あなたの好きな人。

あなたの好きな人。

プロローグ

 夕日が沈んでゆく。世界を黄昏色に染めあげ、名残惜しそうに、光を雲に投げかけながら、ゆっくり、確実に。
 この町で一番大きな川の河原。一級河川ではないけれど、両岸は整備され、芝生と歩道用のタイルが張られている。所々にベンチ。先ほどまであった犬の散歩をする人や、ジョギングする人たちの影はすでに無い。取り残されたような、二つの人影。
 染め上げられた赤銅色の川面に少年――大介はどこから見つけてきたのか、足元に石山を築いている。一つ手にとり、思い切り川へ――。水面に三つの円を描き、石は川底に沈んでゆく。
「今度は良く飛んだじゃん」
 ベンチに座り込み、ぼんやりした表情の女子高生――絵里。
「さっきより少ないよ」
 大介は絵里の顔を見ることなく、すねた口調。
「そうだっけ?」
 いつもならばまだみんなで遊んでいる時間だったが、今日は週に一度の塾の日。みんなは塾に行ってしまった。だから、塾に通っていない大介は絵里を独占でき、とても嬉しかった。
 けれど。最初は二人で遊んでいたのだけれど、何をやっても二人だけだと面白くない。絵里は飽きてしまったのか、座り込んで動かない。時折大介に茶々を入れるものの、立ち上がる様子はない。だから大介も一人で遊んでいるしかない。
 大介は石を拾ってまた投げる。
 強く投げすぎたのだろう。石は大きな波紋を一つ作るとそのまま沈んでしまった。
「ストライク」
「違うって」
 足元の石に手を伸ばしたところで、母・久子の声が響く。
「大介、ご飯よ。帰ってらっしゃい」
「わかったー!」
 ベンチに座り込んだ絵里を見る。沈んでゆく夕日を見つめたまま、大介に目もくれない。
 歩き出した大介だったが、
「絵里ちゃんはいつ帰るの?」
 不安になって振り向く。このまま夕日とともにいなくなってしまいそうな気がして。
「もうちょっとしたら」
 絵里は夕日を見つめたまま。
「もうちょっとってどのくらい?」
「大介、ご飯だって言ってるでしょ!」
 久子の声が近づいてくる。大介は慌ててリュックから目覚まし時計を取り出す。
「これ、あげる」
 ベンチの端に置き、駆けてゆく。
 青い縁の目覚まし時計。今日こそは久子が呼びに来る前に帰ろうと、腕時計を持ってない大介はリュックにいれて来たのだ。
 水音にかき消されそうな小ささだが、正確に時を刻む音。大介の気配が消えると、絵里はそっと振り向き時計を手に取った。


一.

「月日が経つのは早いもんね」
 母が帰ってくると、急に家の中は慌しい空気に変わる。回覧版を持っていっただけの母・久子が出かけて、ゆうに一時間は経過している。声に嬉しそうな気配があるから、いつもの井戸端会議で花を咲かせていたらしい。
「私も歳をとったもんだわ、嫌になる」
 お茶とおせんべを手早く用意し、ソファに腰掛ける。チャンネルを替えながら、誰に言い聞かせている風でも無いのに、井戸端会議で仕入れたニュースを披露する。
 母がいないことを良いことにリビングのソファに深々と腰を掛け、テレビをつけっぱなしにしたまま、雑誌を広げていた大介は自室へ引き上げようかどうしようか迷いながら、適当に相槌を打っていたが、
「今、何て?」
 いつもなら完全に聞き流してしまうところだったが、聞きなれた名前に反応し、顔を上げた。
「草上さんちの絵里ちゃん。もう二九歳ですって」
「へー」
 当然の事と言えば当然。絵里は大介より六歳上なのだ。わかってはいても、他人の口から聞くと妙な焦りを覚える。
「早くいい人見つかればいいのにねぇ」
「あんな男女、一生無理だろ」
 無関心を装って、再び雑誌に目を落とす。
 大介が小さな頃、絵里は遊び仲間の一人だった。小学生に混じって、当時女子高生だったはずの絵里は探検ごっこや昆虫採集に参加していた。
 だが、大介が小学六年になる頃、彼女は遊ぼうとしなくなった。受験勉強をしている、と聞いたのは誰からだったか。当時は意味がわからず、ただただ彼女がなぜ突然勉強などやり始めたのかに戸惑いを覚えたものだ。仲間内で一番木登りが上手く、昆虫採集もお手の物。草木、虫の名前にも詳しい、絵里はそんなヤツだった。
「あら、そんなことないわよ。絵里ちゃん、今度お見合いするんですって。話がまとまればあっという間よ」
 我がことのように嬉しそうな母の声。頷きかけた大介は顔色を変え、引きつった表情を隠せないまま、
「み、見合い? 絵里が?」
「お見合い写真見せてもらったけど、なかなかの男前だったわよ」
 母は相手の男の特徴、職業、趣味などをあげつらう。
「――こんな条件のいい相手、今時いないんじゃない?」
「絵里は、なんて?」
 大介は平常を装い尋ねる。煎餅とテレビに夢中な久子は息子の様子に気づかず、器用に言葉を返す。
「喜んでるんじゃない?」
「……」
「ちょっと大介?」
 不意に部屋を出て行く息子に声をかける。
「どこいくの?」
「部屋」
「夕飯には降りて来なさいよ」
 男の子は成長すると何を考えてるんだかわからない。久子はそんな事を思いつつ、時計に目をやり、洗濯物をしまわなきゃと立ち上がった。

 大介は自分の部屋に引き上げ、パソコンの電源を入れる。
 パソコンデスクの背後には天井まで届く本の背表紙の壁。部屋には机とベット、大きな本棚が押し込まれ余分なスペースは無い。けれど、本は増えつづけている。
 下で読んでいた雑誌をもう一度開いてみるが、読む気にはならない。目を上げると、まだ起動中の画面。表示速度は遅い。いつも以上にイライラする。三年前にアルバイトしつつ一年ローンで買ったパソコンだから、仕方ない。
 ようやくデスクトップが表示され、続いてメッセンジャーが起動する。

マックス:こんにちは。今日は早いね

 彼女は偶然画面の前にいたらしい。彼女を示す画像は、いつもながらにふてくされた顔の犬。絵里の家で以前飼っていたブルテリアのマックスだ。

ds:こんにちは
マックス:この間言ってた本、面白かったよ
ds:良かった
ds:でも、良く見つけたね。あの本、なかなか手に入らないと思うんだけれど
マックス:友達に貸してもらった

 絵里に本を勧めたのは大介。そして、貸したのも大介。絵里は「ds」の正体に気づいていない。
 大介がメッセンジャーを始めたのは二年ほど前。話し相手を探し、相手の公開プロフィールを見ていた時、偶然、見知った犬の写真が目に入った。チャットしてみて、それが絵里であるとすぐにわかった。
 最初はすぐに正体をばらす予定だった。けれど、なんとなく、ずるずると正体を隠したまま大介は絵里とチャット友達になってしまっている。

マックス:他にもオススメある?
ds:あるけど……手に入りにくい
マックス:教えて!
マックス:探すから

 タイトルをニ、三列挙する。どれも絶版か、廃盤で入手困難な物ばかり。しばらく絵里の書込みは無く、時間が過ぎる。

マックス:本当だ、無いね
マックス:あっても取り寄せ……

 ネット上の本屋で検索をかけたのだろう。いつもながらに行動が素早い。

ds:友達に当ってみたら?
マックス:そうだね。そうする
マックス:持っててくれると良いな

 絵里が『友達』に寄せる信頼。自分自身の事なのに、何故だか大介は腹立たしい。今すぐ、全てを暴露してしまおうか? ダメだ。そんな事できない。

マックス:ds?
マックス:いない? ds?

