」
 その声に顔を上げる。目の前の鏡には怒った顔の慧が映っていた。
「けぃ……」
 助けを求める。
 慧もだるそうにはしているけれど、何とか止血をして湯船をあがる。さすがは男の子。こういうとき頼もしい。
 携帯の元にたどり着き、高橋さんに電話を入れる。
 ワンコールで高橋さんは出てくれた。
「助けて、セツが手首切った――」
 聞き取りにくいか細い声。
 どうか高橋さんに伝わってますように――祈りながらもあたしたちは暗闇に飲み込まれる。蘭子さんの笑った顔が、一瞬見えた気がした。

***

 消毒薬と一定間隔に聞こえる電子音。
 あたしは目を開ける。
 白い天井。簡易なベッド。あたしの枕元には高橋さん。
「良かった。気が付いて」
「……助かった」
 安堵のあまり目頭が熱くなる。
「二人にはまだ連絡して無いの」
 連絡したところですぐ来るとは思わないけれど。
「有難う」
 礼を述べる。セツの両親は嫌いだ。それにこんなこと知ったらカウンセリングくらいじゃ済まないだろう予感もある。
「ったく」
 慧が動かない左腕を何とか動かそうと試みるが、まったく動かない。
「腕、大丈夫?」
 高橋さんに尋ねる。あたしの利き腕である左腕がこんな状態じゃ何も出来ない。
「発見が早かったからそれでも良いほうだそうよ。でも、リハビリしなきゃ動かないだろうし、ちょっと障害が残るかもって」
 こういう風に率直に言ってくれるから高橋さんは好きだ。
「じゃ、右腕使えるように頑張らなきゃダメね」
 セツの振りするために訓練してて良かった。
「なんでセツと蘭子は――」
 慧が腹立たしげな声を上げる。
「怒らないで。ただでさえ血が足りないんだから、貧血起こすわよ」
 高橋さんが慧の言葉をさえぎる。
「節子さん、蘭子さんと話がしたいんだけれど」
「会わせてあげたいけど、あたしにも慧にも美由紀にも無理よ――」
 二人は深いところにいる。二人がどんなことを考えているのか、あたしたちにはわからない。
「ためらい傷が無かったって、先生が不思議がってたわ」
 高橋さんが話題を変える。
「蘭子さんか、セツが美由紀の腕を切ったの。だからよ」
「蘭子だよ。こんなことすんのは」
 美由紀が傷つくと慧はすごく怒る。
「美由紀ちゃんは大丈夫?」
「すごく恐がってる。だから当分、美由紀は出てこないよ」
 蘭子さん、今までにも美由紀にいろんな恐い目にあわせてきたけれど、セツの体を傷つけるようなことはしなかった。
「蘭子さん、力が――影響力が強いの?」
 あたしはうなづく。
「蘭子さんに言われて、私はセツのふりを長い間していたの」
 あたしも慧も美由紀も、だれも蘭子さんにはかなわない。普段はあたしが外に出ていて、慧や美由紀は部分的に現れるだけ。セツが出てくれば引っ込むしかないわけだけど、蘭子さんは自由自在に出ることが出来る。セツを引っ込めることも。
 それにあたしや慧や美由紀はお互いの様子がある程度ならわかるのに、セツや蘭子さんの様子はまるでわからない。二人が何を考えているのかも。
「蘭子さんの目的ってわかる?」
「目的……?」
 高橋さんの言葉をそのまま返す。蘭子さんが何のために高橋さんとセツをあわせないようにしているかって事だろうか。
「わかりません」
「前に『蘭子さんはセツを誘惑してる』って言ってたでしょ? 蘭子さんはなんて言ってるの? 梓はどうして誘惑してると思ったの?」
「どうしてって、『私はずっとあなただけの味方よ、私だけはあなたのそばにずっといてあげる』ってよく言ってるから――」
「気持ちの悪い声でな」
「あら、人を惑わすような声色よ」
「二人とも落ち着いて」
 高橋さんはあたしと慧をなだめにかかる。
「今日はとりあえずこれで帰るわ。また明日、話をしましょう」
 まだまだ話はしたかったけれど、確かに体調は良くない。どうしようもない倦怠感と眠気。眠りたいけれど、頭の芯のほうは妙な興奮状態で眠れそうも無い。
「ったく」
 慧の怒りは収まらない。
「慧、もう寝よう。明日考えよう」
 高橋さんが言ってた蘭子さんの目的が何であるかってこと。
「うるせぇ、美由紀がどうなってもいいってのか!?」
「蘭子さんが何を考えてるかわからない限り、どうしようもないでしょ?」
「蘭子、蘭子、蘭子! アイツに美由紀を傷つける権利があるってのか? 美由紀も俺もお前も。蘭子とセツの為にいるわけじゃねぇ」
 頭がくらくらする。吐くものも無いのに、吐き気が止まらない。
 慧の怒鳴り声を聞いた看護婦さんがやってきて、注射しながら、
「大丈夫ですよ」
 優しい笑み。
「……美由紀……」
 私だって護りたいんだよ、慧。

