Love Story

別名・恋人の樹伝説

一:出会い

 降るように散る桜の花があまりに綺麗で、岸田美代は食べかけのサンドイッチを口元に運びかけたまま、頭上を見上げていた。
「美代、桜食べる気?」
「へ?」
 間抜けな返事を返す美代の口の中へ、ふわり、花びらが迷い込む。思わずむせ返るが、暗に反し飲み込んでしまう。涙目になりながら声を掛けてきた友人――高藤望美を見やると、
「ばーか」
 意地悪い笑みを目元に浮かべながらも、済ました顔で小さく俵握りされたおにぎりを食べている。誰もが『お嬢様』と称する容姿をした彼女の性格が、ずいぶんひねたものであることは親しいもの以外知らない。
「あ、そうだ――」
 望美は周囲にはわからない程度に邪悪な笑みを顔に浮かべ、
「この桜にはね、あるまことしやかな噂があるのよ」
低い声で笑う。
「な、何?」
 恐い話がまったく駄目な美代はすくみあがりつつも尋ねる。
「恐い話じゃないの。おば様にお聞きしたのだけれど――」
 望美の叔母はこの学園の理事長をしている。しかも、ここの出身者でもあるから、入学したばかりだというのに望美は妙にこの学園のことに詳しい。
「この桜の樹はね、別名・恋人の樹と呼ばれていて、」
「こ、恋人っ?」
 美代は食べかけのサンドイッチを思わず口から噴出しそうになり、再びむせ返る。望美はむっと表情を険しくするも、そのまま話を再開させ、
「――この桜の花びらを飲み込んだものはきっちり一週間以内に恋に堕ちるらしいの」
 そう言って自分の腕時計に目をやる。入学祝に買ってもらったという黒いベルトに、白のアナログ文字版というシンプルなもの。だが、特注らしく、ところどころ妙にしゃれた細工がされている。
「今、十二時四十三分三十五秒過ぎ、美代が桜を飲み込んだのが二分前だとして、来週のこの曜日、十二時四十分頃には美代から恋人との惚気話を私は聞かされるのか……」
 望美は両手を胸の前で握り締め、美代を見つめる。
「そのときは存分に語ってね、変人の話」
 ニヤリ、極悪な笑みを見せる。
「へ、変人? 恋人じゃなくて?」
 尋ね返す美代に望美は先ほどの笑みを貼り付けたまま、
「この桜の木はね、別名・変人の樹って言って、できる恋人は変人なの。だからみんなこの樹の近くには寄り付かないの」
 言われて美代は周囲を見やる。確かに立派な桜なのに、この桜の下でお弁当を広げているのは望美と美代だけ。皆遠巻きにお弁当を広げ、いや、何か二人を興味津々と言った表情で見ている。
「何でみんな見てるの?」
「何でって、あなたさっき桜の花びら食べたじゃない」
 望美はなんでもないことのように言い、お弁当を片付けはじめる。
「じょ、冗談よね……?」
「観念なさい」
 ぴしゃりと言いやり、
「私は教室に戻るけど、あなたはここでまだ食べてる?」
「ううん、一緒に帰る」
 美代はサンドイッチを三口で食べ、ジュースで流し込む。
「いつ見てもその下品……いえ、豪快な食べ方には呆れるわ」
 小さな声で望美は呟き、美代が片付けているのを横目で見つつも歩き出す。
 変人、変人――と小さく口中で呟き、望美の頭をよぎったのはあの男の顔だった。妙な自信に溢れた瞳、悪魔じみた嫌味な笑みを浮かべた口元。そのくせ、それらはバランスよく配置され、どちらかといえば悔しいことに整った顔立ち――つまりは美形。学園であの男の本質を知らない馬鹿な女達から黄色い声を浴びている科学部部長の安達泰英。
 望美はぶるりと身震いする。
「ま、美代とは接点無いから大丈夫だろうけど……いや、念には念を入れよう、アレは美代には気の毒すぎる」
「アレ?」
 ようやく追いついた美代が望美に声を掛ける。
「え、あ……いや、なんでもないわ」
 望美の慌てる姿だなんて珍しいものを目にし、美代は不思議そうに首を傾げる。
「何? アレって」
「何でもないわ」
 話は終わりとばかりに言われ、美代はそれ以上尋ねることが出来なくなった。



 美代と望美のクラスである一年A組は三階にある。トコトコと階段を上り、ようようたどり着けば教室の前には妙な人だかり。二人は互いに顔を見合わせ、首を傾げる。
「何、アレ?」
「さぁ、何かしら?」
 一歩二歩と近づくにつれ、さっと望美の顔色が変わる。
「……美代、私、ちょっと忘れ物したから……」
「え? 望美?」
 美代は妙なことを言い出した友人を見やる。忘れ物などするタイプじゃない。どちらかといえば、完ぺき主義者。
 望美はすでに階段へ向かい、そろりそろりと退いている。美代に声を立てるなとでも言うように、口元に人差し指を当てながら。
「何?」
 首を傾げる美代の後方で、ニヤリと微笑む男の姿があったことを二人は知らない。



