ピーターパン症候群

 姉は変わった人だった。
 どこにいてさえ浮いていた。
 家族の中にいてさえ。

 秀才ではなかったけれど、勉強しなくてもある程度の成績は取れていた。運動音痴でもなくスポーツ万能でもなかった。何事も普通程度だった。
 けれど、周りに馴染まない人だった。
 決して付き合いが悪いわけでもなく、無口なのでもない。友達がいないわけでもない。けれども、周りと一線を隔する何かを内に秘めた人だった。
 
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 七月の第三週目だったと思う。
 あるとき、姉は言った。
「死んだらどうなると思う?」
 確か、毎週見ていたアニメがCMに入ったときだった。私は突然の、そんな質問に戸惑い、
「天国に行くんでしょ?」
と、答えた。
 姉は笑って言った。
「そうか、チィちゃんはキリスト教徒か」
 姉は私のことをチカコではなく、チィちゃんと呼んでいた。
「キリスト教徒? 私は無宗教だよ」
「死んだら天国に行くって言うのはキリスト教の考え方よ」
 私はちょっと考え、
「じゃあ、彼岸……?」
「それは仏教ね」
 窮地《きゅうち》に追い込まれる。
 私は考え抜いた末、アニメが再会されるほんのちょっと前に答えた。
「じゃあ、何もない! 死んだら死んだまま!」
 その答えに姉は大笑いした。
 アニメが再会されたこともあり、姉はそれが何教であるのかは言わなかった。
 
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「チィちゃん、生まれ変わったら何になりたい?」
 姉がそう話し掛けてきたのは、怪奇月食を見るため二人で夜空を見上げているときだった。
 突然そんなことを言われても、思いつかない。
「えっと、そうだな……」
 姉は私の答えなど初めから期待していなかったのか、
「私は火星人になりたいんだ」
 それが当然といった口調だった。
 私は姉の顔をまじまじと見つめ問い返す。
「火星人?」
「うん。すっごく面白そうでしょ? でも、火星人には生まれ変われないのよ」
「えっ? 何で?」
「地球の重力に魂が捕まってるから」
「……何それ?」
「重力は光さえも曲げてしまうの。だから、私たち地球に生きる生き物は、みんな地球の重力に捕まってしまって、この地球から離れることはできないの。何度生まれ変わっても、地球の生物になることしかできない。でも、輪廻から抜け出せば地球から離れられる」
 姉が何を言ってるのかさっぱりわからない。
「輪廻は、輪を廻るって書くでしょ? 輪はね、ただの丸い輪じゃなくて、メビウスの輪ってあるでしょ? 細長い紙を一回ひねって端を止めるの。裏も表もない……あれのことなのよ。輪廻ってあれをまわることなの。まわることによって私たちの魂は進化してゆくの。そして――あ、月食始まったよ」
 姉の声に顔を上げれば、月に、小さな影が映っている。
 月が完全に消えてしまうことはなかった。けれど私達はじっと見入っていた。
「さ、もう寝よ。十二時過ぎちゃってる」
 姉の声で我に返る。
「あ、お姉ちゃん……」
 私は何かを姉に尋ねなければならない気がした。けれど、それがなんだった思い出せない。
 姉は私の伸ばした手をすり抜け、ドアへと向かう。
「お休み、チィちゃん」
 いつもと同じ挨拶をして、姉は自分の部屋へ消えていった。
 


 七月の第四週だった。
「お姉ちゃん、明日、映画行かない?」
「……何の映画?」
 私は二十三世紀からやって来た青い猫型ロボットの活躍するアニメの名前をあげる。それを聞いて、姉はくすっと笑いを漏らした。不快になるような笑いではない。
「チィちゃん、もう十七歳でしょ?」
 やはりダメって言われるのだろうか。
「いいわ」
「本当に? やった!」
「ふふふ。明日って私の誕生日って知ってた?」
「え、あ……も、もちろん。知ってるよ」
 そうだった。七月二十四日は、姉の誕生日だった。明日、映画の帰りにプレゼントを買おう。前から目をつけてた淡いブルーと紫の混ざった、銀色のブローチを。
「ふふふ……私も二十歳。大人だね……」
 どこか寂しそうな、投げやりな口調。
「そりゃ、そうだけど……?」
「チカちゃんはあと三年あるね」
 なんだか変な言い方だった。
「……うん」
「神様っていると思う?」
「神様?」
「そう、神様。神様でも、奇蹟でも、運命でもいい。あると思う?」
「そりゃ……うん」
「そっか……チィちゃん、好きな人いるの?」
「ど、どうして?」
「だって……」
 姉は笑い声を漏らし、
「幸せなんだなって思って」
「何で? どういうこと?」
「いやいや、なんでもないよ」
 言って、姉は愉快そうに笑いつづけた。



