死神少女

心残りは何ですか

「心残りは何ですか?」
 平穏な日曜日の昼前。待ち人来たらずな状況で、駅前を行きかう人々の人間ウォッチングに精を出している状況下。男に声を掛けてきたのは、見た目十七歳くらいのコスプレ娘。黒いレースがごちゃごちゃした、ひらひらのロリータ服。顔は可愛いくても、宗教娘とお友達になるのは面倒だ。
「俺、カピバラ様信仰してるから」
 しれっと答えて、口中で適当な言葉をつぶやく。声量は相手に聞こえない程度に、ただし、何か不可解な呪文を繰り返し唱えているなと聞こえるように。
 男はこういう時のために小数点以下千桁までは覚えていた。何度か繰り返していれば、五十パーセントくらいの人間は逃げていく。
 それでも食い下がってくる人間にはカピバラ様について詳細に語らねばならない。あの、世界最大のげっ歯類、巨大ネズミのカピバラと同じ名前をした神を祭る宗教の詳細を思いついたまま、勢いだけで。そう。カピバラ様の良いところは、でたらめだってことだ。
 語るタイミングにより、その教義内容は変る。あちこちの宗教を適当にミックスしたものだから仕方ない。そのさじ加減は素人には難しいかもしれないが、路上で無料配布されている教えを説く本を時間つぶしに眺めていれば良い参考になる。
 少女は立ち去らない。しつこいなと思いながら、小数点以下の暗唱を繰り返す。十分以上経ったが、まだそこにいる。立ったまま、男を見ている。
 面倒くさくなり、暗唱をやめる。ベンチに座りなおす。
「何の用? ナンパ?」
 少女はほっとした笑みを浮かべ、同じ問いを繰り返す。
「心残りは何ですか?」
「さあ。別にないけど。それに俺、まだ死んでないから心残りなんて……」
「自縛霊の方て、皆さんそうおっしゃるんですよ」
 少女は微笑む。男は瞬きを繰り返す。
「自縛霊?」
 自分を指差し、男は尋ねる。
「正確には、後一歩で自縛霊っていう危うい方です。ちなみに私はこの地域を担当している死神です」
 小さなポシェットから名刺を取り出す。黒いカードに白い文字で『死神』とだけ、書かれている。差し出されたところで受け取る気もない。少女は名刺をポシェットに仕舞いこむ。
「さあ。私と一緒に冥土に行きましょう」
「いや、あのさ。俺、死んでない」
「亡くなってますよ、一ヶ月ほど前に。死んでるのに死んだことに気づいてない幽霊さんが一番困るんですよね」
 愚痴るように言う。男はベンチに座りなおし、考え込む。彼女の言うことはおかしい。俺は死んでない。俺はここで遅れている待ち人を待っているだけだ。
 少女はポシェットから手帳を取り出し、男の死亡状況を読み上げる。
 あの日、男は急いでいた。駅の階段を駆け上がる。途中、足を踏み外し、階段から転び落ちた。けれど、落ちたといっても五段ほどだ。すぐに起き上がり、駆け上がったことも覚えている。そして、ここにやってきた。約束があったからだ。待ち人はまだ来ない。いつも遅れてくるヤツだから、もうしばらくすれば来るはずだ。
「心残りは何ですか?」
 少女の声が胸に染みる。傷口に消毒液をたらしたように、痛みをともない染み込んでくる。
「俺は、待っているんだ」
「いつから?」
 ずいぶん前から。昼前から。時計の針は十一時を過ぎたところだ。ずいぶん待っているはずなのに、針は進んでいない。いや、俺はここにいた。と男は思い返す。ずっとここで待っていた。あの日の昼前から。あの、階段を落ちた日から。
 思い出してみると、おかしなことに気づいた。男は、ずっと彼女を待っていた。ずっとここで待っていた。けれど彼女は来ない。
 目を閉じ、目を開ければいつも昼前だ。時計を何度も眺め、人の波を眺め、時間が過ぎるのをただ待つ。約束した彼女が来るのを待っている。
 彼女はいつも遅れてやってくる。悪びれた様子なくやってきて、簡単に謝るだけだ。デートプランを作っていても、その通りに行動したことはない。用事があるからと、途中で帰ってしまうことも多い。
 彼女はいつも遅れてやってくる。けれど、絶対にやって来る。だから、男はいつも待っていた。彼女が無理して時間を作り出しているのを知っていたから、男は怒りもせずに待っていた。
「でも、もう来ないか」
 男は立ち上がる。よく見れば、人々の服装も違ってきている。今日はもう、あの約束の日ではない。月日は過ぎてしまっている。
 男は少女に向き直る。
「待たせたね、死神さん。行こうか」
「遅くなったわ」
 背中から声をかけられた。男は振り向く。目の前に彼女がいた。男がずっと待っていた女だ。男は声をかけようとしたが、彼女は男をすり抜け、ベンチに座る。
「私、いつも遅れるんだから、急がなくても良かったのに……」
 女は涙を流しながら、曇った空を見上げている。まるでそこに男の姿があるかのように。
 男は女の瞳を見つめる。女の瞳の中に映し出された空は形を変え、色を変えてゆく。けれど男の姿は映らない。彼女は男を見出さない。
「来てくれてありがとう」
 男は告げて、少女と共に天へ上っていった。

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『心残りは何ですか』をご覧いただきありがとうございました。〔2011/07/20〕

ずいぶん前に1/3程書き上げていた文章を発見して、補完。最後まで書いた文章があったはずだが、それが見つからない。たぶん、こんな感じの内容だったはず。

2012/01/18 訂正

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