 五時間目の始業チャイムぎりぎりになり望美は教室に戻ってきた。
「どうしたの?」
「ちょっと……ね」
 望美は曖昧に答え、窓際の席へつく。数学のテキストやノートの準備をする。ガラリ、扉が開き担任・樋口沙織が現れる。彼女は現代国語表現の担当をしているため、教室内にざわめきが起こる。
「今から数学の授業ですが、その前に――」
 廊下に立っていた男子生徒を教室内に招き入れる。
「今朝、皆さんに紹介するはずだった本宮秋也君です。本宮君、授業の前だけれど簡単に自己紹介してください」
 紹介された本宮秋也は、両手に抱えていた荷物をその場に置き、ぶきらっぽうに一言、
「本宮秋也です。特技は――」
と、蛇の目傘とサッカーボールをセカンドバックから取り出す。妙なものを持っているものだ、と眺めていたクラスメイト達だったが、一部は期待を込めた熱い眼差しで本宮を見る。
「染之介・染太郎やります!」
 無表情に宣言し、あきれ返る多くのクラスメイト達などお構いなく、本宮は一人黙々と傘を回し始める。はっと我に返った担任・樋口が、
「本宮君、自己紹介済んだら席についてください。……傘回しはもういいから――止めなさい。危ないから止めなさい。止めなさいったら!」
切れ掛かりながらも、傘の上で回るボールを取り上げようとする。
(何で一人染之介・染太郎なわけ?)
 美代がありえないと頭を抱えていると、窓際に座る望美の視線に気づく。望美は邪悪な微笑とともに音無く、ある言葉をつむいだ。
『お・め・で・と』
 思い切りしかめつらを返してやると、望美はふふんと笑いを返す。いつも通りの望美だ。美代は机に突っ伏す。嘘か真かわからない桜の伝説。そして、目の前で中年親父じみた宴会芸を披露している変人。先ほどの望美の妙な態度。いろいろな思いが美代の脳内をめまぐるしく回り、それらを処理しきれず、
「あんたさっさと席に座りなさいよ!」
本宮へ八つ当たりすることにした。教室内は一瞬静まり返ったが――女子中心に黄色いざわめきが巻き上がる。
「キャー」
「やっぱり」
「本当なのね」
「応援するわ」
「噂通り!」
 どうして昼食の時のことを皆知っているんだ、なんてふと頭をよぎったが、逆上して我を失った美代は、
「うるさい! 私はアイツなんか――」
と、ここで壇上の本宮を真っ向から指差す。取り残されていたクラスメイト達が美代を見る。
「好きにならないわよ!」
 美代の爆弾発言に、静寂だった教室内がどっとざわめき立つ。望美は自爆する友人に助け舟を出すでもなく、両肩を小刻みに震わせ、笑いをこらえるのに必死だった。
 突如見知らぬクラスメイトから告白された形の本宮は、ただぽかんと、美代の顔を見つめていた。担任・樋口はうっすらと目に涙を浮かべ、
「皆さん、今は授業中ですよ」
消えそうな声で呟く。美代は我に返り、自分の犯したあまりの失態に顔色を失う。本宮はむっと顔をしかめ、自分へ注がれていた注目をかっさらっていった美代を鋭い瞳でにらみつけた。

ニ:効果は続くよどこまでも。

「鈴音ぇ、いる?」
 妙に間延びした声をあげながら理事長室に入ってきたのは、河村瑠璃子。
「ノックくらいしなさいよ。ノック」
 高藤鈴音は眼を通していた書類から顔を上げ、勝手に応接ソファーに腰をおろした友人に声をかける。二人は小学校時代からの腐れ縁だ。
「あ、お茶は良いわよぉ、淹れてくれないから持ってきたの」
 持参のバスケットから食器を取り出し、魔法瓶からコーヒーを注ぐ。用意の良い事に、鈴音の好きなケーキまで。
 さっさと帰れ、の意を込めてお茶を出さなかった翌月から瑠璃子はバスケットを持参するようになった。
 大好きなケーキの誘惑に負け、鈴音はソファーへ移動する。
「ほら、見て見てぇ。またお見合い写真持ってきてあげたわよ。私って友達思いよねぇ」
 鈴音がケーキに口をつけると、途端はじまるのが瑠璃子の漫談。
 大学在籍中に結婚・出産した瑠璃子は、来月には三十路に手が届く親友の鈴音が結婚していないことに、妙な危機感を抱いている様子で、飽きもせず毎月、お見合い写真を抱えて突然鈴音の元を訪れる。
 だが、瑠璃子は何を考えているのか、お見合い写真の相手は見事に鈴音のタイプじゃない男性ばかり。しかも断りきれずに一度した見合いでは相手はすでに結婚しているというジョークのきついものだった。
「あのね、そんなものはもういらないっていったでしょ? 私は結婚する気は無いの」
 ケーキに免じて、なるべく角を隠しつつ断る。
「嘘ばっかり。私、知ってるのよぉ」
 瑠璃子はケーキに口をつけず、怪しい笑みを浮かべる。瑠璃子は甘いものが苦手なくせに、なぜだかいつも甘いお菓子を持参する。甘党の鈴音はいつも喜んでご相伴にあずかっているのだが。
「アレとはまったく、これっぽっちも、針の穴ほども瑠璃子が妄想しているような関係じゃないの」
 瑠璃子が何を知っているのか肝心なところはいつも言わないが、大体のところ鈴音は見当がついている。
「またまた、とぼけちゃってぇ……」
 額に青筋が浮かぶのを見ると、瑠璃子はやっと口を閉ざし、話題を変える。子供のこと、姑のこと、旦那のこと、近所のこと、親戚のことと、他に話題は無いのか、と言いたくなるほど、いつも話題は代わり映えしない。
 一通り自分の近況を吐露すると、
「じゃ、仕事の邪魔になるから帰るねぇ」
 立ち上がる。
「本当に。今度から来るときは電話入れなさい」
「だって、電話入れたらいっつもいないじゃないのぉ」
 一度だけだろうが、と鈴音は咽元までこみ上げてくる怒りを抑える。悪意が一欠けらも無い瑠璃子に怒ったところで自分が疲れるだけだ。
「あの時はゴメンって言ってるでしょ? 私も仕事があるんだから、来るときにはアポイントメントを取る。それが社会の常識、ルール、最低限のマナーってものよ」
「そんなにガミガミ言わなくっても良いのにぃ……博史さんの会社に行くときはきちんとしてるわよぉ」
 今、何と言った?
 鈴音の額の青筋が増える。
 博史というのは瑠璃子の旦那の名前。
「社会常識あるんなら私にも同じようにしなさいよ!」
「私と鈴音の間じゃないのぉ」
 のほほんと返す瑠璃子。しっかり扉のノブを握っている辺り、世渡りが上手い。
「あとね、結婚するんですってぇ」
 時々、瑠璃子は主語を抜かす。こういうときは大抵、重要な話であることが多い。
「誰が?」
 鈴音は手近にあったボールペンを投げつけようとしていたフォームのまま固まる。
「誰って、川上拓真よぉ」
 瑠璃子がうっすらと微笑んだのは気のせいではないだろう。
「……へぇ、あんな変人と結婚したがる女が地球上にいただなんて驚きね」
「……本当にねぇ。じゃあねぇ」
 含みのある笑みを浮かべつつ、瑠璃子は扉の向こうに消えた。来たとき同様、帰るのも突然だ。
「そうか、アレが結婚するのか」
 一言呟き、鈴音は自分の心に問いかける。嬉しい、ものすごく嬉しい。それは間違いない。けれど、同時に湧き上がってくるこの絶望感というか、妙な不安感。これは何だ? どうしたことだ?
 考えれば考えるほど、何か嫌なことが起こりそうな気がしてくる。アレに関する嫌な予感はあまり外れない。だが、今回はアレが結婚するって話だ。自分とは関係ないはず……。
 あまりの嬉しさに感情が空回りしているんだろうと自分自身を落ち着かせ、鈴音は早退することにした。