「梓!」
 慧の怒声で目が覚めた。
 思い切り声を上げたものだから体がふらりと揺れる。
「馬鹿、しっかりしろ」
 錆びた手すりに手を伸ばす。
 青い空に爽やかな風。眼下には駐車場。タバコの箱くらいの車が数台。
「……どこ、ここ?」
「病院の屋上」
「あたし、何してんの?」
「身投げ」
 慧が何を言ってるのか、理解するのに数秒の時が必要だった。
「――身投げって自殺?」
「あぁ。セツと蘭子のやつだ」
「……助かったぁ。慧、ありがと……」
 柵の内側にようよう戻って、コンクリートの床にへたり込む。転落防止用の高い柵を良く越えたもんだ、蘭子さんとセツ。変に感心しながら。
「なんでこんなことになってるわけ?」
 いつも一番最初に起きて、一番遅くまで起きてるのもあたしだったはず。あたしより先にセツや蘭子さんが目を覚ますなんて考えられない。
「お前、セツのことで知ってることあるだろ」
 慧が低い声をあげる。いつも怒ってばかりの慧だけれど、声を張り上げない怒り方はいつもより恐い。
「あたしが何を知ってるの?」
「蘭子が言ってた。お前も知ってるって」
「――何を?」
 あたしは本当に心当たりが無かった。
「お前も……セツが自殺することには賛成してるって蘭子が言ってた」
「それは――」
 確かに以前、そんなことを言ったことがある。でも、それはセツが死ねばいいことであって、この肉体が死ねばいいって事じゃない。あたしはどんなに願ってみても、この肉体にしか存在できないわけなんだから。
 違う。蘭子さんが言ってたのはそういうことじゃない。
 忘れていた記憶。
「セツに死ねばいいと言った」
 ポツリ、言葉を吐き出す。
「セツは蘭子さん以外はどうでも良いって言うの。誰も要らないって。いつまでも一緒だよって言ったのに……」
 哀しい思い出。
 蘭子さんはセツの優しいお姉ちゃん。あたしはセツと同い年のお友達。
 何度も一緒に幼く孤独なセツと遊んでいたのに、いつの間にか私は仲間外れになってしまった。セツは蘭子さんばかりと遊ぶようになってしまい、ある日、あたしは言ったのだ。
『セツなんていなくなればいい。そうすればあたしはお姉ちゃんと遊べるのに』
 蘭子さん、あたしを叱ってセツにあたしとも遊ぶように何度も言っていたんだけれど……慧と美由紀が現れたのはそんな時だった。
「なぁ、梓」
 いつの間にか泣いてたらしい。そっと慧があたしの涙をぬぐい、優しい声色を出す。
「お前、セツが死ぬのに賛成してんのか?」
 いつも怒ってばかりなのに、こういう優しいことも出来るんだ。
「お前が賛成してるなら俺も美由紀も止める手立てが無いんだ」
 弱りきった声。あたしは蘭子さんと対抗できるほど力も無い。セツは蘭子さんの後ろにいるから声を掛けることも出来ない。
「護ってやりたんだ。美由紀も、梓も」
「……男の子だよね、慧」
 涙があふれる。
「おい、何で泣いてんだよ」
「知らない」
 嬉しいときにも涙が出るって慧は知らないらしい。

