やさしい闇の

やさしい闇の

 妙な夢だ。
 そう思いつつ目をあけた歩美は見知らぬ天井に顔をしかめた。だが次の瞬間、昨日の出来事を思い出し、自分の愚かさに苦笑いを漏らす。
 自暴自棄になってはいたが、まさか三十歳も過ぎて自分がこんな事をするとは思ってもみなかった。昨日はそう、酔っていたのだ。五年も付き合い、婚約までしていた男に振られて。

 会社帰りに呼び出されたのは、考えてみれば久々だった。重要な話があると告げられたとき、歩美はどんな話をされるのか予想していた。ここ数ヶ月、彼がそれを切り出す日を恐れ、待ち望んでいたのだ。
 待ち合わせ場所には珍しく、彼が先に待っていた。紺色のスーツに歩美の見た事のないネクタイ、シャツ。あきらかに、歩美の知っている彼の趣味ではない。
「待たせたかしら?」
「いや」
 歩美の姿を確認するように、ちらりと視線を上げたものの再びうつむく。
「ごめん、本当に――」
 声は小さく、苦しげな響き。
「何?」
「遊びのつもりだったんだ、彼女のことは――でも……」
 顔を上げ、助けを乞うような瞳を歩美に向ける。
「……そう」
 歩美は笑みを浮かべる。彼にとっては慈愛の、歩美にとっては自嘲の笑み。
 彼に他に女がいることを歩美はずいぶん前から知っていた。知っていて、知らないふりをしていた。みっともない真似をしたく無い、その一身で全てを黙殺した。
 そんな風に思えるのは彼がその程度の男だったからか。それとも彼を愛しているふりをしている自分が好きだったからか。
 彼の言い訳を聞きつつ、歩美は冷静に自問していた。
「――だが、彼女が妊娠した」
 耳に飛び込んできた言葉。
「そうなの」
 答えた声は歩美自身、驚くほど平常だった。
 彼はこの場所でただ一人、安っぽいテレビドラマの主人公みたいに滑稽な演技を続ける。
「俺はけじめをつけたい。だから別れてくれ――」
「わかったわ。じゃ、さよなら」
 簡素に答え、歩き出す。歩美は振り返ろうとも思わなかったし、事実振り返らなかった。哀しくは無かったし、混乱もしていなかった。所詮、自分にとってその程度の男だったのだろう。
 歩美はこの五年を振り返り、どうして自分があの男を好きになったのか、どこを愛していたのかを思い出そうとした。けれど、頭には何も浮かんでこない。思い出せない。この五年、彼に対し、自分がどんな想いでいたのかわからない。
 タイミング良くやってきた電車に乗り込む。

       *

 電車から降り、歩美は我に返る。
 間違えた。
 ここはいつもの下車駅ではない。だが、見覚えがある。――高校の時、利用していた駅だと気づいたのはすぐだった。
 どうしてこんな所で降りてしまったのだろう。振られた事に自分でも思わないほどショックを受けているのだろうか。
 まさか、そんな。
 歩美は苦笑する。
 時刻表を調べると、乗り換えの電車は一時間以上待たなければならない。ため息を一つつき、駅を出る。
 誘蛾灯のように駅前には小さなコンビニ。そこで発泡酒の六缶パックを買い込み、土手に向かった。

 部活動に一生懸命だったあの頃。朝、夕方、何度も走った川沿いの土手。辛くて、嫌で、でも、やめたいとは思わなかった。
 このまま高校まで歩こうかとも思ったが、買い物袋の中身が重い。土手へと降りるコンクリートの階段に腰を下ろす。
 暗い川のせせらぎが気持ちよく耳に響く。遠くを走る車が時折ライトを向けるものの、辺りを照らしているのは弱弱しい月の光だけ。
 買い物袋から一本取り出し、プルタブを開ける。二本、三本あくのに時間はかからなかった。酒には強い方ではない。なのに、幾ら呑んでも酔わない。そのかわり、鮮やかに先ほどの会話が蘇る。
『俺はけじめをつけたい。だから別れてくれ――』
『わかったわ。じゃ、さよなら』
 あまりにさっぱりした、ドラマにもならないような綺麗な別れ方、振られ方だった。なのに、どうして何度も思い出すのだろう。
「何してんの?」
 三十歳過ぎくらいの男の声。見回りだろうか。暗い中、土手で一人で飲んでいるのは確かに不自然だ。
「何でもありません」
 移動しようと立ち上がり、歩美はぺたりと座り込む。頭に酔いはまわっていないのに、足にはきていたらしい。
「呑みすぎじゃない?」
 男は隣に座り、
「これ、もらって良い?」
 勝手に一本あける。あまりに失礼な出来事に、歩美は憮然と男を見やる。
 妙な男だ。
 歩美は男の横顔を見つめる。発泡酒を美味そうに呑みながら、月を見上げている。
 顔はハーフと言うより、クォーターっぽい感じ。かといって、美男子でもなく、太陽の下で会ったならば、ありふれた、普通の人と表現するのが良さそうな顔立ち。月の光りが彼の顔立ちの陰影を濃くしている。
 落ち着いた響きの声から、三十歳過ぎかと思っていたが、改めて見るとずいぶん若い。二十歳前半、いや大学生だろうか。ジーパンに黒のポロシャツとありふれた格好なので、はっきりしない。
 まじまじと歩美が男の顔を見つめていたためだろう、男は恥ずかしげに微笑む。それがまた綺麗で、歩美は魅入られたように微笑み返す。
「僕の顔、何かついてる?」
 戸惑った顔もまた、美しい。
「何も」
 歩美はずっと見つめたまま。男は照れ隠しのようにまた勝手に一本開け、
「もう一本もらって良い?」
「……どうぞ」
 しばらく無言で呑んでいたら、全て空き缶になってしまった。
「呑み足りない」
 歩美がぶすりと呟く。
「そうかな?」
 男はまるで酔っていない顔。
「あんたが呑むからでしょ」
 酔った歩美は男に絡む。
「ごめん」
 悪びれた顔もせず、男は格好だけは大げさに謝る。
「ごめんで済んだら警察いらない。もっと呑むの!」
「いや、えっと、僕は帰るから」
 立ち上がる男のポロシャツの裾を掴む。
「ダメ。あんただけ酔ってないってズルイ」
「あのさ、酔ってるでしょ? 帰った方がいいよ」
「何言ってるのよ、私は全然酔ってない。あんた、私のお酒盗ったのよ!」
 ビシリと音がしそうなほど見事に男を指差す。
「くれるって言ったじゃん」
 呆れ顔。
 酔ってる、酔ってないの押し問答を繰り返すこと数分。男は根負けした顔で、
「じゃ、近くの居酒屋でも行く?」
「えぇ、行きますよ。行かせていただきます。行ってあんたを酔いつぶしてやる」
「……無理だと思うけど?」
 男は何故か不敵に笑う。だから歩美も同じ顔で――男には酔っ払いがヘラヘラ笑っているようにしか見えなかったが――笑って見せる。
「フフフ、大丈夫。負けたら私が奢るから」
 そしてどこか、居酒屋に連れて行ってくれたのだ。男の宣言通り、男は幾ら飲んでも酔った様子はなく、逆に歩美は呑みすぎて意識を失ってしまった。

