ラムダ

彼女の幸福

 田中祐介の視界を右から左へ、白いワンピース姿の美女が滑るように通り過ぎた。まるでドラマのワンシーン。雨に濡れそぼるのにも構うこと無く、彼女は歩いていく。
 昼過ぎから降り始めた、うっとうしい梅雨の雨。降水確率は高くなかったはずだが、傘を持ち歩くべきだったと反省する。
 コーヒーショップの窓際の席。止む気配のない雨足を祐介は眺めていた。そんな視界の中に、彼女は突然現れた。まるで空中から現れたかのように。けれど、通り過ぎてゆく人は誰も驚いていない。そんなことある訳がないと思いながらも、祐介は彼女を目で追い続ける。漆黒ともいえる長い髪は、雨で頬や肩に張り付き、幽玄の怪しさを漂わせる。
 彼女はきょろきょろと周囲を所在なげに見つつ、歩いている。だが、顔に困惑の色はない。周囲の人間は雨に濡れないよう早足に通り過ぎて行くばかりで、彼女に気をとめるものはない。彼女は疲れた顔色ながらも、雨宿りする気はないらしい。
「あ、」
 祐介が小さく声を漏らしたのは、彼女と目が合ったからだ。何の拍子か、彼女が振り返った。白い右腕にたらり、赤い糸が見えた。それを怪訝に思い、見つめる祐介の視線に彼女が気づいたのだ。永遠とも思える一瞬。祐介は女と見詰め合う。彼女は不思議そうに首をかしげ、均衡は破られる。女はどこへとも無く歩み去ってゆく。祐介から見れば右から左へ。
 あたたかなコーヒーを飲み干し、席を立つ。まるで幽霊のような女だったなと祐介は思ながら、雨の中を駆け出した。