 駐車場につき、車のキーを解除する。あと三歩で車の運転席のドアの前。そこで嫌なものを視界に入れてしまった。
「……見間違いであればどんなに嬉しいか」
「僕の顔を見るたびにその発言するよね」
 傷ついた、といった風など一つも無く、満面の笑みで鈴音の車へと歩み寄ってくるカジュアルな、しかし高級な品を身にまとった男。この男こそ鈴音が世界中で一番嫌っている川上拓真である。
「あなた、こんなところで何してるの?」
「何って……ちょっと通りかかって」
 普段、運転手つきの車で移動しているはずの男が、なぜ駐車場を歩いているのか。しかもこの駐車場自体、たまたま通りかかれるような場所には面して無い。
「――運転手は?」
「帰らせた。ちょっと買い物に付き合ってくれないか?」
 最終目的地はやはり自分の元だったらしい。先ほどまでの喜びが、反比例するように下降していく。
「なんで私があなたの買い物に付き合わなきゃいけないのよ」
「指輪を選ぶのに、女性の君が居たほうが良いと思って」
「指輪〜?」
 一瞬、顔をしかめるも、すぐに満面の笑みを浮かべる。
「あぁ、結婚指輪ね」
「――なんで知ってんの?」
 あっけにとられた様子の拓真。鈴音が拓真の前で笑みを見せること自体珍しい。
「瑠璃子に聞いたの」
 鈴音は車に乗り込み、助手席のドアをあける。
「……そう。有難う」
 拓真は不信そうな顔で乗り込み、じっと考え込む。
「瑠璃子ちゃん、他には?」
「別に何も。あ、相手ってどんな女性なの?」
 拓真が見たことも無いほど鈴音は機嫌が良い。それもそのはず。高校在学中、あの桜の伝説のおかげで、鈴音は一つ年下の拓真と恋人同士などといわれる関係に陥っていたのだ。
 鈴音が大学に進学したことで関係は解消されたと思っていたが、恋人同士の主要な行事の日は、何故だか妙なところで拓真に出会う。しかも、二人きりとしかいえない状況に陥る。
 拓真が運命の赤い糸で結ばれている関係だと言えば、鈴音は呪われた関係だと言い張る。周囲からはひたすら仲が良いのねと言われ、それを躍起になって鈴音は否定してきた。
 その苦労もやっと、十数年もかかったが、やっとのこと解消されるのだ。そう思うからこそ、心が弾んでしかたがない。拓真が結婚するのであれば、自分もまともに結婚相手を探すことが出来る。今まではどこからか妙な妨害工作が働いていたが、それもなくなるだろう。やっと。
「瑠璃子ちゃん、もしかして僕が結婚するってことしか言ってないの?」
 拓真は何故か念押しするように声を上げる。
「他には聞いてないわよ。で、相手はどんな人?」
「……いや、ま、素敵な人だよ」
「素敵だけじゃわからないけど?」
 拓真はしぶしぶといった様子で、
「知的で可愛いらしくって、真面目で、女性的。たまにヒステリックなときもあるけれど、基本的にすごく優しい人だよ。たまに、天然入ってるけど」
「うわぁ、惚気てるわね」
 拓真は本気で惚れているらしい。
「どこで知り合ったの?」
「え、いや、学校で……」
 拓真はなぜか言葉を濁す。大学で知り合ったのだろうか。高校では自分を追い掛け回していたことだし。
「名前は?」
「えっと――」
 歯切れが悪い。
「私が知らない人?」
「そんなことも無いけど」
 無いけど、なんだというのだ。名前を言えないとは。
 だが、昔から拓真は変わっていた。変なところで照れているのかもしれない。
「――ま、別に良いけど」
 ハンドルを切り、信号を右に曲がる。
「どこで指輪を買うの?」
「……どこかオススメある?」
「なるほど」
 鈴音はにんまりと笑う。
「ま、男性はあまりジュエリーショップなんて行かないわよね」
「あぁ」
 照れたような返事。
「ところで、結婚指輪なんて大事なもの、婚約者と選ばないでいいの?」
「吃驚させようと思って」
「なるほど」
 鈴音は高校時代を思い出す。校庭で体育をしていたらリボンを頭につけたセントバーナードが乱入してきたり、授業中に蝶ネクタイをしたコモンリスザルが進入してきたりと、それらがすべて拓真のプレゼントだったことを。
 瑠璃子相手だったか、可愛らしい、飼いたいなんて言ったのを地獄耳で聞きつけたのだろう。『高藤鈴音様へ 川上拓真より』なんてプレゼント用のメッセージカードを動物達が持っていたところをみると。
 それらプレゼントを家に連れて帰って大事に可愛がっていた、なんてことは拓真には伝えていないが。
「何? 思い出し笑い?」
 にやつく鈴音に拓真は問いかける。
「いえ、何でも無いわ」
 鈴音は顔を引き締め、ジュエリーショップの駐車場へ車を入れる。店内は静かな音楽に満ち、平日とあって他に客の姿はなかった。
「あのさ、鈴音だったらどんな指輪が欲しい?」
 ブライダルジュエリーコーナーのショーケースにはさまざまなタイプの指輪が並ぶ。どれもオリジナルデザインの一点もの。
「……私が選んで大丈夫?」
 言いつつも、鈴音は嬉しそうに微笑む。
「いいよ。鈴音、センス良いし」
「そう?」
 鈴音は一目見て気に入った指輪を指差す。どうせ、自分が結婚指輪を求める頃には売れてしまっているだろう。人気のある店だから。
「これ、包んでください」
 拓真は店員に声を掛ける。
「ちょっと、他のは見なくていいの?」
「いいよ」
 拓真はあっという間にカードで支払ってしまい、嬉しそうにラッピングされた品物を受け取った。
「あ、サイズは良かったの?」
 自分の指のサイズで指輪を選んでいたことに思い当り、鈴音は尋ねる。
「別にいいよ」
 拓真はあっさりと答える。
 婚約者は自分とおなじサイズなのだろう。
 特に不自然なことではないのだが、鈴音は妙に引っかかるものを感じた。だが、拓真が結婚するという喜びのあまり、深く考えようとはしなかった。