 ベッドの中で歩美が居心地悪く寝返りをうっていると、
「起きた?」
 彼が現れる。昨日思った通り、何処にでもいそうなありふれた顔でしかない。ただ、年齢は三十歳くらいだろう。若く見間違えるなどどうにかしている。あの時点で相当酔っていたのだろうか。
 上半身を起こし、ふらつく頭を支えようと頭に手をやる。
「ごめんなさい。今、何時でしょうか?」
 呑み過ぎた為だろう。体がだるいし、頭が痛い。
「九時過ぎって所」
「やばっ、仕事――」
 立ち上がろうとして、ベットに沈み込む。とてもじゃないが起き上がれない。
「連絡しといたよ」
 彼の手には歩美の携帯。
「『職場』ってとこでしょ?」
 確かに登録しといたのだけれど……勝手に他人の携帯を使うだなんて、なんて礼儀知らずなのだろう。いや、この場合は大変助かったのだけれど。
 歩美が何と言おうか戸惑っていたところ、
「――ごめんね」
 沈み込んだ男の声。昨日のような大げさな身振りはない。
「いえ、助かりました」
 恐縮しきった男の様子に歩美は一瞬、頭が痛むのも忘れ頭を下げる。その途端、眩暈に襲われる。
 あれだけ呑んだのだ。二日酔いにならないわけがないのだが、それにしても酷い。
「いや、じゃなくて――」
 言いよどむ男に歩美は慌てて衣服を確認する。
 スカートは皺だらけで見るも無残だが、ストッキングさえもつけたまま寝てしまったのだから仕方がない。ブラウスは一番上のボタンが外れているけれど、寝苦しくて自分で外した気がする。
 どこもおかしくない。昨日の格好のまま。
 酔っ払って絡んだあげく、泊まらせてもらったのだからこちらが謝らなければならないのに、何を謝られることがあるのだろう。
「飲み過ぎちゃって」
「え? えーっと……」
 歩美の不確かな記憶の奥底に、かなりの額の支払いをした記憶が蘇ってくる。だが、あれは仕方ない。男は財布を持っていなかったのだし、酔った歩美が奢ると宣言したのだから。
 今月は貯金を切り崩さなければ生活できそうもない。頭が痛むのはそのせいもあるのだろうか。
「お酒強いんですね」
 男は歩美よりもずいぶん飲んだはずなのだが、まるで酔った様子がなかった。
「まぁ……ね」
「私は頭がずきずきして――」
「痛み止め飲む?」
「有難う。でもこれ以上ご迷惑をおかけする訳にはいきませんから」
 言いはするものの、当分起き上がれそうもない。
「僕は別に構わないけど?」
「……じゃぁ、もうちょっとだけベットをお借りします。もう少ししたら帰りますから」
 頑固な歩美の言葉に男は微笑み、
「本当にいいよ、いつまでいたって。僕はちょっと出てくるから」
 扉の閉まる音が聞こえた。

     *

 いい匂いにつられ、歩美は目を覚ます。
 枕もとに置かれた時計はすでに一時過ぎ。ずいぶん長い間寝ていたらしい。
「やっと起きた。気分はどう?」
「まぁまぁです」
 頭は相変わらず痛いが、気分はずいぶん良くなっている。二日酔い特有の嫌な汗で体中気持ち悪いが、あれだけ呑んだのだから当然だろう。
「お粥食べる?」
 この匂いはお粥なのか。
 意識した途端、お腹は大きな音を鳴らす。
「あまり食事作らないから、レトルトだけど」
 これ以上、迷惑を掛けたくはないと言ったはずだが、背に腹は替えられない。
「いいえ、有難うございます」
「そんなにかしこまらなくて良いよ、森さん」
 男はついでにと言った様子で言い置き、台所に向かう。
「そんなわけには――って、どうして私の名前を?」
「高校の同級なんだけど……覚えてない?」
 覚えていないと首を振る。とにかく、歩美の高校時代の思い出と言えば部活動しかない。
「そっか。じゃ、改めて茅ケ崎です。よろしく」
 軽く頭を下げ、
「でもそれじゃ、」
 驚いた顔。
「昨日は知らない相手に酔って絡んでたの? 森さん、そんな人だとは思わなかった。危ないよ?」
「あんた――茅ケ崎君が話しかけてきたんじゃない」
 同級生とわかり、途端口調を改めるのもどうかと思うが、相手が砕けた口調である以上、こちらも丁寧にやる必要はない。顔見知りであるならば無論の事。
「そうだっけ?」
「そうよ」
 自信を持って歩美が答えるので、茅ケ崎はそれ以上反論しようとはせず、質問を変えた。
「あんなとこで何してたの?」
「何って……呑んでたのよ」
「川を見ながら?」
「そうよ、あんたこそ何してたの?」
「散歩」
「あんな場所を?」
 街頭がありはするものの、何もない寂しい場所だ。
「月を見ながらブラブラしてると気持ち良いんだよ」
 その言葉に歩美はふっと息を吐いた。始めの印象通り、悪い人間じゃない。
「でも、勝手に人のお酒を呑むのはどうかと思うわ」
「だって、くれるって言ったでしょ?」
 三十歳過ぎた男が『だって』なんて言っても可愛くない。
「あれは事後承諾よ。私はあんたが呑むから仕方なく「あげる」って言ったの」
 子供のように歩美は頬を膨らませる。
「森さんってそんな人だとは思わなかった」
 茅ケ崎は呟くように先ほどと同じ台詞を言い、おかしげに笑いはじめる。
「何よ」
 ぶすりと歩美。
「いや、だって森さんって大人びた優等生ってイメージだったから……」
 十年以上昔の話。歩美は同窓会にもここ十年くらいは顔を出していない。茅ケ崎の中の歩美はあの頃のイメージのままで、現実の歩美とのギャップに呆れているのだろう。
 歩美は気恥ずかしさと、妙な腹立たしさから顔を赤くする。
「悪かったわね」
「何かあったの?」
 茅ケ崎はクスクス笑いをようやく引っ込め、真面目な顔でたずねる。話をうまくそらせたと思っていた歩美はびくりと震える。
「何かって?」
 わかっていてはぐらかす。
「川を見ながら酒盛りしなけりゃならない理由」
「……関係ないでしょ」
「そうかなぁ? 僕、絡まれた上にベット盗られてるんだけど」
 回りくどく責めるやつだ。
 歩美は一つ息を吐き、顔を背ける。
「すてられたのよ。婚約者に」
 どうしてこんな事を話しているのだろう。歩美は自問するが、答えはない。茅ケ崎に迷惑をかけたから? それとも茅ケ崎の持っている独特の雰囲気のせいだろうか?
「どうして?」
 優しく、力強い声。歩美に非がないと信じきっている声。
 それまで、歩美は泣きたいなんて思わなかったのに、何故だか涙があふれてくる。
「別の女を妊娠させたから、責任とるって」
「そっか――酷いヤツだね」
 酷い? 違う。酷いのは私だ。私のプライドを満足させるために別れてやらなかった。彼はずっと苦しんでいたはずだ。
 ぎゅっと布団を握り締める。
 でも、仕方ないじゃない。私は好きだったのよ、彼の事。――嘘だ。好きだなんて錯覚だ。彼の何処に好きになる要素があったというのだ?
 冷静な自分自身は彼を否定していた。けれども、それでも、理由なんてなくただ彼が好きだった――好きだったのだ……。
 涙が一筋零れ落ち、堰を切るように嗚咽が漏れる。
「お粥、持ってこようか? 冷めちゃったかも知れないけど」
 非難も同情も、励ましもない声がありがたい。
「……ありがと……」
 茅ケ崎が言っていた通り、食事はコンビニで買ってきたらしい温めただけのお粥と、インスタントのほうれん草の味噌汁、それに栄養ドリンクだった。