 しばらく返事を返さないでいると、絵里が呼びかけていた。

ds:ごめん
マックス:忙しいの?
ds:いや、別に
マックス:忙しいんだったら落ちるよ?
ds:大丈夫
ds:ちょっと話あるんだけど、いい?
マックス:いいよ、何?

 絵里は面倒見が良い。人の相談にはすぐ乗ってくる。
 片想いの相手がいる、と絵里には言ってある。去年のクリスマス。勇気を振り絞り、でも絵里が混乱しない程度にゆっくり、自分の正体を匂わせつつ、自分の好きな相手は幼馴染で、年上で……語ってみたのだけれど、言葉が遠まわし過ぎたのか、絵里はそれが自分のことだと気づかなかった。今では良き相談役となってくれている。哀しいやら、嬉しいやら。

ds:彼女結婚するかも
マックス:え? 告白しようかって言ってた相手?
マックス:ds結婚するの?
ds:そう
ds:違う。結婚するのは彼女
マックス:彼女が誰かと結婚するって事? 告白したの?
ds:そう。告白はまだ
マックス:まだ告白してないの? 早く言ったほうが良いよ

 出来ればしてる。
 どんなに時が経とうと絵里との年齢差は縮まない。絵里は常に年上で、自分は常に年下。その関係も変わらない。
 自分はまだ若い。比べ、絵里は二九歳。自分が告白して、良い答えが返ってくる率は低い。その上、良い答えが返ってくるとしたら即結婚を迫ってくる可能性は限りなく高い。好きだけど結婚は早いと思う。だから言えない。
 どうすれば良いか。どうすれば最善なのか。
 このところ、頭の中をフル回転させている問題は、当人には重大でも、他人にはたいした事の無い話なのだろう。アドバイスはやたら「告白しろ」しかない。
 
マックス:男は当って砕けろ
ds:わかってるけど、いざとなると言えない
ds:ストレートな方が好き?
マックス:告白はストレートな方が成功率高いと思うよ
マックス:って、もしかして私に聞いてる?
ds:そう
マックス:時と場合によるかな。あと、相手

 相手。相手による……大介は頭を抱える。何度頭の中でシュミレーションしてみても答えはでてこない。

マックス:彼女、結婚するって誰と?
ds:結婚と言うか、見合い
マックス:じゃ、まだわからないじゃない?
ds:いや、こっちの分が悪過ぎ
マックス:彼女が見合い相手を気に入ってるの?

 わからない。どうなんだろう? 好条件だと母は言っていた。そして、
「喜んでるんじゃない? ……喜んでる……喜んで……」
 母の声が脳内に響く。絵里は、昔の絵里ならばそんな事はありえないと言いきれるけれど、現在の、三十歳目前の絵里はどうなのだろう? 見合いをするって事はやはり結婚願望があるって事で……。

ds:条件良ければ結婚するよな、見合いだし
マックス:いや、相手と会って見なけりゃわからないでしょ?
ds:マックスはどうする?
マックス:どうって?
ds:見合い相手が好条件で、特に相手もいないとき

「晩御飯出来たわよ〜!」
 母の声が家中に響き渡る。
「わかった!」
 早く食卓へ向かわなければいけない。マックスはまだ応答のメッセージを入力していない。じりじりとした焦り。
「大介、早く降りていらっしゃい!」
「わかったって!」
「ダイスケ〜♪」
 母が歌い出した。一歩ずつ、踏みしめるように階段を上ってくる音が聞こえる。
 夕食は全員そろってが唯一の家訓だから、守れない場合はかなり強制的だ。

ds:ごめん、落ちる

 挨拶もそこそこにパソコンの電源を切る。
「夕飯出来たって母さん言ってるのよ〜♪ 聞こえないの〜♪」
「わかってるって」
 大介が部屋のドアを開ければ、そこには母の姿。
「まったく、呼んだらさっさと来なさい。何してたんだか知らないけど」
「わかったって言っただろ?」
「聞こえません〜♪」
「自分が歌ってるからだろ」
 見せ付けるようにため息をつくが、母には効果が無い。


二.

「あ、」
 草上絵里は思わず声を上げた。パソコンの画面には相手の不在を告げるメッセージ。
「ds落ちたか……」
 軽い落胆と共にメッセンジャーを閉じ、メールの確認を行う。たまたまメールチェックをしようとしていたところにdsがやってきたのだ。
 絵里がネットを始めたのは大学生の頃。進学した大学は他県にあり、一人暮らしを始めた絵里にとって、友達は多いほど良かったからだ。
 その頃は趣味の合う人とチャットやメールのやり取りをしていたのだが、大学卒業と共に離れ離れになった友人とやり取りをするだけになってしまった。仕事でパソコンを使っているのに、家に帰ってからパソコンに向き合う気にはなれなくて。
 メッセンジャーを始めたのは数年前、友人に勧められてだ。dsと知り合ったのはその後、ここ二年くらいになるだろうか。彼の方から突然、絵里に話し掛けてきたのだ。最初は戸惑っていた絵里だったが、相手がただ犬好きで、自分と趣味の話以外しようとしない事がわかると、友達以上に彼との会話が楽しくなっていた。
 そして、冬くらいから彼の恋の相談を受けている。dsが好きなのは幼馴染の年上女性。彼は告白することが不安らしく、まだ出来ないと言う。
 dsがどこの誰だか絵里は知らない。わかっているのは、彼とは趣味が合い、話が合い、片想いの彼女がいるってこと。
 そして、その彼女は今度、自分と同じように見合いをするらしい。彼の気持ちなど知らないまま。

『条件良ければ結婚するよな、見合いだし』

 彼の言葉が頭に引っかかる。まるで自分の事を言われているみたいで。
「いい人が見つかるまでのんびり探せば良いのよ」
「運命の人が早く見つかればいいわね」
「今は晩婚が流行りっていうのかしら? だから大丈夫よ」
 そんな決り文句を聞きはじめたのはいつからだったか。何度も聞いているうち、現状で満足しているはずの絵里も三十歳目前に焦らなければならないような気になる。
 結婚願望がないわけじゃないけれど、今すぐ結婚したいわけでもなく、相手もいない。それに「いい人」なんてものが道端にごろごろ転がっているわけでもなく、店先でワゴンセールをやっているわけでもない。どこでどう見つければいい物やら絵里には皆目検討がつかない。
「お見合い結婚か」
 声に出してみて、おかしくなる。自分が結婚して、子供を育ててるなんて未来図が思い描けない。
 両親に言わせればいつまでも子供っぽいせいなのかも知れないが……お見合いは、結婚を前提としてお付き合いする相手を選ぶのだ。相手は真剣、だからこちらも真剣に。自分に言い聞かせてはみるものの、やはりどこか滑稽さを感じずにはいられない。

『マックスはどうする? 見合い相手が好条件で、特に相手もいないとき』

 dsの言葉が頭の中に響く。
「そりゃ結婚すると思うわ」
 なんて簡単に返せなかった。自分が今、その立場にあるから。

『どうする?』

 どうすれば良いんだろう。条件が良いから結婚する? 付き合っているうち、相手を好きになる?
 母に言われ、品書きは穴が開くほど目を通した。それは相手も同じだろう。相手のデータは持っているが、肝心の本人には会った事が無い。いや、明後日には国際ホテルで会食をする事になっている。
 手元にある見合い写真を開く。写真の中の相手はお見合い用の妙に優しげな笑みを浮かべ微笑んでいる。
 奇妙な事だ、と絵里は思う。相手のデータは知っているのに会った事が無い。会った事の無い相手に向かって、こうやって好意的な笑みを浮かべているのだから。
「この人と結婚するの? 私」
 何だか妙だ。妙な具合だ。そう思うとクスクスと笑えてくる。
「何笑ってんの、絵里」
 母が奇妙な顔で部屋の中を覗き込む。
「何?」
「夕飯、手伝って」
「はいはい」
 パソコンの電源を切る。


三.