三:過去を知る男

 ふと窓の外を見た望美は大きくため息をついた。嬉しそうな顔をした河村瑠璃子の姿を見かけて。
(また何か企んでいるわね……)
 叔母の高藤鈴音はしっかりしたキャリアウーマンタイプなのだが、どこか抜けていて、瑠璃子をなぜか全面的に信用している。誰もがクセモノと評価する女に丸め込まれ、人生、かなり操られている。
 しばらくして、笑みを浮かべた鈴音が帰ってゆく姿を見かける。そのずっと先、校門のあたりには川上拓真の姿。
(瑠璃子さん、今度は何をする気だ?)
 授業中だというのが口惜しい。それも瑠璃子の計算上かも知れないが。
 どうやらキャスティングは完璧らしい。拓真は何気なさを装って鈴音に近づき、何があったか(この辺が瑠璃子にまるめこまれたんだろう)鈴音は彼を車に乗せた。しかも満面の笑みで。
「チェックメイト」
 チェスの得意な瑠璃子の嫌味な声が聞こえた気がした。

 それから三十分もしてようやく授業終了の鐘がなる。誰にも聞かれないよう屋上に上り、携帯から鈴音を呼び出す。コール音が数度響き、ようやく通話状態になる。
「叔母様、瑠璃子さんに何を言われたのっ!?」
「……相変わらず元気だねぇ」
 その声は川上拓真。
「なんであんたが叔母様の携帯に――」
「鈴音は今、運転中で出られないからね、授業は終わったの?」
 叔母が近くにいるときは瑠璃子も拓真もいつも完璧ないい人を演じる。鈴音には何度かそれを訴えたが信じてもらえない。
「どこに行ったの? それともまだ向かってる途中?」
「ジュエリーショップに行ってたんだよ。結婚指輪を買いに」
 望美は落としそうになった携帯電話を慌ててつかみなおし、
「ちょっと冗談でしょ?」
「いや、本当」
 瑠璃子はどういう罠を張ったんだ? 鈴音がおとなしく拓真とともに結婚指輪を買いに行くなど……まったくもって考えられない。鈴音が大嫌いだと胸を張って言うほどの拓真と一緒に結婚指輪を買いにいかせる言葉――暗示か催眠でも掛けたか?
 考え込んでいた望美はそっと近づいてきた人影に気付かなかった。
「誰に電話しているの?」
 身の毛もよだつ声が真後ろからした。慌てて振り向き見れば、予想を違わぬ顔。
「……な、なんでこんなとこにいるのよ?」
「なんでって――」
 考え込むそぶりを見せるが、それはただのジェスチャーに過ぎない。答えはいつも決まっている。
「望美の姿が見えたから」
 しれっとした顔で安達泰英は答える。頭に血が上るのを感じ、必死に冷静を取り戻そうと深く息を吸い込む。
「じゃ、私は教室戻るから」
 脱兎のごとく離れた望美に、
「あ、部活のことなんだけど――」
 思い出したといわんばかりの口調の泰英。嫌な予感に、眉間に寄せた皺を隠すこともできず振り向く。
「入部届受理しておいたから」
「……何のこと?」
「科学部への入部届」
 もう一度大きく息を吸い込む。頭に血を上らせたままでは勝負に勝てないどころか、泥沼に引きずり込まれる。
「私、入部するだなんて一言でも言った事あった? それどころかここ数ヶ月まともに顔を合わせていないし、口もきいていなかったわよね?」
「おばさんに頼まれたんだよ。あの子は人見知りするから、くれぐれもよろしくって」
 あの母親ならば言いそうだ。数年前、望美の父と再婚し後妻として入ってきた今の母。いい人なのだが、いい人過ぎて人を疑うということがない。
「どう言いくるめてそういう発言を引き出したのか知らないけれど、私が人見知りするタイプじゃないって事くらいよぉく分かってるはずよね?」
 嫌みったらしく言ってやる。
「人見知りはしなくても友達がいないことに変わりないよね」
 望美がとても気にしていることを言い放つ。望美はもう一度深呼吸した。熱くなったらそこで負けだ。
「望美の過去を知る人間は絶対に近づかないんだから」
「……言うな」
 腹の底から絞り出すようなうなり声。望美の脳裏に甦る忌まわしき思い出。
 二ノ宮金次郎の銅像には時限式の発火装置を巻きつけた。校長先生の写真にも同じように発火装置を設置した。そのせいで校舎の一部が炎上したが、望美が当時、理事長だった祖父の孫ということでもみ消した。自分としてはいつもしている悪戯に毛の生えた程度のつもりだった。
 まさかあれほど大騒ぎになるなど夢にも思っていなかったのだから。
「当時を知っていて、なおかつ話をする人間は僕しかいないだろ?」
 哀れみを含んだ口調。当時もその件について庇ってもらったのだが、それもこれも元はと言えばいじめられっこだった泰英を守ろうとして望美が幼いながらに考えた結果だったのだ。
 数年前に戻れるならば、あんな悪戯など絶対にしない。やらせない。そして泰英になど関わらない。
 不意にチャイムの音が響く。
「六時限始まっちゃう!」
 慌てて望美は早足で教室へと急ぐ。泰英はそんな望美の後姿を嬉しそうに見守り、ゆっくりと歩き出した。
「雨、降るかもしれないな」
 空を見上げてつぶやく。空にはどんよりとした雨雲が徐々に増えてきていた。