 七月の最後の週だった。
 そのとき、私は何の話をしていたのだろう。確か、レンタルビデオで借りてきた新作の映画を姉に勧めていたと思う。姉はあるときから急に沈んでいたので、姉を元気付けようと思って。
「……万能の科学力で宇宙の果てに――」
「万能の科学力なんてないんだよ。チィちゃん」
 姉は悲しげに、諭すように言った。
「今は無理でも、未来には――」
「自分たちのことだって分からないのに?」
「どういうこと?」
「古い古い太古の世界のことがわからないの。そのときも人間がいたはずなのに。それに、私たちの体の事だって、心の事だって……わからないことが多いの」
「でも今、遺伝子配列とか調べてるって――」
「遺伝子で私たちの心のことがわかるとは思えない。チィちゃんが夜寝る前に何考えてるかなんて、チィちゃん自身でもわからなかったりするように」
「そりゃ、そうだけど。覚えてないだけで……」
「私たちがロボットだって事を調べ上げるのは無意味よ」
「ロボット?」
「だって、遺伝子は私たちを形作る設計図だって言われてるんだよ。つまり、遺伝子を調べ上げるって事は私たちがロボットかもしれないってことを確かめてるようなものだわ」
 言って、広げていた雑誌をたたみ、立ち上がる。
「障子を開けなければ、鶴はいつまでも機《はた》を織りつづけられただろうけど、鶴はむしる羽もなく死んでいたでしょうね……」
 鶴の恩返し?
「チィちゃんは運命、信じてるんだよね」
「……うん」
「運命とか奇蹟とか神様とかあったほうが幸せだもんね」
 そう言い残し、姉は自室へと引きあげていった。



 八月の第一週だった。
 私は姉と共に二本立ての映画を見に来ていた。一本目の映画が終わり、二本目の映画の始まる前、休憩時間のことだった。
「今の面白かったね」
 私が姉に話し掛けると、姉は非常に穏やかな微笑と共に、
「宇宙ってどのくらいの大きさだと思う?」
静かに尋ねてきた。
「えっ?」
「宇宙はね……」
 夢見るように宙を見つめる。
「宇宙は膨張してるんだって。だから、はっきりとした大きさはないの。でもさ、地球から外へ出たら何もないんだよ。全くの無なの。それなのに、その無の空間が膨張してるって不思議じゃない? 宇宙の外には何があるんだろうね?」
「…………さあ」
 姉は小さく笑った。
「まだ誰も知らないの。面白いでしょ?」
 言って、立ち上がる。
「どこ行くの、お姉ちゃん」
 姉は私の声が聞こえなかったのか、振り向くことなくでていった。
 私は姉を追いかけようとしたが、ちょうど二本目の映画が始まるベルの音で、スクリーンに注目する。
 やがて、姉のことなど忘れていた。

 映画が中盤に差し掛かった頃だった。
「女の子が飛び降りたぞ!」
 男の声にみな、ざわめき始める。映画どころじゃなかった。
 私は何だか嫌な予感がして、急いで声のほうに向かった。
 映画館から飛び出すと、真夏の太陽が私の目を射ぬき、私は何も見えなくなった。
 夏の熱気は私を包み込み、不快感を増す。
 だが、それ以上に辺りに立ち込める濃い血の匂いに私は吐きそうになった。
 映画館の、真向かいのビル。
 そのビル前の歩道には真っ赤な液体が、一面にばら撒かれ、その中に塊。
 私は人ごみを無我夢中で掻き分け近寄る。
 よく見ると……それは奇妙な形に曲がったヒト。
 スイカが割れたように、頭がつぶれ、中身があたりに散らばっている。
 薄いブルーと紫色の石がはまった銀色のブローチが、その赤い血だまりの中で、静かに輝いていた。
「……ぃゃ……」
 口から聞き慣れない声が漏れた。
(お姉ちゃん? お姉ちゃんどこ?)
 見覚えある服。
(違う! 違う、お姉ちゃん……どこ行ったの?)
 私は姉の姿を探す。
 ひどく、奇妙な時の流れ。
 皆、私の邪魔をするようにゆっくりと動きはじめる。
(邪魔! どいて、どいて! どいて!!)
 けれど辺りからは、音が遠のき、白と黒のモノトーンの世界へと変貌してゆく。
(早く。早く、お姉ちゃんを見つけないと。嫌だ、早く、嫌、嫌、嫌……)
 どこか深い深い穴へと落とされたかのように、体が沈んでゆく。張り上げているはずの声も私の耳に届かない……。