「あ、篠田君」
 バス停の前に佇んでいるスーツ姿の人影に絵里は元気良く手を振る。篠田大介は絵里の姿を見とめはするものの、はにかんだような笑みを一瞬浮かべるだけですぐ硬い表情に戻る。
「おはよう!」
「……はよ」
 通勤時間のバスは込み合うから、絵里は早起きして一つ前のバスに乗ることにしている。大介も同じ考えのようで、良く一緒のバスに乗り込む事になる。
 絵里がやってきて数秒し、バスが滑り込んできた。今日もぎりぎり間に合った。絵里は胸をなでおろし、大介に近い席に陣取る。
「あのさ、篠田君。またまたで悪いんだけど小説貸してくれない?」
「何?」
 大介はいつもながらにぶっきらぼうだ。けれど、大人びた仕草をしようと努力していることが伺え、小学校に入る前から知っている身としては成長したなぁと感慨深い。
 近所の子供達の中で誰よりも絵里を慕っていたのが大介だった。常に絵里の後をついて歩き、絵里が何かするたびにキラキラしたまなざしを向けていた大介。絵里が大学へ進学し、一人暮らしをしている間に大介は変わってしまった。
 見下ろしていたはずの絵里が逆に見下ろされ、どちらかと言うと可愛らしい容貌をしていたのに、すっかり男らしくなってしまった。かわいらしい声で「絵里ちゃん」と呼んでいたのに、生意気にも「絵里」と低い声で呼びはじめた。成長したというべきなのだろうが、昔を知る絵里にとってそれはちょっと寂しい。
「えーと――」
 鞄から手帳を取り出し、昨日書きとめた書名を見せる。大介はさっと目を通し、
「あぁ、ある」
「じゃ、貸して」
「わかった」
 ちらりと絵里の顔色をうかがう。
「何? こないだみたいにアイス奢って欲しいの?」
「いや、」
「好きでしょ? チョコミント」
「好きだけど……」
 何故かすねたような口調。
「何? パフェ?」
「違う」
「じゃ何? ケーキセット?」
 大介は昔から甘党だ。
「違うって。もういい」
「いいって何よ、お姉さんに言ってみなさい。こっちは社会人なんだからね」
 言ってから、ふと気づく。大介も今年から社会人だった。
「いいって」
「良くないわよ」
 年上としての体面ってものがある。一度言った言葉をそうやすやすと引っ込めるわけにもいかない。
 終点の駅前に到着する。ぞろぞろと、他の乗客に続いてバスを降りる。その波に流されるように二人は駅へと向かう。
 改札を抜けたところで絵里が大介を呼び止める。
「あ、そうだ。今日の六時に駅前の広場で待ってるから」
「え?」
「夕食奢ってあげるわ。高くないのを」
「本当にいいんだけど」
「待ってるからね」
 一方的に宣言し、絵里は二番ホームに向かう。


四.

 絵里の姿を見送った大介の頭は半分パニック状態だった。
 まさか夕食に誘われるとは思ってもいなかった。絵里が奢るというのがちょっと難点だが……。
 今朝、大介は告白しようと思っていたのだ。時と場所を選ぶべきだというのはわかっているが、時間がない。それに彼女と会うのは朝しかない。彼女の顔を見るため、彼女と会話するために早起きしているのだ。お見合いがいつなのか知らないが、とにかく日数が無い。
『男なら当って砕けろ』
 覚悟を決め、いつも以上に早起きしてバス停で絵里を待っていたのに、絵里はギリギリにやってきた。バスの中でもいつもながらに絵里が一方的に話していたため、何も言う事が出来なかった。どうしようかと思っていた大介だったが、絵里の方から誘ってくれるとは思わなかった。
 二人で夕食ってどこで? 何を?
 期待と不安の波が交互に大介を襲う。
 高くないところ……ファミレスはダメだ。蕎麦屋、うどん屋も却下。居酒屋はもちろんダメだろう。じゃあどこで?
 あぁ、まるでデートみたいだな。スーツ良いやつ着てくれば良かった。二日前と同じスーツだし、これ。着替えに戻るか? いや、それは不自然か。でもちょっとばかりこれは……。
 大介が乗る電車がまもなく到着すると言うアナウンスで、不意に我に返る。電車が入ってくるのは一番向こうのホームなのだ。急いでも間に合わない。一本電車を遅らせるしかない。
 こんな状態で仕事出来るのか、俺? でも仕事休めないしな……。大介は頭を抱えつつホームへ向かった。

五.

「ごめん、待った?」
 絵里は遅れてやってきた。十七分の遅刻だ。待っている間、大介の心臓は緊張と不安で止まりそうだった。
 朝と同じ薄い水色のスカートにフリルのついた白のブラウス。ジャケットはブラウスと同じ白。アクセサリーはシンプル。化粧はあくまでナチュラル。朝と違うのは髪をアップにまとめていること。いわゆるきれいなお姉さん、だ。全体的に清潔感があり、清涼感があり、何より良く似合っている。自分のこの格好はつりあいが取れているのだろうか。悩む大介のことなど絵里は気づきもせず、
「どこ行く? ファミレス? 居酒屋?」
 チェーン展開している店の名前を数店あげる。
「いや、えっと――」
 昼休みを半分つぶして探した店の名前を告げる。南欧風家庭料理を食べさせてくれるという、写真で見る限りこじゃれた雰囲気の店だ。赤レンガに深い緑色のツタの概観。内部は黒い木製テーブルに、ランプの落ち着いた灯り。カントリー風の手作り雑貨が壁を彩り、家庭的な雰囲気を醸しだす、欧風の田舎の一軒家。料理の値段もお手ごろとあったから、そう高くも無いだろう。
「どこそれ?」
「ここから歩いて五分くらい」
「へー知らなかった。彼女とデートで行ったの?」
「違う!」
 思わず声が大きくなり、ギクリと大介は固まった。絵里は不自然な笑みで大介を伺う。
「ええっと……ごめんね……」
 触れてはいけない過去に触れたのだと言うような気遣いで、絵里が無難に天気の話を始め、大介はパニックしかかった頭で相槌だけを打つ。
 相手を先導する道すがら、大介には拷問のような時間が流れた。

 写真で見たよりも、建物は少々くたびれていた。大介は見逃して通り過ぎてしまい、絵里に指摘されてそれが目的地だったことを確認する。
「始めて?」
「……写真はもっと雰囲気良かった」
「雑誌でも見たの? より良く写すのがプロってもんよ」
 絵里は笑って店内に入る。
 店内は写真よりも味のある――悪く言えば古びていた。田舎の一軒家というのは確かに。だが、その雰囲気はお洒落ではなく野暮ったいだけだ。
「なんか違う」
 不満顔で呟く大介に絵里は笑みを漏らす。
「過度の期待は禁物よ、何事も」
 黒いエプロンを羽織っただけのウェイトレスの案内で道に面した席に通され、二人はメニューを覗き込む。
「……こじゃれてるわね、味が想像出来ないわ」
 メニューに並ぶ料理名は聞いた事の無いものばかり。材料や調理法が日本語で書かれてはいるものの、いまいち味の想像はつかない。
「とりあえず、『店長オススメ』っていうこれでいい?」
「こっちの『今日のオススメ』は?」
「じゃ、それもね。後は飲み物だけど――」
 居酒屋顔負けのラインナップ。ワイン中心だが、チューハイやビールなども取り揃えられている。
「篠田君、飲む?」
「えーっと……」
 呑みたいところだが、呑みすぎて羽目を外しかねない。しかもメッセンジャーにて聞くところによると、どうやら絵里はザルみたいだし、こちらが先につぶれる事は目に見えている。
「ウーロン茶」
「わかった」
 絵里は通り掛かったウェイトレスを呼び止める。彼女は商売用の笑みを浮かべ、注文した料理名を復唱すると下がって行った。