 腹がくちくなれば、眠くなる。十分眠ったはずなのに、歩美の瞼は重い。
「寝ていいよ」
 茅ケ崎が優しく言う。
「そんなわけにはいかないわよ。明日は仕事行かなきゃ」
 それに着替えなければ気持ち悪い。
 歩美は睡魔と闘うが、
「明日は日曜だけど?」
「……そうだっけ?」
 答える声はすでに重く、引きずり込まれるように眠りに落ちる。
 自分が思わなかったほど精神的に疲れていたんだろうか。茅ケ崎が布団を掛けなおしてくれている気配に「ありがと」と呟くが、声になっていたのか歩美にはわからなかった。

     *

 次に目が覚めたのは二十時も過ぎた頃だった。リビングで歌番組を見ていた茅ケ崎は、寝室の歩美に声をかける。
「気分どう?」
 寝すぎたため、まわらない頭で歩美は答える。
「まぁまぁ」
「飯食べる?」
 答えるように大きなお腹の音。歩美は赤い顔で、お腹をさすりながら、頷く。
「起きられる?」
「大丈夫」
 ふらりとするものの、何とか立ち上がる。着たままだったブラウス、スカートは見るも無残だ。
 そのまま歩美がリビングに姿を現すと、茅ケ崎はテレビから一瞬だけ歩美に目を向ける。
「その格好じゃ食べに行けないね」
 自分の目で見える以上に顔など酷いのかもしれない。歩美は鞄から化粧ポーチを取り出し、
「洗面所借りていい?」
 茅ケ崎が指差すドアへ駆けこむ。
「あ、そうだこれ」
 ドアを閉める直前、思い出したように茅ケ崎が声をあげ、買い物袋を歩美に手渡す。
「何?」
「歯ブラシとか」
「――ありがと」
 出かけたときについでに買ってきたのだろう。手回しが良い。

 洗面所の鏡に映る歩美の顔は二日酔いと寝すぎの為、見事にむくんでいた。
「酷い顔」
 思わず笑みが漏れる。こんなに飲んだのは学生の時以来だろう。
 買い物袋の中身を取り出す。歯ブラシセット、化粧も落とせる洗顔フォームにタオル、ヘアブラシ。最低限だか、ないよりは良い。
 茅ケ崎は一人暮らしらしい。片付けは出来ないようだが掃除はしているようだ。
 顔を洗い、髪を整えていると、リビングから声が掛かる。
「うどんと蕎麦、どっちが良い?」
「うどん……本当にごめん、迷惑掛けて」
 洗顔しながらマッサージし、手早く化粧を済ませると、リビングに戻る。
 テーブルは四人用のちょっと大きなものだが、物があふれている。手を伸ばせば届く範囲に物を集中させているらしい。
「さっぱりした――ごめんね」
「何が?」
「迷惑かけて」
「良いって言わなかった?」
 怒った様子もなく、淡々とした顔で答える。
 茅ケ崎が何を考えているのかわからないが、とりあえず歩美は胸を撫で下ろす。昨日、こちらが奢ったので、その分親切にしてくれているのかもしれない。
「これ飲んで」
 茅ケ崎は冷蔵庫からジュースを取り出す。昼に飲んだ栄養ドリンクと同じく、こちらにも大きく『鉄分』とある。
 歩美は不思議に思いつつも、ありがたくもらう。確かに女性は貧血になりやすいのではあるが……歩美は貧血気味ではない。普通の栄養ドリンクでも構わないというのに。
「三十分くらいしたら来ると思うから」
 茅ケ崎は自分の真向かいの椅子の上に積み上げられていた荷物を手早く片付ける。机の上の荷物も同じように右から左へ。
 歩美は手伝わないほうが良いだろうと判断し、しばらくしてようやく空いた椅子に腰掛ける。
「本当にありがと」
 茅ケ崎は布巾で机の上を拭きながら、
「「ありがと」も「迷惑かけてごめん」も何度も聞いたからもういいよ。僕は好きでやってるんだし、その分昨日してもらったんだから」
 これ以上言うのはしつこいだろうと、歩美は話題を変える。
「うどん屋さん、近くにあるの?」
「学校前にあったでしょ?」
「ああ、」
 学校帰りに何度か立ち寄った。蕎麦屋、お好み焼き屋、ピザ屋、ソフトクリーム屋――
「まだやってたんだ」
「コンビニ出来たから売上はさっぱりらしいけど」
「そうなの」
 茅ケ崎はこの辺りの事に詳しい。
「ずっとここに住んでるの?」
「高校の時からね」
「地元は?」
「電車で二十分くらいのとこ」
 話す事もないので、歩美は疑問に思ったことを質問し、茅ケ崎は当り障りなく答える。そうこうしているうちに時間は過ぎ、うどんが届いた。だが、茅ケ崎は歩美の分しか頼まなかったらしく、ワカメうどんが一杯だけ。
「茅ケ崎君、食べないの?」
「――お腹いいから」
 何故か後ろめたげな表情になる。歩美は深く追求せず、うどんに手をつけた。