 一日はようやく終わり、帰りの帰途につく。
「雨降ってる……望美、傘持ってる?」
 美代が下駄箱から靴を出しつつ尋ねる。目線はグランドに降る雨を見つめている。激しい降り方をしていないから、走れば駅までそう濡れないだろう。
「持ってるわけないでしょ」
 望美は答え、ちらり泰英の顔を思い出す。たぶん、傘を持っている上、確実に貸してくれるだろう。だが、あの男には関わらないと誓っているのだ。その考えを頭から振り払う。
「木下さんは?」
 美代も最近ちゃっかりしてきた。
「父の出張についていってるから、二日ほど前からいないのよ」
「そうなんだ」
 お抱え運転手の木下さんは、中年のベテランの運転手で、車は道の上を滑るように走る。車に酔いやすいと言っていた美代だったが、一度木下さん運転の車に乗ってからは車に乗りたがるようになった。
「――ってことは今日はおば様運転の車?」
「ええ」
 美代は鞄を抱えさっさと雨の中に飛び出す。
 木下さんと違い、母の運転は天災的だ。今日のような天気の日、母が代わりに迎えにきてくれたのだが、生まれて初めて望美は車酔いというものを体験した。
「ごめん、先に帰るね」
 言いつつも走り出している。マイペースな母に顔を合わせたら最後。強引な親切心を発揮し車に連れ込まれることは目に見えている。
「また明日ね」
 手を振って見送る。
 一緒に帰りたいところだが、迎えにくるとせっかく言ってくれている母の親切を無下に断ることもできない。仲は良いのだが、やはりどこかに遠慮しているのかもしれない。
 望美は大きくため息を尽き、しだいに雨脚を強める空を見あげた。

四:効力発動

 いつもより少々遅れて登校した望美は、教室に入ってすぐ、そこに妙なものを見つけた。いつもならば遅刻ぎりぎりでやってくる美代がすでに席についており、アンニュイな視線をどこか空中にさ迷わせている。春、ではあるが、美代の周りだけ異常に春めいた空気が立ち込めている。
 意を決したように望美は美代の席に近づき、真正面から声をかける。
「おはよう」
 妙に幸福そうな笑みを浮かべた美代は気づいていない。
「お・は・よ・う」
 美代は望美の顔をしばらく見つめ、
「……あ、望美か。ごめん、気づかなかった」
「――みたいね。何かあったの?」
「え? 何が?」
 困惑した顔。
「何があったの?」
 いつも以上に話にならない。
「うん……えっとね、」
 泣きそうな、嬉しそうな、不安そうな、それでいて幸福そうな。一人で百面相をしながら、美代は言葉を濁し続ける。
「ま、言いたくなったらで良いわ」
 席につこうとする望美をとめ、
「違うの、あのね、」
 話したくないわけではないらしい。望美はそっとため息をつき、美代の話を聞こうと向き直る。
 そこへ、ドン、と戸口から壁にものがぶつかった音。振り返った望美はあからさまに顔をしかめた。
 元宮秋也が大きなダンボール箱を抱えてそこにいた。狭い戸口にダンボールをぶつけたのだろう。ダンボールからはミィミィと小さな鳴き声が聞こえる。
 その鳴き声につられるように数人の男女が秋也の周りに集まり、ダンボールの中を覗き込む。
「猫!」
「可愛い!」
「どうしたの?」
 声を聞きつけた周りの人間も集まり、すでに人垣ができている。
「昨日転校してきたばかりの人間とは思えないわね」
 望美が迷惑そうに言葉を漏らす。いつもならば同調なり、反論なり何らかの言葉を美代は返すのだが――。
「ごめん望美、後でね」
 言うと、元宮秋也の元へ駆け寄っていく。昨日の宣言もあり、ざわめく教室内。美代はそんなことにはかまいもせず、元宮が運んできたダンボール箱から子猫を抱き上げる。
 幸福そうに語らいながら、猫をかまっている二人。誰が見ても恋人同士にしか見えず、猫好きな面々は近寄るに近寄れない顔で周囲を取り巻いている。
 望美は納得がいかない顔で自分の席に座り、眉間にしわを寄せて二人を見る。
「あれは……ただの伝説のはずなのに」
 不愉快そうにつぶやく。
「――きちんと説明してもらわなきゃ」

 休み時間も美代は元宮のもとへ猫を可愛がりにいったため、望美が説明を聞く時間はなかった。
 昼休みにようよう彼女を捕まえ、お弁当片手に屋上に連行するように連れて行く。他にも数人生徒がいたが、話を聞かれることはない程度の込み具合。
「猫ちゃんに餌をやろうと思ってたのにィ……」
 残念そうにつぶやく美代に鋭い視線を投げかけ、口元だけはあくまで穏やかに望美は微笑む。
「ちゃんと説明してくださるかしら?」
「……あ、あのね、」
 美代の背中に冷たいものが流れる。席が前後だったので仲良くなったのであるが、『人間、見た目じゃない』って言葉を色濃く友人は体現してくれている。
 お嬢様らしい、ふわりとした物腰。黒髪はあくまで艶やかにストレート。白く、きめこまやかな肌。大きな瞳、長いまつげ、唇は可愛らしく、リップが薄く塗られている。
 絵に描いたような清楚可憐なお嬢様。が、中身はまったく違う。望美と同じ出身中学の学生が遠巻きに彼女を見ているわけが最近わかった。友達としても一癖、二癖あるのだが、敵に回すととても恐ろしい人間だということが――。
「あのさ……恋、したかも」
「は?」
「あの、ね」
 美代の声はだんだん小さくなる。
「昨日ね――」
「間違いよ」
 望美はきっぱり断言する。
「美代が思っているのは間違い。それは恋じゃない」
「でも、」
「でもじゃない。いい? 昨日桜を食べて、私が変人に恋するなんて妙なこと言ったでしょ? 美代は暗示にかかってるのよ。だからそれは恋じゃない!」
「違うよ」
 美代はきっぱりと否定する。
「これは恋よ。望美は恋をしたこと無いからわかんないのよ」
 望美の胸に突き刺さる言葉。
 確かに、恋はしたことがない。それ以前に、望美は誰も信用していない。祖父の手による英才教育の賜物か、人と見ればまず疑う。そして相手を手駒とした場合、どのように使えば良いか、次に、どのように手駒にするかを考える。
 美代はそんな望美にはじめてできた友達で――最初は義理の母に心配を掛けない為に仲良くし始めたのだ。学校の友達の一人として紹介するために。
「――じゃあ、どこがいいの?」
 わからないと全面的に言われれば元来負けん気の強い望美は悔しくなる。書物で得た知識はあっても確かに経験がない。人との駆け引きは上手いが、相手に対し敵か味方か、有能かとるに足らない相手か、という見方しかしたことがない。
 ほんの一ヶ月前の望美であれば、美代のような平凡な人間と仲良くしている今の現状を予測することさえ不可能だった。まして、昨日はっきりと宣言した美代の口から「恋した」なんて言葉を聞こうとは……。
 世界は不思議に満ちている。いくら駆け引きが得意でも、その心情が伺えない人間がごまんといる。
 望美はタコさんウィンナーにぶすりとフォークをつき刺し、
「昨日は『好きにならないわよっ!』って宣言してたじゃない」
 あのときの美代の口調を真似る。美代は照れくさそうに一口大のコロッケを口に放り込み、
「昨日ね、見たの。捨て猫達に傘差し掛けて、頭なでてたのを」
「で?」
「でって……こう、ビビビっと来たのよ」
 その時の猫たち(今朝、元宮がダンボールに入れてつれてきた猫達)が、いかに可愛らしかったか、また動物の可愛らしさについて熱い口調で語り始めた。将来の夢は第二のムツゴロウ王国を作ること、なんて公言してはばからないだけのことはある。
 望美は絶望的にため息をついた。
 美代も変人だったのね――。
 望美は弁当を食べながら、壊れたラジオのように言葉を流しつづける友人の声を聞き流していた。