「妙だよね」
 絵里は頬杖をついて外を見やる。日が長いため、外はまだ明るい。商店街でも呑み屋街でも無いから、人通りは多くない。日本の、どこにでもありふれた路地。店の雰囲気とのギャップが酷い。
「何が?」
 イライラと氷を噛み砕いていた大介が飲み下してから尋ね返す。
「何ていったらいいのか……すっごく久々じゃない? こういう感じ」
「うん」
 小学生の時以来、実に十数年ぶりになるか。あの頃は母が夕飯だと呼びに来るまで遊びまわっていた。いや、絵里と二人きりの時はただ時間をつぶしていただけの事が多かったか。
 あの頃の絵里の家庭事情など子供だった大介にはわからなかったが、絵里がいつまでも家に帰ろうとしない事だけはわかっていた。
「篠田君の顔見ると、いっぱい話すことがあるような気がしてたんだけど、改めてこうしてみると話すこと無いんだよね」
 しんみりと語る。大介は何も答えず、新たな氷を口に放り込む。
「あ、」
 不意に、絵里はにっこりと微笑み、
「私、お見合いするのよ」
「知ってる」
「もしかしておばさん経由?」
「そう」
「なんだ、知ってるのか。つまんないなぁ」
 机に突っ伏す。絵里からその話を聞くとは思っていなかった大介は平静を装い尋ねる。
「相手、いい人だって……」
 絵里は視線をまた外へとむけ、
「そうなんだけど――」
 はっきりしない返事を返す。
「だけど?」
「変なんだよね」
「変?」
「あ、でもすっごく良い人なのよ」
 むっと大介は顔をしかめる。会ってもいない相手にどうしてそこまで言いきれるのだろう。
「私も結婚願望がないわけじゃないんだけど……いざとなると何だか妙な気がしてね」
 変だ、妙だが並ぶ日だ。大介は腹立たしさを抑えつつ、相槌を打つ。
「妙って何が?」
「母さんは始めての事だから不安になってるだけなんじゃない、なんていうんだけど」
「うん」
「お見合い写真見ててね、本当に私、この人と結婚するのかなって考えちゃって」
 ため息をつく。
 条件が良いのに考え込むって事は、見た目――
「不細工なのか?」
「全然」
 絵里は即座に否定する。
「男前よ。優しそうな感じ。いい人っぽいオーラが出てる」
 オーラなど写真に写らないだろうに絵里は昔から妙なことを言う。
「すっごく条件いいの。私が見ても」
「へー」
 腸が煮え繰り返る。それが嫉妬だと気づき、大介はますます崖っぷちに立たされた気分に陥る。絵里に告白する以外、もう道は残っていない。でも……告白できない。
「あ、料理来た」
 そこで会話を打ち切り、絵里は話題を変えた。
 美味しいと絵里が何度も口にしていたから、味は良かったらしい。その後の会話も、味も大介の記憶に残っていないのだが。


六.

ds:こんばんわ
マックス:こんばんわ

 家に帰りつき、大介がパソコンの電源を入れメールチェックを始めると、マックスがメッセンジャーにつないだと表示される。同じバスで帰ってきたからなのだろうが、妙に嬉しい。

マックス:告白したの?
ds:まだ

 しようとはした。朝、覚悟も決めていた。でも出来なかった。タイミングが合わなかったのだ。言い訳かもしれないが。

マックス:早く告白しないと。相手お見合いするんでしょ?
マックス:あ、そうそう
マックス:「わからない」ってのが答え
ds:何?
マックス:昨日、私ならどうするって言ってたでしょ?
マックス:見合い相手の条件が良くて、恋人がいないとき結婚するかって
マックス:相手に会ってみないと、結婚するかどうかなんてわからないし、
マックス:相手が私を気に入ってくれるとも限らないからわからない
マックス:答えになってない?
ds:いや、ありがとう
マックス:頑張りなよ。私、応援してるから

 応援? ……違う。自分が告白したいのは絵里なのに、絵里に励まされたんじゃ意味が無い。

ds:好きです

 画面に表示された文字を見て、大介は慌てた。違う、絵里に直接告白しなければ意味が無い。

マックス:そうそう、そんな感じ。ストレートが効果的よ
マックス:あとはシュチュエーションね

 絵里は告白の練習だと勘違いしたらしい。

ds:マックスはどう言う状況で告白されたら嬉しい?
マックス:……考えつかないなあ
ds:プレゼントとかした方が良いかな?
マックス:相手によりけりじゃない?
ds:何もらったら嬉しい?
マックス:相手の好みさりげなく聞いてみたら?
マックス:あ、もう九時だね。私落ちるね
ds:バイバイ
マックス:頑張ってね、またね

 大介はベットに仰向けになる。絵里にどう告白すれば良いか。
「大介、お風呂入っちゃいなさい。お湯が冷めちゃうわ」
 母の声が響く。
「わかった」
 答えて風呂へと向かう。とりあえず、対策はまた明日だ。今日は精神的に疲れた。


七.

 大介はいつも通り会社に出社した。
 今朝、絵里はバス停には来なかった。きっと寝過したのだろう。三日に一度くらいはこういう日がある。待ち合わせしているわけじゃないから、文句を言うことも出来ない。
「おはようございます」
 すでに出社している人に声をかけていると、妙な怒鳴り声が事務所奥から聞こえてきた。
「だから、無理だってば――母さん、俺は仕事があるんだよ」
 いつものごとく、部長の江藤修と副社長である母親の江藤静香がやりあっているらしい。しばらく言い争いは続いたが、盛大なため息の後、叩き付けるように電話はきられた。
 タイミングを見計らい、大介は顔をのぞかせる。
「おはようございます。また、おうちからですか?」
 この会社、重役はほとんど出社しない。実質的に会社を動かしているのは、三十歳過ぎの部長。若いながらも貫禄は十分ある。
「お、篠田か。ご苦労さん。まったく、こっちは仕事してるってのに突然言われても困るんだよな」
 副社長への嫌味を言われても、平社員の大介には愛想笑いを返すしかない。
 江藤は困りきった顔で頭をかきむしる。
「お、そうだ!」
 江藤にとっては名案、周囲にとっては迷惑が閃いたらしい。そろりと逃げようとした大介だったが、すでに遅すぎた。
「篠田、俺のかわりに行って来てくれないか?」
「どこへですか?」
 露骨に嫌な顔も出来ず、愛想笑いを浮かべたまま尋ねる。
「十時に国際ホテルのロビー。俺は出張だって伝えてくれ」
「俺がですか?」
 江藤の母親はとにかく押しが強く、誰もが苦手とするタイプ。
「もう時間がないな」
 慌てた様子で江藤は事務所を後にする。手には大きなトランク。
「ついでに福社長の機嫌とっといてくれ、じゃあ頼んだぞ」
 無理難題を押し付け、慌しく出て行く。
「えぇっと――」
 未練がましく部長に声を掛けようとする大介に、事務を一手に引き受けている古株の中野が声を掛ける。
「ほら、行った行った」
「中野さん、俺は――」
「部長命令」
「でも、」
「部長が仕事とってこなきゃ何もやることないんだから、おとなしく行って来なさい。これも仕事」
 しぶしぶ大介は会社を出た。
 静香という名前のわりに、方言混じりの大きな地声で副社長に罵倒されることをわかっていながら。


八.