 食べ終わり、食器を片付け終わるとする事もない。歩美は何となく一緒にテレビを見る。
 クイズ番組が終わった所で歩美は椅子から立ち上がる。
「じゃ、帰るね」
「もう?」
 時計を見やった茅ケ崎は納得した顔で、
「じゃ、送るよ」
「悪いから良いわ」
「散歩のついで」
 そう言われたら断り切れない。
 何故か安堵している自分の気持ちを不思議に思いつつ、歩美は手早く荷物をまとめる。

 電車の時刻は昨日と一緒だろう。そう歩美は考えていたのだが、駅について時刻表を確認すると、二時間後の最終電車まで電車がない。
「嘘」
「田舎だからね」
 苦笑交じりに茅ヶ崎は答え、
「そこで時間つぶす?」
 駅前のファミレスを指差す。
「……茅ケ崎君、帰って良いよ?」
「僕のおごり。森さん、お腹空いてるでしょ?」
 見通されてる。
 二日酔いの気分の悪さがなくなった今となっては、お腹が空いて仕方がない。何せ今日はまだ、お粥とうどんしか食べていないのだ。
「じゃあ、遠慮なく」
「どうぞどうぞ」
 そこでも、茅ケ崎は紅茶を飲んでいただけで何も食べようとはせず、歩美は恐縮しながらも結構な量を食べた。

 歩美が食べ終われば時間をつぶす為、二人は他愛もないおしゃべりに花を咲かせる。
「あ、電車」
 茅ケ崎の声に、歩美は一瞬何の事かわからなかった。
 だが、茅ケ崎が指差す方を見れば、乗るはずだっただろう電車が無常にも去ってゆく。
「嘘、あれ最終」
 歩美は慌てて店を飛び出す。
 駅員に尋ねると、まさしく先ほど見かけた電車が歩美が乗るはずだった電車であることが証明され、歩美は肩を落とす。
 遅れてやってきた茅ケ崎は、困りきった表情の歩美を見つけると、クスクス笑い始める。
「何よ、私が馬鹿だって笑いたいのね」
 茅ケ崎は違うと首を振り、耐え切れなくなったのか大きな笑い声を上げる。
「違うよ。今日一日で森さんのイメージかなり変わったから……森さん、しっかり者だって思ってたけど、そうじゃないんだね」
 笑い声は止まらない。
「そうよ、どうせ抜けてるわよ」
「そう言う意味じゃなくて」
「どう言う意味よ」
「そうだな……以外に可愛いって事かな」
 その言葉に歩美は顔をしかめる。元婚約者も付き合い始めた最初の内はそう言っていた。
「怒らないで、誉めてるんだから」
「でしょうね」
 歩美は歩き出す。慌てて茅ケ崎は後を追いかけ、
「どこ行くの?」
「歩いてでも帰る」
「無理だよ」
「やってみなきゃわからないわ」
 こうなれば意地だ。プライドの問題だ。
 茅ケ崎がついてこないよう、足を速める。
「それより、もう一晩泊まっていきなよ」
 そういうわけにはいかないわ。
 歩美は風をきるように歩く。

     *

「痛くない?」
「……まぁ」
 茅ケ崎の背中におぶさり、歩美は悔し紛れの言葉を吐く。捻挫した足首が痛くて仕方ない。
 たかだか三百メートルも歩いていないはずだ。体力の衰えを実感し、哀しくなる。もう、若くはない。
「コンビニでも寄ろうか?」
「うん」
 茅ケ崎にはおとといから迷惑の掛け通しだ。もう一度「ごめん」と言いたいが、何度も「いいよ」と言っていたから、また言うと茅ケ崎が気分を悪くするだけかもしれない。
 かけるべき言葉を見つけられないまま、店に到着する。必要な物をカードで買い込み、再び茅ケ崎の部屋に戻る。

「ベット、また借りてごめんね」
 居心地の悪さを感じつつ、歩美はベットに入る。
「気分どう?」
「だいぶ良いよ。もうちょっと頭痛いけど」
「……そう」
 ばつが悪るそうな顔。呑みすぎたのは自分の責任で茅ケ崎はなにも悪くない。本当にいい人だ。
 電気を消し、部屋は暗くなったものの、歩美は眠りすぎているため寝つけない。だが、起き出すのも悪いので、じっとベットに入ったまま天井を見つめていた。
 一時間ほどして、リビングで寝ている茅ケ崎の動く気配がする。
「――腹減った」
 小さいがはっきりした呟き。今日一日、茅ケ崎は歩美の目の前で一度の食事をしていない。
 もしかして、茅ケ崎は貧乏なんだろうか? だとすると、自分の為に余分なお金を使わせてしまったのではないだろうか。
「誰かいるかな……」
 玄関のドアを静かに開け出て行く気配。友人にお金を借りにでも行ったのだろうか。そう思うと歩美はますます不安になった。
 茅ケ崎は散々「いいよ」なんて気前のいい事言っていたけれど、本当はそんな経済状態じゃなかったのだろう。「ごめん、迷惑掛けて」なんて言葉じゃ詫び様がない。
 自分はなんて事をしてしまったのだろう。茅ケ崎が戻ってくるまでの一時間半、歩美は自分のやった事に対して酷く悔やんでいた。