 用事を済ませ、コンビニで傘を購入した。仕方ないとはいえ、無駄な出費だなと思う。雨の中、透明なビニル傘を手に歩く。湿度が高いせいか、傘をさしているのに、濡れている気がしてならない。
 女がいた。あの女だった。三十分ほど前に目撃したコーヒーショップからそう遠くない場所に、まだあの女はいた。雨の中、ずっとそこにいたのか、青白い顔で震えながらたたずんでいる。
 間近で見れば、思っていないほど綺麗な女だった。日が暮れ、色差の強くなった黒髪は何よりも美しい色で彼女を彩っている。
 不躾な祐介の視線に気づいたのか、彼女は顔を向けた。髪と同じ色の瞳に平凡な男の姿を映している。彼女は不思議そうに首を傾げ、ふいと視線をはずす。
「あの、」
 思わず祐介は声をあげる。なぜ自分がそんなことをしたのか理解できず、女に聞こえていなければ良いと思いながらも、気づいて欲しいと願う。
 女は今、やっと目が覚めたというような表情であたりを見回し、
「ここ、どこですか?」少々ぎこちない発音で尋ねる。「私は、どうしてここにいるんでしょう?」
 言葉ほど深刻そうな様子もない女の表情だが、そこに冗談の色はなく、
「道に迷われたんですか?」
「道? いいえ――どうやってここに来たのかもわからないのに……」
 ドラマや小説でよくある記憶喪失というやつだろうか。祐介はまさかと思いつつ、
「自分の名前はわかりますよね?」
「私? 私は――」
 女は考えこむ。深刻な表情。どうやら本当に、覚えていないらしい。厄介なことになった。こういう場合は病院だっけ? それとも先に警察?
 そんな折だった。
「いた!」
 女の怒声が当たりに響いた。燃えるような赤い、長い髪の女が眼光鋭くこちらを見つめている。コスプレのような薄汚れた灰色のマントに、長い緑色のワンピース。
 彼女はおびえるように女を見やり、そっと祐介の後ろに隠れる。
「あ、あの女はお知り合い、ですか?」
 彼女は首を振り、あいまいに言葉を濁す。
 忘れているだけなのか、それとも本当に知らないのか。どちらにしろ、あまり関わり合いになりたくない人種だ。
 雑踏にまぎれようと足早に歩き出す。彼女はすがるように、祐介の後に付いてくる。空を切り裂くような鋭い音がし、祐介が足を出しかけた地面に小さな穴があく。
 思考がついてこない。
 あれか、あれなのか? 鉄砲、ピストル、ガン、いろいろ呼び名はあるが、あれを持っている上、人目がある場所でも発砲するような危ない人なのか?
 祐介は恐る恐る女を振り返る。女の手には何も握られていない。こちらを指差しているだけ。瞳が凶悪に光り、口角が凶悪な笑みの方向に曲げられる。
「逃げるって何? ミドリ、あんたを見つけるのにすっごい苦労したんだけど?」
 燃えるような赤い髪の女が口の端を上げて笑うが、目は笑っていない。ただひたすらに怖い。
「あの人、本当に知り合いじゃないの?」
 彼女はしばらく考え、戸惑い気味に首を振る。
「わからない」
 女は近づいてくる。まとっているオーラは常人のものではない。とにかく怖くて走る。彼女の手をしっかり掴み、離さないよう固く握りしめ、一目散に走る。
「待てっ!」
 待てっていわれて待つ馬鹿がどこにいる。
 全力で走る。後ろから、足音はしない。まいたかと振り向いて見やれば、常識はずれなことに空を飛んでいる。
「嘘だろ!?」
「魔法……?」
 ポツリと彼女が口にする。不意に体が浮き上がる。
「え?」
「ちょっと、ミドリ! あんたなんで私から逃げるんだよ」
 追いかける女は焦った声をあげる。
「どこに行きます?」
 彼女は静かな声で尋ねる。祐介はとりあえず、自宅のある方向を指さす。彼女は建物の間を縫うように飛び、女はもっと高くに浮かんでいたが、やがてこちらの姿を見失ったらしい。ゆっくり下降して行く姿が見えた。
「ミドリさん、そろそろ降りませんか」
「それ、私の名前でしょうか?」
「だと思いますよ。あの女、あなたのこと知ってるようだったし。もうそろそろ、地面に足をつきたいんですけど」
 電柱より少し高いくらい、と、落ちたら確実に痛いだろうが、運が良ければ死なないかもしれないという微妙な高さが一層怖い。
 ミドリに腕を握られ、ぶら下がるような格好でいる。体重を支えられている感じはないが、それでも怖い。
 ずいぶん長く宙を飛んだ。走るより少し早いくらいのスピードだが、足元がおぼつかないと怖いこと、この上ない。
 人気のない路地で着地する。すぐに人気のある道に出て、人ごみに紛れる。何となく安心する。
「あの女と何があったの?」
 歩きながら尋ねる。
「さあ」ミドリは首を振る。「何も思い出せないんです」
「そっか。でも、あの女。君のこと知ってる風だったよね」
 怖い思いをしてでもあの女に尋ねるのが手っ取り早そうだが、命の危険がありそうなのはいただけない。しかも、危ない道具を持って追い回しているとなれば、目の前の真面目にいるおとなしそうな美女の正体が知りたいような、かかわり合いになりたくないような……微妙な感じ。
 ここでミドリと別れるのは簡単だが、記憶のない女性を見捨てることは人道的にどうかと思う。警察に身柄を任せるのが一番良い……よなと祐介は判断する。
「ミドリさん、警察、行きましょうか?」
「警察?」
「あなたの身柄を保護してくれますよ」
「保護……?」
「あなたを守ってくれます」
「……守る……守る、守らなきゃ……いけなかったのに……」そうつぶやき、ミドリは震え始める。「……姉上……」
 ふらりと意識を失い、崩れる。
「え? 何、どうしたんです?」
 突然倒れたミドリに、通行人たちがざわめき立つ。救急車という声も聞こえたが、祐介はミドリを抱えて人気のない道へ入る。公園に屋根のついたベンチがあったので、そこにミドリを寝かせ、コンビニに飲み物と食料を買出しに出る。雨に濡れてしまい、肌寒い。