五:時効はない 

「鈴音ぇ、今からお昼? よかったら食べない?」
 瑠璃子が三段重ねの重箱片手に理事長室を訪れたのは、鈴音がちょうどお昼を食べようかと椅子から立ち上がったときだった。
 タイミングが良過ぎると望美であれば胡散臭く思うところだが、鈴音はそんな風に思わない。昔から、瑠璃子は妙な具合にタイミングが良い、とは思っていても、それを深く疑ったことがない。すべてを『瑠璃子だから』の一言で済ませている。いちいち天然な瑠璃子の言動を疑っていたら、精神的に疲れきってしまうからだ。
 勝手知ったるなんとやらで、瑠璃子は来客用の机の上に弁当を広げ、
「鈴音の好きな鰤の照り焼きにぃ、出汁巻き卵もあるのよぉ」
「じゃあ、いただくわ」
 立ち上がったついでにお茶を用意する。
「――今日はどうしたの?」
「何がぁ?」
「何がって――お弁当までこしらえて何か用なの?」
 瑠璃子からは妙に浮かれた気配が漂っている。今日は何の日だっただろうか。瑠璃子の旦那が関連していれば、そちらに出向くはずだし、こんな風に念入りな昼食を作って持ってくるともなれば自分に関連したこと。でも……。
「私、誕生日じゃないけど?」
 狐につままれたような顔をした鈴音を瑠璃子はおかしそうに見つめ、
「たまにはお昼、鈴音と食べたいなぁと思ってぇ」
 言われてみれば、菓子を一緒に食べることはあっても、昼食をともにするのはずいぶん久しい。
 お茶を一口すすった瑠璃子は感慨深げにつぶやく。
「ここに在学していた頃を思い出すわねぇ」
「そうね」
 相槌をうった鈴音だったが、嫌なものが脳裏を横切り、笑みは曖昧なものになる。あれは拓真が悪いのであって、私は悪くない――いくら自分に言い訳しても、罪の意識は消えない。
「それにしてもぉ、旧校舎はなんで燃えちゃったのかしらねぇ?」
 嫌な汗が一滴。鈴音は料理と黙々と口に運ぶ。
 大変おいしい料理なのだが、あまり美味しく感じることができない。今すぐその話題をうやむやにしたいが、そのような事をすれば妙に勘のいい瑠璃子のこと。気づかれる可能性がある。
「学園祭、焼け跡でやったでしょぉ? 焼け残った木材やらは撤去されたけれどぉ、地面が真っ黒でぇ――だから妙に頭に残ってるのよねぇ」
 その原因を知るのは拓真と鈴音だけ。だが、瑠璃子は何かとその原因を鈴音に尋ねてくる。瑠璃子が何か知っているのではないか、とも勘ぐってみるが、そんなはずはないと鈴音は自分をなだめる。目撃者はいなかったし、その後、誰にも咎められなかったのだから。
 あの火事のあった日はちょうど鈴音の誕生日だった。

「鈴音ぇ、これぇ」
 七限目の授業が始まる間際、瑠璃子から小さな紙片が手渡された。
「何?」
「忘れないでねぇ」
 先生が教室に入ってきたこともあり、瑠璃子は小さく手を振って席へと戻る。鈴音は紙片に書かれた文字を見て、首をかしげた。
『放課後、旧校舎へ。大事な話がある』
 大事な話とは何だろう? そもそも、始終一緒にいるのだからいつ話してもよさそうなのに、なぜ放課後なのだろう?
 授業を終えてから問いただせば良いかと思っていたのだが、その日はなぜか、瑠璃子はすばやく教室から姿を消していた。いつもはどちらかといえば鈴音がいなければ何もできないようなタイプなのに、時々、妙に行動がすばやく、鈴音が捕まえきれないところがある。
 仕方なく、授業が終わってから旧校舎に足を踏み入れる。つい先日まで倉庫代わりに使用されていたのだが、解体間際の今では物が少ない。妙な居心地の悪さ、薄気味の悪さが漂う。
「瑠璃子〜」
 声をかけながら、教室一つ一つを覗いてゆく。旧校舎なんてアバウトな場所なので、どこに彼女が潜んでいるかわからない。
 二階の一室、妙に赤い、ほんのりとした光が漏れてくる部屋を見つけた。
「瑠璃子?」
 覗き込んだ鈴音に向かい、頭上から紙ふぶきが舞った。頭上には割れたクス玉。
 事態が飲み込めず、目を白黒させていた鈴音だったが、目の前にいる川上拓真に気づき、眉間に皺を寄せる。
「何であんたが!」
「お誕生日おめでとう」
「……は?」
 一瞬何のことかわからず、首をかしげる。
 部屋は綺麗に飾り付けられ、ロウソクの明かりがともされたそこは雰囲気のいいレストランの一角といった様相。旧校舎の一室だとは到底思えない。
 部屋の奥にそびえる巨大なケーキ。ロウソクと花火がいっそう派手にケーキを彩っている。手前には白いテーブルクロスの掛かった机が置かれ、美味しそうな料理が並んでいる。
「すごい……綺麗……」
「鈴音、おめでとう。喜んでもらえて嬉しいよ」
 嬉しそうな拓真の声。大きなバラの花束を抱えながら近づいてくる。そこで我に返った。
「瑠璃子の名を語って呼び出すなんて卑怯だわ」
「え?」
 拓真は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに、
「これ、プレゼント」
 いつもながらに鈴音の嫌いな拓真の笑顔。単純に嬉しそうな、けれど何か裏がありそうな顔。
「いらない」
 教室を去りかけた鈴音を拓真は熱心に引き止めようとする。
「受け取ってよ」
「いらないったら」
「他のもののほうが良かった?」
「何もいらない。ついでに、あんたがいなけりゃもっと嬉しいわよ」
「鈴音」
「気安く人の名前を呼ばないで」
「待ってよ、鈴音」
「人の名前を呼ばないでってば。ついてこないで」
 走り出す。
 が、旧校舎を出た辺りで腕をつかまれる。押し問答を繰り返していた二人が火事に気づいたのは、ずいぶん経ってからだった。ケーキの火が引火したらしいことは目に見えて明らかだった。