***

 午後になって高橋さんが尋ねてきてくれた。セツの両親にはまだ連絡を入れていないって事で、あたしは改めてお礼を言う。
「あの二人が来たら節子さん、また自殺しようとするでしょ?」
 さすがは高橋さん。
 今回の自殺騒ぎもセツが二人に会ったことが原因だ。ここ数年、ずっとあたしか慧がセツの両親に会ってきたのだから。この間のことはセツにはショックが有り過ぎた。
「今日はどう? 体調は?」
 今朝方の投身の件は伏せておいたほうが良いだろうと判断し、
「昨日よりは良いわ」
「じゃ、ちょっと話しても大丈夫ね?」
 持参したお見舞いの果物詰め合わせからりんごを取り出し、八等分に切ってくれる。
 あたしは頬張りながら、
「何?」
「昨日も言ったけれど、蘭子さんの目的のこと」
 高橋さんも自分で向いたりんごを一つ頬張る。
「『私はずっとあなただけの味方よ、私だけはあなたのそばにずっといてあげる』」
 蘭子さんの言葉。昨日、私が高橋さんに言ったもの。
「これって悪魔の囁きっぽいわよね」
「……えぇ」
 妙に色っぽい蘭子さんの声が蘇る。あの声色でそんなことを毎日囁かれてたらセツもおかしくなるだろう。
「節子さんが自殺したいの? それとも、蘭子さんが死にたいの?」
「蘭子さんが?」
「蘭子が?」
 あたしと慧、思わず声を上げる。蘭子さんが死にたいだなんてこと、ありえるだろうか。
「蘭子さんの影響力は強いって梓は思っているみたいだけれど、私はね、梓が一番影響力を持っていると思うのよ」
 そんなことは無いと首を振ろうとしたのだけれど、慧が頷くほうが早かった。
「そうか、蘭子が消えようとしてるとすれば筋が通る」
「何言い出すの?」
「セツは蘭子が消えるのならば自分も消えたいんだよ。でも、俺たちがいるからなかなか自殺も出来ないんじゃないかと今朝思った」
 さっさと一切れ目を食べ終わり、二切れ目に手を伸ばす。
 高橋さんが「今朝、何があったの?」って顔で見ているが、慧はそれには答えず自論を展開するのみ。
「昨日は蘭子とセツが協力して自殺しようとしてるんだと思ってた。だけど、ぎりぎりのところで俺や梓が目を覚ますのはどう考えてもおかしい。蘭子が梓より影響力が強いのならばな」
 シャリシャリといい音を立ててりんごは消えてゆく。
「梓の方が影響力が強いんじゃないかと仮定してみても、今朝の話は妙になる」
「妙?」
「お前よりも俺のほうが目が覚めるのが早かった。それにあの時は美由紀も居なかったんだ。お前はセツに『死ねばいい』って言ったらしいが、それだけじゃ話は通らない」
 高橋さんは慧の話にただ静かに頷いているだけ。
 あたしは慧が何を言いたいんだか理解できない。
「混乱してるとき、お前の過去の記憶がちょっと見えた」
「……うん」
 恥ずかしいんだよね、過去のことって。
「蘭子のイメージがあまりにも違って驚いた」
 感想はそれだけらしい。過去の馬鹿話を暴露されるのかとちょっとびくびくしたんだけれど無駄だったようだ。
「蘭子はセツとお前を護ろうとしてるんじゃないかと思った。死にたがってるセツを何とかなだめているんじゃないかと」
「それじゃ何でセツが自殺しようとするのよ」
 厳重に包帯をした左手首を見る。
「影響力が一番強いのがセツだからだ」
「……はぁ!?」
 なんてこと無いように慧は言ったけれど、あまりな内容だった。
「セツは蘭子さんの後ろにいるじゃない!」
「蘭子がセツを抑えてるんだ。自殺しないように」
 あたし達の口論に入り込むことなく、高橋さんは一口大に切った果物を皿に盛る。慧はそれにも手を伸ばしつつ、
「お前は結局のところセツと同じなんだ。セツは自殺したがっているわけだが、お前はセツが死ねばいいと思ってるわけだから」
 違う、とは言えなかった。私はセツがいなくなればいいと思っている――それは、結局のところ死んでしまえば良いってことと同じなのだから。
「蘭子は『節子』を護ろうとしてると考えれば、今までの話も筋が通る。セツを誘惑して自殺から引き止め、梓にはセツに接触させないようにした。あぁ、セツが蘭子のタバコを持ってたことがあったな。あれも蘭子がセツの振りをしてたって考えれば合点がいく」
「……蘭子さんが?」
 本当にそうなんだろうか。蘭子さん――お姉ちゃんがセツの振りをしていただなんてこと――。
「蘭子さんとして私の目の前に現れたのは節子さんだったってこと?」
 ようやく高橋さんが言葉を発する。
「じゃないのか? あまりにも過去の蘭子は別人過ぎる」
「でも、セツがまどろんでいる時に――」
「お前を騙すために蘭子が一芝居うってるんじゃないか?」
 あの妖艶なしぐさでセツを誘惑しているのが芝居だなんて、ありえるだろうか。セツにはこちらの言葉など何も聞こえてないんだと思っていたんだけれど、すべて聞こえてたってことなんだろうか。
 あまりに突拍子も無い話だけれど。
「じゃあ、節子さんは私の言葉も聞こえてるのね?」
 高橋さんは穏やかに微笑む。
「やっときちんとしたカウンセリングができるわね。ご両親にもご理解、ご納得していただいて、今日から早速通ってもらってるわ」
 行動が早い。あの二人を説き伏せるだなんて、どういう説得の仕方をしたんだろう。
「ま、早い話。梓とセツが仲直りすれば良いってことだ」
 慧がにやける。
 あぁ、そうか。昔みたいに私とセツが仲良くなれば良いわけだ。……納得しかけて、考え込む。でも、それって難しい。だって私はもう何年もセツには会っていないのだ。蘭子さんは見かけるが、話のできる雰囲気じゃない。
「どうやって?」
「俺達が考えなくても、目の前に立派な専門家がいるだろうが」
 慧が高橋さんに意地の悪そうな笑みを向ける。
 そうだった。高橋さんてばカウンセラーなんだった。
「ま、そういうことで後はよろしく」
「高橋さんがんばってねぇ」
 慧がぶっきらぼうに言い、美由紀がにっこり微笑む。何といっていいのかわからず、
「お願いします」
 あたしは頭を下げ、蘭子さんと蘭子さんに促されるようにセツが一緒に頭を下げた。

『一つの家族』をご覧いただきありがとうございました。

■2004/03/16 作成というか、昔書いてた話の中から引っ張り出してきました。
■2006/06/14 改稿
2012/01/18 訂正

©2001-2014空色惑星