 出て行ったとき同様、ドアは静かに開いた。だが静まり返った空間にはそれでも響く。
 歩美はループしている思考を一旦中断し、何と謝るべきか言葉を捜す。
 ごめん、はすでに言った。迷惑掛けて……もすでに言ってしまっている。謝ろうにも言葉がない。
 リビングと寝室を結ぶ引き戸を開ける音。流れ込んでくる甘い香り。
 女性の元へ行っていたのだろうか。三十歳過ぎの茅ケ崎に彼女の一人や二人いて当然だ。
 妙な失望感に歩美は自分を疑う。もしかして、彼にすてられたことを茅ケ崎にもすてられたように混同しているのだろうか。
 部屋の中へ滑りこんでくる足音。歩美は目をつぶり、寝たふりをする。声を掛けようにも、言いたい事があり過ぎて言葉に出来ない。
「大丈夫かな」
 茅ケ崎の呟き声。歩美に対しての言葉ではなく、自分自身へ問い掛けのような響き。
「……一口ぐらいなら――大丈夫だよな」
 暗闇だと言うのに、茅ケ崎は目が利くらしい。音も立てずベットの枕もとに立つ。歩美を伺っている気配。
 歩美は内心慌てながらも、死んだように眠ったふりを続ける。早く部屋から立ち去って欲しいと願いつつ、行かないで欲しいとも思う。混乱した頭はまともに機能せず、自動的に歩美の得意なポーカーフェイスを続ける。
 ふわり、歩美の首元に茅ケ崎の気配。首筋に顔をうずめ、次の瞬間、小さな痛みに驚き歩美は目を開ける。
 猫の目がそばにあった。金色に輝いているそれは茅ケ崎の瞳で、肌は発光でもしているかのような白さ。酔った歩美が見たよりも数段美しい顔がそこにあり、同じく驚いた顔をして、じっと歩美を見つめている。
 夢、だろうか。
 歩美は混乱したまま、茅ヶ崎を見つめる。
 茅ヶ崎はうっすらとやさしげな、それでいて怪しい笑みを浮かべる。歩美は魅入られたように同じく笑みを浮かべる。
 香料をかき消すかのようなはっきりとした血の匂い。歩美は痛みが走った首筋に手をやる。ぬるりとした感触。それが何であるか、瞬間頭に浮かんだ。
「もったいない」
 茅ケ崎は歩美の首元を見つめ、唇を舐める。
「……ヴァンパイア?」
「そうだよ」
 これが現実であるはずがない。
 茅ヶ崎はごくごく普通の外見で、美しいなんて露ほども思わせるような容姿はしていない。まして、ヴァンパイアなどいるものか。
「私の血、おいしい?」
 夢だと判断し、歩美は怪しい美しさを持つ茅ヶ崎に尋ねかける。
「とても」
 にこりと微笑む顔は絵にもできないほど。
 茅ヶ崎はヴァンパイアだからご飯を食べなかったのだ。一日、歩美がそばにいて、血を啜る時間などなかっただろう。それではお腹が空いてしまうのも当然だ。
「もっと飲む?」
「……いいの?」
「お腹、空いてるんでしょ? 私の血で良ければお腹いっぱい召し上がれ」
 茅ケ崎は歩美の首元に再び顔をうずめる。
 歩美は徐々に瞼が重くなり、この夢もいつか見た妙な夢に似ているなと思いつつ意識を失った。