 目を開けると父と母がいた。私の枕もとにパイプイスを引き寄せ、じっと私の顔を見つめている。
「大丈夫? チカコ」
 母が心配げな声を上げる。私はベッドから半身を起き上がらせ、尋ねる。
「ここ、どこ?」
「病院だ。お前、倒れたんだ」
 父が無愛想に答える。
 父と母はいるのに、姉がいない。
「…………おねぇ――」
「大丈夫だから、ね、チカコ」
 何が大丈夫なのか、母が私の声を遮るように、声を上げる。
「私は大丈夫だよ……お姉ちゃんはどこ?」
 母は父と顔を見合わせ、
「もう少し休みなさい」
 言って、席を立つ。何か言いたげな父を促し、母と父は部屋から出て行く。
 しばらくして父が部屋へと入ってきた。母の目を盗んできたらしい。戸口を振り返り振り返り、私のベットまで来ると、
「……チカコに」
 私に四つ折にした白い紙を差し出した。
「何?」
 私は受け取りながら父に尋ねる。父は私に紙を渡すと何も答えず、入ってきたときと同様に出て行った
 紙を広げてみると、見慣れた姉の字で『チィちゃんへ』とあった。

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 チィちゃんへ。

 ある日、パッと空中に溶けてしまうように、この世界から消えてしまいたいと思っていたのだけれど、それじゃあまりにもチィちゃんが可哀相だと思うから、これを書き残します。

 あれはいつの事だっただろう。私にとって思い出せないくらい昔、お母さんが読んでくれた絵本の中で、その人はこう言った。
『大人になんかなりたくない。大人になったら年を取って死んでしまうから』
 この言葉は幼い私の心の中に深く、深く刻み込まれた。
 
 私は昔『お転婆』だった。
 ネバーランドの素晴らしさに魅せられ、そこに行こうと、いま思い出すと可笑しいけど、あの頃は本当に真剣に努力してた。
 木枯らし吹く秋も、寒い冬も窓を開けて、一番明るいお星様に「ピーターパン、私はここにいるわ。早く迎えに来て」ってお祈りしたり、空を飛ぼうと毎日、竹箒にまたがってぴょんぴょん跳ね回ってみたり、高いところから飛び降りてみたり……そう、あの頃怪我ばかりしてたのは、私がお転婆だったからじゃなくて、ネバーランドに行きたかったから。
 でも、そんなことも十三歳の誕生日を迎えた日にやめてしまった。十三歳って、もう子供じゃなくなる歳だと思ったから。これもあるアニメ映画で言ってたでしょ? 黒猫の出てくる、赤い、大きなリボンをつけた魔女の女の子の物語。その中で言ってたよね? 十三歳になったら魔女は修行のために一人で暮らすって。
 私は十三歳になるまで一回だって空を飛べなかった。だから、もう、魔女になれないって思ったの。私はそれまでのお転婆はやめてしまった。みんな私のその豹変振りに「お年頃だから」なんて言ってたけれど。
 十三歳の誕生日を越えてから、私の心を占めたのは『死』だった。刃物を見ると真っ赤に染まった私の死体に突き刺ささっているところを想像したし、高いところに立つと下に血だらけの私の遺体がありはしないかと探してみたりもした。
 可笑しいでしょ? 最初は子供の夢の国であるネバーランドに行きたくてしかたなかった。子供じゃなくなってしまったら、死んでしまいたくなった。
 私は、本当は『大人』になりたくなかったのだと気づいたのは中学を卒業する頃だった。
 