「修は?」
 相手の方が先に見つけてくれた。深い緑色の毛足の長い絨毯。高級そうな雰囲気があたり一面に漂う国際ホテルのロビーは、平日の為か人が少なくない。探す手間は省けたが、死刑宣告が迫っているようで大介は落ち着かない。
 副社長は何故だか和服姿。普段動きやすそうな洋装姿しか見かけないので、妙だということにこの時気づくべきだった。
 挨拶もそこそこに、
「部長は出張です」
「嘘。会社は仕事のぉて暇やろに」
 福社長の口からは聞きたくない言葉。しかも、本人は嫌味だとはこれっぽっちも思っていない。
「そんな事ないですよ」
 ぶすりと言い返す。
「ま、ええわ。で、修はいつ来るん?」
「出張なんですけど」
「はあ?」
「本当に今日から三日ほど出張なんです、部長」
 副社長の笑みが消える。
「何でそれ早く言わんの! 見合いはどうしたらええねん?」
「み、見合い?」
「相手さんにはなんて言うん? もう私、泣けてくるわ」
 本人の予定も考えずにお見合いを組み立てた方が悪いと思うのだが……何だかんだと理由を付けてお見合いをボイコットしている部長も悪いのか。
「あんた、一緒に謝ってくれる?」
 どうしてそうなる?
「あ、江藤さん!」
 灰色のスーツ姿のおばさんが現れる。
「湯沢さん……あの……」
 副社長はしどろもどろ、何と説明しようかと大介を見やる。
「息子さんは? こちらは……違いますよね?」
 じろりと大介を見る。お見合いとなれば、仲介者だろうか。
「部長、出張なんです」
「は?」
「えぇっと――」
 副社長が言葉を捜していると、
「あら、相手さんが来られましたね……どうしましょうか」
 尋ねられても大介には何も出来ない。
「あれ、篠田君?」
 声に振り向いて見れば、若草色のツーピース姿の絵里と、着物を来た絵里の母・詩子の姿。
「あら、お知り合い?」
 湯沢と呼ばれてたおばさんに耳打ちされ、大介は頷く。
 地獄に仏とばかりの顔をする福社長。
「じゃ、あんたが説明しね」
「え?」
「あの、すいません」
 福社長は打って変わって丁寧な物腰で詩子に対峙する。
「修はちょっと急用ができて来られなくなったって、たった今、この人から聞いた所なんですよ」
『たった今』がやたら大きく聞こえたのは大介だけじゃあるまい。責任を押し付けられていることに気づき、大介は胃が痛くなってくる。
「申し訳ありませんが私どもは失礼させて頂きます。では」
「すいませんが私も失礼を――」
 副社長に続いて湯沢さんもそそくさと逃げるように去っていく。残された篠田は唖然とした顔の絵里と母を残すわけにも行かず、
「あの、とりあえず座りましょう」
 近くのクリーム色のソファを指差す。

「今回はすいません」
 誰の為なのか知らないが、大介は二人に深深と頭を下げた。
「部長、出張だって事をご家族に伝えてなかったようで……福社長は部長に相談なく見合いを段取りしたようで――」
「ま、彼女ならありえるわね」
 詩子は簡単に納得する。助かったと大介は胸をなでおろす。
「私ね、中学の同期なのよ、彼女とは」
 江藤静香の性格はわかっているとばかり、詩子は話題を変える。強引だけれど、どこか憎めない人なのだ。
「それより大介君、せっかくだからお昼一緒に食べない?」
 いえ、と断りかけた大介だったが、副社長の機嫌取りをしない為の良い口実になると思い直し、
「いいですよ」
「じゃ、行きましょ」
 詩子を先頭に、エレベーターに乗り込む。
「一度ここの展望レストランで食事してみたかったのよね」
 ほくほく顔の詩子が指差すのは、このビルのテナント名がずらりと並んだ案内板の一番上。名前からも高級そうな雰囲気が漂ってくる和風レストラン。
 テレビや雑誌で見かけた事がある。和と洋の融合した新感覚のレストランだと。確か、お昼のランチでも二千円くらいはしたはず。給料日前の事もあり、ここでその出費は痛い。
 そんな思いが顔に出ていたのか、
「心配しなくても大丈夫よ、おばさん奢ってあげるから」
「いや、でも――」
「備えあれば憂い無し」
と、懐から茶封筒を取り出す。
「ヘソクリは有意義に使わないとね」
「お母さんいつの間に……」
 絵里は目を大きく見開く。自分の親がヘソクリしているとは思ってもみなかったのだろう。
「でも――」
「若い子がぐだぐだ言わないの。おばさんが奢るって言ってるんだからそれで良いじゃないの」
 昨夜の絵里に続き、詩子にまでご馳走してもらうのは気が引ける。だが、断るのも失礼に当るだろう。
「じゃ、ご馳走になります。すいません」
「ええ、たっぷり食べてね。軍資金はあるんだし」


九.

「大介君みたいな息子、いてもいいわね」
 帰り道のタクシーで、母・詩子はポツリと漏らした。
「作れば良かったじゃない」
 意味を理解しない娘に、どうしてこういうところに疎いのかしらこの子は……なんて思いつつ、
「子供は神様からの授かりものよ」
 絵里の幼い頃を思い出す。
 生まれてしばらくは死にそうなくらい元気のない子だった。小学校にあがっても、背の順で並べは一番前。しかも病気で休みがち。だから友達にも学校にも馴染めず、勉強も出来ず、朝になったら調子が悪くなる。悪循環の連鎖。繰り返し。
 この子の将来は絶望的ではないだろうか。そう思い込み、ノイローゼ状態だったあの頃。夫は単身赴任中、相談相手もおらず、ただただ、毎日が地獄だった。
 そんな絵里が変わったのは公園で小さな子供達と遊び始めてから。絵里よりもずいぶん小さく見えた彼らだったが、数年で絵里の肩まで追いついた。子供の成長は早い。そして時が経つのも。
「今になってみるとあっという間だったわね」
「何が?」
「娘が嫁に行く歳だってこと」
 本当ならば孫がいてもおかしくないのだが……欲を言っていては切りがない。
 絵里と将来こんな会話ができるだなんて予想だにしていなかったのだから。むしろ、あの頃はかたくなに未来などないと信じ込んでいた。
「大介君とどうなの?」
 食事中の大介の様子を見る限り、絵里のことが好きらしい。そんな気持ちを隠そうと一生懸命なぶん、絵里に合わせようと大人ぶった態度をとろうと努力しているぶん、可愛らしい。
 周囲にはわかりやすすぎるくらいの大介の想いなのだが、どうやら絵里は何も気づいていない様子。大介君が気の毒で応援したくなる。
「どうって?」
 何を言いたいのかわからないといった表情で絵里は尋ね返す。恋愛に疎いから、婚期を逃して来たのだろう。確実にそういうタイプだ。
「小さい頃仲良かったじゃない」
「あぁ、朝、バス停で話するよ」
「それだけ?」
「あと、小説借りたり――」
「他には?」
 我が娘ながら、大介君、厄介なのに惚れたものだと同情する。
「他って?」
「デートとか」
「あのね、こっちは七つも歳が上なのよ。付き合ったりなんて――」
 遺憾だとばかり声を上げた絵里だったが、
「そういえば昨日、大介とご飯食べたよ」
「そうなの?」
「いつも小説借りて悪いから、奢ったのよ」
 だから今日、奢るっていうと遠慮していたのか。
 何かを思い出したらしく、絵里がにやりと笑う。
「私はファミレスか居酒屋でいいかと思ってたんだけど――」
 にやつきは強くなる。
「大介、雑誌で見た店が良いって。でね、探してたどりついたんだけど、『なんか違う』ってむくれてんの。こじゃれた感じの、結構雰囲気のいいところだったんだけどね」
 その時の様子を思い出したのだろう。絵里はケラケラ笑う。大介君、本当にごめんなさい。惚れる相手は本当に絵里で良かったの?
「大介君、絵里のこと好きなんじゃない?」
 直接的に言ってみる。絵里はきょとんとしていたが、やがて大きな笑い声と共に、
「それはないよ、絶対」
「そうかしら。でも、今、年上女房って流行りじゃない?」
「母さん、良く考えてよ。私は三十路前、あの子は二十二歳よ」
 大介は早生まれだから学年よりも一つ、年下になる。
「そんなに気にするほどの歳の差?」
「いい加減にして」
「母さんの感、外れてないと思うけど」
「今回は外れてるわよ。きっちり、かっちり」
 家に帰りつく。タクシーから降りた絵里は、家ではない方向に歩き出す。
「どこ行くの?」
「ちょっと散歩」
 若草色のツーピースを来たまま絵里は歩き始めた。これ以上母の話に付き合ってはいられないとばかりに。


