指輪

 中堅とはいえ地元じゃ大手の企業に就職し、早数年。仕事に慣れ面白くなってきた頃ともなれば、今度は結婚適齢期だ。社会人は忙しい。
 仲人が半分生きがいな専務が前方から歩いてくるのを目にし、私は給湯室に非難した。結婚適齢期な全女子社員はマークしてる、というまことしやかな噂がある。
「あら、」
「え?」
 振り向くと同期入社の村井園子。部署は違うが、高校が同じだった。四大を経て入社した私と、高卒で就職した彼女。その微妙な時間差が、私たちの間に深い溝のように存在していると、私は常々感じてならない。
 例えばそれは、落ち着いた雰囲気の彼女と、『若い』と称される私の差。結婚適齢期であっても、結婚なんて遠い未来の話にしか思えない私と、妻にするなら……とあちこちで口上に名前がのぼる彼女との差。
 会話も無く、気まずく見詰め合ったままだった私たちだったが、ふと、彼女の右手薬指に目が留まる。
「へえ、それいいわね」
 私が声をかけると彼女は嬉しそうにほほえみ、
「婚約したんです」
 はにかんだ笑みを浮かべる。相手はかねてから噂の男性だろうか。
「ちょっといい?」
 婚約指輪などと呼ばれているものの実物など始めて見たものだから、もっとよく見たくなって彼女に貸してくれとねだる。
「ええ、どうぞ」
 彼女は気軽に答え、私にそれを貸してくれた。
「綺麗ね」「これって、高いわよねぇ」などと声をあげながら、それを私の指へと導く。指を光にかざし「わあ、本当に素敵……」なんて言ってるうちは良かった。
「あれっ? 抜けない……」
「冗談はやめてください」
 私が引きつってはいても笑みを見せたからだろうか。彼女は私が悪ふざけしているぐらいにしか思わなかった。
 いくら私でもこんな悪い冗談まではやらない。
「いや、本当に」
 彼女はやっと事態の深刻さに気づいたようだったが、
「石鹸で取れないかしら?」
 それでもまだ、のん気だった。

 しばらく、いろいろな方法を試した。が、どうしても抜けなかった。
 そこで私は最終手段を彼女に提案した。却下されるだろう事は目に見えて解っていたことだったのだが。
「切断、ってのはダメだよね……」
「それは……」
 予想していたとおり、彼女は言いよどむ。けれど、顔には焦りの色はまだ見えない。思っていたよりもかなりノー天気というか、楽天家と言うか……。
 無理な要求だと言うことははじめから解っていたことなので、あえてこちらも追求しない。
「そうねぇ……」
 それでも解決の糸口を見つけようと彼女は思案する。
 そんな風に深く悩まれたのではこちらとしてはどうしたらいいだろうか。困ってしまった。
「ああ! 澤口さんを呼んできましょう」
 彼女は天啓 とばかりに顔を輝かせ、給湯室から出て行った。

 しばらくして、彼女は貧弱そうなさえない風貌の中年の男と共に戻ってきた。
「ほら、私が言ったとおりでしょ? 何度やってもダメなんです」
 彼女に説明されながら、中年男は私の指に食い込んだ指輪を抜こうと何度も力を掛ける。指の皮が引きつるし、指は充血してきて痛むが、村井園子の前でわめき散らすわけにもいかない。被害者である前に加害者なのだ。私だってそのくらいの常識、良識は持ち合わせている。
 暫くして、中年男は抜けない事をようやく悟ったのか、
「あれは試してみた?」
 森本レオのような口調で十五分ほど前に失敗したものを提案する。見た目通り、頼りにならない。
 彼女は首を振り、
「思いつく限りはやってみたんですが……切るしかないんじゃないかって……」
「それは酷だね。君の――」
「……えぇ……ごめんなさい……」
 彼女は誰にともなく謝った。
 謝らなければならないのはこっちだというのに。いらいらを募らせるけれど、ここで声を上げるのは逆切れ以外の何ものでもない。
 中年男はふと、思い出したように、
「あれは? 糸持ってる?」
「糸? 裁縫で使う?」
「糸ならば何でもいいよ。それは試してみた?」
「いいえ」と、彼女は首を振り、「それで取れるんですね?」
 男に念を押す。
「間に合えば……何とかなると思うけど」
 その案を提案した時に一瞬見せた自信はどこへやら、中年男は心配げに言い淀む。
「ちょっと待っててください」
 凛とした様子で彼女は再びどこかへ消えた。

「たしか、指に糸を巻き付けるんだよ。根本の方から。それで……ああ、そうそう。ちょっときつめにね……」
 彼女が私の指に糸を巻き付けている間、中年男は横で不安を煽るような声をあげていた。
 煩い。
 胡散臭い。
 どうして村井園子はこの中年男を信頼しているんだろう。
 だが、その不安はすぐに杞憂に終わる。指輪は巻き付けた糸に導かれるように、食い込んでいた私の指から離れてゆく。
「取れた……」
 彼女は指輪を電灯の光にかざし、愛しげに見つめる。
 私は指にきつく巻き付けられた糸をほどきながら、そっとため息を付いた。
 もう二度と、こんなバカなことをやるまいと。
 中年男は一言声を掛けると給湯室を出て行った。
「あれ、誰?」
 喜びに酔いしれる村井園子に声を掛ける。
「誰って澤口さんのことですか?」
 私の顔を怪訝そうにまじまじと見つめ、
「うちの会長ですよ」

 村井園子、ごく普通の人間だと思ってたんだけど、違ったらしい。

『指輪』をご覧いただきありがとうございました。〔04/03/05〕

発掘小説。いつ書いたものか不明。某お役立ち知恵系バラエティ番組を見ていて思いついたもの。村井園子、最初は別の名前だったのだけれど、よくよく考えてみればそれが友人の名前なことに気づき、急遽変更。……人の名前を覚えるのは苦手です(ダメじゃん

06/06/11 改稿。
2012/01/18 訂正

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