「えぇっと、私も詳しくは知らないわねぇ……」
 冷や汗を流しつつ、瑠璃子の作った出し巻き卵に手を伸ばす。口に入れると、ふわりと溶ける。甘すぎず、辛すぎず、卵の風味が生かされた味。何度食べても最高。
「美味しい。出し巻きは瑠璃子の作ったのが一番ね」
「いっぱい食べてね」
 しばらく無言で食事を楽しんでいたのだが、お腹が良くなってくるとやはり、瑠璃子の来訪目的が知りたくなる。二日続けて、しかも弁当まで持参など今までにない展開だ。
「今日は何の日なの?」
 瑠璃子は楽しそうに微笑むだけ。
「何かあったの?」
 尋ねても、首を傾げとぼける。
「何かあるの?」
「ヒント、いるぅ?」
「そりゃ……あるなら」
「ヒントはねぇ、鈴音」
「私?」
 鈴音の顔にクエスチョンマークが増える。
「私のこと? 何のこと、一体?」
「うふふ……」
 答えを言う気はないらしい。
 手早く重箱を重ねると、
「あんまり長居してたらぁ、しゃべりたくなっちゃうから今日は帰るねぇ」
 瑠璃子は入ってきた時同様嬉しそうなオーラを撒き散らしている。
「ちょっと、何なのよ? 私に関係することって」
 ドアに手を掛けた瑠璃子に、すねた顔で鈴音は尋ねる。
 ちらりと後ろを振り向いた瑠璃子は仕方がないといった表情で、
「川上拓真が日取りが決まったって」
「……本当に?」
 鈴音は右手の茶碗を落としそうになり、慌てて机の上に置く。嬉しさのあまり声も出ないとはまさしく今の状態。
「相手は天使? それとも女神? よくもまぁ、あの川上拓真と――婚約したってだけでも凄いのに、結婚するだなんて――」
「本当にねぇ。拓真ちゃん、世界中で一番好きな相手とやっと一緒になれるのねぇ」
 瑠璃子の囁きは舞い上がった鈴音には届かない。
「じゃ、帰るわねぇ」
「またね」
 うつつな鈴音は適当に返事を返し、部屋の中を居ても立ってもいられない様子でぐるぐる歩き回る。
(拓真が結婚! 拓真が結婚! 拓真が結婚!!)
 頭の中をその単語が何度も巡り、午後からの仕事は手につきそうにない。急ぎの用事もないから、連続になるが早退しても差し支えないだろう。とにかく気を落ち着けなければ仕事が手につかない。

六.地獄巡り

「瑠璃子さん」
 正面玄関の前で瑠璃子を呼び止めたのは安達泰英だった。授業はすでに始まっている時間帯――。
「泰英ちゃん、何か御用ぉ?」
 嬉しそうなオーラ全開の瑠璃子に、泰英は眉をしかめた。普段、高遠鈴音が近くにいない時、彼女はおっとりしたしゃべり方はしない。見慣れない振る舞いを見せる彼女が気持ち悪い。いつものように本心を隠した瞳に、含みのある笑みを浮かべた善人ぶった顔の方がまだましだ。
 それを悟ったのか、瑠璃子は顔に浮かべていた笑みを純真なものから裏のあるものに変える。一瞬の、ほんのちょっとした変化だが、まるで別人。
 泰英は睨まれでもしたかのように、目に力を入れる。
「拓真さんと鈴音さんをついに結婚させるんですか?」
「……人聞きの悪いこと言わないでくれるかしら? 鈴音は、自分で自発的に拓真ちゃんと結婚するのよ?」
「裏であなたが手を引いていること、知らないのは鈴音さんだけですよ」
「むぅ」
 可愛らしく膨れてみせる。
「それより、望美ちゃんの方はどうなの? あなたの手には余ってるんじゃないの?」
「関係ありません」
「あら、鈴音の親族は私の親族も同じ。関係ないことないわ」
「……鈴音さんに全てを話しますよ」
「鈴音が信じると思っているの?」
「望美が望んでいないことなら、僕は望美の願い通りの形になるよう努力するまでです」
 その言葉に瑠璃子はぎろりと泰英を睨み付ける。
「私の敵に回る気?」
「望美の為なら」
 真剣な瞳の泰英から視線をそらし、瑠璃子は息をつく。
「――話にならないわね。お子ちゃまの一存で鈴音の一生を台無しにしようだなんて」
「でも、あなたにも鈴音さんの一生を決める権利はない」
「いいのよ、私は」
 瞳の奥に怪しい光を浮かべ、笑う。
「私は鈴音を幸福にする義務があるわ。あなたが望美ちゃんに恩義を感じているように、私も鈴音に恩義がある。だから、なんとしてでも鈴音には幸福になってもらわなきゃならないの」
「あなたの描く幸福と、鈴音さんの描く幸福が違ってもですか?」
「違わないわ。何をすれば一番いいのか、私はわかっている。当人には見えなくても、周囲の人間には見えることがあるのよ」
「それはあなたの我侭に過ぎない」
「何とでも言いなさい。青二才にはわからないことよ」
 身をひるがえし瑠璃子は立ち去る。
 泰英はその後姿が完全に見えなくなってから、ようやく重い息を吐き出した。
 悪魔とも鬼とも言われる瑠璃子を敵に回すだなんて大それた事をしてしまった自分が信じられない。いくら望美の為とはいえ、無茶し過ぎた。
 教室に戻ろうと歩き出した泰英は誰かにぶつかりかけた。瑠璃子との会話で気力を使い果たし、前をきちんと見る余裕がなかった為もある。
「すいません」
 誤りの文句を言いつつ顔を向けた泰英は大きく目を見開き、固まった。
 鈴音はたった今立ち聞きしてしまった話の内容と、見たことのない瑠璃子の言動に驚き、唖然としていた。
「……どういうこと?」
 喉の奥から搾り出したような声。
 疑問符だらけの顔をした鈴音に、泰英はどっと疲れが沸きあがるのを感じた。
(完全に、瑠璃子さんの敵になってしまった……)