十.

 平日の昼過ぎ。近所に人気はない。母からあんな話を聞いたからか、懐かしい場所を求めて足は動く。
 公園、河原を過ぎた辺りで靴擦れを起こしたのだろう。履きなれない靴で散歩はまずかった。
 家へと足を向ける。家から数十メートルまで帰って来たときだった。前方からやってくるのは――。
「篠田君」
 大介は慌てた様子で逃げようとする。
「ちょっと待って――」
 呼び止めれば観念した様子で立ち止まる。
「靴ずれしたみたいなの。悪いけど、肩、貸してくれると嬉しいんだけど」
「……わかった」

 ようよう家までたどり着く。ストッキングの上からもわかる赤く腫れ上がった跡が痛々しい。道すがら、大介もずいぶん心配してくれていた。
「ありがと。助かったわ」
 玄関を開けかけた絵里に、大介は口を切る。
「あのさ、」
「何?」
「俺のイニシャル知ってる?」
「イニシャル? 篠田大介だから――SD?」
「普通は反対だろ?」
「そっか。じゃ、DSか――……ds?」
 なぜそんな事を言い出すのか、なんて疑問は衝撃に打ち消された。
「好きです。付き合って下さい」
「……え?」
 大介は絵里が見た事のない真剣な顔をしている。決意に満ちた瞳の大介。
 数秒が流れ、絵里が何も言えないでいると逃げるように駆けて行く。
「え? ええっと……え?」
「馬鹿娘」
 事態を把握できず戸惑う絵里に、玄関から顔を出した詩子が呆れ顔で呟く。
「お、お母さん」
 狼狽のあまり泣きそうな顔の絵里。
「母さんが言った通りだったでしょ」
「い、いつからそこに?」
 詩子は絵里が帰ってくるのが遅いので迎えに出ようとしたところ、肩を組むようにして歩く二人を目撃し、玄関で待機していたのだ。大介に「おめでとう」を言おうと思って。だが、扉一枚隔てた所で展開された出来事に詩子も驚いていた。
「そんなことより、どうするの?」
 野次馬根性で尋ねる。
「何が?」
「わかってる癖に」
「……」
「どうするの?」
「……どうしたら……いい?」
「まずは家に入りなさい。ハーブティー入れてあげるから着替えてらっしゃい」

十一.

 絵里は部屋着に着変え、リビングルームのソファーに座り込む。キッチンからは気分を落ち着かせるハーブティーの良い香りが漂ってくる。
「大介君の事、どう思ってるの?」
 カップにつぎわけながら、詩子は尋ねる。
「どうって……わからない」
「はい、熱いわよ」
 カップに注いだハーブティーを渡す。冷ましながら、絵里は一口啜る。
「ただの友達?」
 戸惑いながらも頷く。
「でも、告白されてわからなくなった?」
 同じように頷く。
「年上女房も悪くないと思うけど?」
「でも、あの子若いのよ。ただの憧れかもしれないし、一時の気の迷いかもしれない」
「大介君の気持ちを否定するわけ?」
「そんなわけじゃ――」
「そうなるでしょ? 今の言葉だと」
 答えようもなく、絵里はハーブティーを啜る。
「もっと簡単に考えてみたら?」
 詩子はハーブティーを啜り、自分のいれたお茶に満足げな息をつく。
「でも――」
 絵里は小さな声を上げる。
 簡単に考えられないのは、絵里の優しさだろうか。それとも本人が気づいていない大介への想いがあるのだろうか?
「嫁に行く気だけじゃなく、恋愛する気もないの? 若い娘さん」
「もう若くなんてないわよ」
 反論するところを見ると、気分は落ち着いてきたらしい。
 詩子はくすりと笑う。
「母さんに比べれば十分若いでしょ」
「……ご馳走様」
 答えは出ないまま、絵里は部屋へと帰る。


十二.

 部屋へ入ってすぐ、パソコンを立ち上げる。いつもの習慣は変えられない。メールチェックをし、目的もないままネットニュースに目を通す。
 しばらくしてdsがネットにつないだと表示される。一瞬戸惑いはしたものの、いつも通りメッセージを送信する。

マックス:こんばんわ

 返事は返ってこない。接続を切られるだろうか?

ds:こんばんわ
マックス:今日はありがとう
ds:別に
マックス:助かった
ds:うん
マックス:いろいろ考えた

『何て言ったら良いのかわからない』
 入力した文字を消去する。
 これじゃ逃げてる。
 私を好きだと言う大介の気持ち。一時的なものかもしれないし、ただの迷いかもしれない。でも、本物。私が逃げちゃダメだ。
 でもどうして? 答えてあげなきゃ可愛そうだから?
 違う。
 気の毒だから?
 でもない。
 とにもかく、私の気持ちをはっきりさせよう。
 大介の事、好き?
 たぶん。どちらかと言うと好き。嫌いじゃない。
 じゃあ、大介は私にとって何? ただの友達?
 ちょっと違う。
 親友?
 近い……かも。
 じゃあ、何?
 ……わからない。
 大介の『好き』と私の『好き』とは全然違う。いつか、同じ『好き』って気持ちになるなんてこと、あるだろうか?

ds:答えは?

 絵里はゆっくり入力する。
 ここで逃げたとしたら、それは大介からじゃない。自分自身からだ。

マックス:好きだよ
ds:本当に?
マックス:大介の好きとは違うかもしれないけど
ds:あの、でも結婚はまだ

 友達としての好きだと書き込んだほうが良かっただろうか。絵里は慌てて書き込む。

マックス:いや、全くそこまでは考えてないんだけど……
ds:え?

 数秒の沈黙の後、大介は言葉を返す。

ds:とにかくめちゃくちゃ嬉しい。言葉にならないくらい
マックス:うん

 ぽっと火が心の中に火が灯る。大介が喜んでいる、その事が嬉しい。

マックス:あ、借りた小説、ちょっと読んだ。面白かった
ds:だろ?

 今まで通りの会話。それがたまらなく嬉しい。


十三.