 戻ってみれば、ミドリは意識を取り戻し、不安そうな顔で辺りを見回していた。
「大丈夫ですか?」
 祐介の言葉にミドリは一瞬、戸惑う表情を見せたものの、先程の男だと思い出したのかうなずく。
「ここ、どこですか?」
「どっかの公園です」
「公園……?」
 ミドリは首をかしげる。
「寒いだろうからホット買ってきたんです。あと、サンドイッチで良かったかな?」
 ミドリは不可思議そうな顔で、手渡された缶コーヒーと袋に入ったサンドイッチを見つめている。
 プルタブを開け、コーヒーを飲む。袋を向いて、サンドイッチを食べる。ミドリは祐介の仕草を真似、コーヒーを一口ふくむ。
「夏が近いって言っても、夜はやっぱり冷えますね」
 雨にぬれた衣服が冷たい。
「ここにも四季があるんですか」
 ミドリは不思議そうな顔で言う。
「そりゃありますよ。え? 何か思い出したんですか?」
「たぶん、少しだけ」
 ミドリは言い、呪文を唱える。一瞬で衣服が乾く。
「え? どうやって?」
 祐介はただただ驚くだけだ。
「魔法です。ここには魔法はないんですか?」
「……ない、よ。じゃあ、あの女も魔法が使えるってこと? 飛び道具を持ってるんじゃなくて?」
「あの女――ああ、ファミリアさんですか」
「知り合い……なの?」
「はい。とても優しい人なんです」
 ミドリは寂しげに笑う。祐介の目から見る限り、そんなふうには全く見えない。
「立ち入ったこと聞いてもいいですか?」祐介は言いおいて「あなた、何者なんですか?」
 ミドリは祐介の目を見つめ、微笑む。
「私は別の世界にいた、魔法使いです」
「魔法使い?」
「はい。私は……姉を守るために作り出されたのに」苦しげに唇を噛み締める。「姉を見殺しにしてしまった」
 大粒の涙があふれ、頬を流れ落ちてゆく。彼女はとつとつと語る。彼女の語る内容はドラマのようで、ピンとこない。魔法が使えるなんて、おかしな話だが、祐介はそれを体験している。追いかけていたあの物騒な女も、魔法使いなのだろう。
 どんなことでも、と彼女は自嘲気味に笑う。姉のすることに反抗などすべきではなかったと。
「そんなことないですよ」
 と、祐介は思わず言う。田舎にいる、姉の何と横暴なことだったか。あれの言いなりになって一生を終えるなど、人として誤った人生だと確信をもって言える。ミドリの姉がどんな人なのかなんてわからないけれど、これほど妹を困らせる人がまともな人のハズがない。
「アッハッハ――見つけたよ! ミドリっ!」
 嘲笑が降ってきた。暗い夜空を見上げる。坐禅を組んだような格好で、赤毛の女が急降下してくる。ピタリとミドリと向き合う位置で、空中にとまる。
「はん。魔王を舐めんじゃないよ。この世界で魔力の反応があるとすれば、あんた以外いないんだ」
 女は凶悪な顔で、楽しげに笑う。優しい人には見えない。女は笑いながら言う。
「私の目が黒いうち、あんたを死なせたりなんて絶対させないよ」
 ミドリは気圧されたように、言う。
「ファミリアさん」
「アオイを殺したのは私だ。どうして私を憎まない?」
 女は強い瞳で問う。
「違うわ。姉を殺したのは私――」
「いいかい? スペリオに選ばれ、スペリオの手をとったのはアオイだ。あんたじゃない。あんたが責任をおう必要性なんてこれっぽっちもありゃしないんだ」
 怒ったように言う。ミドリは首を振る。
「なんで自分自身を責めてるのか私には理解できないね。まったく、まじめで責任感が強いってのも考えもんだね」
 そのままの格好で後方へ移動し、地面に足を付く。ミドリは泣き崩れる。
「大丈夫?」
 祐介は駆け寄る。
 ミドリは声を押し殺し、泣いている。
「私は、もう存在している理由なんてない」
「それは、あんたが決めることじゃないっての」
 女は尊大な態度。悪人っぽい雰囲気は微塵も崩れない。どう考えても、この女がいい人だなんて思わない。
「私が魔王になった以上、森で暮らす人間に、不幸だなんて顔はして欲しくないね」
「……ごめんなさい」
「謝るのもなし、湿っぽいのは嫌いなんだ。言っただろ、あんたの姉さんの人生とあんたは別だって」
「でも、」
「だ・か・ら、」
 女は短気だ。そして、口調は荒い。
「あんたは幸せに暮らしてりゃいいんだよ、お前」
 不意に振られてたじろぐ。
「ミドリはこっちに残してくからあとは頼んだよ」
「え?」
「どうせ戻って来たところで、村もなけりゃ、居るところもないんだ。あんたのこと信頼してるみたいだし、帰ろうと思えばミドリ一人でも何とかなるだろうし、さ」
 言って懐から一冊の本を取り出し、ミドリに押し付ける。
「帰還するための魔法、ここに書いといた」
「ファミリアさん」
 本を胸に抱き、ミドリは声を震わせる。
「湿っぽいのは大っ嫌いだ」
 ミドリは目に涙をためながら、唇を笑みの形にする。反対に女の顔はますます不機嫌そうだ。
「お前、ミドリのこと頼んだよ」
 ファミリアはすぃっと空へ浮かび上がると、空中に魔方陣を浮かび上がらせ消えた。嵐が過ぎ去っていったような気がした。
 呆然と立ち尽くしていた二人だが、
「本当に、彼女、良い人だったんだね」
 ミドリはうなずき、祐介を見やる。
「私、こっちの世界で幸福になれるでしょうか?」
 祐介はなんと答えていいのか、答えに戸惑う。ようやく、言葉にする。
「がんばるしかないよ」
 祐介は微笑みながらミドリを見やる。ミドリは微笑み返し、
「そうですね。がんばります」
 と、答えた。

終わり

| 目次 |

『彼女の幸福』をご覧いただきありがとうございました。〔2011/11/02〕

2011/12/19 一部修正
2012/01/18 訂正

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