     *

 気だるさに襲われながら歩美は目を覚ました。カーテンから漏れる光が眩しくて仕方ない。いくら二日酔いとはいえ、寝すぎた。だが、昨日と違って頭の痛みはない。
「妙な夢だったな」
 ベットを整えながら思い出すのは、妙な夢の事。茅ケ崎がヴァンパイアで、自分が襲われる夢。あまりにリアルで、生々しかった。
 現実の茅ケ崎は本当にいい人で、何処にでもいるような平凡な顔立ち。彼がヴァンパイアなど、まして人を襲うなど考えられない。
「何であんな夢見たんだろ?」
「……おはよう」
 戸惑い気味の茅ケ崎の声がリビングから響く。
「おはよう」
「気分は?」
「いいよ。迷惑かけてごめんね」
 手早く身支度を整えてリビングに姿を現す。時計は八時頃だったはずだが、外は昼のように明るい。
 テーブルにはコンビニで買ったらしい、サンドイッチとオレンジジュース、サラダが並んでいた。
「気を使ってくれなくてもいいのに」
「いや、でも――」
「茅ケ崎君は本当にいい人だよね」
 その言葉に、茅ヶ崎はまじまじと歩美を見つめ、顔をそらし、哀しそうにため息を吐く。
「どうしたの?」
「……何でもない」
 茅ケ崎の様子が気にはなったが、歩美は深く追求しない事にした。誰にだって秘密の一つや二つはあるものだ。それを追求するほど自分は下世話ではない。
 オレンジジュースは好きなのに、何故か飲みたいと思わなかった。オレンジの酸味のある甘い香りが鼻腔をくすぐるが、よい香りだとは思うが、ちっとも美味しそうとは思えない。
 そんな自分自身に首を傾げつつ、歩美は義務的にオレンジジュースに口をつける。
「……不味っ」
 とてもじゃないが飲めたものじゃない。腐り、澱みきった下水の水でも口に入れた気分。口直しにとサンドイッチに手を伸ばす。
「……何、これ」
 まるで砂を食べているようだ。じゃりじゃりと口の中で音がしそうな歯ざわり。茅ケ崎の手前、何とか飲み下すが、とてもじゃないが美味しいなんてお世辞にも言えない。
「美味しくない?」
 心配そうな茅ケ崎の声。歩美は愛想笑いを浮かべつつ、頬が引きつるのを抑えきれない。
 突然、茅ケ崎は歩美の足元に座り込み、深深と頭を床につける。
「ごめん! こんなつもりじゃなかったんだ!」
「え、何?」
 歩美も慌てて床に正座し、茅ケ崎に向きなおる。
「ごめん! 本当にごめん! 幾ら謝っても足りないけど、本当にごめん!」
「あの、何? とりあえず頭上げて、茅ケ崎君」
「ごめん! 本当にごめん!」
「うん、わかったから」
 自分が謝らなければならないのに、茅ケ崎に謝られ、歩美はどうして良いのかわからない。
「なんていうか、その……僕、ヴァンパイアなんだ」
 にっと、茅ケ崎は大きな八重歯を見せる。
「……は?」
 朝から何を言い出すんだろうか。
「森さん、美味しいからさ」
 茅ケ崎は言い訳がましく言う。
 美味しいって何が? 何か得たいの知れない気味の悪さに歩美は身を震わせる。
 嬉しそう、いや、美味しそうな食べ物を思い出した顔で茅ケ崎はにやついている。
 一瞬意識を飛ばしかけた歩美だったが、気を取り直す。
「――本当なの?」
 歩美の問いかけに、真剣な面持ちで茅ケ崎は首を縦にふる。
 馬鹿なと思いつつ、歩美はあの、妙な夢を思いだし、ぽつりと呟く。
「あれ、夢じゃなかったんだ」
「ごめん」
「……朝起きたらだるかったのも、私に鉄分取らせてたのもそのせいだって事?」
 茅ケ崎は素直に頷く。私の心配をしてくれてるいい人じゃなくて、最初から私の血の為に優しくしてくれていたって事だろうか。
 考えると頭が痛い。
「ごめん。でも、凄く我慢はしてたんだ。森さんの血、美味しい事わかってるけど、土曜日は飲み過ぎてだるそうだったし」
 飲みすぎてってのは二日酔いでって意味じゃなく、血を吸われ過ぎてってことのようだ。
 歩美はどっと疲れを感じる。
「でもさ、」
 茅ケ崎は気遣うように言葉を続ける。
「本当に美味しいんだよ、森さんの血。あの頃と味変わってなくて、ちょっと感動しちゃったよ」
「あの頃って?」
「時々寝てたでしょ?」
「……保健室か」
 そう言えば、昨日のような事があったかもしれない。
 あの頃、部活に一生懸命だった歩美は、授業中よく眠っていた。教室の机というのはいかんせん寝心地が悪い。だから昼休みを利用して保健室のベットの中にもぐり込むこともあった。だが、保健室で寝れば寝るほど体はだるさを増していた。良く眠れるから深く眠り過ぎているのだろうと思っていたら……そう言う理由だったのか。
「なんでそれならそうと最初に言ってくれなかったわけ?」
「僕がヴァンパイアだってわかっても普通に接してくれる? 頼んだら吸わせてくれた?」
「しなかったわよ」
 即答。当たり前でしょとばかり、歩美は茅ケ崎から一歩遠ざかり、睨みつける。
「っていうか、絶対に近づかない」
「――でしょ?」
 言われなれているのか、茅ケ崎にダメージの様子はない。
「あんた、その為に私を留めようとしたわけ?」
 茅ケ崎はほとんど、いやまったく食事をしなかった。けれど、だからって茅ケ崎が吸血鬼だなんて普通絶対思わない。
 茅ケ崎はおかしそうに首を振り、
「それは思い過ごし」
「……そう」
 バツの悪い顔をしつつ、歩美は玄関に向かって歩を進める。
「どこ行くの?」
「帰るのよ。お世話になりました。どうも有難う」
「いや――」
 茅ケ崎の声を振り切るようにドアを開けた歩美は、そのまま硬直した。
 眩しい、なんてもんじゃない。
 熱い、ギラギラとした容赦ない光の渦。
 茅ケ崎は急いでドアを閉め、茫然自失の歩美をリビングに運び床に寝かせる。急いで氷枕を抱かせ、冷たいスポーツドリンクを飲ませる。手元にあったどこかのパンフレットで扇いでいると、歩美は落ち着いてきたらしい。瞬きを繰り返し、やがて説明してくれそうな茅ケ崎を不安げに見つめる。
「こんなつもりじゃなかったんだ」
 扇ぎながら、茅ケ崎は頭を下げる。
「……どういうこと?」
 喉は何日も水を飲んでいなかったかのようにヒリヒリと焼け付いている。歩美は不味いスポーツドリンクをそれでも飲み込む。
「怒らない?」
「怒るって?」
 何か、これまでに感じた事のない程の嫌な予感。
「あの時は他に手がなくて……これは適切な処置だったと思うよ。森さん、死にかけてたし」
「……何の事?」
 尋ねる歩美の背中を冷たいものが走る。
 死にかけていた? どういう意味だろう。彼はヴァンパイアで、私は死にかけていて――それはきっと、血を吸われ過ぎたからで……。
 吸血鬼映画のワンシーンが頭に浮かぶ。それを即座に否定する。
 そんなことあるわけがない。
「だからさ、生き返らせようとして――わかるでしょ?」
 マイペースな茅ケ崎が腹立たしい。歩美はわからないと首を振り、
「もうちょっとわかりやすく説明してくれる?」
「森さんもヴァンパイアになったんだよ」
 ノー天気としか言いようのない笑顔。
 ふつふつと湧き上がってくる感情は怒りだろうか。歩美は冷静に分析するが、そればかりとは言い切れない。様々な感情混ざり合い、蠢いている。生まれてこの方始めての心理状態だ。
 にこり、歩美は恐ろしいくらいの微笑で茅ケ崎を見つめる。体と心が歩美自身、不思議なほどアンバランスに動く。見た目は静かに、内部ではこれ以上ないくらいドロドロと。
「じゃ、あんたの血、吸わせて?」
 声の調子はいつもの歩美だったが、その奥に含まれる感情は暗くて深い。茅ケ崎はそれを感じ取っているのか、青ざめた顔で首を振る。
「どうして?」
「えっと、あの、同属の血を飲むのはど、どうかと思うよ」
「そうかしら?」
「それに、ええっと、第一まずい」
 嘘だ。明らかに、その動揺の仕方は嘘。そう言えば、夢だと思っていた記憶の中で、何かとても美味しい物を飲んだ覚えがある。あれはもしかしなくとも彼の血、だったのではないだろうか。
「――美味しすぎてダメって事?」
「いや、えっと……」
 怪しいくらいに動揺している。どうやら確信をついたらしい。
「同属の血を吸うなんて倫理的に――」
「寝てる同級生の血を吸うのは良いんだ?」
「だから、ごめん!」
 深深と頭を下げる。どんなに頭を下げられようとも、もうどうしようもない。
 歩美は茅ケ崎を壁際まで追い詰め、肩口に歯をたてる。本能的にどうすれば血が吸えるのか理解していることに気づく。何ともやるせない。
 観念した顔の茅ヶ崎はされるがままといった表情。
「美味しい」
 しばらく啜ってやっと歩美は茅ケ崎の首元から牙を抜いた。口元を滴る血を歩美は舌で舐めとる。
「――だろうね」
 当然だとばかり茅ケ崎は呟き、
「想い人の血ってのはまた格別だから」
「想い人?」
「字のごとく。自分の事をどんな感情でも良い、考えている相手の血は格別なんだよ」
「へ〜」
 歩美は感心顔。
「恐怖が最高のスパイスと言われてた時期もあったけど、昨今は親愛の情を持っている相手の血が一番美味しいと言われてるんだ」
 茅ヶ崎は首元に手をやり、指についた自分の血をペロリと舐める。その様子に目を離せず、歩美は上の空で尋ねる。
「茅ヶ崎は私に親愛の情を持ってるってこと?」
「ずっと好きだったからね」
 ふてくされたように茅ケ崎は呟き、バンソウコウと呟きながら寝室に消えた。
 好きだった?
 血が、ではなく私自身をと言うことだろうか? でも『だった』って過去形だから、今はそんな風に思っていないのかもしれない。いや、そうだろう。高校卒業して十数年。ずっと思いつづけてるなどありえない。
 歩美はようやく納得し、肩口にバンソウコウを貼り付け、再びリビングに登場した茅ケ崎に確認しようと声をあげる。
「今のって――」
「血を通して感情伝わったでしょ?」
「どういう事?」
 歩美は首を傾げる。
 薮蛇だったかと小さく呟き、茅ケ崎はヴァンパイアについて説明し始める。
 茅ケ崎をヴァンパイアにした男はずいぶんたくさんの人間の血を吸い、魔力を蓄えていた。だから、茅ケ崎には吸った人間の血を通して相手の感情や考え、時には記憶までも読み取る事ができる。
 だが、茅ケ崎は最近最低限の食事しかしていない。一ヶ所に滞在しているのが長くなりすぎ、血を吸いにくくなってきている為だ。引越しを考えるも、今の暮らし環境が肌に合っているため、引越し予定を延ばすばかりしている。
 魔力をさして持たない茅ケ崎が誠心誠意込めて歩美をヴァンパイアにしたところで、血を吸う最低限の力しか持たないのは仕方のない事。単純にしもべ――魂のない人形を作りだすのであれば簡単だったが、そんなことはしたくはなかった。
「よくわからないけど、私は何の能力もないって事?」
「そう」
「だけどヴァンパイアだと」
「そう」
「人間的な生活はできないわけ?」
「できるよ」
 茅ケ崎は戸棚の中から錠剤が入っているらしき薬瓶を取り出す。張り付いた笑みを浮かべたマッチョな外国人の写真と、英語ではない小さな文字が書かれた栄養補助錠剤のようなもの。
「これは日光がへっちゃらになる薬、こっちは銀に触っても大丈夫な薬、それはニンニクを食べても問題ない薬――」
「どこで売ってるわけ? こんな怪しいもの」
「普通に。カタログとかネットのショップ」
「……世も末ね」
 しみじみ歩美が呟くと、
「そうかな? 便利な世の中だと思うけど?」
 きょとんとした顔で茅ケ崎は答える。
 日光がへっちゃらになる薬をもらい、歩美は外へ出る。記憶にあるより太陽光が眩しが、先ほど感じた身を焦がすほどの物ではない。
「森さん、どうする?」
「どうって?」
 駅に向かって歩きつつ、のんびりと会話する。足をひねっているため歩美は早く歩けない。そんな歩美に合わせるように茅ケ崎もゆっくり歩いている。
「今後の事だよ」
「別に。こんな薬があるんなら今まで通り生活するけど?」
 その言葉に茅ケ崎が重い息を吐き、
「食事代はかからなくなるけど、薬代がかさむし、食事をとるのも大変だよ。今の世の中」
「……何が言いたいの?」
「好きでしょ?」
「何が?」
 茅ケ崎が何を言いたいのかわからず、歩美はむっと顔をしかめる。押し問答のごとき会話がわずらわしい。
「一緒に暮らさない?」
「……何で?」
 歩美はまじまじと茅ヶ崎の顔を見やる。
 茅ヶ崎は確かに面倒見がいい。今回の責任をとろうと思っているのかもしれないが、歩美自身に生活力がないわけでもなく、今まで通り一人でも十分やっていくことができる。薬さえあれば今まで通りの生活を送ることも不可能ではなさそうだ。だから、わざわざ責任をとってもらわなくてもいい。
 考え込む歩美を見やり、茅ケ崎は忍び笑いからやがて大笑いになる。
「だから、振られたんだよ。森さん」
 歩美の中に流れる血は、明確に気持ちを表しているというのに、本人はまるで気づいていない。大事なことほど見えない、わからないのだろう。
 そう思うと茅ヶ崎はおかしくてたまらない。
 自分が描いていた森歩美という女性像と、実際の森歩美はずいぶん隔たりがあった。
 それを知ることができた嬉しさ、そして、気持ちを告げる言葉の難しさ。なんと言うべきか考えていると、
「どういうことよ!」
 自分の知らないことを茅ヶ崎が知っている。その事実に歩美は顔を赤くし、同時に腹を立てていた。
「いや、えっとね……」
「はっきり言いなさいよ」
 歩美に言われ、茅ヶ崎は開き直る。本当に天然な彼女にはストレート過ぎるくらいがちょうど良いのかもしれない。
「結婚して下さい」
「…………え? いや、あの……その……」
 思ってもみなかったことを言われ、混乱し、取り留めのない言葉を歩美は吐き出す。茅ヶ崎はおかしそうに笑い、
「別に今すぐ答えてくれなくていいよ」
「何よ、それ」
 むっと反論しかけた歩美の眼前に、小さな紙片を差し出す。
「何?」
「きっと必要になるだろうから。僕の連絡先」
「いらない」
「とっときなよ」
 すばやく歩美のバッグに滑り込ませる。携帯だの財布だのが邪魔をしてすぐに取り出せない。
「もぉ、何するのよ」
 いらだつ歩美に、茅ヶ崎はマイペースなまま、
「電車の時間は大丈夫?」
「ヤバイ。じゃ」
 挨拶もろくに交わさず、歩美はそそくさと切符を買い、電車に乗り込む。
 発車を知らせるベルが鳴り響く中、息を整えつつ構内を見やると、茅ヶ崎が笑みを浮かべこちらを見ていた。発車の警笛が鳴り、電車が徐々に動き出しても、茅ヶ崎は手を振ったりはせず、ただ、何か確信している表情でこちらを見ている。
 何もかも見通したその顔に腹立たしさを覚え、歩美は背を向け、座席に座り込む。バッグを漁ると、先ほど茅ヶ崎に渡された紙片。
 あまり上手くもない字で、ただ一行、電話番号が記されている。
「何よ」
 破ろうかとも思ったが、今が車内であることを思い出し、財布のポケット、レシートの束に突っ込む。