 それから数週間後。

「絵里ちゃん、若い男の子と付き合ってるんですって!」
 玄関を開けるなり、久子は目の前にいた息子に怒鳴りつける。買い物帰りに聞いたばかりの採れたてピチピチな新鮮ニュース。話さずにはいられない。
 次男の大介は恐る恐ると言った様子で尋ね返す。
「誰に聞いたの?」
 相変わらずノリが良くない。そんなことで社会人としてやっていけるのだろうか。そう思いつつ、誰から聞いたか思い出そうと頭をひねる。
 ショッピングセンターでいろんな人といろんな話しをしたのだ。誰と話した時にでた話題だったか。
「誰だったかしら――あぁ、絵里ちゃんの同僚の娘さんが、お隣の奥さんのパート先で一緒なのよ。そこで聞いたって言ってなかったかしら?」
 明らかにホッと胸をなでおろす大介。
 もしかして、絵里ちゃんに気がある?
 ふいに頭に沸いた疑問を即座に否定する。それはありえない。相手は大介より六つ、いや七つも年上なのだ。
 大介は妙なもので、数えで歳を言うからついつい間違えてしまう。
「そう言えば、あんた何してんの?」
 掃除機を手にしているから掃除をしていたのだろうけれど、大介は自分から進んで掃除をするようなタイプじゃない。散らかしはしないが、大雑把にしか片付けしない。息子二人で打ち止めるんじゃなく、もう一人女の子を産んどけば良かったとつくづく思う。
 それにしても掃除機をかけるとなると、どこかを壊した? 何かをひっくり返した? 二十歳も越えたのだし、家の中でくらい大人しく出来ないのだろうか。
 憂鬱のため息をはく。
 後できちんと掃除しとかないと後後えらい事になる。勝手に無駄な家事労働を増やさないで欲しい。
 久子の心配をよそに、大介はあきらかに動揺した声で、
「ちょっと……友達、来るから……」
 なんとも嘘臭い。友達が来るからなんて理由で今まで掃除した事はない。とすると始めて来る子。しかも、男じゃないと見た。
 久子はにんまり笑う。
 彼女だ。これは恋人に違いない。毎週末おしゃれして、いそいそと出かけていく様子から彼女が出来たのだろうとは思っていたが、彼女がうちにやってくるらしい。
「彼女?」
「……えぇっと……」
「もう、そう言うことはあらかじめ言いなさいよ。母さん綺麗な格好してないし、お菓子も用意してないじゃない」
「そんなこと別にしなくても――」
「で、どんな娘なの?」
 追求しようとした久子だったが、遮るように玄関が開き、
「こんにちは、回覧版です」
 先ほど話題に上っていた絵里が顔をのぞかせる。
「あら、ありがと」
 回覧版を受け取るが、絵里は帰ろうとはしない。
「どうしたの?」
「あの、大介君に本棚見せてもらう約束してたんで……」
 ついでに回覧版を持ってきた、と絵里は心の中で付け足す。肝っ玉母さんのイメージが強い久子のことが苦手なのだ。
「あ、そう?」
 大介の彼女が来ると思ったのに、相手は絵里ちゃんだったのか。張り切って掃除なんかしているから勘違いしてしまった。まったく。
「それより、絵里ちゃん。彼氏ってどんな人なの?」
「え?」
 目を白黒させながら絵里は大介を見やる。
「同僚の人が見たって」
 大介が言葉を補う。
「あぁ、そういうこと……」
「そう言うことじゃなくて、彼氏は?」
「えぇっと……」
 アイコンタクトをとるかのように、二人は見つめ合う。妙な沈黙。その雰囲気に久子は首をかしげる。
「あの、」
 言葉を発したのは大介だった。
「付き合ってるんだ」
「誰と?」
 指差す先には絵里。
 たっぷり三十秒ほど二人の顔を見比べた久子は素っ頓狂な声を上げた。
「嘘ぉ!?」
「いや、本当」
「ごめんなさい、おばさん」
 大介が罰の悪そうな顔をし、絵里が申し訳なさそうに謝る。
「いや、だって――」
 反論しかけた久子だったが、次々と記憶の奥底から浮上してくる大介の妙な言動。絵里が好きなのだとすれば納得できるものがいくつもあり、やがて混乱は自己完結する。
「で、結婚はいつ?」
 納得すれば次の一手は素早い。
「まだそこまでは……」
 大介と絵里は顔を見合わせる。
「だって、絵里ちゃん二九歳よ? 責任取らなきゃだめよ」
「あの、おばさん」
 絵里が慌てる。
「あの、大介君まだ若いですし」
「絵里ちゃんは若くないでしょ」
「でも、他にいい人が現れるかも知れないし――」
「絵里、何言い出すんだよ」
 大介が激昂する。
 おぉ、久々にみる。
 久子は内心ほくそえむ。妙に大人ぶって感情を表に出さない子だが、もともと小さい頃は泣き喚くのが趣味みたいな手の掛かる子だったのだ。
「ごめん、大介。でもね、大介若いんだし――」
 大介の気持ちを一時のものだと考えているのならば完全なる間違い。いつから絵里に惚れていたのか本人もわかってないだろうが、とにかく大介の人生の半分くらいは、ゆうに絵里を想い続けてきてるはず。
「いい加減にしろよ。俺は半端な気持ちで付き合ってるんじゃない」
「でもね、」
 絵里の態度は煮え切らない。息子の何が不満だというのだろう。親の贔屓目じゃないが、悪い物件じゃないはずだ。
 久子を完全に無視し、二人だけの世界で投げつけるような会話のキャッチボールが続く。
「あ、そっか」
 久子はニヤリと笑う。不機嫌な顔の大介と、不安そうな顔の絵里が久子を見る。
「三十歳を目の前にして絵里ちゃん不安なのよ。大介がいつ若くて綺麗な子に目がいっちゃって、自分が捨てられるかって」
「いや、その……」
 ギョッとした所を見るとどうやら核心をついたらしい。周りから見れば本当に些細な事だけれど、年下の彼氏に不安になるのはわかる。
「わかった。じゃあ結婚しよう、絵里」
「ちょっと大介」
 絵里が慌てる。『じゃあ』って何? 顔に書かれた憤りの文句は大介には見えないらしい。
 大介、完全なアホだ。どこの世界にこんな雰囲気のへったくれもない玄関先で『じゃあ結婚しよう』なんて言う馬鹿がいるんだ。って目の前にいたよ。しかも私が生んで育ててるし。
「母さんに言われたからじゃないからな」
 ただの言い訳にしか聞こえない。みっともない。
「あのね、大介。私の話聞いて?」
 絵里のこめかみが引きつる。
「何?」
 不機嫌の骨頂って顔をした大介。両腕を組み、絵里を睨み付けている。プロポーズした男の様子じゃない。
「私ね、結婚しない」
「は?」
「ゆっくり付き合おう?」
 絵里ちゃん、ここまできて優等生のお姉ちゃんをやる必要性はないんだけれど。
 久子は考え込む。
 絵里は三十路前。結婚を焦っているはずなのに、結婚を渋るとはどんな理由があるというのだ?
「――もしかして、料理下手なの?」
「絵里の料理は上手いよ」
 大介が自慢げに言う。惚気ですか、ご馳走様。
「レパートリー少ないとか」
「品数は母さんより圧倒的に多い」
「そうなの? って何であんた知ってんの?」
 ギクリと大介は絵里を見やる。
 毎週末にデートしてるとはいえ、絵里ちゃんの手料理を食べている回数がそんなに多くあるとは思えない。
 いや、前前から疑問に思っていたことがある。
「大介、あんた朝食と昼食いつもどうしてるの? 駅前のファーストフードで食べてるってわりに、お金使ってる様子ないけれど?」
 大介は助けを求めるように絵里を見つめ、居たたまれなくなった絵里は白状する。
「あの、うちで――」
 以前よりも早起きするようになったと思えば、草上さんちで朝食を食べ、昼食の弁当を作ってもらっていたとは――完全に養ってもらってる状態。結婚していない方が不自然だ。
「絵里ちゃん、熨斗つけて婿にあげるから、どうかもらってやって」
「は、はい」
 久子の迫力に押されるように、絵里は頷いた。