 どんな時も「お願いです。私を大人にしないで下さい。殺されても文句はいいません」って願ったわ。流星にも、七夕にも、誕生日のとき蝋燭を吹き消す時も。だから、チィちゃんに「何をお願いしたの?」って聞かれたとき、笑って答えなかったのはそんな理由からだったの。ごめんね。
 ドキドキしながら『その瞬間』をずっと待ってた。でも、そんな機会はちらりとも訪れなかった。命にかかわるような危険な目にあうことも全然無かったし、死にかける事も無かった。本当に平穏無事に私は生きてきた。
 そして七月二十四日を迎え、私は二十歳になってしまった。二十歳からは本当に大人だと思う。それまでは子供でもなく、大人でもない……そんな不安定な時期を越えて、本物の『大人』になってしまったの。
 その日はいつもと何の代わり無く、平穏無事に始まった。私は唖然とした。私の願い事がかなわなかったのだから。神様なんていないんだって……確信した。
 でも、どうしても私は私自身を殺すことなんてできなかった。……恐かった。だから、それまで以上に死ぬこと、滅びることを望んだの。でも、時は無常にも過ぎていった。いい加減、希望をもつのはやめることにした。誰も、何も私を死なせてなどくれない。これ以上、大人でなんていたくない。
 だから、私は大空に、真白な翼を持つ、鳥のように飛びたつことにしました。本当はそんなこと無いってわかってるよ。でも、そう思わないと怖くて仕方ないの。
 ごめんね、チィちゃん。でも、私はどうしても『大人』でいたくはないの。『大人』でいるくらいなら『死ぬ』事のほうがどれほどましか……。私が逃げてるって思わないで。これは、物心つくよりも前から願ってきたことなんだから。
 本当に、ごめんね。

 八月三日    麻利子

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(お姉ちゃん……ずるいよ)
 ぽつり、涙がこぼれる。
 何がずるいのか、私にもわからない。
 でも、姉はずるい。
 ……ずるい。
 涙が止まらない。
 私は何度もその文面を読み返しながら、明け方まで泣いた。



「お姉ちゃん、久しぶり」
 数年ぶりの姉の墓参りだった。姉が死んでから、墓参りする機会は何度かあった。
 けれど、私はそれをことごとくボイコットした。父も母も最初はなだめすかし、次第に強行に墓参りを主張したが、私は耳を貸さなかった。
 けれど、数日前。やっと私は姉の墓の前に立つ決意をした。いや、決意というほどのものでもなく……来る気になれたのだ。なんとなく。
 仕事の休みの取れた今日、やっとの墓参り。
 母によって、墓は綺麗にされていた。数年前の葬式の日、あの日に比べれば幾分年月を経た雰囲気が否めないけれど。

 水をかけ、線香を立てる。
「お姉ちゃん、私、やっとわかったよ……あなたは弱い人だった。それに私達は気づけなかった。ごめんね」
 そっと静かに語りかける。
 姉は芯のある人だと、ずっと思っていた。でも、ふいにそれが違うことに気づいたのだ。すると、絡んでいた糸は何ともたやすく解けた。
 あの頃、家はごたごたしていた。父も母も私も、普通から見ればずいぶんおかしな暮らしをしていた。
 ただその中、姉さんだけは普通だった。あまりにも普通。いや、普通すぎた。だから、みんな姉さんを強い人だと思っていた。けれど、姉さんは強くなど無かったのだ。
「お姉ちゃんはずっと、きっとずっと逃げるための――言い訳を探してた。それが『大人にならないこと』だったんだよね」
 私はずっと不思議だった。
 大人になりたくない、という姉自身が、当時の私からすれば一番大人に見えていたのだから。
「あなたは大人になりたくなかったわけじゃない。逃げる言い訳が欲しかったんだよ」
 姉は黙り込んだまま。墓石はしゃべりはしない。
「あなたは弱い人だった」
 ぽつり、雫が墓石に落ちる。しとしとと雨音は強くなる。まるで私の心みたいに。
「気づかなくってゴメン……でも……ずるいよ、お姉ちゃん……独りで逃げるなんて」

『ピーターパン症候群』をご覧いただきありがとうございました。

■01/12/2 初出
■2004/04/22  改稿
■2006/06/13  改稿

2008/02/01 自分的に「この話はどうだろう。。。」と思う部分もあるものの、それ以外に思う部分も有り再公開。この姉妹の関係、私にしては良く書けてると思う。最近は罵詈雑言はいてるか、喧嘩腰のキャラが多いからなぁ。

2012/01/18 訂正

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