 アパートの鍵を開け、帰宅した歩美は数日前まで馴染みの我が城だったはずの部屋が、なんだか他人の部屋のような気がして首を傾げた。
 わずか数日だというのに、どうしてこんな疎外感を感じるのだろう?
 不信に思いつつも、いつも通りの行動をとる。パソコンの電源を入れ、部屋着に着替え、コーヒーを淹れる。いつも通りのはずなのに、そこに違和感を感じて仕方がない。
「どうして?」
 自問するが答えはない。
 とにかく、いつも通りに行動することだと自分に言い聞かせ、メールとニュースのチェックを行う。
 やがて、増してゆく違和感の正体が「不安」なのだと気づく。迷子の子供のように、不意に親がいなくなってしまった絶望的な孤独感。湧き上がる感情を簡単に説明するならばそれしかない。
「なんで? ここは家よ? 私は茅ヶ崎の家から帰ってきて……茅ヶ崎?」
 茅ヶ崎の事を考えた一瞬、不安感が柔らいだことに気づく。
「茅ヶ崎に関連してる? 連絡先、どこだっけ?」
 財布の中身をばら撒き、数字の書かれた紙片を探す。レシートにまぎれ込ませた紙片はなかなか見つからず、泣き出しそうな自分を無理やり押さえ込み、レシートの山をかき分ける。
「あった!」
 震える指で携帯のボタンを押す。

