昔から、高台には一本のいちょう の樹が立っていた。街を見守るよう、五十年近く昔、平和を願う言葉が刻まれた石碑と一緒に植えられた。
どこまでも広がる青い空に幾筋かの白い雲。
見下ろす街は、穏かな水の底。
作りつけられた鉄の柵に寄りかかり、昔住んでいた街を見下ろす。
あの辺りに私の家、あっちには学校。こっちには……。
「危ないよ」
柔らかな少年の声に我に返る。
身を乗り出しすぎていた。何時の間にか越えていた柵の手前に帰り、声をかけてきた少年を見る。白い半そでのカッターシャツに、黒い制服ズボン。
「君は?」
少年は声をかけた私を驚いたような顔で凝視し、
「僕の姿が見えるの――?」
不安そうな声。
よく見れば透けている。彼は生きてはいないらしい。
「私は変わってるの」
自嘲する。生き残った人々で私のことを知らない人間など、この辺りにはいない。
「僕のこと、怖くない?」
幽霊らしからぬ言葉。
だから私も言い返す。
「私のこと、怖くない?」
不思議そうな顔をした後、少年らしい笑みを見せる。
私は石碑に寄りかかり、青い空と、青い海の境を見つめる。
少年は私と同じ景色を眺めている。
「いつからこんな風景になったんだろう?」
ポツリと呟く言葉。幽霊達には時間の概念は無い。
「世界が終わったあの日から」
私は答えて、再び、水平線を見つめる。
何時間そうしていただろうか。
空の色が茜色へ変わり、燃え始め、やがて鈍い赤銅へ変わる。
「こんな空、眺めてると――」
言葉を捜す。湧き上がる感情を的確に表す表現ってなんだろう。言葉に詰まった私に、少年は静かにほほ笑みながら、
「涙が出る?」
私は前を向いたまま、
「ちょっと違う」
「淋しい?」
「違う」
「懐かしい?」
「……いまいち」
刻々と色を変えていた空は暮れてしまった。黒とも紺とも取れない曖昧な空の下、一番星を見つめ、
「でも、『懐かしい』って感じかもしれない」
数分ぶりに見た少年の顔は変わらないのに、赤い光がないからか妙に哀しげ。
私の視線に気づいた彼は、私の瞳に映る自分を見ている。真っ黒い瞳の中に、見つめ返している私が見える。それをもっとよく見ようとして、どちらとも無く手を伸ばし、私の手は宙を切る。
彼は哀しげな色を一瞬見せ、瞳をそらす。
「死ななきゃ良かった」
私は静かに頷いてあげることしか出来ない。
「どうして死んだの?」
顔を強張らせ、少年はうつむく。やがて、ポツリと、
「どうして、僕は死んだんだろう。あの時は、どうしても死ななきゃいけないって思ったのに――」
双眸から涙が溢れ、とめどなく流れ出す。けれど、少年は少年らしからぬ静かな声色で、
「死ななきゃ良かった」
空気に溶けるように消えてゆく。
私は持ってきた毛布に包まり、星空を見上げる。
「死んでも、何も終わりになんてならないんだよ」
誰に宛てたものでもない言葉は、空に一瞬留まり、穏やかな水音にかき消された。
朝になればまた陽が昇る。終わってしまった世界に、それまでと変わらない陽が――。
終
『あの日から』をご覧いただきありがとうございました。
■04/03/04 どうしても描きたかった場面(石碑の近くで幽霊と、人間が話をするでもなくどこか遠くを見てる)をそのまま文章にしただけの小説とも呼べないもの。これをネタにした小説を書こうと頭をひねってみるが、どうにも無理そうなので、そのまま載せてみる。
■2004-04-19 一部改稿
■2006-06-11 改稿。
2012/01/19 訂正