エピローグ

 数ヵ月後。
 誰かの予想通り、結婚はとんとん拍子に決まり、大介は草上家に婿入りした。

「これ何?」
 厳重な梱包で送られてきたダンボール箱を運びながら、大介は新妻にたずねた。
「いいものよ」
 絵里はにこりと笑い、鼻歌交じりに梱包を解いてゆく。
 中から現れたのは年季の入った振り子時計。しかもゼンマイ式らしい。
「なんでこんなものを?」
「ネットで見つけたの」
「ふーん」
 絵里は変わったところがある。前前から思っていたことだったが、付き合い始め、結婚してからも大介が性格を掴みきれない所がある。
「そういえば、大介も昔、私に時計くれたよね」
「そうだっけ?」
「そうよ、目覚まし時計もらったのよ」
「そうだったかな……」
 大介は頭をひねる。記憶にない。というか、何故目覚し時計なんだ?
「次の日、朝起きれなかったって怒ってたから、すぐに返したけど」
「そんなことあったっけ?」
「あったわよ――」
 幼馴染の上、年上。大介の記憶にない事でも絵里は覚えている。
「あそこにどう?」
 リビングに掛けられたカラクリ時計を指差す。定時になると、オルゴールが鳴り、人形達が踊りだす。絵里の同僚達が結婚祝にとくれたものだ。
「いいけど……あれはどうする?」
「玄関に飾るの」
「わかった」
 踏み台を取り出し、カラクリ時計のかわりに振り子時計を掛ける。
 ネジを回し、時刻を合わせようと針を回すと、途端鳴り響く鐘の音。重い音でもなく、可愛らしいものでもない。年月を感じさせる、古い、懐かしい響き。
「懐かしい」
 絵里がうっとりと呟く。
 始めてその音色を聞く大介だったが、確かに絵里いう『懐かしい』がピッタリ来るような、田舎を感じさせる音だ。
「時計の音を聞くと、あの日の河原を思い出すのよ」
「あの日?」
「夕日が綺麗だったあの日――」
 そう言われればそんなことが合ったかもしれない。大介は絵里を抱きしめる。何故だか急に不安になって。

 あの日のことを今でも絵里はありありと思い出せる。
 本当に夕日が綺麗だった。
 名残を惜しむように投げかけられた光が美しくて、絵里は夕日と共に世界から消えてしまおうかと思っていた。
 そんな幻想を抱くくらい、あの頃の絵里は疲れていた。いろんな事に疲れきっていた。他人にとっては取るに足りない些細な事だったのかもしれない。けれど、あの時、あの瞬間の絵里にとって、頭にあった問題はとても重要で重大なものだった。
 時は移ろいゆくものだけれど、あの頃の絵里には永遠に続く不変のものとしか感じられなかった。だから、余計疲れていたのかもしれない。

 部屋に響く時を刻む音。絵里は大介の顔を見やる。
「ちょっと煩い?」
「そうでもない」
 優しい微笑み。だから絵里も同じ笑みを返す。

 大介が目覚し時計くれたとき、絵里は日が沈みきってしまうまで針の音を聞いていた。
 ゆっくりと、でも確実に進んでゆく小さな針。
 そのときやっと、時は過ぎさってしまうものなんだってことに絵里は気づいたのだ。当たり前の事だけれど、当時の絵里にはとても衝撃的なことだった。

 抱きしめる大介の腕を解き、ソファーに座り込む。大介も絵里の隣に腰を下ろす。

 あの頃の絵里には前に進む勇気がなかった。でも、望む望まないにかかわらず、時は過ぎてしまう。だから――頑張って前に進んで、進んで――。
 絵里は自嘲気味に笑う。
 でも、頑張りすぎたのだろう。いつしか自分以外が、周囲が見なくなっていた。前に進んではいるけれど、決して立ち上がって進んでいたわけじゃないことに気づかせてくれたのはds――大介だった。
「私はダメな人間だわ」
「そんなことないよ」
「いいえ」
 絵里は文字版を見つめる。大介の視線が、自分に注いでいることを感じつつ、振り向かない。
 仕事だけが生きがいだったのに、いつしか大介の存在が絵里の中で大きなものになっていった。大介と付き合い初め、絵里自身、気付いていなかった気持ちを眼前に突きつけられた。
 私は大介に依存している。
 私は大介がいないと生きていけないのではないか?
 もし、大介がいなくなった時、もし、大介が他に好きな人が出来たとき、もし、大介に捨てられたら私はどうなる?
 ただの杞憂と人は笑うかもしれない。けれど、絵里にはとても怖いことだった。大介と一緒になれたら――そう思う反面、そうなれなかった時の事が余りにも恐ろしかった。
「私はちっぽけな存在なのよ」
「そんなことないよ」
「いいえ、実際の私はそうなのよ」
 大介がいないと、不安で仕方ない。
 なんて不安定な心理状態だろう。昔の私はこんな人間だっただろうか。
「大介は、私と結婚して幸せ?」
 何度繰り返した質問だろう。大介の答えは決まってる。
「幸せだよ。絵里は?」
「……いじわる」
 のぞき込んでくる大介の視線から逃れようと顔を背け、絵里は戸口にたたずむ母の姿を認めた。
「お邪魔だったわね」
 詩子がにやりと笑う。
 いつからそこにいたのだろう。二人は茹蛸のように顔を赤くし、絵里は慌てて声をかける。
「な、何、どうしたの?」
「角のお店でラズベリータルト買って来たんだけど、お茶にしない?」
「ああ、そうね。いいわね」
 顔を手で仰ぎながら、そそくさと台所へ逃げ込む。
「ごめんね、大介君」
 むくれた顔をわずかに見せた大介に、小さな声で詩子は謝る。
「……いえ」
「まさか昼真っからいちゃついてるとは思わなくって。あの子の性格的にも」
「……」
 そうでしょうね。
 大介は胸の奥で呟く。
 絵里は誰にでも優しい。けれど、自分には厳しい。自分を決して甘やかさない。妥協しない。でも、大介といるときは片意地を張らない。それに気付いているのかいないのか、大介と二人でいるときの絵里はリラックスした表情で、結構天然。
 そこもまた可愛いんだけど。
「楽しそうね?」
 詩子の声に大介は我に返る。
 恥ずかしい所ばかり詩子に目撃されていると思うのはこちらの思い過ごしだろうか。
「絵里、手伝うよ」
 詩子の視線から逃げ出すように大介も腰を上げた。

『あなたの好きな人。』をご覧いただきありがとうございました。〔05/06/23〕

05/06/23 某企画に参加しようと目論むも全然思うような話にならず、放り投げようかと思っていたけれど、大介&絵里のキャラが良かったらしくなんとか形にだけなりました。もっと機械、機械した物を全面的に押し出したものを書きたかったのに…。
現代を舞台にした女性が年上の恋愛物って、最近ハマってたドラマ『anego』の影響だろうなぁと思いつつ。私が書いた作品のなかで女性が年上の恋愛物って(たぶん)なかったので、これはこれで面白いかも知れません。ちなみに自分が書いた作品の内容は忘れ去る性質です。
静香さんにはもっとしゃべってもらいたかったのだけれど、書いてるうちにどこの方言を使っているのかわからなくなり、断念。最初は語尾が「ちゃ」だったんだけれど、いまいち台詞まわしが変なので変更しました。
私の小説には男の人があまり出てこないわけですが(自覚有り)、それにしても一人娘が結婚するってのに、絵里の親父さん、そして大介の親父さんがまるで出てこないのには私も吃驚。

2006/06/13  改稿
2012/01/19 訂正

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