「茅ヶ崎!」
 絶叫。
「……森さん、思ったより時間がかかったね」
 電話口から聞こえてくる苦笑交じりの茅ヶ崎の声。はっきりと安堵する自分の気持ちを歩美は自覚する。
 嬉しい反面、腹立たしい。
「あんた、これ、どういうことよ」
 我慢しようとするが、思わず涙が溢れ出しとまらない。茅ヶ崎は歩美の言いたいことをゆっくり聞き取り、
「森さん、説明するより体験してもらったほうが納得するタイプみたいだから……」
「どういうことよ?」
 子供のようにしゃくりあげながら、歩美はつっかえつっかえ言葉を紡ぐ。これほど泣くのは十数年ぶりだろう。
「森さん、ヴァンパイアになったのは今朝だよね? 生き物って大抵は生まれてしばらくは親と一緒にいるでしょ?」
「……で?」
 なんとなく予想しながらも、歩美は茅ヶ崎の言葉の続きを促す。
「親である僕から離れるなんて、今の森さんの精神には無理なんだよ」
「何よ、それ」
「何って言われても……そういう風になってるわけだから」
 弱り声の茅ヶ崎。今まさにその状態を体験している歩美は、確かにそういう風になっているわけで。
「納得できないけどわかった。でも、そうしたら……だから、あんなこと言ったわけ?」
「違う」
 真剣な声。
「でも、その説明を電話でするのは野暮だからしない」
 そう言われ、歩美は頬を染める。
「それで森さん、この後どうするの?」
 いつも通りのマイペースな口調に戻った茅ヶ崎が優しく尋ねる。
「どうするって?」
「その状態じゃ、今まで通り一人暮らしは無理でしょ?」
「……うん」
 不承不承といった口調ながらも、歩美はうなづく。ここで強がってみても、孤独感に押しつぶされそうだという感情など、自分ではどうしようもないのだ。
「帰っておいでよ。最低限必要なものだけ持って」
「ちょっと、帰るってどこによ? ここが私の家よ?」
 茅ヶ崎は声を立てて笑い、
「言い直す。僕の家に来なよ。駅で待ってるから」
 一方的に電話は切れた。
「……何よ、無茶なこと言って」
 腹立たしげに呟きつつも、歩美の手は小さな旅行カバンに荷物を詰めてゆく。

 駅までの道を飛ぶように駆け、やってきた電車に飛び乗る。車中は茅ヶ崎への恨み言を呟きつつも、目的の駅が近づき、見覚えあるシルエットが目に入ると、嗚咽に変わる。
 誰かに押されるようにして降りた構内には今朝方、車窓から見たままの茅ヶ崎。
「お帰り、森さん」
 優しい笑みを浮かべた顔。
 存在を目にすると、電話以上の効き目があることを歩美は実感する。飛び込んで来いとばかり両手を広げた茅ヶ崎の手前で、歩美は泣き崩れる。
 茅ヶ崎は照れ笑いを浮かべつつも弱りきった顔で、うずくまる歩美に近寄り、
「お帰り」
「……ただいま」
 歩美は、声をあげて泣きたい衝動にかられながら答える。
 表現しようの無い爆発的で凶暴な感情が暴れている。まるで小さな子供だ。自分の無力さ、そして親という存在の偉大さ、絶対性。
 世界は茅ヶ崎を中心に回っている。
 今、そう言い切れてしまう自分自身に、不思議と奇妙さを感じない。
「……確かに、結婚するのが一番手っ取り早い隠れ蓑かも知れないわね」
 良い歳した男女が一緒に暮らすとなると、世間をあざむくカムフラージュとしてはこれ以上のものはないだろう。
「そういう意味で言ったんじゃないんだけど……」
 不満そうに呟いた茅ヶ崎の言葉は、泣き疲れ、うとうとし始めた歩美の耳には届かない。
「ちょっと、ここで寝ちゃダメだよ」
「……わかってる」
 言葉ではそういいつつも、まぶたは重い。小さな子供同様、あがらえない様子で眠りの世界へ落ちてゆく。
 弱りきった顔をしながらも、茅ヶ崎はあの夜と同じように歩美を抱きかかえる。
「ごめん、迷惑かける……」
 睡魔と闘いつつ、歩美は何とか声にする。
「それは言わない約束でしょ?」
「……ごめんね……」
 安らかに眠る歩美の顔に、茅ヶ崎はあきらめ混じりのため息をつく。
「本当、森さんってこんな人だとは思わなかった」

『やさしい闇の』をご覧いただきありがとうございました。

2006/01/05 友人達と作ってる同人誌に載せてた作品をちょいと手直し+原稿用紙10枚分くらい書き足し。書き上げてみたらあまりにも長くなったので、後半文章削ったものを同人誌には載せてました。で、削る前の文章……探してみても見つからず。どうやら削除してしまったようなので、新たに書きました。記憶力のあいまいな私なので、「たぶん」最初書いてたのもこんな感じだったと思います。もっとハッピーエンドだった気がしないでもないですが、誰にも見せてない話なので比較しようがありません。
最初は単にお酒飲んで絡んでる女の人が書きたかっただけのような気がします。あと、月を見あげてる男の人。

2006/06/13 誤字脱字訂正等 
2006/10/01 誤字脱字訂正
2007/07/14 脱字訂正
2012/01/19 訂正

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