     *

 放課後。
 帰宅しようと席を立った望美は嫌な予感にさっと机の下に隠れた。だいたい感は良いほうだ。不信な顔をする美代に、唇に人差し指を当て、ゼスチャーで伝える。
『私はここにいないことにして、お願い』
『わかった』
 美代も慣れたもので目で同意の意を表す。周囲にいるものには二人が会話しているようにはちらりとも伺えない。
『私、先に帰るね』
『え?』
 戸口のほうをうかがうと、帰ろうとしている元宮秋也の姿。追いかけるように出てゆく美代の姿。
(美代……)
 泣き言を言いたい気持ちになる。だが、それ以上に考えなければならない問題が教室前の戸口から現れた。
「高遠さん、いる?」
 男の声にざわめく女生徒の声。
(やっぱり……)
 嫌な予感が的中した。何の用事があるというのだ……? もしかして昨日言っていた部活のことだろうか。
 泰英は周囲にできた人垣に笑顔を向け対応しているが、それが本心じゃないことは望美が一番よく知っている。感情を隠し、他人とコミュニケーションとるのが何よりも得意な男だ。
 一人が熱心に話し掛けているのだろう、泰英の目が教室内から削がれた一瞬をつき、望美は後ろの戸口から廊下へ飛び出す。忍者も格やと言うべき行動力。
 それに気づいたのか泰英も動き出す。とりあえずは囲んでいる女の子達が泰英の行く手を遮ってくれるだろうが、やすやすと下校することはできないだろう。
 それより問題は、泰英に協力者がいるかどうかだ。
 望美がそう考えるのと目が合うのは同時だった。目の前にいた数人の学生が望美の顔にあっと驚く表情を浮かべる。
「ちっ」
 無駄な人望を使って、私のこと拘束する気か。
 そうとなれば……階段を駆け下りる。一階まで降りると見せかけ、二階の階段近くに隠れる。数人が走るように階下へ降りてゆく足音を聞き、じっと気配をうかがう。
 この校舎にある階段は四箇所。今の階段を下りるのが下駄箱への近道だが、罠が張られれているだろう。ほかの道を選んだほうがいい。
 階段を下りる連中の仲に泰英の気配はない。裏を読んで他の階段へ回ったのかもしれない。
 とりあえず、一番近い音楽室に飛び込む。練習していた吹奏楽部の面々が不信そうな顔を向けるものの、部活見学の多いこの時期、すぐに興味ない顔になる。
 音楽室からその横にある音楽準備室へ入る。中にも練習している上級生がいたが、気にした様子はない。開け放された窓から外を見る。
 隣の窓は開いている。確か、パソコン室だっただろうか。
 すばやく窓の外に身を乗り出す。練習している上級生は壁に向かっているため、望美の行動には気づいていない。
 足幅ほどしかない足場をたどり、隣の部屋へ。中にはパソコン部と思われる面々がいるが、窓から乗り込んできた美代に気づく様子もなく画面に張り付いている。
 そっと廊下の扉を開け、外の様子を確認する。幸いなことに誰もいない。静かに抜け出し、女子トイレに入る。
 この学校には正面玄関の他に、北側に裏門と、その外れに獣道のような通路がある。下駄箱は正面玄関側にあるが駅が北側にあるため、多くの学生は裏門を使う。そして、寮生たちは獣道を。
 泰英のこと、頭数をそろえて重要個所に見張りを立てているだろう。正面玄関前の下駄箱、そして、北門。この二箇所に泰英の手のものがいると見て間違いない。人数を確認しておいたほうがいいかもしれない。
 廊下に出て、二年生の教室を二つ過ぎたあたりで、ちょうど中庭越しに正面玄関が伺える。
 下校時間を少々過ぎ、生徒は少ない。きょろきょろとあたりを見渡している生徒が数名、待ちぼうけのような顔をしてたたずんでいる生徒が数名。泰英の手のものと思われるのは七名ほど。泰英自身の姿はない。
 彼らがこちらの顔を知っているとは思えないから、泰英が特徴を教えているか、写真を見せられているかのどちらかだろう。それならば勝機もある。
 女子トイレに取って返し、いつもは垂らしたままの髪をツインテールに変える。スカートも腰で折り返し、少々短めに。美代からもらった大き目のキーホルダーをかばんに取り付ける。顔見知りでもない限り、気づかれないだろう。
「これで良しと」
 美代の歩調を思い出しながら歩き出す。胸は不安で高鳴っていたが、態度には表さない。堂々としていればしている分だけばれる確立は低い。

 泰英は首をひねった。望美の姿を見かけてからすでに十五分が経過しようとしているが、一向に望美を捕まえたという連絡が入ってこない。
(倒されたか、拘束されたか……)
 いや、と首を振る。そんな暴力的な行為はしないと誓ったのは自分の前でだ。今は嫌われているとはいえ、以前の自分にずいぶんなついていた望美が約束を破るとは思えない。
 計画的な行動をしているようで、好戦的な性格から望美はずいぶん安易な道を取る。彼女の考えを読むなら単純に考えるのが一番だ。
「……下駄箱だな」
 望美の性格上、靴を履き替えずに帰るとは思えない。協力者には礼とともに終了を伝える。
 正面玄関まで下りた泰英は思ったとおり、そこに目的の人物を見つけた。変装しているとはいえ、望美がどんな格好をしていようとも泰英には見分ける自信がある。
「望美」
 声をかけられるなど思ってもいなかった様子で、望美は慌てふためき逃げようとする。
「鈴音さんのことで話があるんだ」
「叔母様のこと?」
 くるりと振り返る。望美が懐いている数少ない人間の一人、鈴音さんのことになると態度が変わるのはいつものことだ。
「場所を変えよう」
 泰英は説明もせず歩き出す。振り向かなくても望美はついてきているだろう。

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